【 三 】
帰京した安倍晴明の日課は以前の通りだった。
陰陽博士より位を上げ、陰陽允となった師匠である忠行に従って陰陽寮に赴き、その弟子を忠実に務めて、宿直の時は賀茂の邸に戻った。
晴明が何をするかわからぬ、と陰陽道を学ぶ学生などが嫌ったためだった。
「晴明!」
夕刻になり、陰陽寮からふらりと歩き出した晴明は、よく通る声に名を呼ばれて振り返った。
木彫りの鬼面と僧衣、剃髪した頭に白い布を被せている男が手を挙げている。大股の独特な歩き方でこちらに向かってやって来ていた。
その姿を認めて、晴明は露骨に顔をしかめる。
「良源か」
僧は面の下からくぐもった挨拶を告げる。
「よう、久しぶりだな。戻ったって噂は聞いたぞ」
「……那智まで無駄足を踏ませてやろうと思ったのに」
「お前の考えていることなどお見通しさ。俺のところに音沙汰がないのは、お前なりの帰京の挨拶だと受け止めていたがな。……ところで、忠平公の梅について聞いたか?」
「あぁ。保憲から聞いた」
二人は大内裏の中を悠然とした足取りで歩き出した。
晴明と同じく、束帯をまとった官僚や無位の制服姿のものたちが帰宅するところだった。
入れ替えに衣冠や直衣姿の宿直のものたちが続々とやってくる。
「菅公を祀る場所についても、きちんとした祠を建てるべきだとそれとなくいってみたんだけどな……、忠平公は自分に祟りはないと、一蹴されてしまった」
「梅については?」
「誰かが勝手に挿し木したのだと嘯いてくれた」
「喰えぬ爺だな」
「誰もあんなものは食べたくない」
「……お前な、そっちの食べるじゃないってことくらいわかってるだろうに。俺だって喰いたくないさ」
晴明が呆れながら口にすると、僧はのどの奥でくつくつと笑った。
二人は衛士が守る大内裏を朱雀門から出て、広大な朱雀路を下り、賀茂の邸に向かって歩き出す。
「それで良源、今日はどうしたんだよ。そんなことは他の誰かに伝えさせればすむことだろう。俺に何か話したいことでもあるのか」
僧は顎のあたりを面の上から撫でた。
「あ、あぁ。……実をいうとな、ちょいと断言できんのだが、気になったことがあってな」
「なんだ、お前らしくない物言いだな」
いつもずばりと切って捨てるお前が、と晴明が冷やかすものの、まったくとりあわずに良源は真摯な声音で続ける。
「梅が五行だという考えに異を唱えるつもりはない。だがな、それを貴族である忠平公が知っていたとは、どう考えても思えないのさ。それでな……、この前、忠平公の庭をいらっていた老人にそれとなく聞いてみたんだが」
「それで?」
「五行について教えたのは、賀茂の誰かじゃないか?」
「……お師さまか保憲だっていうのか?」
問い返す晴明の声音は限りなく鋭い。
そこには良源をも敵だと見なしかねない響きがあった。
それを感じ取って、僧侶は仮面の下から意味深な視線を青年に向ける。
「忠行さまは今、おいくつだ?」
「俺には……、よくわからん。保憲に聞いた方がいいんじゃないか」
「保憲は実に父親思いなんでな、さすがの俺も疑うようなことは聞けんさ。だからお前に聞いているんだ」
「俺ならいいっていうのか……」
晴明は不満顔で夕刻の空を見上げ、改めて僧に向き直った。
「お師さまは五十歳くらいじゃないか? けど、そうなると菅公が亡くなった頃はまだ十くらいだぞ」
「じゃ、忠行さまの父上か……」
「父上? なんでそうなるんだよ」
「……俺にもよくわからんのだ。だがその老人は、賀茂という名前を覚えていたのさ。老人の記憶が曖昧すぎて、詳しいことはあまり聞けなかったんだが……」
「賀茂だからって、お師さまの父上とは限らないだろう」
「陰陽に詳しくさらに賀茂、他にどこにいるんだ。まぁ、忠行さまの父上だろうが誰だろうが、大して関係ないかも知れんが……気になるな」
