3.契約を本物に
一度でもウィーナとの将来が思い浮かんでしまうと、その空想は勝手に膨らんでいった。
彼女に贈ったドレスはとてもよく似合っていたが、母が鍛え上げた侯爵家のメイドたちの手によって磨きをかければさらに輝くだろう。
誰もが振り向くような美しい令嬢に仕上がった彼女をエスコートするのは当然、婚約者であるフィルだ。
『とても綺麗だ、このまま部屋に閉じ込めて誰の目にも触れさせたくないくらいだ』
フィルは彼女の指先に口づけをしながら甘くささやき、ウィーナは恥じらいながらも・・・
そこまで考えてフィルは思った、果たしてウィーナは恥じらうだろうか、と。
ウィーナはフィルのことをどう思っているのか。
婚約者のふりをしてくれているのだから嫌ってはいないだろう、しかしそこに思慕があるかと言われれば首をかしげたくなる。
フィルの甘いささやきにもウィーナは顔色を変えることもなく、ありがとうございます、と言いそうだ。
フィルは契約ではなく本物の婚約にしてもかまわないと考え始めているが、彼女はどうだろうか。
自分で言うのもなんだがフィルは学園で一、二を争うモテ男だと自負している。
そのフィル・コートレルの顔を彼女は知らなかった。
だからこそ契約を提案した。本気で妻にしてほしいと迫る可能性のある令嬢では都合が悪かったからだ。
それに一時的に婚約するにしてもコートレル侯爵の婚約者として相応しい令嬢でなければならなかった。
そういう意味で彼女は条件にぴったりだったのだ、実家への支援をちらつかせば食いついてくる可能性があり、それでいて素行は悪くなくしかも成績優秀な令嬢。
ウィーナ・カペルという存在を知ったとき、フィルは内心で小躍りするほど喜んだ。
令嬢たちに取り囲まれる毎日にうんざりしていたフィルはいち早く彼女に接触し、望み通り風よけにすることに成功したのだった。
彼女と行動を共にし始めてから、噂以上の博識に驚かされた。
彼女はそれを上手に使ってコミュニケーションの円滑化を図っている。
高位貴族ばかりが集まった王妃の茶会でも子爵令嬢とは思えないほど終始、落ち着いて対応していた。
最初のうちは侯爵家に子爵令嬢は相応しくないと色眼鏡で見ていた使用人たちも、前夫人との茶会を重ねる日々の中で考えを改めたようで、今ではウィーナの来訪を心待ちにしている。
フィルが評したようにウィーナは優秀だ、使用人も彼女を認めたのだから家政の問題も皆無だ。
考えれば考えるほど彼女を侯爵夫人として迎えるのが正解な気がして、フィルはついにウィーナに本当の求婚しようと決意した。
その日、フィルはウィーナに求婚しようとランチタイムに彼女のもとへ行った。
放課後の約束を取り付け、景色のいい公園に彼女を連れ出し、そこで求婚するつもりだった。
学園の食堂は誰でも使える一般食堂と高位貴族だけが利用できるサロンに分かれている。
侯爵のフィルは当然、サロンを利用しており、一般食堂に立ち入ったことなど数えるほどしかなかった。
大勢の学生でごった返している食堂の中で友人たちと食事をしているウィーナを見つけた。
「ウィーナ、ちょっといいかな」
突然現れたコートレル侯爵にウィーナよりもその友人たちが驚きと少しばかりの怯えを見せた、下位貴族にとって侯爵当主というのは恐れ多い存在なのだ。
ウィーナは友人たちを安心させるように微笑み、それからフィルに向き直ると、
「場所を移しましょう」
と、いつものように落ち着いた態度で彼を人気のない階段の踊り場に誘導した。
「なにか急ぎの御用でしょうか」
ウィーナとふたりきりになり、急に落ち着かない気分に襲われたフィルであったが、なんでもない顔をして言った。
「今日、一緒に帰らないか?」
フィルの誘いにウィーナは形の良い眉を動かし、
「前侯爵夫人がお呼びでしょうか?」
と言った。
王妃との茶会は終わり、放課後にウィーナがコートレル邸を訪問する必要もなくなった。
フィルと一緒に帰ることもなくなり、ウィーナは今までのように乗合馬車で下校している。
最近、乗合馬車を利用する生徒が増えた為、一部の座席が予約制になった。
今朝も登校の際、帰りの予約をしたのだが、フィルの馬車で帰るならキャンセルをしなければならないのだ。
「いや、そうじゃない」
「ではなにか?」
間髪入れずに問いかけてくるウィーナにフィルはイライラしてきた。
「別にいいだろう、わたしたちは婚約しているのだから」
「それはそうですが」
用もないのに一緒に帰ろうと言われてウィーナは困惑したものの、強く反対する理由も見つからない。彼の言う通り自分たちは婚約者同士なのだから。
「わかりました、放課後、わたくしが卿のクラスに参ります」
フィルは、自分がウィーナの教室へ行くと言いかけて止めた。
彼女の友人たちは侯爵当主の登場にまた怯えるかもしれない、婚約者の友人を怖がらせたくはない。
「待っている」
自分でも締まりのない顔をしているとわかったがどうしようもない、ウィーナへのフィルの気持ちはもう定まっている。
愛しい人との逢瀬の約束に自然と笑みがこぼれるフィルをウィーナは不思議そうな顔で眺めていた。
「お待たせして申し訳ございません」
放課後、人もまばらになった教室にウィーナがやってきた。
「遅かったね」
「少し用事ができてしまいまして」
「まだかかるなら待つけど?」
「いえ、もう済みました」
参りましょう、と馬車止めに向かって歩き出したウィーナにフィルは慌ててエスコートの手を差し出した。
「コートレル卿、どうかなさったのですか?」
侯爵家の馬車に乗り込み、走り出してしばらくしたところでウィーナは言葉を選びながらそう言った。
「どう、というのは?」
