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梅を咲かすもの  作者: .a.w
第二章 賀茂編
20/31

【 四 】




 一人の験者が七条の市の中、錫杖を片手に佇んでいた。

 大内裏の方を睨みやっている。

 白く優美な面は貴族ともいえなくはないが、その瞳はあまりにも険しく、敵意に満ちていた。

 憎しみにも。

 不意にうつむいて唇に不敵な笑みを形作る。

 錫杖で地をつき、きびすを返して、ふらりと人混みの中に紛れた。



   ◇



「……はぁ、少し肩が凝ったな」

 保胤(やすたね)は扇で口を隠し、大きな欠伸をかみ殺した。

 籍を置いている勉学の場――大学寮(だいがくりょう)紀伝道(きでんどう)の寄宿舎である文章院(もんじょういん)から出てふらりと歩き出す。

 これといって用はないが、夕涼みに朱雀路を歩きたくなったのだ。

 そのうち、大内裏にある陰陽寮から、閉門を告げる鐘の音が聞こえてくるだろう。

 時を知らせるものなのだが、保胤には父や兄を思い出す音だった。もっとも、同じ陰陽寮に属しているとはいえ、時を計るのは刻守(ときもり)であり、漏刻(ろうこく)博士(はかせ)の仕事なので直接的には関係はないが。

「兄上、どこに行くのですか?」

 ぱたぱたという足音とともに声が聞こえてきて、保胤はつと振り返った。

 直衣姿も初々しく見える保章がようやっと追いつき、足を止めたところだった。

 父の忠行曰く、わしよりも長兄に似ておるな、という弟。保胤も時折、幼い頃の兄を重ねて見ることがあった。

 保胤は扇を懐に押し入れた。

「別に、どこにも行かないさ。ちょっと暇だから涼もうと思って」

「涼むという季節でもないと思いますが」

「比喩だよ、比喩。少し歩いてみたくなっただけさ」

「なら僕も一緒に行きます」

「そうかい。じゃ、行こうか」

 二人は肩を並べ、夕暮れとなり、人の往来が忙しなくなった朱雀路をぶらりぶらりと歩き出した。

 歩きながら、保胤は先日、晴明の帰京を祝った酒宴で聞いた噂をいくつか披露する。

 帝の寝所にも侍する女官の女御(にょうご)が廊下を這う蛇を見て驚き裾をから上げて走ったこと、ある娘が直衣姿で女官を誘惑したところ成功してしまったこと、などなど。

 根が生真面目な保章は、笑っていいのか困るべきなのか悩んでいて、その顔に保胤はけらけらと笑った。

「お前は本当に兄上に似てるなぁ。兄上も困っていたよ」

「……僕はあまり大兄(おおえ)(うえ)のことを知りません。比べられても困ります」

「そう尖るな。お前も少しは家に戻ったらどうだ? 父上も兄上もちゃんと迎えてくれるさ。遠慮することは何もないだろう」

 幼い頃から親戚に預けられ、家に戻ることもなく文章道に入った保章は、兄の言葉に眉を寄せながらうつむく。

「……大兄上がよく会いに来てくれていたことは覚えているのです。けど、父上は忙しくて来られず、今でもよく顔が思い出せないのです。文はよく下さるのですが」

「陰陽道はつまるところ、秘すれば花、じゃないが秘密秘密ばかりだからな。お前は早いうちに文章を志したんだ、おいそれとは見せられぬものがあるのだろうよ。けどな、ぐだぐだと愚痴をいう前に帰ればよいだろう。そうすれば考える必要もない」

 保章はふて腐れたように兄を睨み付けた。

「兄上は情緒が無さ過ぎます」

「情緒はあるとも。だがな、父上と兄上をよく知るからこそいえるのさ。お前が怖いのは晴明なのだろう」

「べ、別に……」

 慌てたように顔を背けて、保章は手にした扇を握りしめる。

 保胤は父や兄のよう、ついと片目を細めた。

「僕は知ってるよ。小さな頃、機嫌の悪い晴明に悪戯して、思いっきり叱られただろう。あれ以来、あまり行かないものな。まぁ、僕も怖かったからねぇ。晴明の奴、殴る時は本気だし」

