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梅を咲かすもの  作者: .a.w
第一章 菅原道真編
4/31

【 三 】

   三


 幼き安倍晴明の才が知れたのは、彼が賀茂忠行の牛車に従っていた時のことであった。

 晴明はこの時、(みやこ)を覆う夜の闇を眺めやっていたが、その中に浮かび上がる奇妙なものを見た。

 それは鬼魅であり、まさに百鬼夜行(ひゃっきやこう)であった。

 まだ幼い晴明はきょとんとして立ち尽くす。

 鬼はのろのろと進む牛車を見て舌なめずりをする。それ獲物だ獲物だと騒ぎ、けたけたと笑いながら迫ってくる。

 あやかしと鬼、九十九神(つくもがみ)は行く手を阻むよう道一杯に広がった。

 晴明は茫然としていたが、不意に背筋を這い上った恐怖に突き動かされ、忠行の乗る牛車の(すだれ)を跳ね上げた。

「お師さま! お師さま!」

 これを聞いた忠行は淡い眠りから覚めた。

 外を見、百鬼夜行を見つけ、目を(みは)る。

 慌てて口の中で(しゅ)を唱えてやり過ごす。

 鬼やあやかしは、人の気配が、牛の匂いが、などと騒ぎながらも忠行の一行を見つけること叶わず、人ならぬ恐ろしげな声を上げて去っていった。

 晴明はほっとため息をつく。しかしあれが何かわからぬのか、首を捻って考えているようだった。

 その童を見下ろし、忠行はやはりか、と内心で吐息(といき)する。

「晴明」

 名を呼べば、童は相も変わらず皮肉っぽい、どこか超然とした目で見上げてくる。

 忠行は悲しげにそっと笑いかけた。

「お前はやはり、平生には生きられぬな……」

 言葉がわからず、目を瞬かせる晴明。

 苦笑した忠行は、心のうちで、彼に陰陽の術を教えるべきだなと思いながら、牛をいらう家人に先を進むよう促した。



    ◇



「――っ!」

 晴明は叩きつけた書から埃が舞い上がり、鋭く舌打ちして吐息した途端、埃を呑み込んで軽く咳き込んだ。

 薄暗い書庫は棚に置かれた数多くの本のせいでかびくさい。

 どこか重々しい空気も含んで、ずきりとこめかみが痛む。

 青年は苛立って舌打ちした。

「くそ、やっぱり素直にやるんじゃなかった。……保憲にでも手伝わせてやるかな。保憲にやらせたら取り巻きの連中も手伝うだろうし、上手く抜け出せば、」


 ――ここぞ、ここぞ、人ならぬ身はここぞ


「!」

 不意に届いた人ならぬ声に反応し、彼はざっと片足を引いて身構えた。

 人に見えぬものを見通す目を細め、ちりちりと逆立つ首筋に奥歯を噛みながら声の主を捜す。

 彼は息を呑んだ。

 書庫の奥まった場所、そして薄闇の中、ぬめった光をまとった鬼魅がぼやりと浮かび上がる。

 一人の、男だった。

 立派な濃紫を基調とした黒い(ほう)、ぞわぞわと鬼気がまとわりつき、ぬらりと(うごめ)く。

 袖で顔を隠しているために誰かはわからぬが、包から出た青白い手が死を帯びていた。しんなりとしたその手は艶やかな扇を握っている。何か清爽な香りが鼻をつく。

 鬼、化け物、人外なるもの。

 ありとあらゆる蔭がまとわりついた影だった。

 多くの鬼魅を見てきた晴明ですらも背筋が凍る不気味さだった。対峙するだけで足が震え、だが惹きつけられる。

 己の根本が揺らぐのを感じ、恐怖に捕らわれかけた時、彼の中で生来の負けず嫌いが頭をもたげた。

「なんだ、貴様は……!」

 叫びかけた晴明の前でそれが動いた。

 ぞろりと身をよじる。


 ――違うぞ、これは違う


 暗い囁きが鼓膜を震わせ、びょうと風が吹いた。

 それは急に飛び上がって妻戸に向かう。轟音が湧き起こり、追った視線に白い光が混じる。

 半ば閉じていた書庫の扉が弾け飛んだ。

「逃がすか!」

 駆ける晴明の耳に悲鳴。庭に飛び出した晴明は腰を抜かした少年を見た。牛飼いの子か。

 恐怖に青ざめた子は震える指であらぬ方を指さしている。

「どうした!」

 晴明はその子の肩を強い力で掴んだ。少年は怯えて晴明の袖にしがみつき、おののきに掠れた声でようやく口にする。

