【 五 】
涼気をまとう風を面に受けながら、保憲は脇息に身を預け、目前に出された朝餉に当惑の目を当てていた。
御簾越しに外へ目を向ければ、昨晩の漆黒が嘘のように青い空と現れたばかりの陽がある。
しかし保憲は、気分が優れぬ上に食欲もなく、身がだるく動くことも辛かった。だがいつものように朝餉は出され、食べてくれ、という風に芳しい香りを発している。
保憲が朝餉と静かな睨み合いをしているところに、軽い足音とともに、一人の少女がやってきた。
彼女は保憲の私室をちらりと覗き、勝ち気そうな面に嬉しそうな笑みを浮かべた。
そっと御簾をくぐって中に入る。
「陰陽の君、どうかしたの?」
妻の声に、保憲は朝餉から目を離して顔を上げた。
利発そうに見開かれた瞳と、つんと尖った小鼻、ふっくらとした唇が愛らしい少女だった。
艶やかな黒髪が肩から袿の上に流れている。
とても一児を産んだとは思えぬ、少女らしさが細首などに滲み出ていた。
「若菜……」
保憲は疲れた笑みを浮かべた。
名を呼ばれた少女は夫の横に腰を下ろす。
着物に炊きこめた香がふわりと漂った。
「昨日、何かあったんでしょ。大丈夫なの?」
「わたしは生きているではないか。ちょっと、具合が悪いがね」
「……また、晴明が馬鹿なことをしたんでしょう。あの子、ちっとも落ち着かないんだから。ちゃんと叱らないと駄目よ。昨日も柱を蹴っ飛ばしていたわ。注意したのに、無視して」
怒りの籠もった妻の声に、保憲は思わず笑い出す。
「晴明はお前よりも年が上だぞ。あの子、はないだろう。晴明が聞いたら怒る」
「いいのよ。わたしに怒れるものなら怒ってみなさい。負けるものですか。怒鳴られたくらいでわたしが引き下がらないことくらい、晴明もわかっているはずよ」
「あまり苛めないでやってくれ。あれはあれで、心のうちは複雑なのだから」
「だからといって、人の夫に甘えて欲しくないわ。もう子どもではないのだから」
若菜が仏頂面で庭を睨み付ける。
敵意剥き出しの顔に、ちょっと困ったように笑って、保憲は朝餉を遠ざけた。
それを見咎めた若菜が素早く椀を取り上げる。
「食べないと駄目よ。昨晩も遅かったのでしょう?」
「……勘弁してくれ。吐き気がするんだ」
「一口だけでも、さぁ」
頼み込む顔で妻に急かされ、保憲は渋々と汁粥の入った椀と箸をとり、柔らかいそれを無理矢理、口中に流し込む。
噛むこともなく一息で飲み下すと、途端にひどい吐き気が込み上がり、力尽きて椀を下ろした。
それを見てさすがに若菜も顔をしかめる。
保憲の手から優しく椀と箸を取り上げると、丁寧に床へ下ろし、真正面から夫の顔を見つめる。
若菜の瞳は、いつも春先の空のように、麗しく澄んでいた。
「身体の調子が悪いの? それとも……わたしにはどうしようもできないことかしら」
「あぁ……、いつものあれだ。大丈夫、明日にはよくなっているから」
若菜は苛立ったようだが、口調だけは素知らぬ振りを装った。
「そう。それは仕方ないわね。これは片づけさせます。でも、保憲さま」
「なんだ?」
「晴明を一発、殴らせて下さい。思いっきり」
「……若菜」
「冗談よ」
若菜は決して納得していない顔を渡殿に向けた。
「真秋! 真秋、来てちょうだい!」
すぐに乳母の真秋がやってきた。
若菜は己も手伝いながら、手早く夫の朝餉を片づけさせる。
老婆はまったく手のつけられていない朝餉を見、保憲を責めるような目を作った。
「保憲さま、またこのように残されて――」
「いいのよ、真秋」
若菜が遮り、さりげなく夫の体調が悪いことを伝える。
「……身体がお弱いわけではないのに」
真秋はしばし青白い保憲の顔を眺めやって、心配そうな声で「お身体を大切に」との言葉を残し、朝餉を下げた。
老女とは思えぬしっかりとした足取りで去っていく。