悩める良源を晴明はあっさりとなきものにする。
「そんなことより、梅の咲かぬ現今をどうにかする方が先決じゃないのか。保憲は梅を咲かす術はあるっていうんだけどさ、一向に何もしないんだ」
「まぁ……、そうだろうな。梅を咲かせばあの鬼を滅してしまう。土師の名を持ち、雷神である以上、他のあやかしよりも強く影響を受けるだろうからな」
「滅したって問題はないだろう。菅公は祀られるべき場の託宣を下したんだ」
「……おい、お前は本当にそう思っているのか?」
僧に下から覗き込むように訊ねられて、晴明はその眼差しから逃れるように身を離した。
胡乱な目つきで良源を睨みやる。
「なんだよ、変なことするな」
「変なって……、俺は稚児なんぞ連れて歩かんぞ。それに話を逸らすな。お前、あの鬼と接しているだろう。保憲がいっていたぞ。お前があの鬼に同情しているのではないか、とな」
「……保憲が?」
「あぁ。昼間、忠平公のことを伝えるために会いに行ったのさ。お前もいれば、と思ったんだが留守だったんでな」
「お師さまと出てたんだ」
「それは聞いた。で、どうなんだ? あの鬼と会っているのか。関わっているのか」
鬼と聞き、肩を揺らした晴明は急に足を止めた。
良源も立ち止まって青年の顔を真っ直ぐに見据える。夕方の風も混じった沈黙は明らかな肯定だった。
しかし良源は無理に認めさせはせず、鬼面の下から穏やかに見守る。
「……よくわからないんだ」
ぽつりと、晴明は言葉を落とす。
「俺は力を磨けば何かが見えるだろうと思った。だが、俺は俺のままだ。それに……陰陽道とは他人を救うものであって、己を救うものじゃない。……陰陽家であろうとも己の死はわからないんだからな。では、俺は何をすればいいのか。それをいくら考えても、人を救ってやろうとは思えないんだ」
晴明の脳裏に、京の内や外にうち捨てられた骸が次々と浮かび上がる。だが、その人々に同情することすらできなかった。己の心は、ただただ、冷たいのか……。
良源はゆるりとうなづいた。
「そうか」
唇をゆるく噛んで空を睨み上げ、晴明は一言一言を噛みしめるように語を続けた。
「俺には……、自信がないのかも知れん。己すら救えぬ俺が、他人を救えるかわからないだけかも知れん。しかし、ならば俺の力はなんのためにあるのかわからない。
「土師道敏は……、保憲を喰らおうとした。そのことは頭に血が上るくらい腹が立つ。ましてや原因が俺ならなおさらだ。しかし――」
語を噛んで、晴明は言葉にならぬ思いを探るよう、胸のあたりの布を掴んだ。
「よく……、わからないんだ」
「あの鬼を助けたいか」
「……本当にわからないんだ。だが、気に掛かる。あいつはまだ、完全な鬼ではないんだ」
気持ちがはっきりと言葉にならず、晴明は悔しそうに口端を噛んだ。
良源は小難しい顔で、いつものように眉のあたりを掻き、ゆるゆるとうなづく。親指を立て、あらぬ方を示した。
「少し付き合え」
「……どこに行くんだ?」
「行けばわかるさ」
あっさりといわれ、晴明は渋い顔でうなづいた。
良源が晴明を連れて訪れたのは、右京七条二坊にある、庶民とおぼしき邸だった。
良源が幾度か邸内に向かって呼ばわり、それでも人が出てこないので、二人は勝手に門をくぐり邸内に踏み込んだ。
庭の手入れはあまりされていない。
その邸内の片隅には、ぽつりと、小さな祠が建てられていた。
晴明はそちらに歩きよりながら、胸の騒ぐ気配にきつく眉を寄せる。
「おい、なんだよこれ……」
良源も同じ思いなのか、軽い舌打ちを一つ零した。
「わからん。だが、ひどいな」
ひどいどころではない。陰気がざわざわと空気を舐め、その気配に背筋が冷えていく。
晴明は耐えきれず、祠よりも十歩ほど手前で立ち止まった。
