1. 好きにするなら、書斎から
「一年経ったら帰す。それまでは、好きにしていい」
婚礼の花の香りが残る玄関の間で、テオドリク様はそうおっしゃると、書斎へ戻って扉を閉められた。
怒りをぶつけるような音ではない。帳簿を閉じるときに似た、用は済んだという響きだ。
わたしはラーヴィニア、三十一歳。実家の商会と屋敷を十五年、一人で回してきた女だ。
実家の商会が侯爵家から借りた金貨千枚は婚礼で帳消し、その代わりにわたしは一年だけ女主人を務め、終われば婚姻を解く約束だ。
夫婦とは名ばかりで、使う部屋も別だった。
求められたのは、客を迎え、家を回す者。望めば実家へ帰れるし、帰っても借財は戻らない。
「一年で帰してもらう約束だ。それまで稼いでこい」
「一年で結構です。そのぶん、毎日きっちり働きます」
父の手が、わたしの肩を押す寸前で止まる。
「お前のためだぞ、ネーゼル商会を保てば、お前にも帰る家があるのだからな」
「はい、こちらで引き受けた務めは、きちんと果たします」
父の手が宙を迷い、帯の上へ戻る。十五年、帳尻を合わせるのはわたしで、人前でその手柄を語るのは父だった。
父を玄関まで送り、置いた荷物の前へ戻る。
あの家でわたしを呼ぶ声には、いつも用事がついていた。
「ラーヴィニア様、お部屋へご案内いたしましょうか?」
銀白の髪の家令が、急かさず返事を待っている。わたしは荷物の持ち手から指を離す。
「その前に、教えていただきたいことがあります」
好きにしていい、と言われたので、好きにさせていただくことにした。
「書斎へは、どちらを通ればよいでしょうか?」
「お休みのお部屋でしたら、反対側でございます」
「はい、明日から通う方を伺っています」
家令は寝室へ向けた手を一瞬止め、それから逆を指す。せっかく自由にしてよい家で、仕事場を見失っては困る。
婚礼翌朝。一日目は、廊下に朝日が伸びるうちに書斎を叩き、返事に合わせて扉を開ける。
「本日の困りごとを、ひとつ承ります」
「……あなたの部屋に、何か不足があったか?」
筆を持つ手が宙で止まる。この国の宰相、アルンスハイム侯爵テオドリク様は三十八歳。背後にも机の端にも、返事を待つ書状が並び、朝日が紙の縁を白く照らしている。
「わたしの部屋は快適ですが、こちらのお仕事が、お困りのようなので」
「広場の使用願が止まっているが、用途が曖昧で決められん」
宰相が止まると、国の決裁が全部止まる。
「好きにしてよい範囲には、この書斎も入りますか?」
「入るが……くつろいで欲しいという意味で言ったのだが」
「窓の外まで列を作って待っている方々が見えるのに、くつろげませんわ」
「国の判断は、家の用とは違う」
違う、と言われても、動けずに待つ背中は、実家の帳場で見てきたものと同じだ。
「違っても、止まっている間は誰も帰れません――何を待っているのか、まだ誰も伺っていないのでは?」
「……まず聞いてから、か。それなら、判断のしようがある」
旦那様の視線が紙から門へ動く。わたしは机の前に足を揃え、前へ出かけた身を戻す。
「では、判断に要るお話を揃える聞き役は、すぐにでもわたしにお任せください!」
「屋敷は任せる。国の決裁は私へ持ってこい」
「ありがとうございます、決めていただくところまで必ずお運びします」
家令の手が横から伸び、使用願を机へ滑らせる。どの紙か、まだ口にしてもいないのに。
「旦那様がわたしに任せると、先にお聞きでしたか?」
「存じませんが」
澄ましたお顔の下で、指先はもう門前の客の居場所を示している。
「こちらの方がお待ちでございます」
出かける前に、実家の帳場から持参した綴じ暦を壁へ掛ける。日付も番号もない、白紙が三百六十五枚。数えた枚数だけで日を測る、使い慣れた道具だ。
