第6話 神様、ズッ友とは何ですか
聖典にギャル文字が書き込まれて数日、白百合神殿は不思議な静けさに包まれていた。
静謐ではない。花の匂いがあり、椅子を引く音があり、救護室からは子どもの咳と母親の声が聞こえる。
白百合の間の隅では、下働きの娘たちが民向け解説書の草案を読んでいた。
「こっちは分かりやすい」
「神ちゃんの言ってること、だいたいこう、の方が覚えやすいし」
小さな笑い声が起きる。
神官長はそれを聞き、少しだけ眉間に皺を寄せるだけで済ませた。
朝一番の神託は、こうだった。
――読まれること、まじ、よい。
神官長はそれを見て、しばらく黙っていた。
「主は、かなり気に入っておられるな」
「はい」
「かなり、まじ寄りに」
「はい」
「……今のは忘れなさい」
「記録には残しません」
私はそう答えた。
残した。
昼過ぎから、雨が降り始めた。
石畳は濡れ、神殿の白い階段には薄い泥が混じって流れている。
参拝者は少なくなるだろう。私はそう思っていた。
だが、神殿の入口には、ひとりの子どもが立っていた。
以前、入口の鉢植えの横から中を覗いていた少年である。服は濡れ、裾には泥が跳ね、靴はほとんど黒くなっていた。
彼は正面扉の前で立ち止まり、白い石床を見て足を止めていた。
白百合神殿の床は白い。
そこへ泥の靴で踏み込むには、勇気ではなく、許可がいる。
そう思わせる場所だった。
私は声をかけようとした。だが、足が動かなかった。
泥を拭く布はどこにあったか。子ども用の替え布は用意していたか。まずは靴を脱がせるべきか。
そう考えているうちに、動けなくなった。
その時、ミカ様がやってきた。
「どしたん?」
少年は視線を床へ落とした。
「汚れるから」
「何が?」
「床」
ミカ様は白い石床を見て、それから少年の濡れた靴を見た。
私は思わず身構えた。ここで何を言うのか、もう何となく分かっていた。
ミカ様はしゃがんだ。
「床より、あんたの方が大事っしょ」
短くて、逃げ場がない。
少年は目を丸くした。
「寒くない?」
少し迷ってから、頷く。
「寒い」
「だよね。中入ろ」
「でも、汚れる」
「あとで拭けばよくない?」
ミカ様は手を差し出した。
その手は、ためらわずに泥だらけの小さな手を取った。
少年は、おそるおそる神殿へ足を踏み入れた。
白い石床に、泥の跡がついた。
神官の一人が反射的に布を取りに行こうとした時、神官長がそれを手で止めた。
私は驚いて神官長を見た。
彼は泥の跡ではなく、少年を見ていた。
ミカ様は入口近くの椅子へ少年を座らせた。
「リナ、布ある?」
「はい」
リナが走ってくる。最近、リナはよく走る。
ミカ様は少年の肩に布をかけた。
「名前は?」
「ノア」
「ノアね。ひとり?」
ノアは小さく頷いた。
「お母さんが、熱で」
その声で、救護係の神官がすぐに動いた。
以前なら、まず受付簿を確認していたかもしれない。だが、救護係はまずノアの前に膝をついた。
「場所は分かるか」
少年は頷いた。
「案内できる?」
「うん」
神官長が言った。
「馬車を出します。毛布と薬を」
命令は短かった。だが、迷いがなかった。
「早いじゃん」
ミカ様が言う。
神官長は少しだけ咳払いをした。
「必要ですので」
神託石が、白百合の間の奥で淡く光った。
まだ神託は刻まれていない。ただ、見ている。私はそんな気がした。
ノアの母親は、夕方には救護室へ運ばれた。
重い病ではなかった。雨の中で働き続け、熱を出していたのだという。
温め、薬を飲ませ、休ませれば回復する。救護係はそう判断した。
奇跡は起きなかった。
いや、起こす必要がなかった。
それが、少し不思議だった。
我々は聖女の奇跡を待ち望んでいた。癒やしの光。神託。神聖な力。
だが、今、ノアの母親を助けているのは、毛布と薬と温かい湯だった。そして、誰かがすぐに動いたこと。それだけだった。
ミカ様は寝台のそばで、ノアの髪を拭いていた。
「びしょびしょじゃん。風邪ひくよ」
「お母さん、大丈夫?」
「大丈夫だって。救護係さんも言ってたし」
ノアは母親の手を握っている。母親は眠っていた。呼吸は落ち着いている。
神官長は少し離れた場所で、その光景を見ていた。
「奇跡では、ありませんな」
「はい」
「だが、助かった」
「はい」
神官長は長く黙った。
それから、ぽつりと呟いた。
「私は昔、神殿の前で立ち止まったことがあります」
初めて聞く話だった。
「貧しい家の子でした。靴が泥だらけで、服も古く、ここへ入るのが怖かった」
神官長は救護室の白い床を見ていた。
「その時、老神官が私に言ったのです。寒くないか、と」
私は黙って聞いた。
「その一言で、中へ入れました」
神官長はノアを見た。
「私は、それを忘れていた」
救護室の中は静かだった。
静謐ではない。眠る母親の呼吸。ノアの鼻をすする音。リナが器を置く音。ミカ様が布を絞る音。
人のいる場所の静けさだった。
「聖典を覚え、祈祷文を覚え、礼法を覚えるうちに、最初の言葉を忘れていた」
私は、記録用紙に何も書けなかった。
ミカ様がこちらを見た。
