【 三 】
三
幼き安倍晴明の才が知れたのは、彼が賀茂忠行の牛車に従っていた時のことであった。
晴明はこの時、京を覆う夜の闇を眺めやっていたが、その中に浮かび上がる奇妙なものを見た。
それは鬼魅であり、まさに百鬼夜行であった。
まだ幼い晴明はきょとんとして立ち尽くす。
鬼はのろのろと進む牛車を見て舌なめずりをする。それ獲物だ獲物だと騒ぎ、けたけたと笑いながら迫ってくる。
あやかしと鬼、九十九神は行く手を阻むよう道一杯に広がった。
晴明は茫然としていたが、不意に背筋を這い上った恐怖に突き動かされ、忠行の乗る牛車の簾を跳ね上げた。
「お師さま! お師さま!」
これを聞いた忠行は淡い眠りから覚めた。
外を見、百鬼夜行を見つけ、目を瞠る。
慌てて口の中で呪を唱えてやり過ごす。
鬼やあやかしは、人の気配が、牛の匂いが、などと騒ぎながらも忠行の一行を見つけること叶わず、人ならぬ恐ろしげな声を上げて去っていった。
晴明はほっとため息をつく。しかしあれが何かわからぬのか、首を捻って考えているようだった。
その童を見下ろし、忠行はやはりか、と内心で吐息する。
「晴明」
名を呼べば、童は相も変わらず皮肉っぽい、どこか超然とした目で見上げてくる。
忠行は悲しげにそっと笑いかけた。
「お前はやはり、平生には生きられぬな……」
言葉がわからず、目を瞬かせる晴明。
苦笑した忠行は、心のうちで、彼に陰陽の術を教えるべきだなと思いながら、牛をいらう家人に先を進むよう促した。
◇
「――っ!」
晴明は叩きつけた書から埃が舞い上がり、鋭く舌打ちして吐息した途端、埃を呑み込んで軽く咳き込んだ。
薄暗い書庫は棚に置かれた数多くの本のせいでかびくさい。
どこか重々しい空気も含んで、ずきりとこめかみが痛む。
青年は苛立って舌打ちした。
「くそ、やっぱり素直にやるんじゃなかった。……保憲にでも手伝わせてやるかな。保憲にやらせたら取り巻きの連中も手伝うだろうし、上手く抜け出せば、」
――ここぞ、ここぞ、人ならぬ身はここぞ
「!」
不意に届いた人ならぬ声に反応し、彼はざっと片足を引いて身構えた。
人に見えぬものを見通す目を細め、ちりちりと逆立つ首筋に奥歯を噛みながら声の主を捜す。
彼は息を呑んだ。
書庫の奥まった場所、そして薄闇の中、ぬめった光をまとった鬼魅がぼやりと浮かび上がる。
一人の、男だった。
立派な濃紫を基調とした黒い袍、ぞわぞわと鬼気がまとわりつき、ぬらりと蠢く。
袖で顔を隠しているために誰かはわからぬが、包から出た青白い手が死を帯びていた。しんなりとしたその手は艶やかな扇を握っている。何か清爽な香りが鼻をつく。
鬼、化け物、人外なるもの。
ありとあらゆる蔭がまとわりついた影だった。
多くの鬼魅を見てきた晴明ですらも背筋が凍る不気味さだった。対峙するだけで足が震え、だが惹きつけられる。
己の根本が揺らぐのを感じ、恐怖に捕らわれかけた時、彼の中で生来の負けず嫌いが頭をもたげた。
「なんだ、貴様は……!」
叫びかけた晴明の前でそれが動いた。
ぞろりと身をよじる。
――違うぞ、これは違う
暗い囁きが鼓膜を震わせ、びょうと風が吹いた。
それは急に飛び上がって妻戸に向かう。轟音が湧き起こり、追った視線に白い光が混じる。
半ば閉じていた書庫の扉が弾け飛んだ。
「逃がすか!」
駆ける晴明の耳に悲鳴。庭に飛び出した晴明は腰を抜かした少年を見た。牛飼いの子か。
恐怖に青ざめた子は震える指であらぬ方を指さしている。
「どうした!」
晴明はその子の肩を強い力で掴んだ。少年は怯えて晴明の袖にしがみつき、おののきに掠れた声でようやく口にする。
「や、保憲さまが……!」
