選べなかった日で
「……歩乃華を連れて、逃げろ」
少女の声が、潰れた肺からこぼれる。
骨が折れる音よりも先に、痛みだけが現実だった。
自分が死ぬことは、不思議と怖くない。
それよりも、貴方に生きてて欲しかった。
だから──
私を、見捨てて。
──それは、少し先の未来の話だった。
歩乃華は、誰にも嫌われないように生きてきた。
だから、選ばないようにしてきた。
嫌われるくらいなら、何もしない方がいい。
……自分で選んで、何かを失うのが怖いから。
「帰ろ」
そう言って歩き出した瞬間、空気が歪む。
強い風に包まれ、思わず目を閉じた。
そして、目を開けると……知らない森の中にいた。
──死んだ、かもしれない。
いやまだ生きている。
……私が死んで困る人なんて、いないか。
誰にも嫌われないように"だけ"生きてきたから。
ここ、どこ?
少女──小暮歩乃華はランドセルを背負ったまましゃがみこむ。
さっきまで歩いていた通学路はどこに行ったの?
こんな森を、近所で私は見たことが無かった。
そもそも動いていないんだから、森にいるなんてありえないよ。
意味わからない。
……木しかないし、足元もでこぼこしてる。
歩乃華はランドセルを地面に置き、子供ケータイを探す。しかし、今日は入ってなかった。
代わりに中には、いつも通りの重たい荷物が詰まっていた。
歩乃華は立ち上がりランドセルを背負い直す。膝丈のスカートから土を払って、とりあえず道なりに進んでみることにした。
……私、帰れるかな。
不安げに歪む大きな瞳は、右を見て左を見てと忙しない。
周りには人が居ないため、いっその事動物でもいいから会いたい、なんて思う。
「にゃあ」
その声は、あまりにも普通だった。
木々のざわめきの中で、それだけが現実の音に聞こえる。
「……かわいい」
気づけば歩乃華はしゃがみこみ、頭を撫でる。
そして優しく猫を抱きしめた。
小さな猫は、逃げることもせずただそこに座っている。
安心、するなぁ。
ガサッと、背後から小さな物音がする。
空気が止まった気がした。
「グゥルギュルギュルルルルルル」
……え?
歩乃華は後ろを振り向く。
木々の間から、四足歩行の生き物が飛び出す。
距離は、ない。
角のような突起と、鋭い牙。
牙から伝って粘性の液体が地面に落ちた時、察してしまった。
──私、食べられる。
「ひっ……」
後退り。されどその倍以上の距離を詰めてくる獣。
猫は暴れて私の腕の中から出ていく。
「待って! そっちに行ったら……!」
手を伸ばす。でも届かなかった。
まだ追いつくけど、獣に近づいたら……。考えたくもない。
猫は獣の方へ走り、丸呑みにされた。
上下する口から、目が離せない。
助けたかった。
でも、無理だった。
……違う。
私は、"選ばなかった"。
怖かったから。
嫌われるのも、死ぬのも。
だから、どちらも捨てた。
背中を向けて、思いっきり走って逃げた。
しかし獣は速い。速すぎて音がもう背後から聞こえる。
そして、どこか鉄の匂いが漂ってきた。
私は助けなかった。
……そう思った瞬間、吐き気が込み上げてきた。
もう……、追いつかれる。
──死にたくない。
その一言だけが、脳内を支配する。
でも考えないと、死ぬ!
確か、獣は音に反応するよね。
なら……。けれど上手く手が動かせない。
でも、やらないと。
「なんでもいいのであっちに行ってください!」
防犯ブザーを鳴らして森に向かって投げた。
音に反応して、獣の視線が外れる。
歩乃華はその間に道なりに走った。
転びそうになっても足を動かす。それがきっと最善だから。
木々に入るのはダメ。振り向くのもダメ。
あくまでも冷静に。……しかし、恐怖で涙が溢れそうだった。
でも、汗か涙かなんてどうでもいい。
それよりも、誰でもいい、誰でもいいから通りかかって欲しい。
──家に、帰りたい……っ。
「ギャツグルゥグルルル」
音と風圧が背中を襲う。
歩乃華はもつれそうになる足に鞭を打ち、必死に走り続ける。
──私はまだ、生きていたい!
その瞬間だった。
歩乃華の右肩に、何かがくい込んだ。
「──っ!」
視界が跳ねる。
痛みは、少し遅れてやってきた。
「あがっ……!」
今まで感じたこともない、焼けるような痛み。
獣に押され、そのまま前に倒れそうになる。
さっき、見捨てたくせに──
その言葉で、自分の心を貫く。
なにかに反応するように、獣が急に後ろを振り向いた。
「神の御心のままに、黄昏に贖い身を焦がし、火の如く、世を滅するは」
音が消えて、静寂が訪れる。
それは祈りではなく、"宣告"だった。
「──燎原之火」
世界に、凛とした声が響く。
瞬間、背中に熱を感じた。
そしてとてつもない圧を感じて、息が、詰まる。
獣は歩乃華をほっぽって逃げようとした。
そのため歩乃華は地面に転がって、木に背中をぶつける。
ぶつけた痛みとか溢れ出る血に耐えつつ、目を開ける。
熱い。
火が、生き物みたいに揺れていた。
業火は獣を包み込み、そこには影しか残さない。
一瞬で、消えた。
さっきまで生きていた化け物が。
火花がバチッバチッと存在感を出していて、空気そのものが熱い。
そんな燃える世界と土煙の中には、二人の人間が立っている。
少女は、黄色の髪を高い位置で結んでおり、片目を眼帯で隠している。
そして元気いっぱいにアックスを振り回して仕舞った。
隣にいる少年は美しい黒髪を持っており、ほんの少し藤の瞳を隠していた。
大人びた様相の彼は、獣だった影と木々を見て冷静にため息をつく。
そして、指を鳴らしたかと思えば、いとも簡単に火を消した。
助けて、くれた……の?
……違う。
あの二人は、ただ"敵を倒した"だけだ。
命の危険は去った、と感じると目の前が真っ暗になった。
あぁ、これはダメだ、気絶する。それとも、死ぬ?
見開かれた瞳が、心配そうに歪む。
「無事ですか!?」
2人の視線は確かに歩乃華を見ている。
なのに、その奥を見ているような気がした。
口が上手く動かせない。
「……あれ、これ死んだ方がいいやつ?」
どういう……こと?
2人が歩乃華に駆け寄ったところで、歩乃華の意識は完全に途切れた。
ここが、私が壊れていく地獄の始まりだった。
そしてその地獄はいつだって──
──私の『選択』のせいだ。
──だけど、選ばなきゃいけなかった。