「や、保憲さまが……!」

「こののろまが! 早く誰かを呼べ!」

 晴明は役立たずに怒声を叩きつけ、(すが)り付く少年を振り払って跳躍する。

 手すりを乗り越え、廊下にひらりと舞い降りた。

 幾度も歩いた廊下を疾駆する青年は、また首筋がぞわりと粟立つのを覚えた。

 目当ての室に飛び込む。

「保憲!」

「来るな……!」

 叫んだ保憲は床に這っていた。

 身が思うように動かぬのか、四つん這いになって立ち上がろうと足掻いている。

 青ざめた顔から滴る汗。

 何に身を苛まれているのか苦しげに胸を掻きむしった。

「……早く、逃げ、ろ」

 途切れながらも案じる声が痛々しい。

 その保憲の傍らに浮かび、鬼魅はまた包で顔を隠していた。

 だが扇を握った手が先ほどよりも強く握りしめられている。

 悲哀に満ちた囁きが強く室の中を掻き回した。


 ――おうおう、悲しきかな悲しきかな。たばかられたわ


 晴明は間髪入れずに懐の符を放った。

砕破(さいは)!」

 (しゅ)の籠もった声にその者はかすかに身を揺らがせた。ぱしりと宙を駆けたのは雷光か。だが手応えはなくその姿が薄れもしない。

 舌打ちした晴明は声に(しゅ)――言霊(ことだま)を込めて叫んだ。

(きゅう)(きゅう)(にょ)律令(りつりょう)!」

 空を裂いた疾風が過たず鬼魅を討った。風に揺らいだ像が一瞬で力を失い薄れていく。

 風から顔を庇い、腕を振り下ろした晴明は険しい目で空を睨んだ。

 己の力によるものではなかった。

 ただ、面倒を嫌がって逃げた。そのように見えた。

「……っ!」

 強烈な力から解放された保憲が激しく肩で息をする。

 晴明は我に返った。

 駆け寄ってその肩を掴む。

 びくりと震え、じっとりと熱の籠もった身が熱い。

「大丈夫か!?」

「……なぜ、逃げなかった」

「兄弟子を見捨てて逃げる弟弟子なんかいるかよ!」

「こういう時だけ、兄弟子というのだから……」

 苦く笑った保憲がひときわ大きく喘いで吐息する。

 光の届かぬ室の中とはいえ、その顔色はあまりに青白く、膝が震えているようだった。

 晴明の袂を掴んだ手にも力がない。

 だが保憲は、抜けそうになる膝に手を置き、無理にも立ち上がろうとする。

「おい、止せって。動かない方がいい」

「そうも……いかぬ、さ。皆が不安がる」

 蚊の鳴くような声でつぶやいた保憲は、案じながらも困っている晴明に青ざめた顔で笑いかけ、力をふりしぼって立ち上がった。

 その頃になってようやっと、家中にいた、忠行の私的な弟子たちが集まってきた。

 (じゅ)(りょく)はあるが、中途半端な輩で晴明には見たくない顔ばかりだった。

 集まるばかりで、何もできない連中を睨め付け、苛立った晴明は大声で命じた。

「お前らに何ができる! さっさとお師さまを呼んでこい!」

 晴明から「取り巻き連中」と蔑まれている彼らは明らかにたじろいだ。

 しかし晴明の言葉であるためかすぐには動かない。

 その鈍さに苛立ち、さらに声を張り上げようとした晴明を、彼の前に出た保憲がそっと抑える。

「……彼のいう通りだ。父上を呼んでおくれ。だが、平生と変わらぬ風にな」

 すぐにきびすを返し、幾人かが慌ただしく駆けていく。

 その彼らに問いかけたのは家人だった。こちらは厨女(くりやめ)厨人(くりやびと)、また牛追いなどで、騒ぎに何事かと不思議な顔をしていた。晴明が怒鳴りつけた少年は、父親らしい男の後ろで身を震わせている。

 額の汗を拭った陰陽博士の息子は、己の身を案ずるものたちを安心させると、先ほどの苦しみなど欠片も見せずに素早く指示を出していく。

 のちに晴明の師匠となる保憲の手際は鮮やかで、まだまだ若すぎる晴明には、とても真似のできないものだった。

 騒ぎの隙間を狙って室を抜け出した晴明は、濡れ縁に立って、ぼんやりと庭の梅を眺めやった。



 ようやく話が動いた…っ


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