【 五 】
暦生の保憲は、計算に用いる算木の傍らに六壬式盤を置き、その占いの道具を指先で遊ばせながら、思いつくままに口中で小さなつぶやきを重ねていた。
「京の外……、北野。内裏の北の野、七つの野の一つ……。承和(八三六)に天神地祀を祀り、遣唐使の海路平安を願った地、元慶年間には藤原基経さまが雷神を祀り……、平安遷都以前は葛野秦氏の地であって、古くから祭祀が行われていた。また、葛野は賀茂の縁の地であって、賀茂神社がある……」
その瞳は壁に映った己の影をじっと見つめている。
背後を誰かが通るか、夜気が風に変わるたび、黒い影はゆらりと揺れた。
「北野、つまりは北。北の名をいただいた地……北とは冷たい存在、陰の漂う方角であり、冷たい存在の水気。また北は冬、冬は陰気が極まる季節。五行の水の五色は黒。つまりは暗黒。ものの生命が妊まれて、萌す暗黒の胎内……。陽気の春へと繋がるもの。冬はすなわち冬至。冬至から夏至、すなわち極まった陰がわずかな陽を帯びている時――」
「保憲さま」
名を呼ばれ、はっと顔を上げた彼は背後に面を向けた。
灯火の縁に見慣れた人影が佇んでいる。
「彰行、まだ帰っていなかったのか?」
「はい。お師さまがお呼びです」
「父上も残っていたのか。……あぁ、わかった。わざわざすまない」
保憲は腰を上げた。
しかしその瞳は相も変わらず茫洋としており、深い考え事に気を捕らわれている。彼は彰行の後ろに従って、父が勤務する室に入った。
灯火の明かりが、壁に揺られる老人の影をぼんやりと映している。
忠行は文台に向かっていたが、彼の周囲には書巻と紙の束が山と積み上げられていた。
「父上、お呼びでしょうか」
「……そのあたりに座れ。よくない話だ」
保憲は父の前に腰を下ろした。
「何かあったのですか?」
「わしの父上は知ってるな」
「江人さま、……ですね。幾度か伺っています」
「父上は京を出て二度とこの地を踏まなかった。いつどこで死んだのかもわからん。だが、変わりものの名に恥じず、わしに面白いものを残していったようだ」
「……一体、何を残されたのですか?」
「式神だ。自分の骨を使った、な」
思わぬ言葉に子は愕然とした。
「己の骨を……?」
「ほとんど邪法よ。最後の最後で気が狂うたのか、何か思うところがあったのかどうかは知れんが、その式神がわしのところへつい先ほど来たのだ。幼い頃のわしそっくりの顔で、式神はこういいおった。
「“望月が欠けて久しく、残月は京にて輝く。山界は真に封ぜられず。陰山より訪れしものが禍をもたらさん”。……この意味はわかるな?」
うなづいた保憲は、青ざめた顔をゆるりと伏せた。
手に爪を立てる。
「やはり、江人さまが京を出られたのはそのためだったのですか。父上を養子に出してまで、あの呪術を用いる呪術者の根絶を……」
「なぜ父がそのような役目を自ずから背負ったのかはわからぬ。だが、この言葉の意味するところ、無視することはできん」
「害はどこまで及びましょうか」
闇に目を向けて、賀茂家の主は苦く唇を歪めた。
「本来ならば、この呪術は賀茂が継ぐべきものではない。陰陽寮で継承されていくべきだ。しかし、賀茂は賀茂役君――役行者が出たこともあって長らく関わらざるを得なくなった。よきにしろ悪きにしろ、な。
