非日常
話が動き始めてきましたね。ロッツ氏がどうにかなるのは当初からミエミエだったと思います。通常はこれはラスボスフラグだったりするわけですが。
日常がいきなり変わるなんてことはやっぱりないのだと。少しずつ変わっていくのだと思い始め、そして納得し始めたある朝。いつもの朝だった。
「行ってきます」「行ってくるわ」
「おう、気をつけてな」
食器を洗浄機に放り込みながらリックがいつも通りに手を振ってくれる。マリカがドアを空けると、いつも通りエレナが待っていた。
「おはようこざいます、マリカさん。ジロー君もおはよう」
ちょこんと頭を下げる彼女は今日も小さい。小学校時代も小さかったが、中学校以降ほとんど身長が伸びなかったのが致命的だ。
(でも、これはこれで確かに可愛いんだよな。うん)
童顔気味ではあっても、幼馴染み、かつお隣の女の子のお迎えは恵まれすぎている、と改めて思う。
「おはよう、エレナ」
「エレナ、いつもご苦労様ね。こんなの迎えにきてくれて」
「お、エレナちゃん、おはようさん。今日も可愛いな。二人を頼むぜ」
「おはようございます、リックさん。学校、行ってきます」
アシタカ第一小学校から、第一中学校、そして高校。もう何年も同じように繰り返してきた習慣が、今日も続く。はずだった。
「遺跡宇宙船は銀河系全体ではすでに数十隻、港湾設備で二十ヶ所ほどが発見され……」
宇宙史は基本的には退屈な授業だ。探検家や一部の学者を目指すのでなければ一生必要のない知識の塊なのだが、先史文明の遺産の周辺だけは多くの生徒が目を輝かせている。
特にこのあたりは男の子なら大抵は知っている。子供向けの冒険小説や動画などで扱われる定番ネタだからだ。
恒星系外縁部に存在する超空間ゲート「リング」。そしてこれを筆頭として慣性制御装置や反物質生成装置など人類にとって福音となった数々の技術は、かつて銀河系に繁栄した先銀河文明の残したものだ。
「特にアルフハイム遺跡では宇宙船と港湾設備がほぼ完全な形で残っており……」
中には小惑星が丸ごと内部がくりぬかれて人工重力を持つ居住可能空間になっているなど、現代の人類科学を持ってしても理解不能な超技術がそこにはある。
反物質生成とそのエネルギー化、慣性制御装置。他の恒星系に短時間で到着できる超空間航法は、『リング』によるもので、慣性制御装置による速度がないとリングの境界面を超えることができず、慣性制御装置は膨大なエネルギーを必要とする。
これらが揃わなくては人類の本格的な外宇宙進出は不可能だったし、たまたま太陽系の外惑星のさらに外縁部に「リング」とその軌道上に存在した遺跡宇宙船がなければ人類は今なお太陽系の外に出ていないかもしれないと言われている。
「ジロー・ハザマ。外宇宙進出の三要件と言われているのは何ですか?」
「はい。リングと慣性制御技術、大出力の動力炉技術です」
小島先生は誰に対しても丁寧な言葉を使う。まじめすぎて面白くないという意見も多いが、まあ人格としては信用できる。そんな先生だ。男性にしては整いすぎた顔立ちで、男女などと呼ばれている。
「よろしい。動力炉技術には反物質転換炉と核炉があるわけですが……」
核炉はさらに核融合型と核分裂型に別れ、慣性制御装置もA型とB型、B型を人類が模倣したC型とに別れる。当然ながら、C型が一番効率が悪い。
こうした発見のかなりは探検家などと呼ばれる人々によってもたらされた。探検家のかなりが資源ではなく先史文明の遺産を探す宇宙考古学者だった。
こうした発見のインパクトや治安の問題などから早くから一定規模以上の遺跡は人類の共有財産とされるといった国際ルールが作られていた。
「発見されたものは一度人類の共有財産となるが、学術調査が済んだ後には発見者の所有物となる。そのまま人類の共有物として扱われる場合は相当の報酬が支払われる……」