「なんだか、少しご様子が」
「うん、まぁね」
フィルはウィーナへの気持ちを自覚した、これは大きな変化だ。
正直、ウィーナはまだフィルと同じ気持ちだとはとても言い難いが求婚を断ったりはしないはずだ、コートレル侯爵夫人という立場はそれほど悪いものではない。
渋るのなら母をだますことにならなくて済むとでも言えばいい、心優しい彼女はそのことを気にしていたから。
本当の婚約者になってから時間をかけて口説き落とすつもりだ、この顔と地位があれば彼女を手に入れる自信はある。
馬車は街並みを抜けて小高い丘にたどり着いた。
王都を一望できるこの場所はふたりにとって思い出の地になるはずだ。
フィルはいつものように先に馬車を降りて、ウィーナにエスコートの手を差し出した。
ウィーナもやはりいつものようにためらいがちに彼の手に触れ、馬車を降りる。
「こちらへ」
フィルは散策路にウィーナを導いた。
「どこに行かれるのですか?」
「この先にたくさんの花が咲いている場所があるんだ」
「そうですか」
目的の場所が見えてきた、ウィーナは驚きの笑顔を見せている。
「本当にたくさんの花。王都近郊にこんな場所があるなんて存じませんでした」
素直な感想を口にするウィーナをまぶしい目で見つめたフィルはさっとその場に跪き、その瞳を見つめた。
「ウィーナ、わたしは君を愛してしまった。どうかわたしと本当の婚約を結んでほしい、君と結婚したいんだ」
「それは、できませんわ」
「君が戸惑うのも無理はない、わたしたちの婚約は契約でしかなかったのだから。
だが、生涯を共にするなら君しかいないと気づいたんだ。
ウィーナ、君の愛を欲するこの哀れな男にどうかイエスと言ってくれ」
フィルの筋書きではここでウィーナが悩みながらもうなずいてくれるというものだった。
そのあとは彼女を抱きしめ口づけをし、あわよくばウィーナからのそれを受け取る。
もちろん彼女からの口づけは触れるだけで終わらせない、本当の恋人たちがかわすような深く甘くとろけるような色香を含んだそれ。
その後、フィルとウィーナは熱く見つめあい、ふたりは本物の恋人同士となるのだ。
が、しかし。
「困ります、コートレル卿には当初のお約束通り別れていただきませんと」
ウィーナは見事なまでにきっぱりはっきりと拒否を口にし、フィルの妄想は音を立てて崩れていった。
「いや、だからその約束はなかったことにしようと提案している」
「まぁ、侯爵ともあろうお方が約束を反故にされるのですか?」
「そういう言い方はよくない。君を愛したが故に契約ではなく本物の恋人同士になろうと言っている」
「ですから、それは困ると申し上げております」
「何故だ、侯爵家に嫁げば君の実家を支援することもやぶさかではない」
「一生涯に渡るご支援など不要です」
「だが、資金はどこから工面する気だ?金は降ってわいてくるものではないぞ」
「当てはございますわ」
言いよどむウィーナにフィルは嫌な予感がする。
「まさか、君の新たな婚約はすでに調っているというのか?」
「とんでもない、お別れする前から新たな相手を見つけるなどいたしませんわ」
「では君の言う『当て』はなんだ?」
ウィーナは口をつぐんでいたが、フィルが引きそうもないことを察すると小さくため息をついてから言った。
「わたくし、家庭教師になって家計を支えたいのです」
ウィーナの発言はフィルの予想をはるかに超えていた。黙り込むフィルを立ち上がらせながらウィーナは説明を続ける。
「卒業まで学園に残りたいと申し上げたのはガヴァネスとなる為です。だいたい、どんな職業に就くにしても卒業証書がないと雇ってはいただけませんもの」
「では成績上位をキープしていたのは…」
「ガヴァネスになりたいからです」
「母上は君の所作を褒めていた」
「侯爵夫人にお褒めいただいたのですから、高位貴族のお屋敷で働くにも申し分ないということですわね」
ありがたいことです、とウィーナはにっこりと微笑んでいるがフィルは笑えない。
「カペル子爵は了承されておられるのか?」
「いいえ、両親は反対しております」
「それならわたしと結婚すればいい、妻の実家の支援ならおかしなことではない」
勢い込んで言うフィルとは対照的にウィーナは静かに首を振った。
「卿のお申し出は有難く思いますが、この婚約はコートレル侯爵家にとってはなんのメリットもございません。
貴族の結び付きというのは双方にとって良い結果をもたらせねばなりません、そうでなければ領民に示しがつきませんもの。
それに結婚と申されましても、わたくし、卿のご趣味にはついていけそうもありませんので」
「趣味とは?」
「ロイヤルボックスでの観劇、高位貴族ばかりを集めた展覧会、さらには王家主催の茶会など、子爵令嬢のわたくしにはどれも荷が重すぎます。
分不相応という言葉もございますし、もし今後、ご縁があるのでしたら身の丈に合った方をと考えておりますわ」
コロコロと笑うウィーナの前に佇むのは石造のように固まったまま動かないフィル。
動こうとしない彼を促し、ウィーナは馬車に乗り込んだ。ふたりは一言も会話をすることなく、馬車はカペル子爵の屋敷に到着した。
「先ほどのお話、わたくしは忘れますから卿もそうなさってください。お送りいただきましてありがとうございました、失礼いたします」
ウィーナはそう言って、御者の手を借り馬車を降りるとさっさと屋敷の中に入ってしまった。
その後姿を見送ることしかできなかったフィルは御者に促されて帰路についたのであった。
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