真秋を見送り、若菜が立ち上がった。何気ない調子で訊ねる。
「厄介なことはまだ続くのかしら?」
「……そうだな」保憲は真顔を作り、ゆるりとうなづく。「たぶん、しばらくは続くだろう」
「じゃ、しばらく私は父のところに行きますわ。子も小さいし、何かあったら困るもの。あなたも……、本当に、気をつけてね」
「あぁ。すまない」
若菜は憂い顔を作り替えてにっこりと微笑む。
「父はきっと喜びますわ。孫が可愛くてしようがないみたいなの。わたしも父の喜ぶ顔を見るのが嬉しいから」
気にしないで、と少女は満面に笑みを浮かべ、夫に笑顔を見せながら去っていった。
見送った保憲は渋い顔で青空を睨み上げる。
胸に手を当てると、まだ胸焼けが残っていた。
大きなため息を零し、保憲は脇息を遠ざける。
烏帽子を放り出して結髪を解き、ごろりと畳の上に横たわった。
若菜の残り香が薄れていくにつれ、全身にじわりと疲れが広がっていく。
昨晩のうちに出仕は無理と言い置いてあり、籍を置く陰陽寮に憂いはなかった。
しかし、この様子では本日一杯、寝床にいなければならないようだった。
保憲は己の体調を鑑み、天井に向けた目を閉じる。
「……参ったな。段々とひどくなっていくばかりだ」
覚悟していたこととはいえ、これ以上の負担は身に厳しい。
だがそれを承知で引き受けたことだった。
今さら、止めるわけにもいかぬ。
保憲は細々と吐息する。
「……晴明に自覚が出てくれればいいのだが」
「保憲!」
いきなり名を呼ばれ、うつらうつらとしていた保憲は驚き、身を起こした。
しかし視界がぐるりと回って上体が定まらない。
手をついて身を支えた青年は、どうにか見えるようになった視界の中に、御簾をたくし上げ、両足を突っ張るようにして立つ晴明を見つけた。
何やらずいぶんと苛立っている。
「……朝から大声を出すな。聞こえている」
「お師さまはどこにいるんだ?」
「あぁ、父上か。神祇官に呼ばれて朝早くに出て行った。お前に伝言を残していったはずだが、聞かなかったか?」
神祇の祭祀を司る神祇官は内裏に強い力を持ち、京の怪異などを一括している。
予想はできるものの、思わぬ名が出てきて顔をしかめた晴明はぶっきらぼうに継いだ。
「伝言なんか知らんぞ」
「書庫の整頓を終えろということだった」
晴明は露骨に嫌そうな顔をした。
「……まだやれってのか?」
「終わっていないものはやるしかないだろう」
応じながら、胸焼けがひどくなるのを覚え、保憲は眉を寄せた。
「わかったよ……」
きびすを返しかけていた晴明が急に立ち止まる。
改めて保憲を見、ゆるりと目を細めると、彼が精彩を欠いていることを見出し、かすかに顔をしかめた。
それにいくら私室とはいえ、烏帽子を外して被髪するなど律儀者の保憲にしては珍しい。
「お前……、ずいぶんと具合が悪そうだな」
「そうか?」
空とぼけて、青年は姿勢を正す。
妻の残った香りを振り払うよう、単衣の袂を払った。
「寝足りないのだろう。陰陽寮には休みを申し出てあるから、もう少し寝るさ。そうすればすぐに良くなる」
「熱でもあるんじゃないのか? 昨日の今日だし……」
晴明は保憲の顔をよく見ようと畳に歩き寄り、膝を落とした。
ぎくりと身を強張らせる保憲に身を寄せる。
「ちゃんと朝餉は食べたのか?」
「もう真秋が下げた。お前も厨に行って来い。いつものようにたっぷり用意されているはずだ」
「……そりゃ、行くけどさ」
晴明は語を濁しつつ、昨晩のような疑心を覚えながら、幼い頃からともにいる兄弟子の顔をじっと見つめた。
保憲は目を伏せて、手許に向けている。
弟弟子は判然とせぬままそこに腰を下ろした。
「昨日の鬼魅について、何かお師さまから聞いたか?」
「……いいや。聞く前に出て行かれたからな」
「お師さまが俺たちに外出を禁じたのは、あれが来ることを知っていたからだというは聞いたか?」
