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2・果実と雨音と

 一週間後の日曜日…。

 風が少し冷たい午前、もしやと思ったが予感は的中。また彼女『春野(はるの) 朋香(ともか)』は公園にいた。

 この前とは逆に、今度は彼女が先にベンチに座っている。ただ、どでかいスケッチブック…――いや、クロッキー帳か。それを膝の上で立て、真っ直ぐな眼で鉛筆を動かす姿は同じだった。コートも前見たものと同じようだ。

 俺はボールを抱えて考え込む。声をかけるべきか、気付かなかったふりをして違うベンチに座るか、それとも今日は帰ろうか?

 公園の入り口で思考する事数分。クロッキー帳から顔を上げた彼女と眼が合った。手を振る彼女、俺も決まり悪い顔でそれにならう。わざと落ち葉を踏みながらベンチへと向かって歩き出した。

「おはよ、遼平(りょうへい)君」

 一瞬名前を呼ばれた事に戸惑ったが、顔に出さないように努める。広いベンチの端の方に座っている彼女を見て、いつも教室の隅、窓際に身を置いていた彼女の姿を思い出す。

 少し迷った俺は、結局この前と同じ位置、彼女の隣に座る事にした。俺の為に空けていてくれたのでは…という陳腐で都合の良い考えが頭をよぎったのだ。腹の中で苦笑しながら俺は彼女の筆が進むのを黙って見ていた。

 この前のスケッチは完成したのか、今度は新しいページに砂場方面を描いているようだ。鉛筆を握る彼女の手に黒鉛で黒く汚れた部分が見える。肌が白い分、やたら目立っていた。こんなふうにじろじろと見るのも悪いと思い、俺は視線を外す。

 さりとて他にやる事もない。自分の手元のボールを人差し指でくるくる回そうと試みた。バスケ部の人がよくやっているあれだ。俺はトニー・ザ・タイガーのように球を回転させる。

 ぽてん。

 即落ちた。

 サッカーボールには向いていないのだろうか、それとも俺の腕の問題か?ベンチから離れ、俺は転がるボールを拾い上げる。

「サッカー好きなのよね?」

 背中から聴こえてきたのは、今までクロッキーに視線を釘付けていた彼女の声だ。

 俺は背を向けたまま、その場でぴたりと制止する。

「でなきゃ、サッカー部なんて入らないでしょ?」

 彼女はなんでもないように話し掛けてくる。

 俺は突っ立ったまま動けない。ボールを挟んだ両手が汗ばんでいるのが分かる。

「もう、やめたんだ」

 なんとか彼女に吐き出せたのはそんな言葉だった。ステージに立っているときのような、微弱なビブラートのかかった声だ。

「え…なんで?」

 後ろから彼女の上ずった声が俺の耳に響く。振り向かなくても驚く顔が想像出来てしまうほどのものだ。

「なんとなくだよ」

 なかなか命令を聞いてくれない身体を彼女の方へ向け、俺は答えた。

 ぎしりという音がしたような気がする。まさか聞こえていないだろうか?ちゃんと笑えているのだろうか?そんな不安が身体中に充満する。それを誤魔化すよう俺は言葉を続けた。

「俺にチームスポーツは向かないって、分かったんだ」

「ふう…ん」

 正直、適当に発した言葉だった。

 が、見方…いや、聴き方によってはしっかりと的を獲ている。その事がまた俺の気分を害した。

「そう…、もったいないなぁ」

 本当に残念そうな顔になっている。周囲の事に関しては無関心で通す、彼女をそんな女性だとばかり思っていた俺はそれに奇妙な感じを受けた。

 だがその感覚を模索する気はない、俺は早くこの話題から離れたかったのだ。

「春野さんは…絵が好きなの?」

 その為、咄嗟に浮かんだ質問を彼女に投げ掛けた。

「朋香でいいよ?」

 にこりと言う。俺は何を言われたのか、理解するのに時間がかかった。

「朋香…?」

 躊躇いがちに呟いてみる。やはり、しっくり来ない。

 当然だ。彼女とはそんなに親密になったわけでもない…はずだ。

「…さん」

 決まり悪そうに付け足した。彼女は少し残念そうにちらりと俺の眼を見、中断させていた仕事に再び執りかかった。俺もまた彼女の手元に視線を戻した。

 絵の事について俺は良く分からないが、進行具合は良くないようだ。白いページには頼り無さ気に景色の輪郭線だけがぼやけて見えた。彼女はそれを浮かび上がらせるよう短い鉛筆を走らせてゆく。

 一方先程までころころと動いていた眼は静座しているように静かだ。きりりと引き締まっているようでもあり、細波のように穏やかでもある。彼女のそんな眼差しを冬の海のようだと感じた。ぼんやりと波の音が聞こえてきたような気がした。

 知らず知らずの内に、俺はそんな彼女の中に自分の姿を投影する。昔の俺と同じものを彼女が見ているように思えたのだ。

 勿論気のせいかもしれないが、それは今の俺を深く沈めさせるのには十分なものだった。嫌な感じが腹の底で渦を巻く。気付くと汗でべとついたボールを抱くように抱えていた。

「あ!」

 突然の彼女の声に、俺は驚き小動物のようびくりと身体を振るわせる。

「な…なに?」

 丸くした眼で俺は問うた。

「ちょっと休憩。お腹、空いちゃった」

 彼女はコートの右ポケットに鉛筆を裸で仕舞い込むと、次に左ポケットをまさぐり始めた。がさがさと音がする。間も無く小さな白いビニール袋が顔を出した。そこから取り出した紅色のリンゴをひょいと俺に差し出す。