「父がどのような思いでこの呪術を滅しようとしたのかはわからぬ。無論のこと、わしとて、父の意志を継ごうとは思うた。だが……、やはり、捨てられぬ。父上には悪いが、失うには惜しい呪術よ」
保憲はゆっくりと顔を上げて、父を見つめた。
確認するよう訊ねる。
「やはり、あのお言葉は本気なのですね」
「陰陽道を選ばざるを得なかったお前と同じ思いを、生まれたばかりの子に背負わせるのはあまりに酷だろう。しかし……、呪術は伝えられていくべきものぞ。秘されて闇に埋もれてしまえば、二度と戻ってはこぬ」
「ゆえに、童の名を保遠と名付けるおつもりなのですね」
忠行は微苦笑を浮かべた。
「たとえ遠くにあっても、わしの子だ。それだけは確かなのだ。そしてお前の弟。離れた地にそれぞれあろうが、思うものがいることを心に刻んで欲しいのだよ」
「……わかります」
子の言葉に鷹揚とうなづいて、忠行は声を低めた。
「京で怪異が起こるやも知れぬ。陰陽頭にはわしの方から申し出ておこう。とはいえ、標的となるのは我ら賀茂家であろう。いくら呪術の秘を守るためとはいえ、父は、多くの呪術者を手にかけただろうからな」
つと保憲は目を伏せた。
しばし考えるそぶりで床板を見つめ、眉をひそめる。
「では我らの身近なものたちには――」
「お前の式神をつけてくれんか。わしでは血が近すぎる」
「……わたしの式神はあまり、役に立つとは思えませんが」
保憲は困ったように笑い、うなづく。
「お望みとあればやります。……晴明にやらせれば、確実なのですがね」
「それは無理だろう。賀茂以外に口外できぬからな」
「はい、わかっております。……しかし、晴明がわたしに江人さまのことをお訊ねになりました。あの日は良源さまとお会いになっていたので、何かをお聞きになったのかも知れません。……比叡山には、験者も多くいますので」
真顔の子に目を見やって、忠行はゆるりと顎を撫でた。
「たとえ話すとしても、時期を読まねばな。……修行したとはいえ、あの直情的なたちでは何をするかわからん」
老人はちょっと笑う。
「お前も難儀な弟を持ったな」
保憲は口許にほのかな笑みを浮かべる。
「……それでは、失礼いたします」
「少しは休めよ」
保憲は頭を下げて立ち上がると、彰行に声をかけて、廊下を軽い足取りで去っていった。
見送って、父は小難しい顔で腕を組む。ゆらりと揺れる明かりが、その年老いた顔を浮かび上がらせた。
「晴明が呼び込んだのでなければいいが……」
◇
梅花に梅香。
空は紅梅の色に染まっていた。
息が詰まるほどの梅の香り。
降り注ぐ梅の花弁を見上げて、晴明はゆるりと目を細めた。
久方ぶりの梅の夢。那智に赴いて以来、一度も見なかった夢だ。梅が咲かぬのが京だからなのか。いや、京がこの夢の一端を担っているからだ……。
腕を組み、それらを眺めていた彼は、不意にぎくりと肩を揺らした。
梅花の中、土師道敏が牙を剥いて笑っていた。
血に濡れた角がぬらぬらと光る。
顔も隠さず、鬼となりつつある人は梅花の雨下にいた。
束帯の裾が風に揺れる。鬼は舞うよう、梅花と戯れながらけたけたと笑った。その所作で地に落ちた梅花がふたたび舞い上がる。
