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梅を咲かすもの  作者: .a.w
第一章 菅原道真編
8/31

【 七 】




 床の上に端座した青年は、忠行が入っていくと滑らかな動作で手をついた。続けて入ってきた保憲にも静かに目礼する。

 優美な顔立ちの青年は艶やかな直衣を身にまとっていた。大中臣家の跡取りにもかかわらず、供もなく、ただ一人だけのようだった。

 なぜか、書庫にいるはずの晴明がその隣に座っている。

 賀茂家宗主が上座に座り、息子は黙って妻戸(つまど)の脇に控えた。忠行は晴明に委細は問わず、兄弟子の隣に座るよう、短く命じた。うなづき、立ち上がった青年は仏頂面のまま腰を下ろす。あぐらを掻くなり腕を組み、険しい顔を作った。

 鳥帽子を被った青年は忠行に深く頭を下げた。

「急に押しかけて申し訳ありませぬ」

「いや、ちょうど用があって戻っていたものでな、運悪く行き違いにならなくてよかった。それで、大中臣のご子息がどのようなご用かな?」

 能宣は黒目がちの瞳で忠行を見つめる。

 晴明と同い年の青年は、たかが年の差ごときで物怖じはせず、はっきりとした口調で訊ねた。

「先日、この邸内で何か起こりませんでしたでしょうか……」

「何かというと?」

「騒がしくなるような、何か、でございます」

「それは、貴殿の個人的な質問だろうか。それとも、大中臣家の……」

「わたくしの個人的な質問でございます」

「では、お訊ねになる理由をお教えいただきたい」

 能宣がすっと背筋を伸ばした。穢れを嫌うような、潔癖さが動作の一つ一つから滲み出ている。平生はそれらを柔らかい物腰で隠しているようだが、緊張したらしく、優しげな響きの声にも緊迫感が入り交じった。

「こちらの(やしき)に、もし、あの鬼魅が現れたのなら、わたしにも大いに関係があるのです。あの鬼魅は……、託宣の中とはいえ、わたしの前に現れたのですから」

 さすがの忠行は顔色一つ変えなかった。

 しかし晴明がかすかに肩を揺らし、保憲が頭痛を堪えながら、そっと膝に乗せた手に視線を落とす。

「……鬼魅とは?」

「袖で顔を隠し、突然現れて消える鬼魅でございます」

「――――」

 忠行の沈黙はすべての肯定だった。

 能宣はしばしのそれを、袂を整えることでなきものとして続ける。

「あの鬼魅はあまりにも危険。ですがこれを大事とすることの方が遙かに危ないのでございます。なぜなら、あれは――」

 晴明がぶっきらぼうに割り込んだ。

「冤罪で遠地に追いやられて、頭がおかしくなったもと右大臣、か?」

「……気付いておられたか」

 掠れた声でつぶやき、能宣が驚きながら晴明を見やる。気に入らぬ彼の視線から逃れるよう、晴明は膝に手を当てて勢いよく立ち上がった。

「梅の匂いがしたんだよ。飛び梅が呼んだんだろう」

 それだけ口にして、晴明は誰の許しも得ず立ち去っていく。

 保憲が追おうとして立ち上がるが、父に必要なしとの手振りを受け、躊躇いながらも座り直した。

 能宣が感心したようにつぶやく。

「すでに正体がわかっていたとは……」

「あれは不作法でな、申し訳ない」

 謝罪をうなづき受け入れて、能宣は両手を床についた。

「あの鬼魅はまだ怪異を呼び、この(みやこ)に雷を落とすでしょう。恐らく調伏(ちょうぶく)はききますまい。だが防ぐことはできるでしょう……。どうか、このわたくしめにご協力いただきたいのです」

