第十五話 『継ぎ目』
体がバランスを崩し、緩やかに地面に向かって倒れ込む。
否、緩やかなのは怜使の意識だけだ。
魔獣の剛腕に体を潰される寸前、死を確信した怜使の身体は思考を引き延ばし、あるいは世界の時間が引き延ばされたかのような錯覚をもたらした。
されど錯覚は錯覚。無知無力、加えて怯え切った怜使には、今さらどう足掻こうともその虚構の時間は意味を成さない。
しかし、引き延ばされた時間の中で、怜使は理解する。
今地面に倒れゆく自身の体が、ほんの一瞬前に何かに優しく突き飛ばされたこと。そして、それをしたのが誰であるのか__視界の端で揺れる綺麗な白髪が、それを何より物語っていた。
「__っ」
怜使を突き飛ばした白髪の少女__白金瑠華が、岩の剛腕に殴り飛ばされる。
気丈にも苦鳴を押し殺す瑠華だったが、怜使を庇い、防御もままならぬ姿勢で魔獣の破壊的な一撃を受けたその体は、風に舞う木の葉のように軽々と吹き飛ばされた。
先にその拳を受けた伊奈よりもさらに長い距離を飛ばされ、しかし同じように地面を転がり、静止する。
「瑠華ちゃん__!」
必死の形相で呼びかける怜使。しかし、その叫びに最初に反応したのは、すぐ目の前に立つ魔獣の方であった。
顔をぬるりとこちらに向け、次いで全身も向き直る。そしてゆっくりと両の拳を振り上げ、地にへたり込み動けない怜使を今度こそ叩き潰さんと__
「__ぉぉおおおおッ!!」
咆哮が聞こえた。
ガインッ、という音だけが響き渡り、訪れると思われた衝撃はやってこない。
恐る恐る目を開けると、魔獣の振り下ろした剛腕が一本の大剣に受け止められていた。
それを為すのは、つい今しがた剛拳の直撃を受け、遥か後方へ吹き飛ばされたはずの白髪の少女。
「__彩ちゃん!伊奈ちゃんと怜使ちゃんを!」
「わかった」
岩の鉄槌を受け止めたまま、瑠華は彩に呼びかける。
いつの間にか近くまで来ていた緑髪の少女は、立ち上がろうと両手をついて踏ん張る伊奈を抱き上げ、怜使の元へ駆け寄る。
「立って。離れる」
「う、うん」
彩に促されるままに後方へ。瑠華の方を見つめながら、彼女と魔獣から再び距離を取った。
三人が数メートル離れた辺りで、魔獣と魔法少女、両者の均衡が崩れる。
瑠華が体を僅かに沈める。突然、拳を受け止めていた大剣が沈み込み、支えを失った魔獣が微かに体勢を崩した。
白髪の少女はその綻びを逃さない。魔獣がバランスを崩し、両腕を押し込む力がわずかに弱まったその瞬間、身の丈ほどもある大剣を思い切り振り上げ、魔獣の両腕を跳ね上げた。
少女が再び身を沈める。流れるような動作で剣を左脇に構え、両の手で以って振り抜く。
狙うは、がら空きの胴。
「__っ、硬い!」
ガインッ、と再度音を立て、打ち込まれた剣が停止する。
これまで怜使の前であらゆるものを断ってきた瑠華の剣も、岩の魔獣を僅かに横に弾くに留まった。
魔獣が地面を強く踏み締め、体勢を立て直す。
後方と左側、瞬きの間に二度それぞれの方向へ弾かれた体を左脚の踏み込みだけで支え、さらに腕を弾かれた勢いを利用して腰を捻り、左の拳を脇に構えた。
自身の体の硬さと瑠華の膂力を利用した、渾身のカウンター。
文字通り岩をも砕くその一撃を、少女の細い体へと叩きつけ__
「__ふっ!」
瑠華が短く息を吐き、身を捩らせる。
魔獣の胴体に叩きつけられたままの大剣、その刃を岩の肌に滑らせると共に、両脚で軽やかに地面を蹴り、跳躍した。
空中で腰を捻り、二度、三度と錐揉み回転。体を地面と並行にし、回転の勢いをそのままに、大剣を迫り来る岩の拳へと振り下ろす。
振るわれる鉄の刃が、破壊的な威力の魔獣の拳、その中心を正確に打ち据える。膂力と遠心力、その両方を余すことなく用いて岩塊を押し除け、強引に下へ軌道をずらし、地へと叩き落とした。
地面が砕け、衝撃で突風が巻き起こる。
「すっご……」
数メートル先で実演された超人的な動きに、思わず怜使の口から感嘆の声が漏れる。
現実離れした躍動感に、つい数秒前の恐怖も忘れ、息を呑んだ。
しかし、そんな怜使の感慨を他所に、二人__否、一人と一体の攻防は続く。