土師道敏はふわりと背を向ける。その腕がつと、何かを掴んだらしかった。身をかがめ、膝をつき、何かを抱え込んで何かを貪り喰らう――。
晴明の両足はぴくりとも動かない。
梅花が身にまとわりつく。
やがて、土師道敏が振り返った。
赤く濡れた唇を不自然なほどに白い手で拭い、牙を剥き、にたりと笑む。見慣れた直衣で己の手を血を拭っていた。
晴明ののどの奥に一つの名前が張り付く。ひりつく胸を押さえ、彼は不安に両目を見開いた。
まさか、今、喰われているのは……。
ひときわ高い笑声を上げて、土師道敏が振り返りざま、膝元から爪の長い指でぬめった赤いものを引きずり出す。ぬめった腸。激しく血が飛び散って梅花に混じり合った。
束帯の裾が風に翻り、贄の顔が顕わとなる。
晴明は大きく肩を揺らした。
土師道敏の膝の上、そこに力のない身を横たえているのは。
「やす、の、り……、保憲!」
近づこうと足掻くが、身は思い通りにならず、ぎりりと奥歯を噛みしめた。胸の鼓動が激しく脈打つ。
けたけた、けたけた。
笑って、土師道敏は骸を投げ出し、ぬらりとした所作で立ち上がった。
始めて現れた時のようにゆっくりと束帯の袂で顔を隠す。
そして、次に袂から覗いた顔は。
兄弟子のものだった。
見慣れた顔に見知らぬ笑みが浮いていた。
酷薄な笑みに口端をきゅっと引き締め、鬼は意味ありげな流し目を晴明に向けると、つと顔を背けた。
「――――」
晴明は唖然と目を見開く。
身動ぎすらできぬ彼の前で、保憲の顔をした土師道敏はふわりと身を翻した。滑るような足取りで降り注ぐ梅花の彼方に消えていく。
その姿が失せ、ようやっと呪縛が解けた。
晴明は急ぎ駆け寄って、食い荒らされた兄弟子の身を抱き上げる。
血の気の失せた顔にも点々と血痕が飛び散っていた。
胸が痛み、呼吸すらできぬ悲しみの中、晴明は保憲の身をきつく抱き締める。
「……まだ、終わっていない、ってことかよ」
万物流転の梅の守りがあっても、梅と彼の死は時を同じくし、変わらぬというか。
梅の香が風に流れて消えていく。
優雅にひらりひらりと舞う梅花が、本当の血のように、抱える骸の上に降り注いだ――。
「!」
声にならぬ悲鳴を上げて晴明は飛び起きた。単を握りしめる手にぽつりと、顎から伝わった汗が落ちた。顔の汗を拭い、青年はゆっくりと肩から力を抜く。
すでに夜が白んでいた。
晴明は茫然としながら薄い藍色の空に目を向け、ゆるゆると息を吐く。ふるりと身が震えた。夜気の名残りが冷ややかにそよいだのだ。
「くそ……、なんて夢だ」
晴明は乾いた声でつぶやき、そっと目を閉じた。
兄弟子は相も変わらず陰陽寮にいるのか、式神は昨日、放った場所から動いていないようだった。
帰ってきてからというもの、保憲とじっくり話をしたのは当日だけで、以降はすれ違いばかりだった。藤原一門に関して、少し腹が立ったこともあるのだが……。
しかし、見る限りでは保憲に死相は出ていない。京を離れていた三年の間も、時折、式神を飛ばして様子を窺っていたが――二度ばかり勘付かれて捕らえられそうになったが――死相はなかった。
もっと先の出来事なのだろうか……?
