ヨナスとエリオラ2
ヨナスの頭には過去の、今となっては未来の記憶が蘇ってきていた。
学園に入学してすぐ、ヨナスは寮へと入れられらた。
本当は王都の邸宅から通いたかったが母親からの強い希望があったからだ。昔から、母はヨナスがエリオラの傍にいることにあまりいい顔をしなかった。
母は姉弟の仲がいいことを微笑ましく思いながらも、公爵家の跡取りに病がうつることを恐れていた。
罪悪感と不安に押しつぶされそうになる母を前に、次第にヨナスは姉から距離を取るようになっていった。
寮に入ってからは邸宅に帰るのは長期休暇のある夏と冬だけで、普段は手紙でのやり取りだけが、彼と姉との唯一の接点だった。
その日も、寮の管理人がいつも通りヨナスを呼び止めた。
通常なら手紙は各自の部屋へと割り振られるが、とりわけ頻度が高かったヨナスへの手紙を部屋へ持っていくのを面倒くさがった管理人は、ヨナスが管理人室の前を通り過ぎ際についでに渡そうとすることが多かった。
高位貴族に対して学園の外なら無礼者として首が飛びかねない態度だが、どうにも不思議なことに飄々として独特な空気をまとうこの管理人相手には注意する気も起きなかった。
「ガートネット。ヨナス・ガートネット!」
「はい。何ですか?」
「ご実家から手紙だ」
「手紙?」
やけに分厚い封筒は母の宛名で届いていた。いつも来る姉からの手紙は凝った便箋だったから、飾り気のない封筒に嫌な予感がしていた。
外は今にも雨が降りそうな灰色の空をしていたけど、電気を消した室内でも僅かに辺りが見えた。
胸騒ぎがして、寮の部屋に入ってすぐに封を開けた。
『ヨナスへ
エリオラが今朝息を引き取りました』
「…………は?」
悪い冗談みたいな書き出しに思わず声が出たのを覚えている。
『一週間前、容態が急変して、今度こそもう駄目なのだと悟りました。お医者様が言うには体が弱っているから、良くない病気を沢山引き寄せてしまうみたい。原因不明の高熱が止まず、使用人の何人かは感染って体調を崩していました。私はもし貴方に病気が感染ったらと思うと気が気でなくて、貴方には知らさず、最期だけ伝えようと決めました。これはお父様とお姉様にも相談して、三人で決めたことです』
封筒が厚かったのは、もう一通手紙が入っていたからだった。見覚えのある凝ったレターセット。封筒の差出人には姉の名前が書いてあった。
『ごめんね。何もしてあげれなくて』
姉のそれは口癖のようで、いつも顔を合わせると口にしていた。
『お勉強教えてあげられなくてごめんなさい。一緒にご飯も食べてあげれなかった。遊びにも行けなかった。何もできない姉でごめんなさい。家のために何かをすることも出来なくて、私がいるせいでいっぱい迷惑かけたよね』
求めたことなど何もなかった。それなのにいつも申し訳なさそうな顔をしていた。
『お母様はいつも私がヨナスのそばにいると不安そうだった。お父様は優しかったけど、私に期待もしてなかった。寂しくて辛かったけど、ヨナスが居てくれたからいつも安心できた。私が居なくても、公爵家は安泰だって思えたから』
母も父も姉を愛していた。使用人だってそうだ。
自分と違い、誰からも愛される姉。でもそのことに疑問を抱いたことは一度だってなかった。
『私、家の役に立たないことずっと苦しかったけど、それ以上にヨナスのために何もしてあげられなかった事が心残りなの。貴方は不器用で、素直じゃなくて、人と少しズレているところがあるから、いつも心配で。でも、貴方が誰よりも強いことを知ってます。きっと私がいなくても大丈夫』
こんなのは違う。これで終わりなわけがない。
姉の手紙は見当違いな言葉だけが並べられていた。
『大切なヨナスへ。何もしてあげられなくてごめんなさい。いつまでも元気でいてね』
文章はそこで終わっていた。
「……違う」
エリオラは肝心な事を間違えていた。これで最後だというのに、馬鹿な姉は重大な思い違いをしていた。
「……何もしてやれなかったのは、俺の方だ」
いつも苦しい思いをしてたのに、痛みを和らげてやる事もできなかった。側にいてやれなかった。たくさん、彼女の願いを聞いてきたのに、叶えてやることも出来なかった。死に目にもあってやれなかった。
今も、泣いてやることさえ出来ない。
ヨナスは手紙から手を離せないまま、部屋を出た。何か目的があってのことじゃない。動いてないと気がおかしくなりそうだった。兎に角、誰か人のいる場所へ行きたかった。
廊下に出て、歩く気力も湧かず、窓際に寄った。不可解なものを見る目で、何人かが通り過ぎていく。話しかける人間はいない。
体に無駄な力が篭ってる。関節が錆びたようにうまく動かない。誰かに会いたい。会って話がしたい。全部、嘘だと言って欲しい。一体、誰に会いたいっていうのか。
……。
姉様に会いたい。
「ヨナス?」
話しかけられて、はっと我に帰った。目の前に、金色の髪と目をした男が立っていた。アーノルド王子。いずれこの国の王になる男。
ヨナスはそれを家臣として、時に支え、時に諌めなければいけない。
頭が急激に冷えていく。感情を他所に、使命感が体面を保とうとする。身に染み付いた習慣が背筋を伸ばさせる。
視線をよこすとアーノルドは少しバツが悪そうにみじろぎした。相変わらず苦手意識があるらしい。それでも、最近は何故かしょっちゅう声をかけてくるようになった。何か心境の変化があったらしい。
そういえば庶民の女を学園へ入れようとしているらしいと、風の噂で聞いたことがある。
「こんなところで何をしているんだ? ぼーっとしてるなんて珍しいな」
「別に。外の景色を見てたたけだ」
「こんな曇り空を?」
不思議そうにアーノルドが首を傾げる。
アーノルドは窓の外から、俺の手へと視線を移した。持っていた手紙へと目を止める。
「それ、家族からの手紙か?エリオラさんは元気だって?」
にっこりとアーノルドは笑っていた。一点の曇りもない太陽のような笑みだった。
元気? 元気かって?
