3・彼女と公園と
後半に入ってからぽつりぽつりとたどたどしく降り出した雨は、今やもう痛いほどだった。
疲労した身体を雨粒は容赦なく撃ち続ける。黒い雨雲は視界を遮るのではないかと思うほど低く蠢いていた。鼻筋をなぞったのは雨なのか、それとも汗なのか。走る度に粘ついた泥が跳ぶ。
ペナルティエリアがやけに小さく見える。自軍ゴール前での攻防はまさしく背水の陣だった。空がごろごろと唸り、同時にボールが弾き出される。
フォローに走っていた俺が一番近い。ボールへ向かい、最短距離、一直線に走り出す。
俺と対面するように走って来る敵の姿が眼に入る。敵ゴールに素早く視線を走らせ味方と敵の人数を確認する。
いける、ここでクリアし、カウンターだ。
俺はなんとかボールに追い付く、厳しい体勢からも右足を振り上げる。
――何かが俺の足を掴んだ…――。
ベッドに横たわる俺の朝を、薄汚れ見慣れた天井が出迎えた。
俺は何か黒いものを引き剥がすように、額の汗を拭い去る。
久々に嫌な夢を見た。
前の公園での出来事…いや、それだけではあるまい。彼女「春野 朋香」との出逢いによって、今まで必死に封印を護っていた札が俺の中で剥がれ始めてきたようだ。
夢の中で受けたあの日の雨が、まだ身体に染み付いているような気がし、俺はシャツを引き千切るよう脱ぎ捨て階段を駆け下りる。雨、いや、汗を洗い流す為、バスルームに荒々しく飛び込みコックをひねった。
「朝からシャワー?遅刻するわよ!」
ドアの向こうから甲高い母の声が飛び込んで来る。
かまうものか、どのみち今日はサボるつもりだ…――。
水曜日…、平日の公園は空いていた。
といっても日曜もほとんど人はいなかったか。今の自分にはちょうど良い静けさだ。
「あれっ…遼平君?」
頭上で声がした。今一番聞きたくなかった声…『春野 朋香』だ。
「今日は水曜だよ…学校は?」
ツチノコでも見つけたような丸い眼で俺の全身を観察する。白いシャツに黒いブレザー。彼女も見慣れた制服姿の若僧が、平日の朝の公園で何をしているのか。彼女の眼に奇異に映ったのも仕方ない。
「見たまま、サボりだよ」
彼女を見据え口を開く。
今日俺は朝のシャワーの後、たこが出来るほど習慣となった身支度を済まし、何食わぬ顔で家を出た。向かったのはひび割れた校舎ではなく、この静まりかえった公園だ。
母は今頃、息子の勉学に勤しむ姿を思い浮かべながらテレビのボリュームを調節しているのだろう、可愛そうに…。自作自演の罪意識を握り潰すよう眼前の彼女に呟く。
「お互い様だろ」
網戸を閉めるような音で言ってやった。彼女は赤いトレーナーに空色のスカート、そしていつものコートだ。その姿は『学校』の二文字とは何億光年もかけ離れたものだった。
俺の言葉に彼女の顔がびくりと引きつった…ように見えた。意外な様子にどきりとし、俺は彼女の顔を見直してみる。
「あはは、そうだね」
しかしそこには、いつもの穏やかな表情が流氷のように漂っていただけだった。その彼女の言葉に、俺は少し苛立った。
平日の公園にまで何故彼女は現れる?孤独を求め冷めたベンチに腰を下ろす俺の前に、どうしていつもいつも姿を現すのだ。
そんな想いを気取られないよう、苛立ちまぎれにボールを両手で指圧する。ぎりぎりとボールは悲鳴を上げた。
そんな俺の防衛機制なんぞ気にもせず、いつものように彼女は俺の隣に座る。そしてビデオのように同じ動作でクロッキー帳を開きターゲットを睨み付ける。彼女の動き全てが俺への嫌がらせのように思えてきた。
君は一体何なんだ!?声を張り上げ借金取りのように詰寄ってやろうか…、そんな衝動が俺の肺を圧迫する。
いや、落ち着け。皆が机に向かい嘆息をついている今、こんな公園の冷めた空気と共に時間を費やす彼女も、俺と同じものを求めてここへ来たのかもしれない。
いや、彼女は俺より先に『来ていた』のだろうか。姿を消したあの夏から、ずっと…。
今日の俺のような気分…、誰とも会いたくない、話したくない、自分の心に踏み込まれたくない…。そんな重く硬い金庫のようになりたい気持ち。それを雨漏り程度の水で浸す為、この他人と接点の無い『ねじれの位置』に身を置く為、俺はここへ来た。そんなすがるようなちっぽけな望みの潤いを彼女が妨害する…、そのように思った。
しかしそれは彼女にとっての俺という存在も、同じようなものだったのかもしれない。
何故こんな考えが浮かんで来るのだろう。彼女への苛立ちは知らない内に気化していた。
てんてん…――。
その間の抜けた音に俺の思考は幕を下ろされた。
何の音だ?
隣に眼をやると筆を止めた彼女の眼は、俺の足下をじーっと眺めている。どうやら俺がボールを落とした音らしい。
他人事のように事実確認を済ませると、俺は三メートル弱転がったボールに向かいひょいと首根っこを掴むように拾い上げた。
「ねえ…」
風が吹いたのかと思った…が違う、後ろにいる彼女の呟きだ。
これは俺に対しての呼び掛けか。分かりきった事を自問し俺は時間を稼ぐ。
何の為の?無論、時間稼ぎの為の時間稼ぎなのだ。合わせ鏡のような莫迦げた答えだ。だが、それが一番相応しい。
「本当にサッカー…」
デジャヴ?
違う、そんなロマンティックなものではない。
二週間前と全く同じだ。彼女の問いに背を向け電柱のように立ち尽くす俺に、彼女の固く抉るような灰色の声が重圧を加える。俺は振り向き、遮るように口を開いた。
「もう、サッカーの話はやめてくれないか?」
思っていたより荒々しい声が出た事に自分で驚く。しかし彼女に隙を見せないよう、続けてフォローするように呟いた。
「思い出したくないんだ」
頭痛を抑えるように手をやりながら俺は息を吐く。身体がやけに熱い。
「でも…―――」
言い掛けて、彼女は躊躇するように言葉を途中で止める。が、すぐ決断したように今まで飲み込みかけたそれを俺に向かって放つ。
「まだ、好きなんでしょ?」
彼女の言葉によって、俺の中で固まっていた溶岩がふつふつと沸騰する。
「なんでいっつもボールといるの?」
やめろ!
「なんでいつも歩くとき…、昔のドリブルと同じように左足から踏み出すの?」
やめろ!!
「なんでいつも…」
やめてくれ!!
「五月蝿いな!!」
気付いたときには、彼女の声を払いのけるように叫んでいた。
俺の咆哮は平日の公園に警報のようによく響いた。実際、それは俺にとっての警報だったのだ。
彼女の眼を歯軋りするように睨む。しかしその相手は俺にただ悲しそうな眼を向けるだけだ。それをかなぐり捨てるように俺は彼女に背を向けた。無言で出口へと向かう。
「遼平君!!」
ぴたりと立ち止まる。
「今度二人でサッカーしよう!」
彼女は尚も突き刺すような言葉を俺の背に投げ掛ける。
「次の日曜日、またここでね!」
俺は振り返らず、再び歩き出す。
そして、彼女が言ったように左足から踏み出す自分に気付き、独り舌打ちした。