それにしてもなんと、意味ありげな夢なのか。
晴明は単衣を肩に引っかけ、褥から起きあがった。
重ね着しながら廊下に出て咲かぬ梅の木を眺めやる。
「……一度、ちゃんと話し合わないとな」
晴明は小さくつぶやいた。
あの兄弟子は意地でも認めないだろうが、無理な呪詛は寿命にすら影響を及ぼすはずだった。
保憲には早く呪詛を止めてもらいたい。
けれど、願いとは裏腹に、己の力は一向に安定しなかった。三年にも及ぶ修行の末でも、未だに力を御することができない――。
晴明は苦しげに眉を寄せた。思わず目を閉じると、先ほどの夢が蘇ってくる。
梅花の中で飛び散った血。
兄弟子の腹を無惨に引き裂いて見せた、怨みの鬼……。
奥歯を強く噛んだ。
「怨みのために、鬼となった男、か……」
土師道敏のことになると、晴明の思考は鈍った。
憎いといわれればうなづくが、さりとて調伏してやるといきり立つまでもない。むしろ、彼には、同情のような気持ちが湧く。
人と鬼の狭間で揺れる己。
晴明は己の手についと視線を落とした。幼い時分には、鬼として恐れられていた。良源のように異相ではなかったが、髪と爪が異様な早さで伸び、人々は恐れて近づかなかった。
それゆえか、鬼という言葉に、心が揺れる。
「俺は、あいつを人に戻してやりたいのかな……」
四十年以上も祟っているのだ、
今さら人に戻すことができるのだろうか、と晴明は考える。土師道敏は雷神となってから年をとってはいない。すでに人外のものなのだ。怨みの鬼なのだ。ただ、雷神という性質ゆえ、陰気を帯びていないだけで――。
彼は急に険しい顔で耳を澄ませた。
門のあたりがにわかに騒がしくなったのだ。だが怒声だけ。
なんだ喧嘩か、と無視して床に戻ろうとした彼は、遙か遠くで式神が騒いでいることに気付く。
いや、これは。
晴明は単衣姿のまま庭に飛び降り、まだ肌寒い空気の中、門に向かい駆け出した。
門の前では、仁王立ちした彰行が若い牛飼いたちを怒鳴りつけていた。苛立ち腹を立てているのか、その叫び声は耳障りなほどだった。
大股で近づいた晴明は彰行の頬を無言で張る。ぎょっと目を見開いた忠行の弟子は、すぐにきつい目で晴明を睨み付けた。
「何をする!」
「騒ぐならば事情を説明してからにしろ。何があった」
「……よくわからないんだ。けど、お師さまが――」
「お師さまに何かがあったのか!」
凄まじい勢いで問われ、彰行は思わず身を引く。
「だ、だからわからないんだ! 確かに牛車に乗っていたのに、帰ってきた時はもぬけの殻で、呼んでも側にいないし――」
「神隠しか!」
「だけど、お師さまに限ってそんなことは……」
揺らぐ彰行の語尾に獣の足音が重なった。
不気味な気配に、思わず振り返った二人はそこに燐光を二つ宿らせた獣を見つけ、反射的に身構える。
牛飼いたちは後ずさり、悲鳴を上げて逃げ出した。
なぜ狼がこのようなところまで、と驚く彼らの前で、獣はぐっと頭を下げて襲わぬ事を示した。
「驚くな、わたしの式神だ」
その凛とした声に、晴明と彰行は顔を見合わせた。
身構えを解いた晴明は唖然と狼を見つめる。
「……保憲? お前か?」
「父上に何があったんだ、彰行。きちんと説明しろ」
「よ、よくわからぬのです。気がついた時には、お師さまが牛車の中から消えておりました。帰ってきてからそのことに気付いて、牛飼いたちに問いただしたのですが、知らぬ存ぜぬで――」
「お前が気付かぬものを牛飼いが知っていると思うか。……とにかく、牛飼いたちに口止めしろ。わたしもすぐ、そちらに戻る」
「おい、どうせ寝てないんだろう。無理は――」
「無理をする場合としなくてよい場合がある。今はどちらだ? 晴明」
「……悪かった。手分けして探す。早く戻ってきてくれ」
「騒ぎを大きくしたくはない、慎重にな」
そう命じ、狼は素早く闇の中に消えていった。毛皮の色が灰色のため、少し離れた途端に薄闇が覆い、その姿が見えなくなる。
晴明はしばしそちらを睨み付けたあと、何も思いつかずまごついている彰行に顔を向けた。
「牛車で来た道を教えろ。逆に辿るぞ」
「あ、あぁ」
力強い晴明の声に、彰行が気圧されながらうなづいた。
験者は大路の塀に寄りかかっていた。腕を組んで目を閉じ、錫杖を足許に置いている。
開けた目で、白んだ空を見上げた。
濡れたように赤い唇を歪めて笑う。
彼は腰を折って錫杖を取り上げると、明確な意志を持って歩みを始めた。
賀茂役君が、賀茂家に関わっているかどうかは、実際は不明です。