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梅を咲かすもの  作者: .a.w
第二章 賀茂編
21/31

【 五 】



 暦生の保憲は、計算に用いる算木(さんぎ)の傍らに(ろく)(じん)(ちょく)(ばん)を置き、その占いの道具を指先で遊ばせながら、思いつくままに口中で小さなつぶやきを重ねていた。

「京の外……、北野。内裏の北の野、七つの野の一つ……。承和(しょうわ)(八三六)に(てん)(じん)()()(まつ)り、遣唐使の海路平安を願った地、元慶年間には藤原基経さまが雷神を祀り……、平安遷都以前は葛野秦氏の地であって、古くから祭祀が行われていた。また、葛野は賀茂の縁の地であって、賀茂神社がある……」

 その瞳は壁に映った己の影をじっと見つめている。

 背後を誰かが通るか、夜気が風に変わるたび、黒い影はゆらりと揺れた。

「北野、つまりは北。北の名をいただいた地……北とは冷たい存在、陰の漂う方角であり、冷たい存在の水気。また北は冬、冬は陰気が極まる季節。五行の水の五色は黒。つまりは暗黒。ものの生命が(はら)まれて、(きざ)す暗黒の胎内……。陽気の春へと繋がるもの。冬はすなわち冬至。冬至から夏至、すなわち極まった陰がわずかな陽を帯びている時――」

「保憲さま」

 名を呼ばれ、はっと顔を上げた彼は背後に面を向けた。

 灯火の縁に見慣れた人影が佇んでいる。

「彰行、まだ帰っていなかったのか?」

「はい。お師さまがお呼びです」

「父上も残っていたのか。……あぁ、わかった。わざわざすまない」

 保憲は腰を上げた。

 しかしその瞳は相も変わらず茫洋としており、深い考え事に気を捕らわれている。彼は彰行の後ろに従って、父が勤務する室に入った。

 灯火の明かりが、壁に揺られる老人の影をぼんやりと映している。

 忠行は文台に向かっていたが、彼の周囲には書巻と紙の束が山と積み上げられていた。

「父上、お呼びでしょうか」

「……そのあたりに座れ。よくない話だ」

 保憲は父の前に腰を下ろした。

「何かあったのですか?」

「わしの父上は知ってるな」

「江人さま、……ですね。幾度か伺っています」

「父上は京を出て二度とこの地を踏まなかった。いつどこで死んだのかもわからん。だが、変わりものの名に恥じず、わしに面白いものを残していったようだ」

「……一体、何を残されたのですか?」

「式神だ。自分の骨を使った、な」

 思わぬ言葉に子は愕然とした。

「己の骨を……?」

「ほとんど邪法よ。最後の最後で気が狂うたのか、何か思うところがあったのかどうかは知れんが、その式神がわしのところへつい先ほど来たのだ。幼い頃のわしそっくりの顔で、式神はこういいおった。

「“望月が欠けて久しく、残月は(みやこ)にて輝く。山界は真に封ぜられず。陰山より訪れしものが禍をもたらさん”。……この意味はわかるな?」

 うなづいた保憲は、青ざめた顔をゆるりと伏せた。

 手に爪を立てる。

「やはり、江人さまが京を出られたのはそのためだったのですか。父上を養子に出してまで、あの呪術を用いる呪術者(じゅじゅつしゃ)の根絶を……」

「なぜ父がそのような役目を自ずから背負ったのかはわからぬ。だが、この言葉の意味するところ、無視することはできん」

「害はどこまで及びましょうか」

 闇に目を向けて、賀茂家の主は苦く唇を歪めた。

「本来ならば、この呪術は賀茂が継ぐべきものではない。陰陽寮で継承されていくべきだ。しかし、賀茂は賀茂(かもの)役君(えのきみ)――役行者(えんのぎょうじゃ)が出たこともあって長らく関わらざるを得なくなった。よきにしろ悪きにしろ、な。

「父がどのような思いでこの呪術を滅しようとしたのかはわからぬ。無論のこと、わしとて、父の意志を継ごうとは思うた。だが……、やはり、捨てられぬ。父上には悪いが、失うには惜しい呪術よ」