 青年が深々と頭を下げる。

 渋い顔で忠行は顎を掻いた。

「貴殿が個人で参ったということは、中務省(なかつかさしょう)も神祇官も通すつもりはない、ということかな」

 中務省は主上の側近として仕え、その力は主上を介してとても広い。

 また陰陽寮も下に従えている。

 それらすべてからこの件を隠す――。

 何を考えているのかと目を眇めて窺う眼差しを、能宣はまたもや一礼して避けた。

「確かに大中臣家は神祇(じんぎ)氏族(うちぞく)の血の筋として、神祇官に深い繋がりがございます。ですが神祇官のような、宮中に近い立場で動けば、必ずや大きな騒ぎとなりましょう。それでなくとも……この怪異は、すでに四十年近くも続いておりますから。新たな恐怖を呼び起こすことはぜひに避けたく思っておりまする」

 老人の目に困惑が浮かぶ。

「それは確かだが、個々で動くといっても」

「わたしと忠行さま、ご子息の保憲さま。それに――」

「俺はやらんぞ!」

 突如戻ってきた晴明が怒鳴った。

「やりたきゃ勝手にやればいい。だが俺を巻き込むな」

「晴明!」

 保憲が声を低くして叱責するが、それで黙るような弟弟子ではない。彼はさらに声を張り上げる。

「それにあの鬼魅は人間じゃないぞ! 保憲、お前は絶対に関わるなよ!」

 言い捨てて彼は足音も高く立ち去っていく。唖然と見送った保憲は、思わず額を抑えながら深々とため息をついた。

 くすくすと笑って、能宣は顔を綻ばせる。

「やはり、面白い御仁だ」

「……大変に申し訳ありませぬ」

 晴明のため、賀茂の血筋が頭を下げるのはすでに幾度目になるのか。己のことのように恥じた青年は座り直し、赤くなった顔を隠すように慌てて頭を下げた。

 かぶりを振った能宣は気を悪くした様子も見せず、彼を振り返って側に座るよう、手振りと声で促した。父親をちらりと窺った保憲は、話の輪に参加するため、立ち上がって能宣の隣に座した。




「晴明さまが申された通り、あの鬼魅は恐らく菅原道真公。託宣は詳しく告げはしませんでしたが、梅が咲かぬ怪異、菅公が亡くなられてから続く雷鳴、世の人々の噂、その他諸々を合わせて考えるに、菅公であると断ずるのが妥当かと。また、託宣を行った場に雷神の気配がありました。……保憲さまは雷神を御覧になりましたか?」

「確かに……その場には雷光の名残りと、」

 息子への問いを忠行が引き取った。

「雷神の気配があったな」

「調べさせたところ、菅原道真公が雷神となられたとの話は、菅公が亡くなられた翌月には囁かれていたそうです。もともと、雷神とは北野(きたの)の地に祀られていた、農作物に雨の恵みをもたらす地主神のことだと思われます。その雷神が菅公と一つになったものではないかと。

「また、菅公は死亡した直後、比叡山(ひえいざん)尊意(そんい)さまのところに現れ、帝釈天(たいしゃくてん)の許しを得たので復讐したいと語ったともいわれておりますゆえ、だからこそ、帝釈天の属神である雷神になられたとも考えられます」

「こう毎日のように雷が鳴っては信じるしかないな。度重なる怪異に内裏は恐怖に満ち満ちておる。いくら陰陽師を呼びて僧侶を侍らせ、祈っても読経しても、さして効き目がない。わしも陰陽博士として情けないが」

 しょげ返っているみせる父の言葉に保憲は微苦笑を浮かべたが、すぐ訝ったように眉を寄せた。

「ですが、すでに遺言の通り、太宰府には味酒(うまさけ)安行(のやすゆき)というものの手によって(ほこら)が建てられ、それもまた藤原(ふじわらの)仲平(なかひら)さまの手によって大きな社殿に変えられております。神託によって天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)と称しているとも聞き及びました。

「さらには累が及んだ子のうち、長男の高視(たかみ)どのは呼び戻されて復位なされたはず……のちに、三八歳で亡くなられておりますが、その学問における功績は誰もが認めるところ。孫の菅原(すがわらの)文時(ふみとき)さまも文章道で名を知られております。

