5.円満な家庭
フィルは彼女の周囲に集まったひとたちをかき分けて前に進んだ。
自分を押しのけたのが彼女の元婚約者である侯爵だとわかると、文句を言おうと口を開きかけた者も黙るしかなかった。
「ウィーナ」
フィルはウィーナの前に進み出ると、未だ見知らぬ男性とつないだままになっている彼女の手を強引に奪った。
「コートレル卿?」
彼の行動に驚いたウィーナはその意図を読み取ろうとしたが、それより早くフィルはその場に跪き、求婚を口にした。
「ウィーナ、君を愛している。どうかわたしと結婚してほしい」
彼の求婚に若い令嬢たちは悲鳴を上げ、令息たちは不満の声をあげた。
一気に騒がしくなってしまった会場を収めるべく、ウィーナは少し声を張り上げた。
「みなさま、ちょうど新しい焼き菓子が届きましたわ。
隣国では祭事のときにしか出されないという貴重なものだそうです。
せっかくの機会ですから楽しむことにいたしましょう」
人々の興味を給仕係が運んできた焼き菓子に移すことに成功したウィーナはフィルに目くばせし、静かにその場を離れた。
会場から少し離れた場所にガゼボを見つけたウィーナは日差しを避けるためそこに入り、フィルもそれに続いた。
彼と向き合ったウィーナはいつになく困惑した顔をしている。
「コートレル卿、わたくしたちの婚約は破棄されました」
「手続きには二週間かかる、俺たちはまだ婚約者のままだ」
「だとしても卿はわたくしがガヴァネスを目指していることをご存じでしょう?それに子爵家から侯爵家にお示しできるメリットがないとも申し上げました」
「メリットならある、君だ」
「わたくし?」
「そうだ、君ならすぐにでも家政を任せられる。
俺はもう爵位を継いでいる、妻となる女性には即日で夫人としての務めを果たしてもらわねばならない。
母上からの教育もなく女主人の仕事ができる令嬢は君以外にいるだろうか」
そう聞かれてウィーナは少し考えてから、探せばいるかもしれない、と答えた。
「他を探している時間はない。言っただろう、俺はもう侯爵ですぐにでも侯爵夫人の仕事ができる女性が必要なんだ」
フィルは自分でも無茶苦茶なことを言っていると分かっていたが、今、ウィーナを丸め込まねば逃げられるということも分かっていた。
必死で考えながらもそんな素振りはおくびにも出さず、もっともらしい理由を吐く。
「君は侯爵夫人の仕事をし、俺はその対価として弟妹の学費を支払う。
侯爵家のメリットは君という適任者を手に入れること、子爵家のメリットは言うまでもなく弟妹の学費支援だ。
いかにも貴族らしい素晴らしい婚約だとは思わないか?」
一気にまくしたてられたウィーナはそのひとつひとつを精査しようと考えを巡らせるが、そうはさせまいとフィルは畳みかける。
「婚約の解消手続きが済んでしまったら再婚約には最初の倍の時間はかかるだろう、その間の学費はどうする?
君の弟は学園に通い始めたばかり。親しくなった学友たちと別れさせるなど、君も望むところではないだろう?」
「それはもちろんです」
ウィーナが即答することはウィルにはわかっていた。彼女は家族を、ことに弟妹を心から愛している。
彼らの不利になるようなことをウィーナは絶対に選択しない。
「ならば結婚しよう、今すぐに」
「今すぐ?」
「コートレル侯爵には今すぐ夫人が必要なんだよ」
それからわずかひと月後にはウィーナ・カペル子爵令嬢とフィル・コートレル侯爵の結婚式が執り行われた。
急な開催ではあったが社交シーズン中でほとんどの貴族が王都に滞在していたということもあり、多くの列席者に恵まれた、近年まれにみる盛大な式となった。
ウィーナは多くの友人たちに囲まれ、祝いの言葉を受けている。
そんな彼女をフィルは少し離れた場所からまぶしい目で見つめていた。
「締まりのない顔をするな、見ているこっちが恥ずかしくなる」
苦言を呈したのはフィルを後押しした侯爵令息だ。
「花嫁の姿に鼻の下を長くするのは花婿の特権だ」
その返事にあきれて苦笑した令息もまたウィーナを眺めた。
「ウィーナ嬢があれほど美しいとは。
彼女はどちらかといえば地味だったから気づかなかったよ」
それは着飾るだけの金がなかったからだ、しかし今となってはそれが功を奏した。
ウィーナ・カペルという手つかずの令嬢をフィルの色に染め上げることができた。
本来なら真っ白にするべきウエディングドレスもフィルの瞳の色に合わせてうっすらと赤く見える糸を使用した。
今、彼女が着ているドレスは淡い色ではあるものの赤を基調としており、ところどころ金糸の刺繍がされている。
赤はフィルの瞳、金は髪の色だ。
彼女がもとから持っていたドレスは数少ないし、古びているものも多く、ほんの数枚を残してあとは処分させた。
コートレル邸の女主人のクローゼットルームにはフィルが用意したドレスが所狭しとつるされている。
それらはどれもフィルの色を持っており、いずれ社交界では赤と金といえばウィーナが連想されるようになるだろう。
