番外編「王国の牙」
時間はちょっと飛びますが、重いお話の前のちょっとした息抜きに……。
『ポンコツ女王の投資戦記』の世界観をイメージした楽曲と、その曲を歌う青年のお話です。
本編の前菜として、気軽にお楽しみください。
フィナンツェ一の権威を誇るオーケストラ、フィナンツェ王立交響楽団。
その夜、女王は軍師とともに定期公演を視察するため、王都の大音楽堂を訪れていた。
中世の面影を残す、歴史ある美しいホールは、今宵もたくさんの観客たちで賑わっていた。
今夜の演目も、残すところあと一曲。
聴衆の視線を集めながら、舞台中央へと一人の青年が歩み出た。
荘厳なホールを満たしていた拍手が静まり、指揮者が再びタクトを上げる。
「……あら」
女王はその青年を見て、思わず小さな声を漏らした。
白を基調とした華やかな燕尾服。
襟元や袖、胸元には繊細な金糸の刺繍が施され、舞台照明を受けて淡く煌めいている。
蜂蜜色の髪。
透き通るような青い瞳。
すらりとした長身。
まるで物語の中から抜け出してきた王子様のような、美しい青年だった。
彼は観客へ静かに一礼すると、マイクを手にした。
そして前奏が始まる。
女王も聞き覚えのある旋律だった。
「……『A Life for You』ね」
一度死んだ男が、二度目に与えられた命を誰のために使うのか。
その身体が動く限り。
その心臓が脈打つ限り。
そんな男の想いを歌った曲だ。
皆の注視する中、青年の口から歌声が紡ぎ出された。
「……!」
女王は息を呑んだ。
最初の一声で、音楽堂の空気が変わったのだ。
決して大きな声ではない。
むしろ柔らかく、耳元で囁かれているような美しいテノールだ。
それなのに、巨大な音楽堂の隅々まで、さざ波が打ち寄せるように声が響いていく。
女王は瞬きを忘れて、青年に見入った。
——上手い。
いや、そんな言葉だけでは足りなかった。
静かな決意。
隠された後悔。
自分の感情を決して恋とは呼ばない男の、不器用な献身。
それを青年は、僅かな表情と声の音色だけで表現していた。
横顔さえも美しい。
伏せた睫毛。
マイクを包む長い指。
サビへ向かうにつれ、青い瞳に宿る感情。
「……すごいわ」
女王は無意識に呟いた。
「…………」
返事はなかった。
女王が横を見ると、軍師は舞台ではなく、なぜか女王の方を見ていた。
「なに?」
「いえ」
「何よ」
「随分と熱心にご覧になっていると思いまして」
「だって、すごいじゃない。歌も上手いし——」
女王は舞台へ視線を戻した。
「とても綺麗」
「そうですな」
妙に返事が重い。
「……あなた、機嫌悪い?」
「いえ」
いや、絶対に悪い。
二人が言葉を交わしている間にも、曲はクライマックスを迎えていた。
波のように幾度も押し寄せてくる歌声が、激しく感情を揺さぶる。
声を聞いているだけなのに、なぜか涙が込み上げてくる。
これが、歌の持つ力というものか。
女王は一瞬、歌に込められた想いが、自分に向けられているかのように錯覚した。
そして最後の一音。
青年がゆっくりと目を閉じる。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
音楽堂が割れんばかりの拍手に包まれた。
女王も夢中で拍手を送った。
隣の軍師も拍手はしている。
ただし、面持ちは少々複雑そうだった。
* * *
公演は無事に終了した。
貴賓用の応接室で帰り支度をしている女王のもとへ、楽団の音楽監督から申し出があった。
今夜のソリストが、ぜひ女王へ挨拶をしたいのだという。
「さっきの人よね?」
女王は思わず身を乗り出した。
「楽しみだわ。近くで見たらどんな感じなのかしら」
「陛下」
軍師が淡々と言う。
「王たる者、そう易々と約束もなく謁見の機会を与えるべきではございません」
「いいじゃない。会う価値はあると思うわ」
