【 八 】
晴明が真面目に書庫の整理へと戻ったのは、一日経てようやっと真秋の怒りを解き、腹がいやというほどくちくなってからだった。
午前中は空きっ腹も響いて、それらしいことは何一つしていない。
「さて、と、さっさと終わらせて……」
渡殿を歩いていた彼の足が止まる。その顔が見る間に厳しくなったのは、書庫の前に、晴明が蛇蝎のごとく嫌っている己の弟弟子たちがいたからだった。しかも、抱えた多量の書を適当に書庫へと運び込んでいる様子。
「おい、何やってんだよ」
晴明がぶっきらぼうに声をかけると、彼らはぎくりとして足を止めたが、すぐにさっさとやってしまえという風に動きを慌ただしくする。晴明は足取りを速めながら再度、声を張り上げた。
「ちゃんと整頓してくれよ。俺が困るだろう」
しかし、「お師さまの言いつけですぐに戻らなければならないんだ」と一人が叫ぶようにいう。
晴明は彼の顔を見て舌打ちする。
十把一絡げに扱ってきたためか、顔を見てもちっとも名前が浮かばない。
「お師さまの言いつけならもっとちゃんとやれよ」
「書庫の整理はお前の仕事だろう。きちんとやっておけ」
「おい!」
渡殿から飛び降りた晴明は、逃げようとする一人の襟首を捕らえて思いっきり引っ張った。転倒したのは鼻が潰れたように見える、同い年くらいの青年。
「何するんだよ!」
晴明は侮蔑に唇を歪め、怒りに顔を赤くする彼を睨み下ろす。
「貴様らが悪いんだろう……、方術で敵わぬと見て嫌がらせか。そんなことを考えてる暇があったら書でも片づけろ!」
「止めろって!」
「触るなっ」
いきなり後ろから肩を掴まれ、晴明はそれを素早く振り払った。怒りそのままの怒声を叩き付ける。
「貴様らに触られると吐き気がするわ!」
「ば、化け物がよくいうな!」
「――!」
単に売り言葉に買い言葉だったかも知れないが、心に傷持つ晴明は一瞬ばかり息を呑んで目を剥くと、怒声を浴びせかけた青年に勢いよく殴りかかっていった。
晴明は体術を学んではいたが、やはり人数が多いとどうにもならない。二人ばかりを殴り蹴り倒したところで、袂を掴まれて転び、馬乗りになろうとする輩を思いっきり蹴り飛ばした。だがその足を掴まれて脇腹を強く蹴られる。息が詰まって動きが止まった。
舌打ちし、晴明は突き出した手に呪を込め――。
「止めないか!」
いきなり身の竦む気迫を叩きつけられ、晴明を含め、忠行の弟子たちも身を強張らせた。
渡殿に二つの人影があった。
一つは保憲で、今ひとつは家人。
どうやら家人が喧嘩を見つけ御注進したらしい。保憲はいつになく厳しい顔で全員を見やると、晴明が始めに転ばした、鼻の潰れた青年に目を定めた。
「彰行、すぐに皆を連れて行くんだ」
「で、ですが……」
「わたしはどちらも責める気はない。喧嘩を止めようと思っただけだ。ほら、いつまでも転がっていないできちんと立ちなさい。お前もだ」
保憲は草履を引っかけて土の上に降り、一人一人を起こして服の埃を払った。
彰行、と呼ばれた青年は素早く立ち上がって悔しげな顔で晴明を睨み付けると、保憲にひょいと一礼し、悔しさを面に滲ませて立ち去っていった。残りのものもそれに続く。
晴明は手をつかずに立ち上がり、ばたばたと荒々しく狩衣から埃を払った。扇でそれを手伝いながら保憲が小さく吐息する。
「まったく、衣服を破って真秋から文句をいわれるのは目に見えているだろうに。お前も懲りぬな」
「……責める気はないんじゃないのかよ」