(宇宙開発の初期かあ。この時代は人類改造計画とかもあったんだよなあ)
コールドスリープや、動物のように冬眠することによって長期の宇宙旅行をすることができる人類を作る『眠り姫計画』や老化を遅らせて長寿命化するものがその代表で、別名メトセラ・プロジェクトと言われたそうだ。
こんな形で、宇宙史は一部の生徒にとって面白い学科といえる。少年が比較的よい点数をとれる学科でもあった。
「ジロー・ハザマ、ご家族から連絡がありました。校長室へ行きなさい」
担任でもある小島先生がちょっとだけ緊張した面持ちでそう言った瞬間、背筋が冷えた。すうっと一気に気温か下がったような気がした。
(なんだよ、これ。いつも通りでいいのに。何も起こる必要なんてないのに。)
校長室の前には、見慣れたセーラー服の後ろ姿。女の子にしては長身で、ジローとさして変わらない。マリカだった。
無言のうちに視線が合う。まるでガラスの球体のような無機質な瞳に慄然とする。何の感情もない、人形のような瞳。もともと白い肌が、さらに血の気を失っているのがわかる。
一見して表情はいつもと変わらないが、動揺は明らかだった。覚悟はしていても、予想はしていても親しい、彼女がパパと呼ぶ人物の重大情報なのは、まず間違いない。
何と言って声をかけていいのかわからない。こちらをちらりと見ただけで無表情で扉に向きなおる義姉の横に立って、ドアに手を伸ばす。
「開けるよ」
ほとんど顎も動かなかったけれど、彼女が同意したのがわかる。胸の奥に重苦しさを感じながら扉を叩き、中からの言葉を聞き、そして開ける。ただそれだけの動作がひどくまどろっこしくて、世界が重くなったようだ。
「ジロー君、マリカ君。深呼吸をして、気分を落ち着かせてから聞いてほしい」
大きなテーブルの向こうで、人の良さそうな校長先生がかなり沈痛な表情を浮かべていた。やはり、マリカのカンはあたっていたのだ。
「はい。大丈夫です。予想はしていましたから」
「ぼくも同じです」
二人の態度は固かったけれど、落ち着いてはいるように見えたのだろう。校長は軽く深呼吸してから、手元の書類に目を落とした。
「君たちの保護者のタロン・ロッツ氏が行方不明になったと、連絡がありました」
ひゅっ、と隣の女生徒の喉が小さく鳴った。指がかすかにわなないているのを見かねて手を伸ばすと、痛いほどの力でぎゅっと握りしめてくる。
「状況から見て、少なくとも重傷を負っておられるということです」
細い指が食い込んできそうな力だ。マリカはそれでも、人のよさげな校長の前では平静を保っていた。
「詳しいことは、君たちの同居人であるリック医師が診療所で教えてくれるはずです。すぐに帰る準備をしなさい」
おそらく、リックが学校に連絡を入れたのだろう。気遣わしげに目をしばたたかせる校長に頭を下げ、足早に校長室を出た二人は無言でそれぞれの教室へ向かう。
「五分後よ。それ以上は待たないわ」
「うん。わかった」
二人はそれぞれの教室で早退の手続をとると、荷物をまとめて帰り支度をする。
「あ、あの、ジロー君? 大丈夫?」
「大丈夫じゃないのはマリカのほう。とにかく、また後でね、エレナ」
待ってくれていた小島先生に頭を下げると、廊下をぐんぐんと歩いていく。彼女はきっと、下駄箱のあたりで待っているはずだった。
リックの職場でもある診療所では、もう一人の男性が二人を待っていた。白衣がよく似合う、体格のよい壮年の男性。エレナの父親のヒュージ医師だ。金髪碧眼で、小柄な娘とは似てもつかない巨漢である。
いつもながら、遺伝子が仕事していないと思うジローだったが、ヒュージ博士の沈痛な面持ちにあらためて顔を引き締める。柔和な瞳に心配そうな光が宿っているところを見ると、やはり彼女と親子だとも思う。