「どうぞ」

 戸惑う俺。彼女はいつの間に取り出したのか、もう一個のリンゴを丸かじりしている。

「…どうも…――」

 躊躇いながらもそれを手に取り無造作に口へ運んだ。がしゅりと彼女と同じよう歯を立てる。甘酸っぱい味が口内に広がる。その果実はぬるく、俺はこの秋空のような中途半端さを感じた。

 しばらく無言が続く。公園には俺達以外誰もいなかった。聴こえるのはリンゴをひたすらかじる音、風が赤錆びた色の木々を撫でる音だけだ。

 そんな中、何故か先程まで俺が感じていた気まずさは何処かへ消えてしまっていた。リンゴの酸味が解かしてくれたのだろうか。

 そんな俺に彼女は紅い実を頬張ったまま笑顔を向ける。その眼が『美味しい?』と訊いたような気がしたので、俺も『美味しいよ』という笑顔で返した。

 気付くともう、太陽は高い位置にその身を輝かせていた。


 昼を過ぎると公園も子供達で賑わってきた。

 彼女はずっと秋の風景をスケッチし、俺はただじっとそれを見る…そんな二人の景色だけは変わらなかった。俺達は時折同じ風景を見つめ感慨に耽ったみたり、はしゃぐ子供達の様子に顔を見合わせて笑ったりする。会話は無かったが、それだけでこの薄汚いベンチがとても心地良いように俺は感じていた。

「さて、じゃあそろそろ帰るよ…」

 秋色と形容するに相応しい夕暮れを見つめながら呟く。時計が無い為判断し難いが、おそらく午後四時はとっくに過ぎ去っているだろう。

 彼女もぱたんとクロッキーを閉じる。

「じゃ、今日はここまでにしよう」

 コートの襟を整えながら言った。どちらからともなく立ち上がり公園の出口へ向かう。

 その時だ。俺の足元に何かがこつんとぶつかった。サッカーボールだ。

 俺は自分の腋に抱えているものを確認する。俺のボールはしっかりとそこにあった。

「すいませーん!」

 甲高い声が遠くから聞こえてくる。見るとニ、三人の男の子達がこちらに手を振っている。全員、薄汚れた同じ体操服を着ている。おそらく小学生だろう。足元の球は彼らの蹴ったサッカーボールらしい。俺は手を振り返す。


 そして、そのボールを…―――


 俺の身体は、氷結したように固まった。

 文字通り凍った背筋を氷点下の冷や汗が走り抜けて行く。自分の呼吸音が聴こえなくなり同時に時間感覚も消失してしまった。ぽたりと、乾いた地面に水滴が落ちる。

 雨?

 あのときと同じ雨?

 なら、もう駄目だ、俺は一歩も動けない。

 よく立っていられるな…。いや、立つ事しか出来ないのだ。

 ぽたり。

 また雨が――

「遼平君?」

 彼女の声で眼が覚めた。

 眠っていたわけではないだろう。が、俺の意識が現実に無かった事は確かだ。頬をなぞる冷ややかな感触…落ちた水滴は俺自身の汗だったらしい。胸中で胸を撫で下ろす。

 そんな俺を見つめる不思議そうな彼女の表情が、痛いほど眼に入る。子供達の怪訝な顔はここからでもよく見えた。

 振り払うよう、足元のボールに再び視線を戻す。自分のボールを小脇に抱えたままそのボールを拾い、片手で軽く放ってやった。二、三度高い音でバウンドし彼らの前にころころと転がって行く。子供達はぺこりと頭を下げた。表情は先程と変わっていない。

 俺は逃げるように眼を逸らした。

「ねえ…」

 そんな俺の様子に対してか、彼女は心配そうに声を掛ける。向けられたその視線は、何かに迷っているように忙しなく動いていた。

 ありがたい事だ、今の俺が彼女の真っ直ぐな視線に耐えられるわけがない。

「ごめん…やっぱり、いい…――」

 数秒後、彼女は手元のクロッキー帳に眼を下とし弱々しく呟いた。俺は地を這うような錯覚の中、彼女と共に歩き出す。

 圧し掛かるような重い沈黙が続いた。同じ無言でもベンチでのものとは雲泥の差だ…と独り感じた。

「またね、遼平君」

 公園出口で彼女の方から口を開いた。別れの為に振られた手は、何かを掻き消そうとするかのように俺には見える。それほど、彼女の笑顔とそこから発された暗い声はミスマッチだったのだ。

「ああ、また」

 俺自身も今、彼女の眼に同じよう映っているのだろうか。誰かに否定されたいと願いつつ、強張った顔で必死に笑みを作り続けた。

 笑顔制作にそれほど気力を使っていたのか、気付くと彼女の姿はもう夕闇に消えていた。くぐもった濃い溜息を一つ吐き出す。俺はのろのろと自宅へ向かって歩き出した。

 風は朝より冷たく、抱えたサッカーボールがやけに重かった。

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