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梅を咲かすもの  作者: .a.w
第一章 菅原道真編
7/31

【 六 】



 晴明は片膝を抱え、木陰の中にいた。

 それほど(やしき)から離れていない往来の傍らである。

 彼の前を、牛車や童、そして使いに行く家人、さらには腰に刀を帯びた武士(もののふ)などが歩いていた。

 (みな)晴明などには目もくれず、時には足取り早く、時にはゆるりとどこかに向かう。

 人の行き来を眺めやり、晴明はがしがしと頭を掻いた。

 さすがに保憲にまでも避けられたのは応えた。

 彼はこれまで、父親の弟子でしかない晴明を、深く懐に入れて聞きわけの悪い弟のように扱ってきた――事実、彼には二人の弟がいるのだ。

 菅原道真の孫である、学者の菅原文時(すがわらのふみとき)に師事して賀茂邸にはいないが。

 保憲が弟の保胤(やすたね)保章(やすあき)に書をしたためるところに出くわすと、晴明はいつも、何となく不機嫌になる。

 それはやはり、彼を兄のように思っているからだろう。

 師匠である忠行の常ならぬ言動。そして極めつけが、己から逃げようとした保憲の態度。

「……なんだかなぁ」

 晴明は、真秋が見れば「腹でも下しましたか!」と驚くような、長いため息を漏らした。

 己らしくないとは思いつつも、呼気は次から次へと勝手に口からこぼれ落ちる。

 草の上に座り、気の抜けた人形のようになっている晴明につと近寄る影。

 いきなり足許に落ちた人影に、晴明は弾かれたように立ち上がった。

「晴明さまではありませんか」

 そこに立っていたのは、真秋の子である千夏(ちなつ)だった。

 市女笠(いちめがさ)の下、利発そうに見開かれた瞳が悄然とした晴明を映している。

 使いで出てきたのか、胸に大きな包みを抱えていた。

 市の帰りらしい。

 晴明は保憲とさして歳が変わらぬ女人を見、肩からほっと力を抜いた。

「……なんだ、千夏か」

「人を化け物のように呼ばないで下さい。それにしてもどうなさったのですか? このようなところで。今はお務めの最中では?」

「どうでもいいだろう。さっさと行け」

 鬱陶しく思いながら手を振って、晴明はふたたび草の上へ腰を落とす。

 千夏はまぁ、と口を開けて失礼な青年を睨め付けた。

「相変わらず無愛想ですわね」

「お前に愛嬌を振りまいてどうなるってんだ。ほら、さっさと行けよ」

「まったく、母のいう通りですわ。これではよいお人もできぬというもの。いつまでもそんな風ではみなさんに嫌われますよ。師匠である忠行さまのやり方も疑われますし、もう少し人との接し方を――」

 年下である晴明に忠告するつもりなのか、説教口調の千夏を見上げて、狩衣姿の青年は口許にうっすらと笑みを浮かべる。

 それは冷たく嘲りを帯びていた。

「化け物の俺に説教とは実に物好きな女だな。それとも化け物であろうが形振りかまわず男の(しとね)に横たわりたいとでも思ってるのか? 生憎だが俺だって相手を選ぶぞ」

「……まぁ!」

 千夏は赤くなって晴明を睨み付けると、母親とそっくりな、せっかちな足取りで立ち去っていった。

 その後ろ姿が消えるのを見つめて、晴明はふたたび片膝を抱いて額を押し付ける。

 彼女の(のこ)()なのか、梅香が強く残っていた。

 思わず鼻をひくつかせた青年はぎょっとして顔を上げる。

 これはあの鬼魅が現れた時と同じ(かおり)