「左様でございますか」
軍師は口をつぐんだ。
「いいわ、呼んでいらっしゃい」
「承知いたしました」
女王の許可を得て、音楽監督は一度退室した。
そして、ほどなくして再び扉が開いた。
「失礼しまーす」
軽い声とともに入ってきた人物を見て、女王は首を傾げた。
黒いオーバーサイズのジャケット。
白いTシャツにゆったりしたカーゴパンツ。
足元はスニーカー。
首元には細いシルバーチェーン。
そして、無造作に下ろした金髪。
女王は思わず尋ねた。
「……どなた?」
青年は目を丸くした。
「え? ひどくない?」
「え?」
それから男は、自分を指差した。
「女王様、さっき俺のこと、あんなに見てくれてたのに」
「…………」
青年は手で髪を後ろに撫で付けてみせた。
「あらっ!? さっき歌ってた人!?」
「正解」
青い瞳が楽しそうに細められる。
目の前で白い歯を見せてニッと笑っている若い男は、どう見ても先ほどの「王子様」とは別人だった。
舞台上で見せていた繊細で儚げな風情はどこにもない。
流行りのラフな服装に身を包んだ、随分と生意気そうな青年だった。
「王立交響楽団専属ソリストのFANGです。……あ、これ芸名ね」
そう言ってから、青年——
FANGは姿勢を正し、王族に対する正式な礼を取る。
「本日はお越しいただきまして、まことに光栄です。女王陛下」
「……ちゃんと礼儀作法はできるのね」
「そりゃね」
「おい、FANG」
後ろにいた音楽監督が渋い顔をする。
「女王陛下に対して、その口のきき方はやめてくれ」
女王は吹き出した。
「あなた、FANGっていうのね?」
「うん。牙って意味」
「どうしてその名前にしたの?」
「俺、チャンスに食らいついたら離さないから」
さらりと答えた言葉は、少しだけ陰りを帯びていた。
音楽監督が静かに補足する。
「こいつは、幼い頃に家族とともに我が国へ移住しているのです」
FANGが肩を竦めた。
「移住っていうか、逃げてきたんだけどね」
「おいFANG」
「別に隠すことじゃないじゃん?
監督、後は俺だけでいいから、先帰ってて」
「お、おい。勝手に決めるな」
FANGに背中を押されるようにして、音楽監督は部屋を出ていった。
「——俺たち、家族でこの国に移り住んできたんだ。
亡命ってやつ? 金もなかったし、頼るツテもなくてさ」
女王は黙って聞いた。
「まあ、貧乏だったよ。しょっちゅう腹も空かせてたし」
それでもFANGは、明るく口角を上げた。
「でも俺、歌だけは誰にも負けなかったからね」
「……それで、ここまで登り詰めてきたの?」
「そう」
FANGは簡単なことのように言った。
だが、王立交響楽団のソリストの座は、才能だけで辿り着ける場所ではないことくらい、女王にもわかっている。
厳しいレッスン。
何度も繰り返されるオーディション。
一人が選ばれるたび、その陰では何人もの候補者が落ちていく。
敗北を喫したことも、一度や二度じゃないだろう。
それでも食らいついて、ここまで上がってきた。
だから、FANG(牙)なのか。
「すごいのね、あなた」
そう言うと、青年は少し困ったように笑った。
「俺には、歌しかないからね」
「でも、本当に素晴らしかったわ。私まで泣きそうになっちゃった」
FANGの顔にほんの少し朱が差した。
「ありがとうございます」
素直な返事だった。
「いい曲だよね、これ」
「そうね」
「うん。ただ——」
FANGは女王を見る。
次に軍師を見る。
「歌うの、結構難しいんだよね」
「音域が?」
「いや、あれくらいは楽勝だよ」
FANGが笑う。
「そうじゃなくて……感情の話」
軍師の眉がぴくりと動いた。
「最初に歌詞をもらった時、思ったんだけど」
FANGは軍師を見たまま言った。
「この曲に歌われてる男、重いなーって」
「ぷっ」
女王が吹き出した。
軍師は無表情だった。