「こののろまが! 早く誰かを呼べ!」
晴明は役立たずに怒声を叩きつけ、縋り付く少年を振り払って跳躍する。
手すりを乗り越え、廊下にひらりと舞い降りた。
幾度も歩いた廊下を疾駆する青年は、また首筋がぞわりと粟立つのを覚えた。
目当ての室に飛び込む。
「保憲!」
「来るな……!」
叫んだ保憲は床に這っていた。
身が思うように動かぬのか、四つん這いになって立ち上がろうと足掻いている。
青ざめた顔から滴る汗。
何に身を苛まれているのか苦しげに胸を掻きむしった。
「……早く、逃げ、ろ」
途切れながらも案じる声が痛々しい。
その保憲の傍らに浮かび、鬼魅はまた包で顔を隠していた。
だが扇を握った手が先ほどよりも強く握りしめられている。
悲哀に満ちた囁きが強く室の中を掻き回した。
――おうおう、悲しきかな悲しきかな。たばかられたわ
晴明は間髪入れずに懐の符を放った。
「砕破!」
呪の籠もった声にその者はかすかに身を揺らがせた。ぱしりと宙を駆けたのは雷光か。だが手応えはなくその姿が薄れもしない。
舌打ちした晴明は声に咒――言霊を込めて叫んだ。
「急急如律令!」
空を裂いた疾風が過たず鬼魅を討った。風に揺らいだ像が一瞬で力を失い薄れていく。
風から顔を庇い、腕を振り下ろした晴明は険しい目で空を睨んだ。
己の力によるものではなかった。
ただ、面倒を嫌がって逃げた。そのように見えた。
「……っ!」
強烈な力から解放された保憲が激しく肩で息をする。
晴明は我に返った。
駆け寄ってその肩を掴む。
びくりと震え、じっとりと熱の籠もった身が熱い。
「大丈夫か!?」
「……なぜ、逃げなかった」
「兄弟子を見捨てて逃げる弟弟子なんかいるかよ!」
「こういう時だけ、兄弟子というのだから……」
苦く笑った保憲がひときわ大きく喘いで吐息する。
光の届かぬ室の中とはいえ、その顔色はあまりに青白く、膝が震えているようだった。
晴明の袂を掴んだ手にも力がない。
だが保憲は、抜けそうになる膝に手を置き、無理にも立ち上がろうとする。
「おい、止せって。動かない方がいい」
「そうも……いかぬ、さ。皆が不安がる」
蚊の鳴くような声でつぶやいた保憲は、案じながらも困っている晴明に青ざめた顔で笑いかけ、力をふりしぼって立ち上がった。
その頃になってようやっと、家中にいた、忠行の私的な弟子たちが集まってきた。
呪力はあるが、中途半端な輩で晴明には見たくない顔ばかりだった。
集まるばかりで、何もできない連中を睨め付け、苛立った晴明は大声で命じた。
「お前らに何ができる! さっさとお師さまを呼んでこい!」
晴明から「取り巻き連中」と蔑まれている彼らは明らかにたじろいだ。
しかし晴明の言葉であるためかすぐには動かない。
その鈍さに苛立ち、さらに声を張り上げようとした晴明を、彼の前に出た保憲がそっと抑える。
「……彼のいう通りだ。父上を呼んでおくれ。だが、平生と変わらぬ風にな」
すぐにきびすを返し、幾人かが慌ただしく駆けていく。
その彼らに問いかけたのは家人だった。こちらは厨女や厨人、また牛追いなどで、騒ぎに何事かと不思議な顔をしていた。晴明が怒鳴りつけた少年は、父親らしい男の後ろで身を震わせている。
額の汗を拭った陰陽博士の息子は、己の身を案ずるものたちを安心させると、先ほどの苦しみなど欠片も見せずに素早く指示を出していく。
のちに晴明の師匠となる保憲の手際は鮮やかで、まだまだ若すぎる晴明には、とても真似のできないものだった。
騒ぎの隙間を狙って室を抜け出した晴明は、濡れ縁に立って、ぼんやりと庭の梅を眺めやった。
ようやく話が動いた…っ
ここからが、始まりです。