「神官長さん。顔、しんどそう」
「……そう見えますか」
「うん。座れば?」
神官長は一瞬、目を瞬かせた。
それから、救護室に増えた椅子を見た。
ミカ様が置けと言った椅子である。
神官長は、ゆっくりとそこに座った。
その椅子は、今日も役に立った。
夜の祈祷は、いつもより短かった。
神官長がそう決めた。理由は、救護室に人手を回すためである。
夜の白百合の間には、いつもより多くの人がいた。
エマと母親。リナたち下働きの娘。足の悪い老女。泥靴のノア。救護係の神官。そして、ミカ様。
白い石床には、まだ薄く泥の跡が残っている。掃除は明日の朝でよいと、神官長が言った。
私はその言葉を聞いた時、少しだけ泣きそうになった。
神殿に泥の跡が残っている。だが、それは汚れではなく、誰かがここへ来た証だった。
神官長が祭壇の前に立つ。聖典を開く。
今夜読むのは、古い聖句だった。
泣く者のそばに膝をつく者を、主は遠ざけぬ。
飢えた者へ手を伸ばす者を、主は忘れぬ。
寒き者へ布をかける者を、主は友と呼ぶ。
神官長の声は、いつもより少しだけ掠れていた。だが、よく届いた。
ミカ様は途中で小さく頷いていた。
「いいじゃん」
小声だった。神官長には聞こえたらしい。少しだけ肩が揺れた。怒ってはいなかった。たぶん。
祈祷が終わった時、神託石が光った。
大司教が、先に椅子へ座った。賢明である。
神託石の表面に、古い神聖語が浮かび上がる。
――泣く者のそばに膝をつく者を、我は友と呼ぶ。
誰も声を出さなかった。
その言葉は、美しかった。古く、正しく、静かで。けれど、今夜は遠くなかった。
ノアが母親の手を握っている。リナが隣の娘の肩を抱いている。ミカ様は泥のついた床のそばに立っている。
私は、ようやく分かった気がした。
祈りとは、天へ届かせるためだけのものではない。隣にいる誰かの痛みに、気づくための形でもあったのだ。
そこまでは、よかった。
神託石が、もう一度光った。
今度は、古い神聖語ではなかった。
――ゆえに、我らはズッ友である。
白百合の間が凍った。
大司教は椅子に座っていたため、倒れずに済んだ。神官長は聖典を落とした。私は、記録用紙に大きな染みを作った。
「神様! ズッ友とは何ですか!」
神官長の声が裏返った。
神殿は、光っていた。
白い石床。柱。花。椅子。入口の鉢植え。神像の首元の飾り紐。ギャル文字の注釈が書かれた聖典の写し。
そのすべてが、淡く、温かく光っていた。
ミカ様だけが神託石を見上げて目を丸くしていた。
「え、神ちゃん、どこでそれ覚えたん?」
主は沈黙された。
おそらく、照れておられたのだと思う。
そうであってほしい。
翌朝、神託石の文字はまだ消えていなかった。消えない。削れない。布で隠そうとすると、布ごと光る。
大司教は試みて、諦めた。
白百合の間の真正面に、今も刻まれている。
――泣く者のそばに膝をつく者を、我は友と呼ぶ。
ここまではよい。実によい。聖典に加えてもよいほどである。
問題は、その下だ。
――ゆえに、我らはズッ友である。
ただ、白百合神殿はその日から、さらに人が増えた。
神が友と呼ぶなら、入ってもいいのかもしれない。そう思った者がいたのだろう。
泥靴の子。疲れた母親。足の悪い老人。字を読めない娘。祈り方を知らない者。
彼らは少しずつ神殿へ入ってくるようになった。
我々は、床を拭いた。椅子を増やした。聖典の解説書を作った。救護室の毛布を増やした。花を替えた。
記録六 ズッ友について
ズッ友とは何か。
おそらく「ずっと友である」の短縮形である。
意味だけを見れば、神学的には美しい。表記を見なければ、かなり美しい。
問題は、主がそれを自発的に神託石へ刻まれたことである。
――泣く者のそばに膝をつく者を、我は友と呼ぶ。
この一文に、我らが忘れていたものがある。
清らかさとは、汚れないことではない。泥の靴を見て、床より先にその者の寒さを問えることなのだ。
ミカ様は清楚ではない。慎ましくもない。神聖語も読めない。聖典の余白にギャル文字を書く。神像に飾り紐を掛ける。神を神ちゃんと呼ぶ。
だが、泣く者のそばへ膝をつく。寒い者に布を渡す。赤くなった手首を見逃さない。泥靴の子を、床より先に見る。
ならば、聖女と呼ぶほかないのかもしれない。本人は今も否定するが。
なお、神託石には今朝、新たな一文が刻まれた。
――今日も、あげ。
ミカ様によれば、気分が上向くこと、よい状態、盛れていること等を指すらしい。
主の語彙汚染は、現在も進行中である。
ギャルとは何か。ギャル文字とは何か。ズッ友とは何か。
いまだ分からないことは多い。
だが、神殿は以前より明るい。子どもは笑い、老人は座り、病人は遠慮せず救護室の戸を叩く。下働きの娘たちは、聖典を読む。
白い床には、時々泥がつく。それを我々は、あとで拭く。
まずは、人を見る。
そのように、少しずつ覚え直している。
……以上、記録終わり。
あげ、ぽよ。
いや、違う。
今のは記録ではない。
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