「……梅、だって?」

 この時、立派な牛車から降りた青年が晴明の前で足を止めた。

 顔を強張らせている晴明の顔を覗き込み、ゆるりと小首を傾げる。

 足を止めた彼は、己に近づく影に気がつき、思わず尻下がりで退いた晴明に向かって響きのよい声をかけた。

「安倍晴明さま……でしょうか?」

 晴明は訝りながら相手を見上げた。

 己と同じ年頃(としごろ)の、柔らかく整った容貌の青年だった。

 上等な直衣に身を包み、白く細い手に趣味のよい扇を持っている。

 晴明のことを案ずるように柳眉をひそめ、少しばかり腰を折っていた。

「――誰だ、お前は」

 敵意を剥き出しにした目にあっても、青年は少しもたじろがずにっこりと微笑んだ。

「やはり、晴明さまでしたか。突然に声をかけて申し訳ありません。わたしは大中臣(おおなかとみ)(ののう)(ぜん)と申します。忠行さまの邸宅に向かう途中なのですよ」

「お師さまなら今はいないぞ」

「いえ、すでに戻られたとの報を受けておりますゆえに」

「だったら独りで行けばいいだろ。すぐそこだ」

 晴明はのどの奥で唸るようにいうと、千夏を追い払った時のように手を振って顔を背けた。

 膝に頬杖をつきながら遠くを見上げる。

 だが能宣は立ち去らなかった。

 にこやかに笑って続ける。

「いえ、忠行さまだけではなく晴明さまにもお話したいことがあるのです。あと、ご子息の保憲さまにも。よろしければともに行きませんか?」

「俺はお前なんかに話はない」

 青年は手にした扇を顎に当てて、しばし晴明を見つめる。

「……失礼にならねばよいのですが、この一両日のうちに、鬼魅とお遭いになされましたね」

 晴明は黙って能宣を見上げる。今さらだが、名乗られた大中臣という名に聞き覚えがあった。

「晴明さまの気は鬼魅に当てられて少し影響を受けております。そう……、強いものではありませんけれど。あなたならこれくらいのことは関係がございませんね」

「……何がいいたいんだよ」

 能宣はにっこりと笑って身の前後を入れ替えると、牛車の牛追いに帰るよう、慇懃な言葉で命じる。

 付き添っていた家人は驚いたようだったが、柔らかく言い含められ、渋々とうなづき去っていった。

 能宣は改めて晴明を見る。

「忠行さまの邸宅までご一緒しましょう、晴明さま」

「…………」

 ゆるりと顔を上げ、晴明は目を細めて能宣を見つめる。

 確かに、こいつも俺と同じだ。

 化け物とはいわれなくとも、それに近しいものがある。

 お師さまが見れば、平生に生きられぬということだろう。だが――俺は、こいつが嫌いだ。

 じろじろと見られていることを知りつつ、能宣は涼しげな顔で空を仰いでいた。

 晴明がうなづくまで待つつもりらしい。

 日差しが昼間のものに変じていく。

 春とはいえ、今日の日差しはずいぶんときつい。

 木陰にいる晴明はともかく、道ばたに立った能宣はさぞ暑いことだろう。

 だがそんなそぶりは一つも見せず、青年は涼しげに佇んでいる。

「……わかった、行こう」

 晴明が立ち上がりながらいえば、能宣はまたもやにっこりと笑った。


   ◇


 陽の当たる濡れ縁に座って、陰陽道を奉じる者――陰陽(おんよう)()の息子は絶えぬ頭痛にこめかみを押さえていた。

 水は辛うじて飲めるが、形のあるものは吐き気がしてしまう。

 教えを請う弟弟子たちまでも遠ざけ、彼は濡れ縁で独り、命が胎動し始めた春先の庭を眺めやっていた。

 頭痛や吐き気ばかりではなく、晴明のことでも気が塞ぐ。

 保憲は長々とため息をついた。

「あれはやりすぎたな。しかし話をするにしても、あのことを話さねばならぬからな……、あとで書庫にでも顔を出すか。拗ねていなければいいが」

「保憲」

「あぁ……、父上。早かったですね」

 身の軽い忠行がいささか早足でやってくる。

 立ち上がろうとした息子を抑えて、その隣へ乱暴に腰を下ろした。

 忠行はあぐらを掻き、頬杖をついて庭を睨め付ける。

 その顔があまりに険しく厳しいので、保憲は訝って問いを向けた。

「どうかなさいましたか?」

「……どうやら、横やりが入ったらしくてな。神祇官が早々にわしを帰しおった。あの口ぶりからすると相当の圧力が掛かったようだ」

「神祇官に、ですか?」

「そうよ。昨日の怪異について説明させるつもりだったようだが、いきなり担当者が呼ばれて出て行ったかと思うと、すぐに人が来て放り出されたわ。陰陽寮に行こうかと思ったが、己の(やしき)に帰らねばならぬような気がしてな、こうやって戻ってきたわけよ」