「……父上はなぜ、彼を弟子になさったんです?」

「さぁ、詳しいことはよく知らないよ。けど、父上が晴明をお前よりも大切にしていると思っているのなら、それは大きな間違いだからね。父上は弟子にした義務を果たそうとしているだけさ。それにほら、お前が妻を娶ると聞いてとてもとても喜んでくれたじゃないか。ちょっと忙しすぎるだけさ」

「わかってますよ、それくらい」

 諭されるのが嫌いなのか、保章は低く不機嫌につぶやいた。

 保胤は首の後ろを指先で掻いて、夕刻の空に目を向ける。

 頬にあたる春の穏やかな風が涼しかった。

「父上だって、幼い頃に養子に出されているから、お前の気持ちはちゃんとわかっているさ。だから父上に会っておいで」

「……父上は養子なのですか?」

 初耳の話に、保章は目を丸くして兄を見やる。

「あれ? 知らなかったか。父上のお父上、つまり僕らのお爺さまは江人(こうと)というのだけどね、え……いくつの時だったっていってたっけなぁ……。父上はかなり小さな頃に、江人さまから遠縁の峯雄(みねお)さまへ養子に出されたらしいよ」

「なぜなのですか?」

「それがねぇ……。よく、わからないんだ。いろいろと噂はあるのだけど、目立つことが大の嫌いで、父上とはほとんど会わなかったそうだよ。だから父上もよく覚えていないのだそうだ。まぁ、かなり変わった人だったんだろうね」

「出仕なさっていなかったのでしょうか?」

「あぁ、うん。陰陽寮に出入りしていたらしいけど――!」

 突如響いた絹を裂く悲鳴に、二人はぎょっとして振り返った。

 水干をまとった男が壺装束(つぼしょうぞく)をまとった娘の腕を掴み、乱暴に引きずり回していた。娘は甲高い声で泣き叫び、助けを請うている。

 男の顔は鬼のように厳しくその額にうっすらと角のようなものが生えていた。男が発する獣のようなうなり声に、人々は怯え、近づくことすらできない。

 耳障りな声が笑い、娘の泣き声が強烈な悲鳴に変わった。

 男がいきなり、娘の背を踏みつけ、まるで捻りきろうといわぬばかりに腕を捻り上げたのだ。

「ちょ、保章!」

 思わず固まった保胤だったが、弟が駆け出したことに気付き、慌ててあとを追った。

 袂を掴み、強引に引き留めて後ろから抱き留める。

「保章! お前ではどうにもならん!」

「しかし兄上! 娘が――」

「呪も使えぬお前が何をどうするのだ!」

 その一言で保章の全身から力が抜ける。安堵し、保胤が腕をゆるめた隙に保章は手をふりほどき、抜け出した。

 不意を突かれた兄は勢いあまって体勢を崩す。

「保章!」

 舌打ちし、保胤が(いん)を結ぼうと指を絡め――。

砕破(さいは)

 あまりにも静かな、だが強烈な咒の籠もった言葉に、水干姿の男がぎくりと身を凍らせた。娘の腕から手を離しながらよろめく。

 保胤は聞き覚えのある声にそちらへ目を向けた。

「……晴明」

 往来の真ん中に、晴明が立っていた。

 涼しげな狩衣姿でぽつりとそこに在る。

 保章が驚き、男よりも遙か手前で立ち止まった。

 絡む袂を煩わしそうに払って、晴明は右手を上げ、宙にある何かを掴み取るようにゆるりゆるりと拳を作っていく。

()べて()べよ、オン・カラカラ・ビシバク・ソワカ……、緩くともよもやゆるさず(しば)(なわ)、不動の心あるに限らん……」

 すると、水干の男は晴明の手に握りしめられるかのよう、不自然に身を揺らし、ぎちりと固まった。

 晴明はそれを確かめ、ゆっくりと前に出ると、懐から取り出した扇を素早く開いた。

 ひらりと回されたその扇には梅紋と梅花が描かれていた。

 晴明が扇を無造作に男へ投じる。

天魔外道皆仏性(てんまげどうかいぶっしょう)四魔三障成道来(しまさんしょうじょうどうらい)魔界仏界同如理(まかいぶっかいどうじょうり)一相(いっそう)平等(びょうどう)無差別(むしゃべつ)