良源も顎に手をやりながら足を止める。僧は木で作られた質素な祠を手のひらで示した。
「あれが菅公のため、多治比どのが作られた祠なのだがな……」
「こんなところに神が降りられるもんか。畜生、こんなんじゃ怪異が起こるのも時間の問題だぜ。……明暗も狂ってやがる」
周囲がとても暗く見えるのは、黄昏時のせいばかりではなかった。
闇がまとわりついた己の手を見つめた晴明は、奥歯を噛んで覚悟を決めると、懐に手を入れながら祠に近づいた。
「晴明、どうする」
「祓う」
応じ、取り出した符に素早く呪を唱えた。陰気が弾けて手を打ち、身を痛めつける。
腰をかがめ、符を土の上に置いた晴明は気付いた。祠に彫り込まれた梅紋に傷が入れられている。五行となる梅の花弁が荒々しく削り取られていた。さらには陰気を呼び寄せるがごとく、血がなすり付けられ黒ずんでいる。
晴明は背筋を這い上がる寒気に目を見開く。
己の前で形になっているのは悪意そのものだった。
彼は符を置いたまま素早く九字を切った。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
呪とともに指を踊らせ、縦に四本、横に五本の線を空に描きあげ、勢いよく図を斜めに切り裂いた。さらに打ち砕く、砕き破るとの言霊を込めた咒――砕破、と付け加える。
「急急如律令」
最後は退魔の咒で締めくくった。
その凛とした言葉に応じ、凝り固まった糸が解れるように陰気が霧散していく。それを肌で感じ取って、晴明は用いなかった符を懐に戻した。
そっと手を伸ばし、手のひらで血の穢れを撫でる。ちりり、と触れた肌が焼けた。
ざらり、と音をさせながら良源が晴明の背後に立った。
焼け付くような西日に目を細める。
「今のは修験道か?」
「那智で覚えたんだ。あそこは験者が多いからな。九は極まった数字だから、陰陽道にも通じる」
「この怪異は人の手によるものだな」
「あぁ……。こいつを拭わない限りここは陰気のたまり場になる」
「いっそのこと壊した方がいいかも知れんな」
「そうだな。だが、その前に……」
晴明は懐から小さな袋を取り出し、中の木片をいくつか祠の側に埋めた。
ふわりと漂った梅香に気付いて良源が彼の手許を覗き込む。
「なんだ? それは」
「香木」
「それは見りゃわかる。なんで埋めてるんだ?」
「……あいつがあるところは必ず梅の匂いがした。菅公はそうやってしか、あいつに自分の存在を示せないんだろう。梅の香りはあいつを惹きつける。しかし、五行を示すがゆえに梅には近づけず、あいつがいる限り花は咲かない。……菅公が好きだった梅なのにな」
「香りで呼んでやるのか」
「菅公の意志を教えてやらないといつまでも荒れ狂うだろう。俺たちはあいつを調伏して救うことも許されない」
「……そうか」
晴明の思いを知って、良源は鬼面の下で眉を寄せる。
「気付けばいいな」
「本当に、その通りだ」
立ち上がり、陰陽家の弟子は手のひらを叩いて土を落とした。
満ち満ちた闇の中で僧侶に目を向ける。
「忠平の仕業だな」
「……だろうな。藤原一門が栄えるためには帝を守ろうとする梅紋が邪魔なんだ。菅公はそれを知っているんだろう。だから右近の馬場……、大内裏の北野、つまり京の外に祀られる場を定めようとしたんだろうが」
晴明の声がにわかに怒りを帯びた。
「それすらも阻むか」
「晴明、お前に政の委細はわからんだろうから、一言だけ忠告しておこう。藤原一門とは事を構えるな。賀茂家はそれでなくとも忠平公や師輔さまに近い。お前だけではすまなくなるぞ」
「……わかってる」
納得した声ではなかったが、良源は何もいわず、晴明を促して歩き出した。
◇
保憲は文台に向かって算木を扱っていたが、手許を見えぬほどに暗闇が襲い来て、諦めて立ち上がった。