「やあ、お帰り、二人とも。大変だったなあ」
「ヒュージ先生! 診察はどうされたんですか?」
「休診さ。ロッツ氏の生死に係わるかもしれんのだからなあ……」
「すいません。我々のために診療所を閉めるだなんて」
「いやいや。リック君、ジロー君、そしてマリカ君。一刻を争うことだからなあ」
リックが入れたらしいお茶を前に、二人の医師と少年少女は、広げられた医療用表示シート
の画像に目を落とした。
古く、劣化した構造材が覗ける、危険表示が浮かび上がった壁材。シャッターが小型の重機で押し開けられている写真だ。扉には何かを噛みこみ、押しつぶしたらしいゆがみがはっきりと残っていた。
「これは、事故……ですか?」
「まさか、こんなことでパパが……」
「おそらくはテロと、それに関係した事故ということになってる」
リックがちょっと尖った耳をヒクヒクと器用に動かして見せた。
「ウェリントン星系のリングの旧港湾設備。すでに廃棄されて、分解を待っていたそうだ」
壁材が耐用年数を超え、劣化した外装が剥げて修理を促す表示がそこかしこに出ている古い通路。たしかに、壁面や路面には武器によるキズらしきものが見て取れる。
「そんなところにロッツ氏がいたのも不自然ではあるが、彼の仕事は解体を含むからね。調査として入ることもありえないことじゃない」
リックが指を指す部分に黒いペンキのようなものが映っていた。その周辺に人らしき輪郭が、白いラインで描かれている。そこで視線が固定されてしまっているマリカを痛ましそうに見やりながら低い声で語りかける。
「気を強く持てよ、マリカ。ここで戦闘があったのは間違いないし、ロッツ氏がこのシャッターに押しつぶされたのも確かなんだ」
ドクン。少年の重く冷えた心臓が大きく脈打った。リックの声が無気味な反響を伴って頭の中で繰り返される。
反発しか覚えない、顔すら知らない無機質なタロン・ロッツなる元軍人の安否情報が、自分にこれほど大きな影響を与えるとは正直思っていなかった。
ジローは保護者の巻き込まれた事件に大きく動揺していた。
「押しつぶされた……それくらいじゃ、パパは死なないよね? リック」
「それが戦闘中でなければな。だが、敵に追われていたんだ」」
一瞬、意味が通じなかった。火災、テロ、空気の流出など様々な事態に備えて設置されているシャッターはエアロック機能を持つのがあたりまえで、とても頑丈にできている。これに挟まれて生きている人間がいるとは思えない。
「……ということは、ミリアね。ミリアがパパを救助し、運んだんだわ」
「ご名答。駆けつけた警備局の隊員が見つけたのは、ロッツ氏の身体だけだった」
二人はそのまま当然のように会話を続けている。
(身体だけ? 本人はどこへ行ったんだ? 身体って、置いていけるものなのか?
ここでジローの思考が停止した。マリカのパパとは、ジローの保護者でもあるタロン・ロッツなる人物は小人かなにかか、それとも幽霊なのだろうか。それとも、古代日本にいたという首だけの妖怪なのか。
「あ、ジロー君も聞いたのは初めてか。私もなんだが、ロッツ氏は今、首だけらしい」
「く、首だけ? それって、死んでますよね?」
助け船を出してくれたヒュージ博士も困惑しているようだ。
「実は彼の身体のほとんどは人工でね。首から上だけでも死なないらしい」
「そんな……ま、まあ、とにかく生きている可能性がある、ということですか?」
「そういうことだ。まったく、軍人の考えることはわからんなあ」
非軍人が頭を抱えている脇で、元軍人と軍人の娘は物騒な会話を続けていた。
「一緒に行動していたミリアが、ロッツ氏の頭部を運んでいたのは確かだ」
「彼女の出した緊急の信号が、一つだけ届いている。R氏状況Eとな」
二人の会話によれば、財団や彼の会社がいろいろ調べているらしい。