「……誰か来ますか」

「そのようだ。神祇官の帰りの廊下で、大中臣(おおなかとみ)の家人を見たこともあるのだがな」

「大中臣家……ですか」

 保憲は思い出すそぶりで家名を繰り返した。

 彼は痛む頭を押さえて、春先の、ようやっと芽吹いたばかりの緑に目を流す。

 今年の春は、あたたかいが冷え込みは厳しい。

「古くから神事を掌握してきた、(かんなぎ)の血筋ですね。その名は古く、天孫(てんそん)と同じ時期の神を始祖とし、朝廷の祭祀に深くかかずらってきた家柄であり、中臣鎌足(なかとみのかまたり)さまより藤原氏(ふじわらうじ)と分かれた……。

「聞くところによれば、宇多上皇に厚遇された大中臣(おおなかとみの)頼基(よりもと)さまのご子息、大中臣(おおなかとみの)能宣(のうぜん)どのは実に優れたお告げ、託宣(たくせん)をなさるとか。陰陽寮では、能宣どのの噂は、すべて大中臣の血を誇張するためのでっち上げと思っているようですが……」

「でっち上げどころか、あれはとんだ猫被りかも知れぬぞ」

「そう思いますか」

「会うておらんので詳しいことはわからぬが……。噂によると、邸宅に籠もっていることが多いようだな」

(ちまた)には、御覧になりたくないものが多すぎるのでしょう」

 保憲の当惑した笑みを見て、忠行は取り出した扇を膝に叩きつけてため息を漏らす。

 その目が書庫のある方へ漂った。

「どちらにしろ……、晴明とは違うだろう。晴明は一歩間違えれば人に害なすものとなる。今のところはちゃんと人の(なり)をしておるが、やはり、お前のおかげだろうな」

 苦労をかけた息子に、老人は思わせぶりににやりと笑う。

 父の顔を見て保憲はちょっと苦く笑んだ。

 昔を思い出すよう、その瞳が遙か遠くに向けられる。

「……始めの頃は、蹴飛ばされたりと大変でしたがね。やはり寂しかったのでしょう。いきなり父親と離され、見知らぬこのようなところに置かれたのですから。それに、強すぎる力のため、恐れられたことはわたしにもあります。とくに子どもの時分は、自分が何を口にしているのかすらわかっていない」

 保憲はふと悲しげな顔つきになる。

「そういう時、いわれた一言が胸に残ったりもするのです」

「化け物め……、だったな」

「それをいったのは……、家人の誰かでしたかね。晴明は幼い時分から背が高く、五日も髪を切らなければ腰を越え、爪はたった一日で拳を作れぬほどに伸び――端から見れば、確かに人とは見えなかったかも知れません。今では(つね)(びと)と同じようになったとはいえ……、忘れられるものではないでしょう。現に、晴明は未だにその言葉を気にしているようです。あれ以来、力が弱まったとはいえ――、人の身が持つものではない」

 忠行が息子を労るよう、口許に優しげな笑みを浮かべた。

「それをお前は人として育てたのだ。立派なものだぞ」

「……晴明は人として生きたかったのだと思います。ですから彼は今でも人なのですよ」

 柔らかな声でそういって、保憲は面を伏せた。

 朝の一件、晴明が気にしていないはずがない。

 横柄な態度や口ぶりからは想像できぬほど、あの青年の心は繊細だ。

 たぶん……、己よりも。

 彼は父上、と切り出して真面目な声音で続ける。

「あのことを、そろそろ晴明にいわねばなりません」

「お前もそう思うか」

 忠行は厳しく唇を引いた。

「……そうだな、今が潮時だろう。お前の身が保つうちに、どうにかせんとならん」

 軽くかぶりを振って、保憲はその話題を遠ざける。

「何が起こるかわかりませんので、若菜を養父のところに戻しました。子も小さいので、心配ですから――」

 二人のもとにばたばたと廊下を走る音が届いた。

 口を閉じた保憲は、違和感のようなものを覚えて、門の方へ向ける。

 父親も同じ方を見ていた。

 家人が慌てて角を曲がって来る。

「忠行さま! お、お客人です!」

 ふわりと立ち上がって、老人は唇を引き締めた。

「……どうやら来たようだな」

「わたしも同席してかまいませんか?」

「そうだな、その方がよいだろう」

 陰陽道において賀茂家の地位を不動とした親子は、視線を合わせてゆるくうなづきあうと、素早くきびすを返して歩き出した。




 忠行は飄々おじさんです。

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