保憲はゆるりとうなづいた。
「聞いた。父上はわたしたちの身を案じてなさったんだ。受難が見えたらしい」
「あの時、鬼魅は何かいってなかったか?」
「……よく覚えてはいない。何しろ急なことだったからな。書を置き、室から出ようとしていた時にいきなり、やってきたんだ。咒を唱えるよりも早く動きを封じられてしまった。修行不足だ」
「じゃ、たばかられたって言葉も聞いてないわけだ」
ぎこちなくうなづいた保憲の顔にはかすかな罪悪感。
これは嘘だなと見破って、晴明は問いを重ねる。
「あれは“人ならぬ身”を探していたんだ。始めは俺のところに来たが、すぐに違うとお前のところに行った。なんでかわかるか?」
保憲は考えるそぶりで視線を逃がし、やがて黒髪を揺らしながらかぶりを振る。
「よくわからん。何しろ、結界が破られた気配も感じ取れなかったからな」
「それは俺だって同じだ」
「……お前も気付かなかったのか?」
「あの鬼魅は、来た時は結界を破ってない。出て行った時に破ったんだ。それに、あれが来ることも俺にはわからなかった」
「わたしも同じだな。……先見は苦手ではないんだが、卜占の結果を読み違えたもかも知れない」
首を傾げ、怪訝そうに賀茂の青年はつぶやいた。
うなづいて晴明は相手の顔にひたりと目を当てる。
「一体どこから入り込んだのか知らないが、あれはかなり厄介なものだぞ。だから何なのか知りたいんだ。……お前、何か隠してるだろ」
押し殺した問いに保憲は口を噤む。
父親とよく似た仕草で片目を細め、御簾越しに外へ向けた。
その横顔には苦渋の色があり、しばしのちに漏れた言葉は苦悩に濡れていた。
「……口止めをされているのだ。許せ」
「許せって、俺だって関わってるんだ。お前だって、死にかけたんだ――」
晴明が腕を伸ばして肩を掴もうとした瞬間、保憲が単衣を揺らしてその手から逃れた。
立ち上がった身がすぐに揺れたのは目眩がしたためだろう。
だが晴明は支えることにまで気が回らなかった。突然のことに驚き、手を宙に浮かせたまま目を見開いて、言葉も止めた。
気まずい間が流れ、晴明はぱたりと手を膝に乗せる。
茫然とした眼差しを兄弟子に向けた。
「……保憲?」
「あ、いや……」
言いよどんで、保憲は渋面を作りながら青い己の顔を押さえる。
「すまないが出て行ってくれ。気分が優れん」
晴明は片膝を立てた。
「それなら、誰かを――」
「いいんだ。寝ていればどうにかなる」
彼らしくない強い語調で遮って保憲は褥の上に慎重な仕草で腰を下ろす。
それは具合が悪いというよりも、晴明との間を測っての動きだった。
あぐらを掻いた保憲は表情のない冷たい面を弟弟子に向ける。
「晴明、早く厨に行け。それから書庫の整頓をするんだ」
「……わかった」
内心ではかなり狼狽しながらも、晴明はいつもの滑らかな動作で立ち上がり、後ろに下がった。
きびすを返した彼の背をどしりと叩いたのは、保憲が吐いた、安堵とおぼしきため息だった。
晴明は足を引きずるようにして廊下を歩む。
己の身がいきなり、魔物に化けたような気がした。
真秋は苛立って足音も高く廊下を歩いていた。
というのも、いつもなら疾うの昔に起きて、腹がどうのといいながら厨に来るはずの晴明が、一向に姿を見せないからだった。
すでに朝餉の準備も整っているというのに、このままでは冷めてしまう、と厨人が訴えたのである。
晴明には様々な悪い噂があるためか、家人は声をかけたがらない。
そこで滅多に物怖じのしない真秋が忠言者に選ばれたのだった。
「晴明どの!」
叱責しつつ晴明の室に入った真秋は驚いた。
そこには誰の姿もない。
机上にはぐしゃぐしゃに丸められた紙があるばかり。
それから真秋は邸内を捜し回ったが、ついに晴明の姿を見出すことはできなかった。
保憲には秘密があります。