どんなつもりで聞いているんだ? エリオラが元気だった時なんてずっと無かっただろう。いつも、いつも癪に障る。
文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、ヨナスの口から言葉が出ることはなかった。
おかしい。何でだろう。自分の言葉に納得がいっていないからか。
疑問が頭に浮かんで、すぐに冷や水を被ったように頭が冷えた。心にぽっかり穴が空いたように、今までなら湧いてきていたはずの怒りが湧いてこない。
その理由に気づいてしまう。
もう居ないのに怒ったって仕方がない。
それに、エリオラはやっと苦しまなくて良くなった。
「……元気だよ。今までで一番」
白々しく空虚な言葉が口をついて出た。元通り窓の外へ視線をやると後ろから嬉しそうな声が聞こえた。
「そうか!快方に向かってるんだな! いつ聞いても具合が悪そうだったから心配だったが、それなら良かった!」
「……」
よく赤の他人の体調なんかで喜べるもんだ。
そう思いながらも口から出ていくことはない。
無視をし続けているとアーノルドはいつの間にか姿を消していた。
日が暮れて、見回りに来ていた管理人がヨナスの肩を叩いた。心配そうにこちらをのぞき込んでいたが、そんな他人の態度さえ億劫で、ヨナスは部屋へと戻った。
いつまでも目を閉じることができない。涙一つ上手く流せない。時が止まったように感じるのに、窓からは明るい日差しが差し込み始めて、カーテンを閉じた。
真っ暗な部屋の中、目を開け続けてしばらく経ったころにイヴァンが訪ねてきた。
「亡くなったんだって? 君のお姉さん」
どこか愉快そうな声で彼はヨナスへと尋ねた。
「だったら何だ。お前には関係ない」
「待ちなよ。蘇らせる方法があるって言ったら、どうする?」
少しの間、ヨナスは言葉に詰まり、すぐに思い直して鼻を鳴らした。
「はっ。そんな方法、あるわけないだろ」
「あるよ。アーノルドがさ、癒しの力をもつ娘を見つけたんだ」
思い当たる噂が脳裏によみがえる。息をのむと、イヴァンは上機嫌につづけた。
「ま、その子には蘇生させるまでの魔力はないんだけど。庶民の出の子だから魔力が少ないんだ。でも、莫大な魔力があれば出来るかもよ。ね、試したくない?」
こちらを試すように問いかける姿は、物語の中の悪魔のように思えた。
ただでこちらに都合のいい話を持ち掛けてくる相手ではないことは重々承知だった。
「……何が目的だ」
「流石話が早いね」
すぐに真意を問い質したヨナスに、イヴァンは少し距離を詰めた。ベッドに横になったままのヨナスの後ろでぐるぐると意味もなく歩き始める。
「アーノルドには王位は相応しくないって思わない? 彼より僕の方が」
「本当にそう思ってるのか?」
滔々と白々しい建前を口にしかけたイヴァンをヨナスは遮った。
ぴたりと、足音が止まる。
「……え?」
「お前の目には野心が見えない。見えるのは、歪んだ自己顕示欲ぐらいだ。他人の足を引っ張るだけが目的のやつが表だけ着飾って立派な目標をあげつらっている」
「……」
束の間の沈黙がおりたかと思うと、イヴァンは勢いよく笑い始めた。
「ふっ……あははははは!!! 流石、よく見えてる!でも、少し見当違いだ。君の言うとおり、僕の目的は王位を継ぐことじゃ無い。でも、その過程に、王位は欲しいんだ。地獄を見せてやりたい人間がいくつもいるんだ。ねぇ。頼むよ。どうせもう君が求めるものなんて真っ当なやり口じゃあ手に入らないんだから」
これは悪魔の取引だ。その手を取れば後戻りはできない。持っているもの全てを奪われるだろう。
俺の持っているもの。公爵家の家督、莫大な財産、地位も名誉も、何もかも。
こんな時でも冷静な頭が思考を巡らせる。でも、ただいつもと違ったのは、いつもよりもっと、冷静に、冷たく、自分へ話しかけるものがあった。
いままでずっと切り離してきていた、自分自身の感情。公爵家の跡取りとしての建前や世間体を抜きにしたヨナス自身の価値観、欲望。
公爵家の家督、莫大な財産、地位も名誉。
今までどうして必要としてきたのか。大切だったのか。
頑張ったところで、欲しかったものはもうこの世には無い。
外法にでも頼らないと、姉様にしてやれることは何も無い。
間違っていても、正しくありたかった理由がもう無い。




