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第1話 前世の記憶、資本の時代

主人公

榊原清衡:前世の記憶を得て、剣より帳簿を選ぶ小禄旗本の次男。

架空の人物


榊原宗矩:旧幕府に仕える、誇り高い下級実務役人。

架空の人物


榊原直之:剣に生きる、武士らしい榊原家の長男。

架空の人物

1852 年:元治元年、秋。

榊原清衡:12歳


 江戸の片隅にある榊原家の庭では、乾いた音が響いていた。

 木刀と木刀が打ち合う音である。


「踏み込みが浅い。もう一度だ」

「はい、父上!」

 榊原直之は、額に汗を浮かべながら木刀を構え直した。

 その姿を、父の榊原宗矩は満足げに見ている。


 長男の直之は、その誇りをよく受け継いでいた。

 剣を好み、礼を重んじ、武士として恥じぬ振る舞いをしようと努めている。

 宗矩にとって、それは頼もしいことだった。


 だが、次男の清衡は違った。

「……また、ここか」

 宗矩が蔵の戸口に立つと、そこには十二歳の清衡がいた。


 清衡は古びた帳簿を膝の上に広げ、米の出入りや銀の記録をじっと眺めていた。子どもが好んで読むものではない。少なくとも、武家の子が夢中になるものではなかった。


「清衡」

 父の声に、清衡は顔を上げた。

「父上」

「お前、またそのようなものを見ておるのか」

 清衡は帳簿を閉じ、素直に頭を下げた。

「申し訳ございません」

「謝ればよいというものではない。武士が銭勘定に執着するものではないぞ」

 宗矩の声には、怒りよりも呆れが混じっていた。


 清衡は昔からこうだった。

 兄が木刀を握る横で、米俵の数を数える。

 武芸の話より、両替の話に耳を傾ける。

 名刀よりも、銀貨の重さや米相場に興味を示す。


 宗矩には、それがどうにも理解できなかった。

「お前も榊原の子だ。兄を見よ。あれこそ武士の姿だ」

 庭の方から、直之の気合いの声が聞こえる。


 清衡はもう一度頭を下げた。

「はい」

 口ではそう答えた。

 だが、帳簿に並ぶ数字は、清衡の目に焼きついていた。


 子どもながらに、清衡は薄々感じていた。

 この家は、思っているほど状況は良くないのではなか。

 平穏な時代だからこそ、どうにか形を保っているだけではないのか。


 そんなことを、十二歳の子どもが考えるものではない。

 だから宗矩は、清衡を不思議な子だと思っていた。

 そして清衡自身も、まだ自分がなぜそこまで数字に惹かれるのか、分かっていなかった。


 その夜のことである。

 清衡は高い熱を出した。

 布団の中で、頭が割れるように痛む。

 額に濡れ手ぬぐいを置かれ、母が何度も水を替えてくれた。父の声も、兄の声も、遠くに聞こえる。

 だが清衡の意識は、熱の奥底へ沈んでいった。

 そして、見知らぬ記憶が流れ込んできた。

 高い建物。

 夜でも明るい街。

 鉄の箱のような乗り物。

 掌に収まる板で、遠くの情報を見る人々。

 銀行。証券会社。株式市場。投資信託。積立NISA。

 次々と、知らないはずの言葉が頭の中に浮かぶ。


 清衡は、布団の中で呻いた。

「……なんだ、これは」

 だが、それは夢ではなかった。

 自分は一度、別の時代を生きていた。

 遠い未来の日本で暮らしていた。

 そして今、幕末の江戸に生まれ変わっている。


 清衡は、熱に浮かされた頭で必死に考えた。

「この時代は……幕末か」

 徳川の世は、もう長くない。


 やがて明治維新が起こる。

 武士の時代は終わり、日本は急速に近代化する。

 鉄道が敷かれ、銀行が生まれ、会社が増え、財閥が育つ。


 そこまで思い出した瞬間、清衡の胸が高鳴った。

「三菱や三井……現代まで残る企業の株を買えば、大金持ちになれるのではないか」

 だが、その興奮は長く続かなかった。


 すぐに別の考えが浮かぶ。

「いや、待て」

 そもそも今、株は買えるのか。


 近代的な会社は、まだほとんど存在しない。

 証券取引所もない。

 株式制度も未成熟。

 未来で大企業になると知っていても、今その株を買えるとは限らない。


 それに、百年単位で右肩上がりだったとしても、途中には何度も暴落があるはずだ。

 戦争。恐慌。政変。財閥の変化。制度の変更。

 一つの会社に賭けるのは危うい。


 清衡は、前世で自分が積み立てNISAをしていたことを思い出した。

 個別株ではなく、広く分散された投資信託。

 インデックス投資。