「何の話でしょう」
「いやさ」
FANGは軍師をしばらく眺めてから、首を傾げた。
「さっきから見てて思ったんだけど——この曲の男、軍師サマにちょっと似てない?」
「……どこがです」
「ずっと女王様のことばっか気にしてるじゃん」
「私は私の仕事をしているだけです」
「ほら、そういうとこ」
FANGが笑う。
「歌の中の男も、自分がやってること全部、忠誠とか義務とか言いそうなんだよね」
軍師は僅かに瞳を伏せた。
「それはあなたの解釈でしょう」
「そうだよ。歌手だからね」
FANGはあっさりと認めた。
「歌うなら、その男が背負ってる人生まで考えるよ。じっくりとね」
そして、にやりと笑う。
「で、軍師サマはどうなの?」
「何がです」
「女王様へのそれって、忠誠?」
「それ以外に何が?」
「恋心じゃなくて?」
「違います」
あまりにも即答だった。
FANGが女王を見る。
女王もFANGを見る。
「……この人いつもこうなの?」
「いつもこうなのよ」
「へえー」
二人同時に軍師を見る。
「何ですか」
FANGの口元が、ゆっくりと上がった。
それは獲物を見つけた狼のような顔だった。
「じゃあさ、軍師サマ」
FANGは軽く身を乗り出す。
「何でしょう」
「恋じゃないなら、いいよね?」
「は?」
「俺が女王様口説いて、玉の輿狙っちゃってもいい?」
「へっ!?」
今度は女王が目を丸くした。
「ちょ……ちょっと待って! なんで急に私を口説く話になってるのよ!」
「いや、だって女王様、普通に綺麗だし」
「まあ!」
「身分も最高峰だし」
「そこ!?」
「ね、『玉の輿』って男でも言うのかな」
軍師の視線が冷たい。
「もし俺が女王様と結婚したら、俺、何ていうの? 婿王?」
「その場合は王配といいます」
「すげー! さすが軍師サマ、なんでも知ってるね!」
「しかしあなたが陛下に近づくことは却下です」
「やっぱ?」
「はい」
「ダメ?」
「当然です」
「てか俺って、歌以外でも結構いいもの持ってると思うけど」
「いいもの?」
女王が不思議そうな顔をする。
FANGは自信ありげに自分の胸に手を当てた。
「この顔と、この丈夫な体の遺伝子」
「はぁっ?」
「どう? 王配候補としては悪くないと思わない?」
「ちょちょ、何の話をしてるのよ!」
「……いい加減にしなさい」
今度こそ、軍師が氷のような視線でFANGを睨んだ。
FANGが手を叩いた。
「おーこわっ! わかった、今日のところは引く。
——でもさ」
FANGはウィンクしながらビシッと一本指を立てて見せた。
「そう簡単には諦めないよ、俺」
「FANG!」
「チャンスが目の前にあるのに、食らいつかないわけにはいかないからね」
* * *
歌一本で王立交響楽団のソリストまで這い上がった青年は、新たにもうひとつ、どうしても食らいついてみたいものを見つけた。
若く美しい女王を射止め、一世一代の玉の輿に乗ることか。
それとも、彼女を守る鉄壁の軍師に打ち勝つことか。
それはまだ彼自身にもわかってはいなかった。
これがFANG——
『牙』と名乗る男と女王との、初めての出会いだった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
作中でFANGが歌った『A Life for You』は、Youtubeで実際にお聴きいただけます。
ポンコツ女王チャンネル【オリジナル曲】『A Life for You』
https://youtu.be/RYlSbbQGF5c?si=Mv8p3SAbq9OfT6x7
軍師が女王へ捧げた「二度目の生」の歌……
ぜひ、実際にFANGの歌声でお楽しみください!
……ちなみにFANGの名前。
金融に興味のある方ならお察しかもしれませんが、投資信託でもおなじみの「FANG+」から取っています(笑)。