「さぁ、そろそろ俺たちは引き取らせてもらう」
「はぁ?まだ日が高い時間だぞ」
「新婚夫婦は昼夜問わず睦まじくすごすものと決まっている」
フィルはそう言ってウィーナを中心に集まっている人たちの輪に入り、彼女を連れ出した。
彼の胸中が不埒なことで溢れていることは誰の目にも明らかなのに、ガヴァネスになりたいが為に勉強一筋だったウィーナでは艶っぽいことは理解不能だ。
またお会いしましょう、と手を振り友人たちと別れたウィーナはフィルと共に会場を離れる。
「主役のわたくしたちがこんなに早く退席してもよかったのでしょうか」
ウィーナの可愛らしい問いにフィルは笑みを深めている。
「招待客には気のすむまで滞在してもらうよう使用人には言いつけてあるのだろう?」
「それはそうですけれど」
「我が家の使用人は優秀だ、心配することはない」
フィルの言葉にウィーナも、そうですね、とうなずいた。
フィルのエスコートで夫婦の寝室の前まできたところでウィーナは言った。
「お送り頂きましてありがとうございました、ではまた明日」
それはまるで知人のひとりに挨拶するかのようで言われた側のフィルは面食らった。
「それはないだろう、君はまさか新婚初夜に新郎をひとり寝させる気か?」
「ですが、わたくしたちは政略結婚ですわ」
あっけらかんと言い放つウィーナにフィルは内心で舌打ちをした。
結婚を決めてから今日まで、ほんのひと月しかなかったが、フィルはウィーナに愛をささやいてきた。
最近では彼女のほうも恥じらうような様子もあった。少しばかりの手ごたえを感じていただけにこの仕打ちはあんまりだ。
ともかく寝室の前でもたもたしているところを使用人にみられるわけにはいかない。
「中で話そう」
と言ってフィルはウィーナの腰に手を回すと強引に部屋へと入った。
しかし、室内の様子に気づいたウィーナは赤面しうつむいてしまう。
メイドたちが気を使ったのだろうが、控えめな照明と甘やかな香り、そして薄い天蓋で覆われたでかでかとしたベッドには花びらが散らされており、いかにもな空間を演出していた。
「わたくしたちは政略結婚ですから、このようなことは必要ないかと」
ウィーナはフィルと視線を合わせないようにしながらも気丈に言い切って見せたが、それが余計に彼を刺激したとは思うまい。
フィルはウィーナの手を取るとそっと持ち上げ、自身でもやりすぎだと思うほどの色香をにおわせたしぐさでその指先に唇を触れさせた。
「政略結婚ならなおさら、励まねばなりません。まさか貴女はコートレルをわたしの代で終わらせる気だったのですか」
「まさか、そのような」
「でしたら」
いうが早いかフィルはウィーナを横抱きにし、その身をベッドへ運ぶと覆いかぶさった。
「あのっ」
「黙って、初夜に言葉は不要です」
薄暗い中だというのに何故かフィルの赤い瞳だけが輝いて見える。
「大丈夫、怖がらないで」
燃えるような強い輝きとは正反対の優しく丁寧な手つき。
戸惑うウィーナは何か言わねばと口を開きかけたが、そうさせまいとするかのようにフィルが己が唇でそれを塞いだ。
溢れ出る危険な色香を持ったその口付けは瞬く間にウィーナを連れ去っていった。
その後、コートレル家には三人の子が産まれた。
侯爵夫人となったウィーナは子供たちそれぞれにガヴァネスを雇い入れ、女性の労働を後押ししている。
彼女に感化された周囲の夫人たちもそれを見習った為、今のガヴァネスは女性の人気職のひとつに数えられるほどになった。
もちろん、彼女自身も子供たちへの講義の時間を持っている。
フィルと結婚した後もウィーナは学園に通い、きちんと卒業した。
侯爵夫人になった以上、さすがにガヴァネスとして他家に勤めることはしなかったが、彼女は自分自身を子供たちのガヴァネスのひとりだと思っているし、それに恥じない成績で卒業した自負もある。
厳しくも楽しい彼女の授業に子供たちは、
「お母様は、お母様なのかガヴァネスなのか分からない」
と文句を言いながらも、一生懸命に勉強している。
「わたしも混ぜてくれ」
執務が一段落したフィルが合流すれば、そこは家族団らんのひとときへと変わる。
「お父様、僕は掛け算ができるようになりました」
「僕は外国語を始めたよ」
「あたしは絵を学んだわ」
三人の子供たちは我先にと父親に駆け寄り、それぞれの学びの成果を報告している。
「さぁさぁ、お茶の時間にしますよ」
ウィーナの呼びかけに三人が応じる。
「はぁい」
「今、行きます」
「お父様も早く」
「よぉし、競争だ!」
そう言って駆け出したフィルを先頭に子供たちは歓声を上げながら一斉にウィーナの待つテーブルを目指した。
最初は契約の婚約を結んだフィルとウィーナだった。
しかしふたりは、誰もがうらやむような円満な家庭を築いたのであった。
これでおしまいです、最後までお読みいただきありがとうございました。