「そうだ……インデックス投資なら勝てる」


 一社を当てるのではない。

 国の成長そのものに賭ける。

 明治維新後、この国は急速に発展する。

 ならば、日本全体の成長に乗ればよい。


 さらに、未来の記憶はもう一つの考えを呼び起こした。

「俺一人の金だけでは足りない」

 多くの者から少しずつ資金を集める。


 それをまとめて、国の成長に広く投じる。

 一社に賭けるのではなく、国全体に賭ける。

 やがては日本だけでなく、世界にも分ける。


 それができれば、清衡一人が富むだけではない。

 士族も、商人も、教師も、職人も、少しずつ未来を持てるかもしれない。

 そして、この国に流れ込む資本が増えれば、日本の成長そのものも、ほんの少しは良い方向へ変わるかもしれない。


 だが、そこまで考えたところで、清衡の意識は急速に遠のいた。

 しょせん、体は十二歳の子どもである。

 頭の中では資本の時代を見ていても、身体は熱に負けていた。

「……まずは、寝るしかないか」

 清衡は小さく呟き、そのまま深い眠りへ落ちていった。




 翌朝。

 清衡は目を覚ました。

 熱は下がっていたが、頭の奥には別人の人生が残っている。


 現代日本の記憶。

 未来の金融知識。

 この国がこれから辿る大きな流れ。

 どれも夢ではなかった。


 だが、急に振る舞いを変えれば怪しまれる。

 清衡は、いつもと同じように蔵へ向かい、帳簿を開いた。

 ただし、その帳簿の見え方は昨日までとはまるで違っていた。


 榊原家は、江戸に住む小禄旗本の家である。

 榊原といっても、大名家の本流ではない。徳川家に仕えた旗本榊原家の分流にすぎない。

 家には武家としての誇りがある。


 だが、禄は薄い。

 父の榊原宗矩は、幕府の下級実務役人である。神奈川奉行所や外国方の末端と、わずかな縁があった。


 兄の直之は、武士らしい武士だ。

 剣術に熱心で、父からも期待されている。


 一方、清衡は帳簿を見ていた。

 米の出入り。

 年ごとの支出。

 借金。

 祝儀や付き合い。

 家格を保つための費用。

 前世の記憶を得た今なら、分かる。


 この家は危うい。


 禄はある。

 しかし出費も多い。

 借金もある。

 家格を保つための交際費も削りにくい。


 つまり、平時だから保っているだけだ。

 何か一つ崩れれば、簡単に傾く。


 幕府が揺らげば、榊原家も揺らぐ。

 徳川の世が終われば、この家の収入の根も揺らぐ。


 清衡は帳簿の上に手を置いた。

「……まずは、家族を守らなければ」


 大きな投資の仕組みを作る。

 国の成長に賭ける。

 そんなことは、まだ遠い。


 今の清衡には、資金もない。信用もない。市場もない。

 まず守るべきは、この家だった。


 その時、廊下の向こうから父と兄の声が聞こえてきた。

「近く、横浜へ行かねばならぬ」

 父の声だった。


 兄の直之が、不満を隠さず言う。

「横浜ですか。あのように異人の多き場所へ、武士が近づくべきとは思えませぬ」


 父は少し黙った。

 その沈黙には、内心では兄に同意している気配があった。

 だが、すぐに宗矩は言った。

「お役目を果たす。それも武士の本分よ」


 横浜。

 その言葉に、清衡は強く反応した。

 異人。

 商館。

 英語。

 銀貨。

 為替。

 生糸。

 新聞。

 海の向こうへつながる港。

 父と兄にとって、横浜は不気味な異人の町かもしれない。


 だが清衡には違って見えた。

 あそこには、これからの金の流れがある。

 江戸は武士の都だ。

 だが、資本の時代は横浜から入ってくる。

 清衡がそんなことを考えていると、父がこちらに目を向けた。


 そして、また帳簿を開いている清衡を見つける。

「清衡」

「はい、父上」

「また帳簿か」

 宗矩は眉をひそめた。


「何度言えば分かる。武士は金に汚くあってはならぬ」

 清衡は、表向きは素直に頭を下げた。

「申し訳ございません」

 父に逆らうつもりはない。


 今の清衡は十二歳だ。

 この家で、何の力も持たない子どもにすぎない。

 だが心の中では、別の答えを出していた。


 金を知らぬ武士から、真っ先に滅びる。

 ならば俺は、金を増やすためではなく、家族を守るために帳簿を取る。

 そしていつか、この国の人たちが、自分の未来を守れる仕組みを作る。


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