「意識不明、自力回復不可……ね。死んではいないだけ、かあ。パパ……」
「ミリアも安否不明だ。敵は情報もがっちり封鎖しているな」
記憶の中のミリアという女性は姿勢が綺麗で、物静かな、そしてすごく有能そうな女性だった。ロッツ氏の代理ということで何回かアシタカを訪れている。
(ミリアさんも行方不明なのか……)
知人のよくない情報に、みぞおちのあたりが冷えるような感覚がある。すごくスタイルがいい女性で、真面目で、どこか犬を思わせるような忠実さを感じる女性だった。
「その、リック。敵って……何? ロッツさんって、軍人は引退していたんでしょ」
「……そうね。ジローは知らないものね。リック。私から?」
「ああ。まかせるよ」
マリカの普段は強気な瞳が潤んで、涙がじわりとたまっていた。ハンカチを使う、細く白い指がすごく優婉に見えてしまい、なんだかいたたまれない気分になる。どうも、この前から彼女が妙に綺麗に思える。
「私も、リックも、そしてエレナ達親子も、そしてあなたにも、共通の敵がいるの」
「敵って、ぼくはどことも戦っていないし、争ったりもしてないよ?」
敵などという言葉は、フィクションか、スポーツの中でしか知らない。それはあたりまえのことではなかったのか。敵──。ロッツ氏がシャッターにつぶされたという場所のどす黒い液体が脳裏に蘇り、みぞおちのあたりが重くなった。
普通の人なら即死だろう。そんなことをするものたちが、敵なのか。
「向こうが一方的にこちらを敵視して攻撃してくる場合は、敵じゃないの?」
「いや……それは敵だと思う。でも、ぼくはそんなの知らないよ」
なんだかたちの悪い冗談を聞いているようだ。そんな一方的に攻撃されるなんておかしい。それは敵意とかじゃなくて、もっとタチの悪い何かだ。
「あたりまえよ。ヒュージ博士一家や、あんたはそのために辺境にこんな潜んでいるのだもの」
そういえば、聞いたことがあった。ジローやエレナの病気のために、この辺境のコロニーまでやってきたのだと。幼い頃から言い聞かされていた。病気のためだけではなかったらしい。
「今は具体的には言えないけれど、私たちはあなたやエレナを守るためにここにいる」
義姉のまつげで震えていた涙の粒が上品な柄のハンカチにぬぐわれる。その下から、いつもの強気さよりさらに激しい、挑戦的な光を宿す瞳がのぞく。
「そして、パパは……やつらと戦って大きな傷を負った。それが事実よ」
「マリカ。それじゃ何もわからないのと同じだよ。敵って何か教えてくれないと」
彼女の手を取って、強く握る。細くて柔らかい手はひんやりとして、すごくすべすべしているのが心地よい。
「ごめんなさい。今はうかつなことは教えられないのよ。あなたのためにも」
こちらを思って言ってくれていることはわかる。でも、今みたいに何もわからない状態では何を足がかりにして行動すればいいのだろう。
「でも、マリカ。何もわからないんだ。ぼくは……」
「待ちなさい、ジロー君。マリカ君は今はと言ったんだよ。あくまでも、今は、だ」
困った顔でこちらを見つめる青い瞳がかすかにゆらめくのに、ヒュージ博士が言葉を挟む。穏やかな瞳がじっとこちらを見つめている。
「そう。あんたはじきに知ることになるわ。それまでお待ちなさい」
今も未来も過去も関係ない。自分や、周囲の人にとっての敵がいるならば知りたいと思う。だが、事態は少年の予想や思いを超えて進展していく。
コキコキと、関節の鳴る音がした。リックが背伸びをしたせいだ。
「ジロー。オレとマリカは調査に出かけようと思う。おまえはどうする?」
敵がいる中、ロッツ氏の行方を調べに行くのだという。リックの口調はいつも通りで、緊張も感じられない。だが、人が二人行方不明になり、少なくとも一人は重傷を負っている事件だ。何もないわけがない。