 保憲はゆっくりと顔を上げて、父を見つめた。

 確認するよう訊ねる。

「やはり、あのお言葉は本気なのですね」

「陰陽道を選ばざるを得なかったお前と同じ思いを、生まれたばかりの子に背負わせるのはあまりに酷だろう。しかし……、呪術は伝えられていくべきものぞ。秘されて闇に埋もれてしまえば、二度と戻ってはこぬ」

「ゆえに、童の名を保遠と名付けるおつもりなのですね」

 忠行は微苦笑を浮かべた。

「たとえ遠くにあっても、わしの子だ。それだけは確かなのだ。そしてお前の弟。離れた地にそれぞれあろうが、思うものがいることを心に刻んで欲しいのだよ」

「……わかります」

 子の言葉に鷹揚とうなづいて、忠行は声を低めた。

「京で怪異が起こるやも知れぬ。陰陽頭(おんようのかみ)にはわしの方から申し出ておこう。とはいえ、標的となるのは我ら賀茂家であろう。いくら呪術の秘を守るためとはいえ、父は、多くの呪術者を手にかけただろうからな」

 つと保憲は目を伏せた。

 しばし考えるそぶりで床板を見つめ、眉をひそめる。

「では我らの身近なものたちには――」

「お前の式神をつけてくれんか。わしでは血が近すぎる」

「……わたしの式神はあまり、役に立つとは思えませんが」

 保憲は困ったように笑い、うなづく。

「お望みとあればやります。……晴明にやらせれば、確実なのですがね」

「それは無理だろう。賀茂以外に口外できぬからな」

「はい、わかっております。……しかし、晴明がわたしに江人さまのことをお訊ねになりました。あの日は良源さまとお会いになっていたので、何かをお聞きになったのかも知れません。……比叡山には、験者も多くいますので」

 真顔の子に目を見やって、忠行はゆるりと顎を撫でた。

「たとえ話すとしても、時期を読まねばな。……修行したとはいえ、あの直情的なたちでは何をするかわからん」

 老人はちょっと笑う。

「お前も難儀な弟を持ったな」

 保憲は口許にほのかな笑みを浮かべる。

「……それでは、失礼いたします」

「少しは休めよ」

 保憲は頭を下げて立ち上がると、彰行に声をかけて、廊下を軽い足取りで去っていった。

 見送って、父は小難しい顔で腕を組む。ゆらりと揺れる明かりが、その年老いた顔を浮かび上がらせた。

「晴明が呼び込んだのでなければいいが……」


   ◇


 梅花に梅香。

 空は紅梅の色に染まっていた。

 息が詰まるほどの梅の香り。

 降り注ぐ梅の花弁を見上げて、晴明はゆるりと目を細めた。

 久方ぶりの梅の夢。那智に赴いて以来、一度も見なかった夢だ。梅が咲かぬのが(みやこ)だからなのか。いや、(みやこ)がこの夢の一端を担っているからだ……。

 腕を組み、それらを眺めていた彼は、不意にぎくりと肩を揺らした。

 梅花の中、土師道敏が牙を剥いて笑っていた。

 血に濡れた角がぬらぬらと光る。

 顔も隠さず、鬼となりつつある人は梅花の雨下にいた。

 束帯の裾が風に揺れる。鬼は舞うよう、梅花と戯れながらけたけたと笑った。その所作で地に落ちた梅花がふたたび舞い上がる。

 土師道敏はふわりと背を向ける。その腕がつと、何かを掴んだらしかった。身をかがめ、膝をつき、何かを抱え込んで何かを貪り喰らう――。

 晴明の両足はぴくりとも動かない。

 梅花が身にまとわりつく。

 やがて、土師道敏が振り返った。

 赤く濡れた唇を不自然なほどに白い手で拭い、牙を剥き、にたりと笑む。見慣れた直衣で己の手を血を拭っていた。

 晴明ののどの奥に一つの名前が張り付く。ひりつく胸を押さえ、彼は不安に両目を見開いた。

 まさか、今、喰われているのは……。

 ひときわ高い笑声を上げて、土師道敏が振り返りざま、膝元から爪の長い指でぬめった赤いものを引きずり出す。ぬめった(はらわた)。激しく血が飛び散って梅花に混じり合った。