「感想を述べたまでだ。父上はあれで短気だからな、喧嘩など知ったら両成敗になる。もっとも、あの形ではすぐに見破られてしまうだろうが」
「なんでお前、ここにいるんだよ」
「あぁ。それ……なんだけどな」
晴明の突っ慳貪な問いに、困った顔で保憲はこめかみのあたりを引っ掻いた。
その才を認められ、すでに暦を作る術を学ぶ暦生として陰陽寮に出入りしている彼は、この時間は大内裏内の陰陽寮にて、暦の博士である暦博士より造暦の暦法を学んでいるはずだった。
「陰陽寮に行くには行ったんだが、先日の怪異が知れていて、鬼気が祓われるまで大内裏に入るなと陰陽頭に追い返されたのだよ」
「あの鬼魅のこと、陰陽寮の方はなんていってるんだ」
「鬼魅のことは何も知らないさ。ここで怪異があったことを伝え聞いただけだ。もっとも、騒ぎの中心がわたしだったことはご存じのようだったがね。父上は封じていた鬼魅が逃げ出したと説明した。陰陽師が気付いたかも知れないが、父上がそういってしまった以上、彼らにはどうしようもないだろうな……」
晴明は痛む身体を渡殿に座らせた。
脇腹がきりりと泣く。
「いいのか? 神祇官は知ってるんだろ」
「いや、能宣どのが神祇官も中務省の介入も阻んだ」
「あいつが……?」
「よく知らぬ人のことをそういう口ぶりでいうのは止めるんだ。お前の災いの多くは口から発せられているだろう」
弟弟子ではなく、まさに弟として晴明を扱う保憲は行儀にも口うるさい。晴明が不満げな顔をあからさまに背けると、ため息をついた保憲は空に目をやった。
「能宣どのは個人で調べたいことがあるらしい」
「あいつは託宣を受けただけだろ。託宣だけで賀茂に関わっているなんて、断じることができると思うか」
「……託宣はわたしの管轄外だからな、どうともいえん。だが、大中臣家は神を祖とする祭祀の家系だ。神より託宣――神託を受ける神祇官と、星や卜占などから天意――天の意を知る陰陽道の立場から彼の力を云々(うんぬん)することはできない。しかし彼が賀茂を訪れたことは間違ってはいないだろう」
「適当かも知れないぜ」
保憲が細い眉をひそめた。
「ずいぶんと突っかかるな」
「俺は――」
あいつが嫌いだ、と晴明は一言で答えようとして、口を噤む。
これをいえば間違いなく保憲が怒るだろうと気付いたからだ。
歯切れ悪くぐちぐちと理由を並べる。
「……別に、あまりにも都合がよすぎるじゃないか。俺たちがまともに動かないうちに、手がかりの方がてくてく歩いてきたんだぜ」
「都合? そうか? 京に怪異があれば、神祇官庁や大中臣家、陰陽寮が気付くに決まっているだろう。京を守っているのは神祇官と陰陽寮、それに空海さまが作られた真言院だからな。能宣どのは、神事にかかずらってきた大中臣家として、神祇官の――」
「じゃぁ、なんで狙われたのはお前と俺なんだ? そっちの、ご大層な家柄の奴じゃなくてさ」
「わたしと晴明……」
青年のいわんとしているところがわかって、保憲はゆるく小首を傾げる。
「そうだな。お前はまだ父上の弟子に過ぎない。わたしもまだ修行中の身。狙われる由はこれといってないな。いや、あれは父上を狙ったものかも知れんが、それでは……」
「“人ならぬ身”、だからな」
晴明の言葉にうなづくことはできず、庭から渡殿に上がった保憲はおもむろに腕を組んだ。
柱に背を預け、足許に視線を落とす。
人ならぬ身、それは間違いなく晴明のことだろう。あの鬼魅は晴明を狙っていたと見てよい……ふと、彼は気付いた。
「そういえば晴明」
「なんだ?」