「私は行くわよ。一応あんたにもその権利はある。行くの、行かないの?」
行けば、敵とやらのことがわかるのだろうか。幾度か会ったことのあるミリア女史の行方がわかり、首だけになっているロッツ氏とやらに会えるのか。わずかな逡巡の後、少年は首を振った。
「ぼくには……関係ない。ロッツ氏とは会ったこともないんだから」
マリカの唇の色が薄くなる。青い瞳が怒りを込めて燃え上がる。リックがかすかに唇を噛むのがわかるが、どうにも気が進まない。
「それでも、パパの正式な養子はあんたと私だけ。関係ないなんて言わせないから」
「正式な養子だって? ぼくが? 知らなかった……」
初耳だった。学校でもどこでも、ジロー・ハザマで通用してきたのに。
「ああ、ジロー。おまえの法的な名前は確かにジロー・ハザマ・ロッツだよ」
リックが腕を組んだまま、指で上腕の筋肉を確かめるように叩いていた。
「どうする? 俺たちは調査に行ってくる。ジローはどうする?」
答えられなかった。まるで石か何かを飲み込んだようにみぞおちのあたりが重苦しく、身体が硬くこわばっていて、何か別の硬質な冷たい物質に変わってしまったようだ。
「まあ、しょうがないさ。留守を頼むぜ、ジロー」
「ヒュージ先生、ジローをお願いします。こいつ、自堕落だし……」
「ああ。大丈夫だ。二人とも、気をつけて行ってきてくれ」
宇宙港で二人を見送った帰り、自宅の前では二人の女性がジローを待っていた。ちょこんとした印象の小柄な女の子と、長身の格好いい女性だ。
「あ、あの。大丈夫? ジロー君……」
「ああ。食事は宅配サービスを使うから、心配いらないよ」
エレナの大きな目が潤んでいる。どこまで聞いたのかはわからないが、ジローのことを過剰に心配しているのは明らかだった。
「無理しちゃだめだよ。洗濯物とか、あたしに渡してくれていいから」
エレナの母親は黒髪の美しい女性だ。結い上げた髪が色っぽい。背もすらりと高く、それでいてボリュームたっぷりな、女らしくしかも美しい体型。
やはり体格のよいヒュージ博士とこの人との間にお子様体型のエレナが誕生したのが信じられないくらいだ。
でも、髪の色や瞳の色を見る限り遺伝子はちゃんと仕事をしているらしい。エレナももう何年かしたら抜群の身体フォルムを持つようになるのだろうか。
「洗濯物くらい、大丈夫さ。ぼくだってそれくらい、やれるよ」
「そう? 毎日お夕飯を用意するから、ウチに食べにきてね。絶対よ?」
エレナの世話好きはきっと母親に似たのだろう。昔からあれこれ気に掛けてくれる婦人は、マリカやジローにとっては母親がわりだといってもいい。リックですらもしばしばお世話になっている、三人の頭が上がらない女性だった。
次の朝から、フラグの構築スピードが上がったのは言うまでもない。なにか後戻りできなそうなフラグがガンガン立っていく。冗談ではなく、学校では秘密にしておきたいレベルだった。
「あー、まだ寝てる。ジロー君、全然大丈夫じゃないじゃない」
エレナがベッドまでジローを起こしに来るようになるまで、わずか三日。夢見が悪くてなかなか朝起きられない状態が続いて、二日連続で学校を遅刻しそうになってしまったからだ。
「ほら。もう七時半だよっ。おにぎり作ってきたから、早く起きてっ」
枕元を両手でバンバンと叩きながら声をかけるエレナの瞳が輝いている。世話好きな彼女はジローの世話ができることが嬉しくてしかたがないらしい。
(なんだよ、これ。ぼく、子供じゃないんだぞ)
眠気をこらえながら見上げるエレナの顔は生気に満ちていて、少年の胸の中の空虚な部分を暖かく満たしてくれる気がした。夢の中で、凄惨な殺し合いを避けて逃げ回っていたのが嘘のような、平和な顔に思わず笑みがこぼれた。
(なんか……娘に起こされる父親って、こんな感じなのかな?)
