4.子爵令嬢が侯爵令息の婚約者になるということ
こんなことがあっても学生であるフィルは毎日学園に行かなければならない。あまり眠れなかった彼は眠い目を擦りつつ登校した。
これまでのウィーナとの逢瀬、フィルにとっては心地よいひとときであったが、彼女にとっては苦痛でしかなかったと言われ、大きなショックを受けた。
気分よく出かけていたのはフィルだけでウィーナは契約の一環として付き合っていただけなのだ。
考えたらわかることだ、ウィーナはドレスを仕立てる資金に苦労していた。
出かけるなら身なりを調えねばならず、それすら彼女にとっては悩みの種だったのだろう。
しかし、ドレスは贈ってあるのだ。遠慮なく着ればいいし、足りないのならフィルにねだればいい。
とはいえ、ウィーナの性格を考えたらそんなことはしないだろう。
彼女はフィルに言い寄ってくる令嬢たちと違って自らの望みを口にしない。婚約者の隣で慎ましやかに微笑んでいる、そんな女性だ。
「今朝は遅かったんだな」
教室に入るとクラスメイトの令息から声をかけられる。
眠れぬ夜を過ごしたなどと乙女な発言をするわけにもいかず、あいまいな返事をするフィルに彼は少し声を落として言った。
「おまえの姿が見えないからってこれ幸いにと婚約者が連れていかれたぞ」
「ウィーナが?誰に?」
フィルの言葉に令息は呆れた顔をしてみせた。
「誰って決まってるだろうが。俺をからかって楽しむのならもう言わないことにする」
「いや、待ってくれ。本当にわからないんだ、誰がウィーナを。だいたいどこに連れていくというんだ?」
フィルの様子に令息にもそれが嘘ではないと伝わったようだが、それはそれで怪訝な顔をされる。
「お前、本気で放置してたのか?」
「だから何を」
「ウィーナ嬢はお前を慕う大勢の令嬢たちに目の敵にされてるぞ、やつらは彼女を呼び出してはなにかと嫌がらせをしているらしい。
もっとも、侯爵夫人ともなればそういう輩も御していかなければならないからな。お前が介さないという判断はある意味正解かもな」
俺にはできないけど、と彼は嫌味のように一言を付け加えたがフィルはもう彼の言葉など聞いていなかった。
「どこだ、ウィーナはどこにいる?」
フィルはクラスメイトの令息に詰め寄った。
鳴り響く予鈴にウィーナは途方に暮れていた。
立ち尽くす彼女の前には空っぽになったバケツが転がっている、それに入っていた水でウィーナはびっしょりと濡れている。
フィルと婚約して以降、彼を狙っていた令嬢たちに呼び出されて嫌がらせを受けることが日常になっていた。
彼女たちもバカではないからフィルに知られないようにと、ふたりが接触する恐れの少ない放課後を狙うことが多く、なんなら昨日も呼び出されたのだ。
いつものように平手打ちをされそうになったウィーナは彼女の為にも、今からフィルと一緒に帰るのだと教えてやった。
昨日は乱暴に突き飛ばされるだけで終わったのだが、今朝はフィルがなかなか登校せず欠席だと思ったのか朝からやられてしまった。
放課後に水を浴びせられたときは軽くタオルで拭いてから、大判のストールを羽織って乗合馬車に乗った。
夕方の薄暗い馬車の中では制服が濡れていることはあまりわからないようで、誰にもなにも言われずに済んだ。
しかし今はまだ朝だ、この格好で教室に行ったら教諭は絶対に気づいてしまう。かといって、乾くまで待っていたら授業には出られない。
成績優秀者で卒業したいウィーナにとって授業に欠席するという選択肢はない。
どうしたものかと悩んでいると誰かが走ってくる足音がした。
「ウィーナ!」
「まぁ、コートレル卿」
水滴が滴り落ちる姿に不釣り合いな淑女らしい笑みを浮かべたウィーナは彼に、おはようございます、と優雅に挨拶をした。
フィルは苦々しい表情で眉をよせ、いつになく乱暴にウィーナの腕を掴むと寮母室へ行こうと言う。
「ですが、もう授業が始まってしまいます。わたくし、授業には出たいのです」
「君が勉強熱心なのは知っている、だがその格好では教諭に対しても失礼になるだろう。寮母室で乾かしてもらおう」
フィルにそう言われてウィーナは少し考えてからうなずいた。