 束帯の裾が風に翻り、(にえ)の顔が顕わとなる。

 晴明は大きく肩を揺らした。

 土師道敏の膝の上、そこに力のない身を横たえているのは。

「やす、の、り……、保憲!」

 近づこうと足掻くが、身は思い通りにならず、ぎりりと奥歯を噛みしめた。胸の鼓動が激しく脈打つ。

 けたけた、けたけた。

 笑って、土師道敏は骸を投げ出し、ぬらりとした所作で立ち上がった。

 始めて現れた時のようにゆっくりと束帯の袂で顔を隠す。

 そして、次に袂から覗いた顔は。

 兄弟子のものだった。

 見慣れた顔に見知らぬ笑みが浮いていた。

 酷薄な笑みに口端をきゅっと引き締め、鬼は意味ありげな流し目を晴明に向けると、つと顔を背けた。

「――――」

 晴明は唖然と目を見開く。

 ()(じろ)ぎすらできぬ彼の前で、保憲の顔をした土師道敏はふわりと身を翻した。滑るような足取りで降り注ぐ梅花の彼方に消えていく。

 その姿が失せ、ようやっと呪縛が解けた。

 晴明は急ぎ駆け寄って、食い荒らされた兄弟子の身を抱き上げる。

 血の気の失せた顔にも点々と血痕が飛び散っていた。

 胸が痛み、呼吸すらできぬ悲しみの中、晴明は保憲の身をきつく抱き締める。

「……まだ、終わっていない、ってことかよ」

 万物流転の梅の守りがあっても、梅と彼の死は時を同じくし、変わらぬというか。

 梅の香が風に流れて消えていく。

 優雅にひらりひらりと舞う梅花が、本当の血のように、抱える骸の上に降り注いだ――。




「!」

 声にならぬ悲鳴を上げて晴明は飛び起きた。単を握りしめる手にぽつりと、顎から伝わった汗が落ちた。顔の汗を拭い、青年はゆっくりと肩から力を抜く。

 すでに夜が白んでいた。

 晴明は茫然としながら薄い藍色の空に目を向け、ゆるゆると息を吐く。ふるりと身が震えた。夜気の名残りが冷ややかにそよいだのだ。

「くそ……、なんて夢だ」

 晴明は乾いた声でつぶやき、そっと目を閉じた。

 兄弟子は相も変わらず陰陽寮にいるのか、式神は昨日、放った場所から動いていないようだった。

 帰ってきてからというもの、保憲とじっくり話をしたのは当日だけで、以降はすれ違いばかりだった。藤原一門に関して、少し腹が立ったこともあるのだが……。

 しかし、見る限りでは保憲に死相は出ていない。京を離れていた三年の間も、時折、式神を飛ばして様子を窺っていたが――二度ばかり勘付かれて捕らえられそうになったが――死相はなかった。

 もっと先の出来事なのだろうか……?