 魔を祓う長い呪は彼の唇で一瞬に唱えられた。

 投じられた扇は男の顔にぴたりと張り付く。扇と顔の狭間から白い煙がゆらりと立ち上り、耳を塞ぎたくなる絶叫が響き渡った。男は必死になって身を揺らしながら扇を落とそうと足掻き回る。

 人々が悲鳴を上げて飛びし去った。

 晴明が素早く手を上げて指を鳴らす。

「オン・アビラウンケン・ソワカ!」

 男の悲鳴が急に止んだ。

 扇がその顔から滑り落ちる。

 その肌には梅紋の焦げあとが生々しく残っていた。

 晴明がふたたび弾指(たんじ)すると、呪縛が解け、男は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。




 晴明は男の側に歩きより、袂を払って膝をついた。

 焦げあとが残る顔を覗き込んで唇を歪める。

「呪をかけられたようだな……」

 保胤はつぶやく彼に恐る恐る近づいた。

 ひょいと手許を覗き込むと、晴明は男の顔に手を乗せて小さな声で呪をつぶやく。ふたたびその手を外した時、傷はなく、二十歳ほどとおぼしき、もの柔らかな顔に戻っていた。

「……うわ、すごいなぁ」

「兄上」

 呼ばれた保胤が振り返ると、弟は捕らわれていた娘とともに立っていた。布に覆われて娘の顔は見えないが、落ちた肩から相当の衝撃を受けたことが察せられた。

 保胤は娘を元気づけるべく、様々な言葉を思い浮かべたが、口から出たのはありきたりのものだった。

「……大丈夫、ですか?」

「はい」

 か細い声が答え、白い面が晴明に向けられる。

「有り難うございました……」

 晴明は立ち上がり、背を向けたまま一度、うなづいた。

「陰陽寮のものとして当然のことをしたまでです。礼は必要ありません」

「しかし」

「それはないだろう、晴明。もう少し優しい言葉をかけても――」

「俺にそんなことはいえん」

 さすがの保胤も彼に態度を改めさせることはできなかった。

 呆れてつぶやく。

「……無愛想これ極わまれり、だな」

 娘はそれから幾度も礼をいうと、疲れた足取りで立ち去っていった。

 だが晴明は見送りもせず、呪をかけられた男の身を抱き起こすと、背に膝を当てて活を入れた。

 目を覚ました男は、己が何をしたのかまったく覚えてはいなかった。ただ急に、気分が悪くなったのだという。

 機転の早い保胤は、滑らかに気遣った口調で「少し立ちくらみがしたんでしょう。あまり働き過ぎはよくないですよ。帰って早く寝なさい」とそれらしいことを並び立てた。

 男はわけがわからず、目を丸くしたまま、礼をいって帰路についた。

 保胤はやれやれとつぶやき、晴明と弟を促して素早くその場から移動した。あまりにも人の目が痛かったからだ。

 七条のあたりまで下った時には、すでに日が落ちかけ、空が真っ赤に染まっていた。

 保胤は足取りをゆるめて晴明を振り返る。

 父の弟子は西日に全身を染めながら、厳しい顔で足許を睨んでいた。

「晴明、どうなってるんだ?」

「よくわからんが……、誰かに呪をかけられたらしいな。たまに名をあげたい験者や陰陽師がやるんだ。人を襲うことはあまりないんだが……。よう、久しぶりだな、保章」

「……お久しぶりです。出仕からのお帰りですか?」

 少したどたどしく挨拶する保章に、晴明はなぜか眉を寄せて大きくうなづきを向けた。

「あぁ。保憲を待っていたんだけどな、先に帰れと追い返されたんだ。ちかごろあまり家に戻らず、真秋に連れて帰るよういわれてたんだが……、俺にできるはずがないのに。無茶いうよなぁ?」