「確かにそうですわね、授業はそのあとにします。卿はどうぞお戻りください」
「いや、わたしも一緒に行く」
「ひとりでも大丈夫ですよ?」
「いいから、行こう」
ウィーナの姿と足元に転がっていたバケツを見れば彼女が何をされたかはわかる。
授業はもう始まる時間であたりに人影はない。今、ウィーナをひとりにしたらまたなにかされるかもしれない。
他者にバケツの水を浴びせかけても平気な奴らなら、授業をさぼって彼女に攻撃するなんてこともやりかねない。
フィルはウィーナをなかば引きずるようにして寮母室へと向かった。
びしょ濡れになったウィーナを見た寮母は驚いた顔をしている。
「手を洗おうとして蛇口の水を出しすぎました」
ウィーナの口からスラスラと嘘の言い訳が出ることにフィルは鬱々とした。
いつから彼女は嫌がらせを受けていたのか。そのたびにこうやってもっともらしいことを言ってごまかしてきたのだろう。
「すまなかった」
寮母がウィーナの濡れた制服を乾かすため、それを持って部屋を出て行った。
彼女は毛布にすっぽりとくるまって日の当たるソファに座っている。
「卿から謝罪を受ける理由などありませんが」
「わたしがもっと気を付けていれば、君が危害を加えられることなどなかった」
「まぁ危害だなんて大袈裟ですわ、それにこういったことも含めて婚約者役をお引き受けしましたのよ」
どうぞお気になさらず、と笑顔をみせるウィーナをフィルは申し訳ないという思いから直視できない。
彼女が傷つけられたのは自分の認識の甘さだとフィルは結論付けている。
少し考えればわかることだった、フィルの周囲を取り囲んでいた令嬢たちは彼の婚約者の座を争ってけん制しあっていた。
そんな中、あっさりと婚約者に収まったウィーナを彼女らが面白く思わないのは当然で、悪意を向けるのもまた自然なことだった。
契約を持ち掛けた時点でウィーナにはそれがわかっていたのだろう。だから、これも含めての配役だと言っているのだ。
令嬢たちがこのような行動に出ると分かっていたらフィルはきっと誰にも頼まなかった、女性を傷つけてまで物事を解決したいとは思わない。
事態を教えてくれた令息が言っていたように、未来の侯爵夫人なら自らに向けられた悪意もうまく捌くべき場面だ。
しかしウィーナは侯爵夫人にはならないと決めていた、将来も子爵令嬢のままである彼女が自らより爵位が上の令嬢らを始末したら後々面倒なことになる。
それをわかっていたからウィーナはされるがままになっていたのだ。
ウィーナは言っていた、フィルとの外出は楽しいものではなかった、と。
そのうえこのような嫌がらせまで受けて、フィルの婚約者でいることは彼女にとってもはや苦痛でしかない。
「ウィーナ嬢、婚約は解消しよう」
フィルの宣言にウィーナは驚いた顔をする。
「ですが、まだ最低期限の半年も経っていませんよ?お仕事のほうはよろしいのですか?」
「約束通り、弟妹の学費はこちらで支払うから心配はしなくていい」
「そういうわけにはまいりませんわ。なんの関係もない方からの資金援助など、新たな婚約者がどう思うか」
「気にしなくていい。侯爵家の資金だ、婚約期間中の令嬢には口出しさせない」
「違います、わたくしの婚約者ですわ」
その言葉にフィルは苦い顔をする。
「その予定があるのか?」
「契約のお申し出をいただいたのは婚約者探しを始めると父が宣言したのと同時期でしたので。侯爵様とのご縁がなくなったらすぐにでも決めてくるかもしれませんね」
ウィーナの隣に他の男が立ち、彼女の手をとり、あの唇に遠慮なく触れるのだと思うとフィルは心底面白くなかった。
しかし彼女に苦痛しか与えられない自分がそばにいることはできない。
「とにかく学費はこちらで持つ、君の婚約者にもわたしからきちんと説明しよう」
フィルの決定にウィーナは納得できませんという顔をしていたが、それ以上反論することはなかった。
思えば婚約してからもウィーナはフィルをコートレル卿と呼んでいた、そうすることでフィルが自分より高位な貴族であることを示していたのだ。
下位の者が上位の者に逆らうことは決してない、それが社交界というもの。