そう思っただけのつもりが、口に出ていたらしい。
ぴきっ。
何かが張りつめる音がした、気がした。
「ジロー君、なにか。すっっっごく失礼なこと、言ってない?」
童顔ながらも整った顔立ちがひきつっていた。笑顔が笑顔になりきれない、微妙な表情で少年の腕をつついてくる。
表情豊かなのは彼女の長所だけれど、こんな表情でも可愛いというのは、美少女ならではだろう。
「あ、ああ……ごめん。すぐ起きるから」
のそのそと身体を起こし、トイレに向かう。パジャマ姿のまま部屋を横切る際に、視線を感じた。
じーっ。
黒髪の少女が硬直している。貝殻を思わせる耳たぶが真っ赤になっていた。翡翠のような複雑な色合いの緑の瞳が、妙に輝いている。
「どうした。何を見て……って、おいっ、どこ見てるっ」
幼馴染みの少年を起こしに来たお隣の少女の視線は、パジャマ姿の下半身に向かっていて。その先には、腰の前部を隆々と持ち上げてテント状に張りつめさせる何かがあった。
「はわっ、はわわわわっ。ごめんなさいっ」
動転したのか、エレナはぱっと後ろを向くとそのまま手で顔を覆っていた。今更隠しても全く意味はないのだが。少年自身、朝の生理現象をどうすることもできずにそのままトイレに向かうしかなかった。
(まったく間が悪い……。毎回こうってわけじゃないのに)
毎朝必ずこうなるわけではない。男性特有の生理現象にはどうも謎が多い。もちろん彼にとっては女性はさらに謎なわけだが、自分自身の身体なのに、さっぱりわからない。
「あ、あはははっ。あ、あの。生理現象なんだよねっ。健康な証拠なんだって」
今さらながら恥ずかしいのか、エレナは目線を併せようとしない。
「いや……まあそうらしいけど、なんでそんなこと知ってるんだよ……」
「ええと、マリカさんが教えてくれたよ。覚えておきなさいって」
「あのバカ姉、エレナに何教えてくれやがるっ」
エレナの作ってくれたという、ちょっと不格好なおにぎりを食べながら、思わず天を仰いでしまった。
「その。ちゃんと知っておかないとダメだからって。きっと驚くからって……」
「…………」
そういえば、以前珍しくマリカに起こされた時に、彼女の反応がおかしかったことがあった。妙に血色がよくて、口調が軽く、やけにジローに気を遣ってくれた日だ。少年としては義姉の優しさと美しさに感動した、数少ない朝だったのだが。
(あの時かっ! あの時かあああっ!)
穴があったら入りたい。理不尽な暴力姉と幼馴染みとはいえ、男性特有の生理現象をまともに観測されてしまったとは一生の不覚。思わず額に手をあててしまった。
「あの、ごめん。……やっぱ、傷つくよね」
「それ以上口に出してくれるな。武士の情けだと思って。たのむから」
がっくりと肩を落としながら上着をはおり、カバンを持って階段を下りる。たった二、三日で両親からジローの家の合い鍵の使用許可を得たエレナに文句も言えない。実際に寝起きが悪くまともに生活できていないのはジローだからだ。
リックにもらった薬を飲んでいるのにあの悪夢が襲ってきて、どうしても眠りが浅くなっているらしい。
「朝ご飯だって、ウチのお母さんなら喜んで用意してくれるんだよ?」
だから、もうちょっと早く起きてウチに来ればいい、とエレナは言う。もちろんありがたいことではあるのだけれど、それは人としてどうなのだろう。朝から隣の家に入り浸たるのは、健全な男子高校生の姿では、多分ないと思う。
「よお、おはよ。マリカさんは今日も休みなのか?」
級友が手を上げて挨拶ついでにマリカのことを尋ねてくる。マリカは対外的には虚弱体質なので、ときどき休むのは怪しまれない。うらやましいかぎりだ。だが、今回ばかりはジローも神妙な顔をしてみせる。
「緊急の用事らしくて、出かけてるんだ。何日か休むって」
「緊急って、その、身内の不幸とか」
「まあ、そんなもんだけど気にしないでくれってさ」
マリカは身内にはともかく、外では弱みを見せない。他人に心配されるようなことを喜びはしないだろう。
「……そっか。ジローも大変だな。何かあったら言えよな」
高志はそういって男子の輪に戻っていく。
「波川君って、意外と優しいよね」
「意外じゃないさ。あいつ、けっこういろいろ気にしてくれるよ」
