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梅を咲かすもの  作者: .a.w
第一章 菅原道真編
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【 四 】


「やはりここにいたか」

 声とともに角から師匠が現れ、あぐらを崩して空を見上げていた晴明は驚き、慌てて座り直そうとする。

 だが忠行は笑い、ふわりと弟子の隣に腰を下ろした。

 賀茂忠行の(やしき)の中で、晴明が好んで独りになったのは、こともあろうに師匠である忠行の私室の側にある簀子(すのこ)――濡れ縁だった。

 手すりもなく庭を見るのに適しており、夏場は実に涼しい。

 幼い頃から晴明は星が好きで、よく、独りで空を見上げていた。

 酒が飲めるようになってからは月見酒に変わったが、暇さえあれば庭で星を見ることは変わらなかった。

 忠行はぼんやりと庭を眺めた。

 雲が厚く空を覆って、月星の明かりも一つもない。風も生ぬるく、酒を飲む気にはなれない夜空だった。

 いつもは焚かぬ篝火が少しばかり眩しい。

 己の(やしき)に結界を施したばかりの陰陽博士は、見上げる瞳を細めて寂しげに漏らした。

「……今日は月も見えぬな」

「保憲はどうしました?」

「先ほどの鬼魅について調べるといってきかぬのでな、陰陽(おんよう)(りょう)に行かせた。あまり無茶のできる身ではないので、気を付けるようにいっておいたのだが……」

「どうして止めなかったんです。そのうちにぶっ倒れますよ」

 咎める晴明の言葉に師匠は苦笑する。

「あれが見た目以上の頑固者なのは知っているだろう。だから式神(しきがみ)をつけておいた。結界(けっかい)の張られている大内裏(だいだいり)の中にある陰陽寮だから、鬼魅に襲われることはないと思うが。あの結界を破ることができるのは相当の鬼魅ではないと無理だろうからな。まぁ、今度のはいささか勝手が違うが」

 いきなり晴明が片膝を立てて座り直し、横に座る老人を睨め付けた。

 低く怒気の籠もった声で、問いではなく確信でもって口にする。

「……あれの正体、知っているのですね」

 (ひょう)々(ひょう)と老人が笑った。

「左様。知らぬとはいってないぞ」

「聞かれなきゃ、答えるつもりはなかったでしょう」

「さて、どうかな。この数日、お前と保憲を陰陽寮に行かせず、外出を禁じたのはあれが関わっていたのよ。わしとて我が子に害が及べば考えもする。お前も危うかったであろう? 余所者ならばともかく、お前にはいつか話さねばならんとは思うておるさ」

「……いつか、ということは今ではないんですか」

 晴明の問いは怒りが強い。

 しばし黙っていた忠行は、ようやく口を開いたが、その唇から零れたのは悠長な響きで、酒が欲しいなぁとの言葉だった。

 我慢も限界に達し、拳で床板を打った晴明が勢いよく立ち上がる。

 あぐらを掻いた老人にあらん限りの怒声をぶつけた。

「俺ではなく保憲が危ないんだぞ! なぜ説明も何もしないんだ!」

「……黙れ。誰か来るだろう」

「これが黙っていられ――」

「黙らないか!」

 全身を打った凄まじい気迫にさすがの晴明も呑まれ、声を失う。

 忠行は片目だけを細めて闇に没した庭の一点を見つめ、静かな声音で続けた。

「わしはお前と保憲を分けて考えたことはない。晴明よ、お前はとても大切なわしの弟子だ。保憲も同じよ。確かに保憲はわしの息子であるが、才があると見ねば弟子になどせんからな。その点ではお前も保憲も同じなのだ」

 晴明は眦を下げた。

「なら、なぜ……」

「いずれにも、潮時というものがある。とくにお前は――」

 不意に口を噤んだ忠行が素早く立ち上がった。

 暗く淀んだ空を睨め付ける。

「どうやら、保憲が倒れたようだな……」

「保憲が!?」

「晴明、待て!」

 走り出そうとする晴明の袂を掴んで引き留めた忠行は、(やしき)の門の方へと目を向ける。

「……安心しろ。少しよろめいただけのことよ。すぐに戻ってくるだろう」

「本当なんですか……?」

「師匠を疑うでない」

 笑って、忠行は廊下を歩き出す。

「さて……と、(くりや)にでも顔を出してくるか。何か精のつくものでも食べさせてやらぬとな。気の失われた身体であれほど動き回ったのだ、しばらくは寝床から立ち上がれまい」

「……迎えをやらなくていいんですか?」

 追いすがってくる青年を振り返って、老人はひらりと手を泳がせる。

「必要ない。お前も疲れているだろう、早う寝ろ」

「いや、俺は――」

()く寝るのだ」

 忠行の物言いは強いることを目的とするかのように、実に厳しかった。

 晴明は腑に落ちぬものを感じてゆるりと足を止める。

 見送る師の背中に目を定め、人に見ぬものを見通す青年は赤い唇をきつく引き締めた。

 どのような言葉でどんな顔で表現すればいいかわからなかったが、晴明は不安と暗い疑心に捕らわれていた。

 忠行は平生、飄然として隠し事はなく、先ほどの言葉の通り、弟子と我が子を分けることもしない公平な老人だった。

 だからこそ、あのような態度をとられると困惑する。

 そして腹立たしくなる。

「くそ、何がどうなってるんだ」

 苛立たしげに吐き出して、晴明は険しい顔で歩き出す。

 袖で顔を隠した鬼魅のことが頭から離れない。

 あの鬼魅はたばかられたといっていた。始めに己を狙い、次に保憲のもとに現れて、それでも欺かれた、と。

 人ならぬ身、それは間違いなく己のことだろう。

 だが鬼魅は己ではない、違うといった。一体何が違っていたのか? 人ならぬ身を探して、それが見つからなかったということか?

 いや、自分はあの場にいた。

 身に隠遁(いんとん)の術を施してもいなかった。

 では、違うといった鬼魅が保憲のもとへ行った由はどうなる?

 頭の中でぐるぐると疑問が回り、ぐるりと巡った。

 だが答えを出せるほどの鍵を晴明は持たない。

 考えれば考えるほど、ただただ苛立ちばかりが募っていく。

「――畜生っ」

 舌打ちした晴明は、近くの柱を思いっきり蹴飛ばす。

「止めなさい!」

 不意に咎める声が掛かって、晴明は驚いて振り返った。

 渡殿の半ばに佇み、凛と背筋を伸ばした少女が晴明を睨み付けている。

「柱は蹴るものではありません。晴明、乱暴は駄目です」

「……うるさいな。黙ってろよ」

 鋭い目で睨み付けられても、少女はたじろがなかった。

 それどころか小さな身で威圧するよう、ばさりと(うちぎ)の前を合わせ直す。暗がりでも彼女の彼女の瞳は強い輝きを放っていた。

「いいえ、黙らないわ。あなたを諫める人が多いのに、どうしてあなたってば()(まま)で乱暴なのかしら。……それではいつまでたっても、人と普通に話をすることなど、できませんよ」

 少女の口調は責めるものから宥めるものになる。

 だが晴明は苛立ちを瞳に現し、彼女を思いっきり睨め付けると、足音高く己の室に戻っていった。

 その背が闇に紛れる。

 ふっくらとした唇に手を当て、少女は愛らしい顔をしかめた。

「まったく、どうしようもない子だわ」




 忠行さんは、喰えぬじいさん。

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