「一年、三百六十五日を今日から日が終わるたびに数えますので、木箱もここに置いてよろしいでしょうか?」
「よい、そこなら手が届く」
箱の枚数が、わたしの働いた日数。壁の残りが、返される日までの日数だ。
掛けてみると、白い束は思いのほか厚い。指先で下端を揃える。数えられる長さなら、こわくはない。
午後、門扉の影が落葉の上へ伸びる頃、陳情者は帽子を握り直す。訪ねてきた父が、その隣で大きく頷いている。
門の外には、まだ六人が待っている。塀に沿って肩をすぼめ、順に前へ詰める。風が抜けるたび、乾いた落葉が靴の間で鳴る。
「わしから侯爵閣下へ話は通してあるからな、身内になればこういうときに役に立つものだ」
「お父様、まだこの方のご用を伺っておりません!」
「聞かんでも分かる、広場が欲しいに決まっておる――なあ、そうだろう?」
「もう……。すみません、お使いになりたいのは、広場のどの辺りでしょうか?」
「隅です、荷車から荷を下ろせればいいんです――売る場所は、もう店にあります」
帽子の縁が、握り込まれて歪んでいる。白くなった指を見て、わたしは急かさないように言葉を選ぶ。
「願い出には、広場を貸してほしい、とありましたが」
「……そう書けと言われたんです、隅だけ貸してくれ、では通らないからと……」
紙の上では広場全部、本人が欲しいのは荷下ろしの場所だけ。通り道を空けられるかまで確かめ、わたしは書斎へ戻る。
「通り道を空けて、隅で荷を下ろす間だけの使用です――父は先にお話ししたと申しておりますが」
「その話は初めて聞くが、通行を妨げぬなら隅の使用を許可する」
砂色の髪の少年が門前と書斎の間を駆け、返事を取り次いでくれる。わたしも門へ戻ると、陳情者が笑って帽子を高く振り上げる。
「帰って荷を運べます! これも、お父上の口利きなんですか?」
「いや、お父様からは何も聞いておられないそうなんです」
「お、お前、父親をそこまで細かく……」
父の声の終わりを待たず、陳情者がわたしの前へ進み出る。帽子を胸に当て、今度はまっすぐこちらを向く。
「それなら、お礼はこちらに――何をしたいか聞いてくださって、助かりました!」
こちら、と向けられた顔を見つめてしまう。唇を開いてもすぐには声が出ず、袖口をつまんで、いつもの仕事の声を探す。
「旦那様の困りごとを、ひとつずつ片付けています」
帽子をかぶり直した顔がほころぶ。陳情者は父の前を通り過ぎ、荷車の待つ通りへ駆けていった。
窓を見上げると、旦那様と目が合う。旦那様は手元の決裁済みの紙へ視線を落とし、わたしへ戻した。
帰っていく背中を指し、窓へ手を振る。
夜の書斎で、暦の先頭を一枚破る。静かな部屋に紙の裂ける音が響く。裏へ荷下ろし場所の件を書き、木箱へ収めた。
「ひとつ片付きました! 荷を迎える皆さんも待っていると、笑ってお帰りでした」
「そうか、ならば明日は門まで出る前にここへ来るとよい」
褒め言葉ではない。けれど、明日も来てよい、という意味に聞こえる。返事より先に頷いてしまい、髪が頬をくすぐる。
旦那様へ改めて一礼し、わたしは書斎を出る。
◇
灯りの下、テオドリクは壁から暦を外す。白紙を一枚取り、束の末尾へ重ねて綴じ直した。
指先で紙の端を揃え、壁へ戻す。木箱には紙が一枚。壁の束は三百六十五枚に戻っている。
◇
同じ夜、わたしは書斎へ引き返す。閉じた扉の下から細く漏れる灯りの前で、足を止めた。明日の訪問の刻を、まだきちんと申し上げていない。
「旦那様、朝も今日と同じ頃にお邪魔してよろしいでしょうか?」
「よい。呼ぶまで待つ必要はない」
明日も同じ刻に伺える。わたしは扉の前で小さく頷く。返事は、今度こそ声にする。
「では、明日も伺います」