 それにしてもなんと、意味ありげな夢なのか。

 晴明は単衣(ひとえ)を肩に引っかけ、(しとね)から起きあがった。

 重ね着しながら廊下に出て咲かぬ梅の木を眺めやる。

「……一度、ちゃんと話し合わないとな」

 晴明は小さくつぶやいた。

 あの兄弟子は意地でも認めないだろうが、無理な呪詛は寿命にすら影響を及ぼすはずだった。

 保憲には早く呪詛を止めてもらいたい。

 けれど、願いとは裏腹に、己の力は一向に安定しなかった。三年にも及ぶ修行の末でも、未だに力を御することができない――。

 晴明は苦しげに眉を寄せた。思わず目を閉じると、先ほどの夢が蘇ってくる。

 梅花の中で飛び散った血。

 兄弟子の腹を無惨に引き裂いて見せた、怨みの鬼……。

 奥歯を強く噛んだ。

「怨みのために、鬼となった男、か……」

 土師道敏のことになると、晴明の思考は鈍った。

 憎いといわれればうなづくが、さりとて調伏してやるといきり立つまでもない。むしろ、彼には、同情のような気持ちが湧く。

 人と鬼の狭間で揺れる己。

 晴明は己の手についと視線を落とした。幼い時分には、鬼として恐れられていた。良源のように異相ではなかったが、髪と爪が異様な早さで伸び、人々は恐れて近づかなかった。

 それゆえか、鬼という言葉に、心が揺れる。

「俺は、あいつを人に戻してやりたいのかな……」

 四十年以上も祟っているのだ、

 今さら人に戻すことができるのだろうか、と晴明は考える。土師道敏は雷神となってから年をとってはいない。すでに人外のものなのだ。怨みの鬼なのだ。ただ、雷神という性質ゆえ、陰気を帯びていないだけで――。

 彼は急に険しい顔で耳を澄ませた。

 門のあたりがにわかに騒がしくなったのだ。だが怒声だけ。

 なんだ喧嘩か、と無視して床に戻ろうとした彼は、遙か遠くで式神が騒いでいることに気付く。

 いや、これは。

 晴明は単衣姿のまま庭に飛び降り、まだ肌寒い空気の中、門に向かい駆け出した。

 門の前では、仁王立ちした彰行が若い牛飼いたちを怒鳴りつけていた。苛立ち腹を立てているのか、その叫び声は耳障りなほどだった。

 大股で近づいた晴明は彰行の頬を無言で張る。ぎょっと目を見開いた忠行の弟子は、すぐにきつい目で晴明を睨み付けた。

「何をする!」

「騒ぐならば事情を説明してからにしろ。何があった」

「……よくわからないんだ。けど、お師さまが――」

「お師さまに何かがあったのか!」

 凄まじい勢いで問われ、彰行は思わず身を引く。

「だ、だからわからないんだ! 確かに牛車に乗っていたのに、帰ってきた時はもぬけの殻で、呼んでも側にいないし――」

「神隠しか!」

「だけど、お師さまに限ってそんなことは……」

 揺らぐ彰行の語尾に獣の足音が重なった。

 不気味な気配に、思わず振り返った二人はそこに燐光を二つ宿らせた獣を見つけ、反射的に身構える。

 牛飼いたちは後ずさり、悲鳴を上げて逃げ出した。

 なぜ狼がこのようなところまで、と驚く彼らの前で、獣はぐっと頭を下げて襲わぬ事を示した。

「驚くな、わたしの式神だ」

 その凛とした声に、晴明と彰行は顔を見合わせた。

 身構えを解いた晴明は唖然と狼を見つめる。

「……保憲? お前か?」

「父上に何があったんだ、彰行。きちんと説明しろ」

「よ、よくわからぬのです。気がついた時には、お師さまが牛車の中から消えておりました。帰ってきてからそのことに気付いて、牛飼いたちに問いただしたのですが、知らぬ存ぜぬで――」

「お前が気付かぬものを牛飼いが知っていると思うか。……とにかく、牛飼いたちに口止めしろ。わたしもすぐ、そちらに戻る」

「おい、どうせ寝てないんだろう。無理は――」

「無理をする場合としなくてよい場合がある。今はどちらだ? 晴明」

「……悪かった。手分けして探す。早く戻ってきてくれ」

「騒ぎを大きくしたくはない、慎重にな」

 そう命じ、狼は素早く闇の中に消えていった。毛皮の色が灰色のため、少し離れた途端に薄闇が覆い、その姿が見えなくなる。

 晴明はしばしそちらを睨み付けたあと、何も思いつかずまごついている彰行に顔を向けた。

「牛車で来た道を教えろ。逆に辿るぞ」

「あ、あぁ」

 力強い晴明の声に、彰行が気圧されながらうなづいた。




 験者は大路の塀に寄りかかっていた。腕を組んで目を閉じ、錫杖を足許に置いている。

 開けた目で、白んだ空を見上げた。

 濡れたように赤い唇を歪めて笑う。

 彼は腰を折って錫杖を取り上げると、明確な意志を持って歩みを始めた。




 賀茂役君が、賀茂家に関わっているかどうかは、実際は不明です。

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