「兄上、また根を詰めてるのかい? 真面目なのもいけないね」

「それもあるんだが……」

 晴明は考え込みながら腕を組んだ。

「あいつ、暦生なのに造暦の宣旨を下されただろう? そのせいで暦博士の大春日(おおかすが)によく思われていないのさ。大春日つったら暦博士を何人も出している家だからな。陰陽道・暦道・天文道の三道をやってる保憲と同じにされて、面白くないのかも」

「……本当なのかい?」

「まだ帰ってきて十日もないが、陰陽寮は相も変わらずだ。それでなくとも、賀茂は成り上がりだってうるさいのに」

「……心配だね。なぁ、保章」

「大兄上は大丈夫なのですか?」

 問いは発しながらも、やはりどこか遠慮している保章の声に、晴明はふと微笑みながら悩む風に首を捻った。

「うん……、どうだろうな。問題なのは、あいつが人には方術を使わないってことだ。俺も式神を残してきたが、陰陽寮内で立ち回りするわけにもいかんだろう」

「すごい噂になりそうだなぁ。ぜひ、僕に一部始終を教えてね」

「そんなことするかよ。俺にだって分別はある」

「どんな分別か知らないけど、まぁ、兄上のことは頼んだよ。僕は漢詩を作ることはできても呪は唱えられない」

「直接的に刀で来られたら俺にもどうすることもできんぞ」

 だが保胤の顔は笑っている。

「またまた、熊と戦えるくせに。人などちょいと叩いてやればいいじゃないの」

 あのなぁ、と晴明は文句を口に出しかけ、足を止める。

「七条を過ぎちまったな。ちょいとあのあたりに用があるんだ」

「そう。残念だな。また一緒に酒を飲もうよ」

「そうだな。じゃ、またな」

 すでに歩み出していた晴明は、手を挙げて笑顔を見せると、背を向けて梅小路にすりると入り込んでいった。

 保章は礼儀正しく頭を下げて、上げ、兄に目を向ける。

「大兄上は本当に……、大丈夫なんでしょうか?」

「陰陽道は激しく才の世界だからねぇ。まぁ、そのあたりは僕らと同じだけど、呪詛とかがあるから余計に怖いな。さっきの男みたいに呪をかけられたらいやじゃない」

「……誰も彼もいやだと思いますが」

「着目するのはそこじゃないだろう。まったく、冗談の通じない」

 そこで保胤はくるりと身の前後を入れ替え、朱雀門に向かって歩き出す。

 保章が慌てて追いついた。

「兄上、せめて一言いって下さいよ」

「はいはい。今度、暇を見て父上のところに行こうな」

 保章はちょっと躊躇い、渋々といった調子でこくりとうなづいた。

「わたしも、兄上にいわねばならぬことがある……」

 遠くを見つめて、保胤は小さくつぶやいた。

 保章が怪訝そうに兄を見上げる。

 それに気付いたか、保胤はにっこりと笑みを浮かべ、ひらりと扇を泳がせた。




 その験者は野原に佇んでいた。

 地を見つめ、ゆるりと目を閉じる。

 手の錫杖がしゃらりと鳴った。




 大春日家は暦家として、葛木家と並んで有名です。

 この二つの家は別々の暦法を教えてました。

 ちなみに保憲の師匠は葛木氏。

 でも葛木家の継承がうまくいかなかったのか、葛木家の継いでいた暦を残すために、保憲が造暦の宣旨を下されます。

 つまり帝から暦を作るように命じられたわけです。

 この造暦の宣旨を下されたのは保憲が最初であり、それ以降は恒例化していきますが、これだけでも保憲が特別な立場にいたことがわかります。

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