「そういえばそうだね。波川君、いい人だもんね」
二人の視線の先では、バカ話をしながら笑い合う男子生徒たちが思い思いの姿勢で机を囲んでいた。そんな彼らとの距離が、以前よりちょっと遠い気がしていた。
「リック君やマリカ君からは、まだ連絡はないのかい?」
ヒュージ家のダイニングテーブルは広い。三人家族なのだが、八人くらいは並べそうだった。当初から大人数で並ぶことを考えられた食卓だ。
今日はそのテーブルの半分ほどしか使っていない。少年はヒュージ博士と、エレナは母親と並んで、男女が向かい合う配置だった。
「はい。何かあったら連絡を入れる、と言っていたんですが……」
「心配ねえ。早く帰ってきてくれるといいんだけれど」
サバの味噌煮の身を器用にほぐしながら、ヒュージ夫人が相づちを打つ。気づいてみればヒュージ博士の前にはサバはなくて。考え込んでしまった夫の分まで食べやすくしているらしい。
普段はキビキビと有能な医師が、案外配偶者に頼っているような感じでちょっとおかしい。しかも夫婦仲がよいのが見て取れて、もっと面白い。
「食べにくいの? あたしがやってあげようか? ほら、お皿貸してちょうだい」
小柄な少女はじいいっとジローに視線を注いでいた。すごい期待に満ちた瞳がキラキラと光っている。体格的には似ていなくても、夫人とエレナはよく似ている。世話好きで、誰かのためにしてあげることを自分の喜びとできるタイプだ。
「いや、いいよ。自分でできるから」
ヒュージ博士はお箸を使うのが苦手なだけで、ジローは自分でできる。
「むー、遠慮しなくていいのに」
「い、いや。そんなところまで誰かにやらせるわけにはいかないから」
自分としてはけじめのつもりだが、ヒュージ家の女性陣にはまったく評価されない。
「何言ってるのよ。エレナ、お掃除とかはしっかりやってくるのよ」
「はーい。ジロー君の生活環境は、あたしが守ります!」
「い、いや。さすがにそれはちょっと……」
確かに、朝起きられなかったり、洗濯物を貯めまくっていたり、なぜかリビングがどんどん散らかっていったりしているが、嫁入り前の女の子を男一人の家にあげて掃除とかさせるのはどうかと思う。
「ダメよ。リックさんやマリカさんにしっかり頼まれているんだから」
ダメ押しだった。少年の家族は、自分たちがいない間どうなるかをしっかりと予測していたらしい。普段はヒュージ博士夫妻のみに鍵が預けられているのに、今回はエレナにまで合い鍵が渡されているのがその証拠だった。
(……結局、ぼくがガキなだけなんだよな、きっと)
マリカ、リックが二人とも同時に家を空けるのかなり久しぶりのことで、以前はまだ小学生だったジローはヒュージ博士の家に預けられたのだった。
(もう何年もたっているのに、二人にこんなに頼っていたんだなあ)
「そうそう。お掃除とかした分は、ちゃんとお小遣いもらえるしね」
「そういう問題か? そういう問題なのか?」
モラルについては比較的高い水準を維持していたニッケイ社会は、二度の大戦で結束を強める一方、社会道徳についてはそのたびに厳しくなったり緩くなったりを繰り返してきたそうだ。だが、これはガバガバすぎやしないか。いや、ヒュージ家はニッケイではないのだった。
「何か問題がって、心配はいらないでしょう? ジロー君ならね」
「問題って、実際にどう問題になるか見てみたいもんだなあ。はっはっは」
年頃の娘を持つ父親とは思えない両親だった。間違いが起こるなど思ってもみないのだろう。十代の男の煩悩パワーを舐めているとしか思えないのだが、肝心のエレナすらもが意識していないらしいのが問題だった。
「信頼されてるね、ジロー君」
「信頼なのか、これ。本当に信頼されているのか……」
まあ、なんにせよ、家族の存在がないだけで自分がガタガタになることを知ってしまったジローにとって、身の回りの世話をしてにエレナが家に来てくれること自体はありがたい。いろいろな問題や、彼のプライドに目をつぶればだが。
初期状態からフラグ立ちまくりのヒロインに関して大量のフラグが積み重なっていきます。死亡フラグは立てすぎると反転するといいますが、この場合はどうなのかなあ、と。