改めて名を呼ばれ、青年は脇腹の痛みに顔をしかめながら兄弟子を見上げた。
「お前、なぜあの日に菅公のことを聞いたんだ? 父上が聞いても答えなかったそうではないか」
晴明はあからさまにたじろいだ。頬を強張らせ、「それは……、その」などと小声で答えながら顔色を様々に変える。
意外な反応に保憲は目を瞬いた。
「どうした?」
晴明が歯ぎしりしながらうつむく。
「どうだっていいだろ……」
「よくはない。菅公について教えたら由を話すと約束したのはお前だぞ。今はお前の見たことがとても重要なのだ。それくらい、わからないはずがないだろう」
「……だけど」
「多少のことは目をつぶってやる。話せ」
晴明は両手をきつく握りしめながら己の膝を見つめた。
話したくないのではない。
話せないのだ。
あの夢は――梅花が舞い、菅公が現れ、飛び梅が太宰府に飛んだあの夢は、保憲の死とともにあった。
晴明は密かに奥歯を噛んだ。保憲に夢のことを告げたかった。だが、彼の死を見たということを口にできない。伝えれば現になるかも知れない。伝えれば、夢のままで終わるかも知れない。そのどちらが正しいのか、晴明には判じることができなかった。
晴明の卜占でも、はっきりした日時は出ない……。
――夢のこと、やはり本人にはいえん。
面を上げて晴明は保憲を見た。
彼が気付かぬよう、ぶっきらぼうに語を紡いだ。
「庭を見ていて、梅が咲かないことが気になっただけだ。梅っていえば飛び梅だろう? 飛び梅は菅公。だからお前に聞いたんだ」
「では、あの鬼魅を菅公ではないといったのは?」
「呪を放った時の手応えだ。あれは……、御霊になったといっても、やはり人のものじゃなかった。それにお前があんなにも容易く動きを封じられたんだぞ。人であるもんか」
「……そうか」
返答についてもいろいろと訊ねたいことはあったが、保憲は続いて疑問をぶつける。
「飛び梅がなぜ菅公を呼ぶんだ?」
「それは俺にもわからん。ただ、飛び梅と菅公は切っても切れない関係に思えたんだ。いや、あの二つは一緒だ。切り離しては駄目だ」
「……どうにもよくわからないな」
「俺にもわからん」
このあたりで、保憲は晴明の機嫌がかなり悪くなっていることに気付いた。視線を落として渡殿に腰かけている青年を見る。ただ背中を向けているだけなのだが、拒むものを感じた。
音を立てずに嘆息し、保憲は柱から背を引き剥がした。
「まぁ、今は時がない。またあとで話を聞こう。夕餉のあとにでもわたしの居室に来てくれ」
彼は半ばきびすを返しつつ、扇の先で書庫を示す。
「早く整頓を終えてしまえよ」
どっか行くのかと、面を上げた晴明が問えば、保憲は背を向けて歩き出しながら苦笑した。
「能宣どのに呼ばれているのだ。すぐに戻る」
晴明は顔をしかめた。
能宣の名を聞くと、己でも不自然に思うほど胸が騒ぐ。
知らず胸に手を当てて、青年は庭へと目を向ける。
そこには咲かぬ梅があった。夢中に舞った黒い梅の花びらが、背から血を流した保憲の姿が次々と思い出される。そして、暗い目をしたあの男――菅原道真。
菅公は梅の紋を家紋にしていた。
だから、夢に梅花が出てきたか……。
しばらく考えた末、晴明は懐から符を出した。
「疾ッ」
短い呪をかけて保憲が消えた方に放つ。一羽の雲雀に変じたそれは、風のように宙を駆けていく。その鳴き声は実に麗しい。
晴明は自由に空駆ける己の式を眺めやって、渡殿からゆるりと腰を上げた。
保憲は、ただ優しいばかりの兄弟子ではないのです。