「菅公が死してからすでに四十年あまり。菅公を追いやった藤原時平さまや源光さまも、また時平さまの一族も多くの方が亡くなられております。何が菅公を駆り立てているのでしょう?」

 うなづいた能宣は慎重に言葉を選ぶ。

「ただただ祟る御霊(ごりょう)と成り果て、祀られる地を探していらっしゃるのかも知れません。菅公が愛したこの(みやこ)には、まだ祀られるべき場がありませんから……」

「御霊か……」

 忠行がため息混じりに漏らした。

早良(さわら)親王(しんのう)の御霊の覚えも新しいというのにな。いや、親王から逃れるために作られたこの(みやこ)にまで御霊が現れるとは、なんと皮肉なことよ」

 うなづいた能宣は顎に手を当てて、青く、どこまでも青く晴れ上がった空を見やった。

「確かに。平安京は陰陽・五行の相地から四神相応(しじんそうおう)の地を選び、幾重にも呪術的な構えを施した都。それもそのはず、遷都(せんと)した桓武帝(かんむてい)が、己の身につきまとう怨霊を振り切るために作らせたのですから。中でももっとも恐れたのが、血を分けた弟の早良親王の御霊……。

「己の息子に皇位を継がせたいばかりに、早良親王に一方的な嫌疑をかけて皇太子(こうたいし)の位を剥奪、それに抗議するため親王は食を断って絶食して亡くなられた。淡路島(あわじしま)に葬られたのち、猛威を振るった御霊の祟りに、一つの都(長岡京)を捨て、恐れた桓武帝は呪術的な防御を幾重にも張り巡らせた(みやこ)を作りたもうた……しかし」

「その(みやこ)の守りも、菅公を阻むに至らなかった、ということになるか。陰陽寮の相地(そうち)なのだが」

 滑らかに語られた語を引き継いで、忠行はあぐらを掻いた足を指先で叩いた。

 うつむいていた保憲が(おもて)を上げる。

「わたしは先ほど晴明がいうていた言葉が気になります。あれは、人ではないと……」

「確かにすでに人ではないな」

 苦笑して、忠行は表情を引き締める。

「晴明の目には別のものが見えていたのかも知れんな。まったく……、いうべきことはすべていってから去らぬか」

「わたしが聞いて――」

 立ち上がろうとした息子を忠行がまた手で止めた。

「よい、いっても素直に答えるとは思えん」

 保憲はゆるりと座り直した。

「……ですが、わたしは昨日、菅公について晴明から訊ねられたのです。飛び梅のことをひどく気にしておりました。そして、(みやこ)の梅が咲かぬことも。晴明はあの鬼魅が現れるよりも前に、菅公のことをわたしに訊ねたのです」