瑠華が、撃ち落とした剛腕の上に着地する。その目からはなおも戦意が抜けず、微塵も油断はない。
三たび、剣を構える瑠華。その傍ら、魔獣は撃ち落とされたのとは反対、右の拳を構え、瑠華に殴りかかる。
左半身が前のめりで、重心の乗り切らないその拳は重みも速度も先の二撃とは比べるべくもない。
拳が射出されると同時に、瑠華は再び跳躍し、先刻より数段緩慢なそれを回避した。
「__やっぱり」
口の中でそう呟き、剣を左肩に構えて空中から魔獣を見下ろす。
左腕は地に満ち、右腕は伸び切り、無防備な魔獣が遅れて瑠華を目で追いかける。
それを意にも介さず、剣士は真下の右腕、その中心に狙いを定めた。
腕を、腰を、極限まで捻り、ありったけの力を込める。全身の筋肉が収縮するのを感じながら、小さく息を吐いた。
そして、一瞬にも満たない刹那の後、全身で剣を振り抜き、溜めた力の全てを、解放する___
___静寂。時が止まったかのように静かな世界で、唯一白髪の少女だけが、剣を手に空中で身を翻していた。
ザッ、という音と同時に瑠華が着地する。蝶のように舞ったその姿を見て、怜使は瞠目する。
その手に握られた大剣の刀身に、赤黒い血がべっとりとついていた。
「-----ッ!」
魔獣が天を仰ぎ、咆哮する。
うずくまり、身を捩らせ、右腕を胸の辺りに寄せて___肘から先が、ずるりと落ちた。
「き、切れた……!?」
彩の銃弾も、伊奈の魔法も通さなかった岩の外皮。圧倒的な防御力の前に、瑠華の剣も数えて三度、通らなかったはずだ。
呆気に取られる怜使の横で、地に両手をつく伊奈も目を丸くしていた。
「な、なんで……」
「__あれだけ硬くても動けるっていうことは」
伊奈の呟きを聞いてか、瑠華が口を開く。
そしてゆっくりと振り返り、痛ましい咆哮を続ける魔獣を見下ろした。
「体の節々に、『継ぎ目』があるってこと」
言いながら、剣を頭上に振りかぶる。
それを受け、魔獣は怯えたようにうずくまり、頭を抱える姿勢で丸まった。
岩の表皮が僅かに膨れる。いかなる脅威も弾く、隙のない防御体勢。
ただし、それは両腕が健在であった場合の話。
「___」
瑠華が剣を振り下ろす。刀身は岩塊の右側面__右腕がないことで空いた隙間を通り、魔獣の首を『継ぎ目』のところで断ち切った。
魔獣の首が落ちる。間髪入れずに体が霧と化し始め、わずか数秒でその巨体が幻のように消え去った。
「……倒しちゃった」
目を丸くしたまま呟く伊奈。怜使と同様唖然とする彼女は、一心に瑠華の方を見つめていた。
瑠華が背中に剣を納める。
そしてすぐさま怜使たちの方に振り返り、ゆっくりと駆け出した。
徐々にスピードを上げ、風の如き速度に達したと同時に、こちらへ到達__飛び込むように、勢いよく伊奈に抱きついた。
「わぶっ!る、るーにゃ?」
「__伊奈ちゃん、ごめん……遅くなってごめんね……!」
突然のことに怜使も伊奈も目を丸くする。
それには気づかない様子で、伊奈を抱えてうずくまる瑠華。背を丸め、顔を下に向ける姿勢のために、その表情は伊奈にも、怜使にも、彩にも見えない。
しかしその手は、声は、微かに震えていた。
「だいじょーぶだよ、るーにゃ。あたし、ちゃんと生きてるよ」
「___」
「それにあたし、一応回復魔法使えるしっ。こんなの全然へっちゃらだよっ!」
「でも……」
「それよりれーちゃんだよ!るーにゃが庇ってくれてなかったらどうなってたか!」
言いながら、伊奈は瑠華の頭に手を伸ばし、優しく撫でる。
あの時と同じだ。怜使が瑠華と、魔法少女との関係に悩み、無力な自分がそのそばにいていいものかと答えを出せないでいた時、伊奈は怜使に優しく語りかけた。
そして、水底に差し込む光のような、柔らかく暖かい言葉で、沈み切った心を優しく解きほぐしたのだ。
「だから、ありがとう、るーにゃ。あたしたちを守ってくれて」
「___」
小さく縮こまり、伊奈に頭を撫でられ続ける瑠華。
数秒前の勇ましい姿が嘘かのように、漏れ出す声を押し殺し、肩を震わす少女の背中が、どこか、怯える子どものようで。
その姿は、その場にいた誰よりも小さく、弱く、儚げに見えた。