彼女が反論しないのもそういうことで、侯爵の命令に子爵令嬢が抗うことなどできない。
ウィーナは最初から最後まで、フィルを自らの婚約者として扱わなかった。
逆らうことのできない高貴な身分を持った男性。
彼女にとってのフィルはそれ以上でもそれ以下でもなかった。
こうしてふたりの婚約は解消されることになった。
爵位の釣り合わないふたりの婚約自体が異例だった為、周囲はむしろこの結果に納得した。
ウィーナは侯爵から婚約を破棄された令嬢ではあったが、解消決定後もフィルが彼女の周囲に目を光らせていた為、侯爵から睨まれることを恐れ、ウィーナへの誹謗中傷を口にすることはなかった。
休日の午後、よく晴れて気持ちのいい空の下、とある貴族の庭でガーデンパーティが開かれていた。
フィルと別れたウィーナは彼と婚約していた間に新調したドレスを身にまとい、参加した。
彼から贈られたドレスはすべて綺麗に保管してある、今はまだ婚約破棄の手続き中で頂き物の返却を含めて話し合いをしている最中。
フィルのことだから返却不要と判断するだろうが、完全に子爵家の所有物になっていないドレスを着ることはリスキーだ。
そう考えてウィーナは手持ちのドレスの中から今日の装いを決めたのであった。
会場に姿を現したウィーナに気づいたご夫人や令嬢たちは我先にと彼女を自分たちのテーブルに招こうとしている。
ウィーナは今まで社交に着ていくドレスがなく、集まりにはほとんど参加してこなかった。
それでも、学園内でも似たような集まりが開かれることがあり、制服でも参加可能な催しには彼女もときどき参加していた。
その際に披露されたウイーナの博識に集まった学生や教諭たちは感心し、その噂は社交界にも広まっているのだ。
今日の集まりは文化的財産について語り合う目的で開かれている。他者を貶めて喜ぶという低俗な趣味を持つ人物は参加していない。
そのため、人々はウィーナの訪れを歓迎したのであった。
ウィーナを中心に人の輪ができている。
集まった人たちに落ち着いた物腰で対応し、慎ましく穏やかな微笑みを浮かべるウィーナは誰の目にも好ましい令嬢に映ったことだろう。
彼女なら女主人としてじゅうぶんに機能するのではないかとウィーナに興味を持ち始めた令息がひとり、ふたりとその輪に加わっていく。
それを苦々しい顔で遠くから眺めている男性がいた。
「フィル・コートレル。そんな顔をするなら何故、彼女を手放したんだ?」
話しかけたのは彼の友人で同じ侯爵家の令息だった。
「そうすることが彼女の幸せにつながると思ったからだ」
「お前にそれはできないのか?」
「俺には無理だ」
フィルがそう答えたちょうどそのとき、ウィーナのすぐ隣を陣取っていた男が彼女の手をとり、指先に口づけを落とした。
それは貴族にとってはよくある挨拶ではあったが、男がウィーナに熱い視線を送ったことで、挨拶以上の想いがあると言外に示したことになった。
フィルはとっさにふたりの間に割って入ろうとし、すぐに思いとどまった。
彼女との婚約は解消された、誰がウィーナを口説こうとそれを邪魔する権利はフィルにはない。
悔しそうな顔を隠そうともしない彼に令息は盛大にため息をついた。
「彼女との婚約、もう一度考えてみてはどうだ?」
「そうしたくてももうできない」
「できなくはないのなら、彼女を手を取るかい?」
「当然だ、俺は彼女を愛している」
自然に口をついて出た言葉にフィル自身驚いたもののすぐに納得した。
そうだ、自分はウィーナを愛しているのだ。
彼女の手をとり、指先に口づけを落とし、その耳元で愛をささやいていいのは自分だけだ。
「そう思うならなおさら手放すべきではない。あまり知られていないことだが、どんな契約だとしても貴族同士のそれを解消する手続きには最低でも二週間はかかるんだ」
令息の言葉にフィルははっとして彼の顔を見る。
「つまり君たちはまだ婚約関係にあるということだよ」
そう言って片目をつぶってみせた令息にフィルは礼を言い、ウィーナのそばに急いだ。
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