「飛び梅が呼んだと、いっておりましたね。菅公が白菊とともに愛した梅はまったく咲かず、その梅が呼んだという鬼魅。その梅が呼んだという菅公――」

「あれは人じゃないって言ってんだろ!」

「……晴明」

 とうとう保憲がのどの奥で唸った。またもや戻ってきた青年が苛立って声を張り上げたのだ。忠行は弟子が戻って来ることを知っていたのか、苦笑を口許に浮かべている。

 能宣は真っ直ぐに晴明を見つめる。

「それではあの鬼魅は何なのですか? 晴明さま」

「あれは道真じゃない。道真の格好をした何か、だ」

「では菅公はどこにいらっしゃるのでしょう」

「知るかよ、俺は七面倒くさく考えたりしないからな」

 晴明は能宣を見やって嫌悪感を剥き出しにした。その目を鋭く師匠へと向ける。

「それよりも、お師さま。さっさとそいつを帰して下さい。(つら)も見たくないんだ」

「こら晴明!」

 保憲の叱責する鋭い声に、子どものように思いっきり舌を出した晴明が素早く身を翻す。憤然と立ち上がった息子を最早呼び止めもせず、忠行はやれやれ、と額に手をやった。

「これではわしの品位まで疑われる……」

 またくすくすと笑った能宣は袖で口許を隠す。しかし不意に真面目な顔を作って、真っ直ぐに忠行を見つめた。有無をいわさぬ口調で問う。

「忠行さまもこのたびの鬼魅の出現、気付いていたのですね」

「……気付いてはいた。だからあの二人を邸内から出さなかったのだ。幸いなことに、命には関わらぬとわかったからな。二人の顔には死相がない」

「……鬼魅の正体はお気付だったのでしょうか?」

 その問いに、喰えぬ老人はちょっと笑った。

「保憲には無理であっても、晴明が見抜けるだろうと思っていたわ。二人の力の質は違うからな」

「晴明さま……ならば、と」

 能宣はつぶやきながら忠行の顔を見つめた。その眼差しは遠慮を知らず、ただただ鋭い。受けて立った陰陽家は、それを逆手にとって青年のうちを探ろうと目つきをきつくする。

 やがて、青年がすっと手をついた。

「本日はこれでおいとまいたします。この話はまた後日」

「……そうしていただけたら有り難い」

 能宣は人の気配など感じさせずに立ち上がった。忠行は手を叩いて家人を呼び、彼を外まで案内させた。立ち去っていく背が彼方に消えると、陰陽道に身を置く老人はおもむろに腕を組み、思案顔で床を凝視する。

「晴明に保憲、それに大中臣能宣どのか……」

 つぶやきは何処ぞに失せた。



 晴明が肩で息をしながら(ひさし)で足を止めた。ようやっと追いついた保憲は軽く腰を折り、膝に手を当てて喘ぐように息をする。

「お前、本当に足が速いな……」

 晴明が振り返った。

 睨む彼の眦はぎりりと吊り上がっている。

「なんだよ」

「あのような態度はよくない、と注意しようと思ってな。あぁ、走ったら頭痛が消えたぞ。動悸はするがな」

「調子がよくないのなら大人しく寝ていろよ」

 保憲は微笑みながら姿勢を正した。

「そう尖るな。まったく、お前は思っていることがすぐ顔に出てわかりやすい。朝のことを怒っているのだろう」

「……別に」

 顔を背けて、晴明は庭に視線を放つ。ふて腐れた子どもの顔だった。保憲はおやおや、と思わせぶりに片眉を吊り上げる。

「それが別に、という顔か。すぐに怒ってそういう顔をするのだから。だが、わたしも謝らなければならぬな。あの時はつい、身体が動いてしまったんだ。許してくれ。お前を嫌ったわけではない」

「……だから、別にいいよ」

(しゅ)(しょう)な物言いの時は必ず怒っているだろう」

「だから、どうでもいいっつってんだろ!」

 苛立った晴明が大声を張り上げつつ振り返った。少し面食らった保憲は目を丸くしたが、すぐに軽く吹き出し、笑い声を上げる。

「怒鳴ってから気まずい顔をするのは止せ。こちらまで悪いことをした気になる。や……、違うな。本当に悪いことをしたのだな。――朝のこと、すまなかった」

 深く頭を下げられて、晴明は複雑な顔でつと離れる。背中を柱の一つに預けて、水を打たれた庭を見やった。

「……本当にいいんだよ。お前のことだから、何か理由があるんだろう?」

 賀茂の青年が顔を上げた。誤魔化す態度ではなく、真っ直ぐに見据えていう。

「あるにはある。が、今はまだいえぬ」

「……どうせそうだろうと思って、聞かなかったんだ。朝のこと、許してやるから、一つやって欲しいことがあるんだけど」

「な、なんだ……?」

 とんでもない無理難題を押し付けられはしないかと、保憲は渋面を作りながらも訊ねやる。晴明は腹のあたりに手をやりながら真顔で続けた。

「真秋の怒りを解いてくれ」

「――はぁ?」

 思わず品のない言葉で問い返した保憲だが、急に口を閉じてこめかみのあたりを掻くと、きっぱりした口調で「それは無理だ」と却下した。




物語がようやく動きます。

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