造暦に集中したいからと家人を遠ざけていたため、誰も明かりを持ってきてくれなかったのだ。
廊下に出て、ふと彼は月を見上げる。青白い光は身が現のものではないように見せる。
手のひら、闇に浮かぶ直衣などの衣、最後に足を見やって、保憲はほのかな笑みを唇に乗せた。
ゆるく腕を組んで柱に背を預ける。
しばしそうやって月光と戯れていたところ、ばたばたと騒がしい足音が近づいてきて、彼はゆるりと目を開けた。
そちらに目を向ければ晴明がやって来る。
苛立っているのは足の運びだけで容易に知れた。
「晴明、どうした?」
「菅公の祠が穢されていたぞ」
驚きもせずに保憲はうなづいた。
「祓ってきたか?」
晴明はどしりと兄弟子の足許に腰を下ろし、小難しい顔で腕を組む。
「あぁ。けど血で穢されているから建て直さなきゃ駄目だ。梅紋が削り取られていた」
「多治比どのには改めてわたしから文を出しておこう。……雑用係の使部を見張りに立てるかな。いや……」
考えながらつぶやいて、保憲は輝く月に顔を向けながら目を閉じる。
「陰陽寮から申し出た方が早いか。認められるかはわからんが」
「誰の仕業か聞かないのか」
「……梅紋の意を知るものは多くない」
静かに返された言葉に、鋭く顎を上げた晴明はわずかに語を荒げる。
「そうか、祠が穢されるのはこれが始めてじゃないんだな」
「……あぁ、三度目だ」
「くそ、三度もか……」
悔しげにつぶやき、晴明は真正面を見据えて指先で苛々(いらいら)と腕を叩く。
「どうにかならないのかよ、このままじゃ鼬ごっこになるだけだぞ」
「わかっているさ。だが、陰陽寮には菅公を祀るよう、進言するほどの力はないのだ。とはいえ、賀茂家だけでどうにかなるものでもないからな。忠平さまや師輔さまは我らを重く用いては下さるのだが」
陰陽寮の立場は決して、強くなかった。
重視されているのは、時を知らせる漏刻と、造暦、日々の吉凶を占うことなど。規模も百人以下であって、参内が許されるのは陰陽頭のみだ。
晴明はそれを知りつつも、悔しがる。
「けど、このままじゃ土師道敏はいつまで経っても報われない。菅公が祀られれば鎮まると浄蔵さまはいっていたが……」
「わかっている。七条に祠を作るのではなく、北野の地に祀るべき場を早急に作るべきだ。だが、できることなら忠平さまに気付かれず行いたい。今すぐ、社のように、形が残るようにはできん」
「そんなに藤原一門が怖いのかよ」
軽蔑が混じった問いに、目を開けて、保憲は苦笑めいた眼差しを弟弟子に落とした。
「陰陽家は下手なことはできんのだ。わかっているだろう。陰陽家は暦を作るだけではない、天文を読むだけではない。陰と陽、五行の相生相剋、さらには人の生死、物事の道行きを示す。それらの理が読めるいうことは」
「政に通じるんだな……」
晴明が先回りしてつまらなそうに繋いだ。
うなづき、こめかみのあたりを指先で掻いて、保憲はため息混じりに吐いた。
「陰陽寮から書物の持ち出しが厳しく制限されているのも、私が方術を用いれば罰せられるのもそのためだ。……さて、気の滅入る話はこれくらいにしよう。そろそろ夕餉だ」
気重な話を打ち切って、月光に照らし出された廊下を歩み出した保憲は、晴明がそのまま動かぬことに気付いて振り返った。
「どうした?」
「……お師さまの父上って、どんな方だったんだ?」
「わたしのお爺さまか? なんでそんなことを聞くんだ」
「や、ちょっとな」
晴明はらしくなく誤魔化し、よっと声を掛けて立ち上がると、保憲の横をすり抜けた。
身を捻ってその背を見送り、兄弟子は細い眉を寄せる。
口中で低くつぶやいた。
「……なぜ江人さまのことを?」
賀茂家の忠行の父親については、謎が多すぎます。