「愛など不要ですから。お気をつけて」
「愛など不要ですから。お気をつけて」
出征の準備を整えた無骨な軍服姿の真新しい夫へ向けて、私は冷ややかに言い放った。
政略結婚の翌朝にいきなり最前線へ送られる夫にかける言葉としては、我ながら可愛げの欠片もないと思う。けれど、商人の娘としての矜持が、これ以上の甘い言葉を紡ぐことを許さなかった。
私の名前はサラ。
中堅商会を営む両親の長女として生まれ、そして昨日、彼、グウィン・マイヤーの妻となった。
両親にとって、私は実家の利益を拡大するための便利な手駒でしかない。軍部との太いパイプを作り、武器や物資の独占販売を目論む彼らが目をつけたのが、若くして軍の司令官にまで登り詰めたグウィンだった。
「死なずのグウィン」
それが彼の異名だという。
数々の激戦を生き抜き、武功のみで成り上がった強面の軍人。
実際、簡素な結婚式で初めて顔を合わせた彼は、噂通りに威圧感のある大柄な男だった。顔には歴戦を思わせる古傷があり、鋭い眼光は結婚相手の私を射抜くというより、まるで敵の伏兵を警戒しているかのようだった。
初夜の寝室は、まさに地獄のような気まずさだった。
薄暗い部屋の中で、私たちは互いに一言も交わすことなく、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
彼は不器用なのか、それとも私に微塵も興味がないのか、気の利いた言葉一つかけてこない。
だったら私から媚びを売る義理もない。
商談において、先に沈黙に耐えきれず口を開いた方が負けだ。
私は商人の娘としてのプライドを盾に、ベッドの端で背筋を伸ばし、毅然とした態度を貫いた。
結果として、私たちの間にあった分厚い壁は、1ミリも薄くなることなく朝を迎えたのである。
そして、急な出征命令が下った。
申し訳なさそうに視線を彷徨わせる彼に対して、私は冷徹な仮面を被った。
「愛など不要ですから。商売敵よりはマシな相手に出会えたと思っていますわ。どうぞお気をつけて」
私の言葉に、グウィンは何か言い返そうと口をわずかに開いたが、結局「……ああ」とだけ短く返し、逃げるように屋敷を出て行った。
カチャリ、と重厚な玄関の扉が閉まる音が、異様に大きく響いた。
彼が去った後の広い屋敷には、私と数人の使用人だけが残された。
「本当に、仕事バカなんだから……」
強がって吐き捨てた言葉は、誰に届くわけでもなく虚空に消えていく。
政略結婚なんて、お互いに利用し合うだけの関係だ。彼が不在の方が、気楽でいいに決まっている。
そう自分に言い聞かせているはずなのに。
胸の奥にポッカリと穴が空いたような、名状しがたい寂しさがこみ上げてくるのは、一体なぜなのだろうか……
広い屋敷での生活は、思いのほか退屈だった。
夫が不在で気楽だと思っていたのは最初の数日だけで、次第に持て余した時間は私に余計なことを考えさせた。
最前線は今どうなっているのか……
あの不愛想な大男は、無事に生きているのか……
そんな心配が胸をよぎるたび、私はわざとらしくため息を吐いてみせた。
「もう!あの仕事バカは何を考えてるの!」
傍に控える侍女のアンナがクスクスと笑うのを横目に、私は上質な便箋を取り出した。
素直に安否を気遣うなんて、私の中の商人の娘としてのプライドが許さない。だったら、彼が困り果てるような、とびきりの無理難題を押し付けてやろう。
『西の渓谷に咲くという、幻の青いリンドウの押し花が見てみたいですわ。次のお手紙に同封してくださいませ』
嫌がらせのような要求を流麗な文字で綴り、封蝋をして軍の郵便配達人に託した。
◇ ◇ ◇
一方、泥と硝煙のにおいが立ち込める最前線の野営地。
補佐官のベイルから手紙を受け取ったグウィンは、眉間のシワをさらに深くしていた。
「どうしました、閣下。奥様からの愛の言葉ですか?」
茶化すベイルに手紙を見せつけ、グウィンはガシガシと頭を掻きむしった。
「戦場で花摘みしろだとよ。あのわがまま嬢ちゃんは、ここをどこだと思ってるんだ」
呆れ果てた声だったが、その手はすでに陣幕の中央にある地図を広げていた。本来の進軍ルートからは外れるが、西の渓谷を経由できない距離ではない。
「……ったく!しゃーねーな!」
グウィンがヤケクソ気味に叫び、部隊の進路を西へ変更するよう命じた時、ベイルは面白そうに目を細めた。
それから数日後、グウィンの部隊は予定より少し遅れて目標の拠点に到着した。
後続の偵察部隊からの報告によると、本来通るはずだった最短ルートの街道には、敵の精鋭部隊が大規模な待ち伏せを敷いていたらしい。
信じられないことに、彼らは無傷だった。
もし予定通りに進軍していれば、部隊は壊滅的な被害を受けていただろう。
西の渓谷を経由するという不可解な迂回が、結果として部隊全員の命を救うことになったのだ。
奇跡ですね、と報告書をまとめながらベイルが笑う。
「奥様は勝利の女神かもしれませんよ。あの無理難題がなければ、我々は今頃土の下でした」
「うるさい、ただの偶然だ」
グウィンはぶっきらぼうに返しつつ、手元の分厚い軍事教本に何かをそっと挟み込んでいた。
そのページの間では、大男の太い指で不器用に摘まれた青いリンドウの花が、押し花になる時を静かに待っているのだった。
◇ ◇ ◇
手紙のやり取りを重ねるうち、私の心境には明らかな変化が生じていた。
どんな無茶な要求を書き連ねても、数週間後には必ず彼から不器用な字で書かれた返信と、要求通りの品が届くのだ。
あの西の渓谷の青いリンドウが見事な押し花となって届いた日、私は自室で人知れず頬を緩めてしまった。
あの強面の大男が、戦場の片隅で小さな花を摘んでいる姿を想像すると、なんだか無性に胸がむずがゆくなる。
(次は何を要求してやろうか。いや、たまにはこちらから何か送ってあげるのも、妻の務めというものだろう)
そう思い立ち、私は実家の商会から最高級の生地を取り寄せた。
軍が支給する防寒具はどれも地味で薄暗い色ばかりだ。せっかくなら、私の好みを存分に反映させたものを特注してやろう。
出来上がったのは、目にも鮮やかな青と緑を基調とした、大ぶりなボタニカル柄が乱舞するド派手なマントだった。
軍服の上から羽織れば、間違いなく戦場で一番目立つだろう。
これを着て困惑する彼の顔を思い浮かべ、私は満足げに包みを結んだ。
◇ ◇ ◇
一方、前線の野営地にその派手な包みが届いた時、グウィンは頭を抱えていた。
「なんだこれは。俺に戦場で的になれと言っているのか」
広げられたマントのあまりの鮮やかさに、周囲の兵士たちは目を丸くし、やがて吹き出した。
「閣下、素晴らしい花婿のマントですね。奥様からの熱烈な愛情表現じゃないですか」
補佐官のベイルが腹を抱えて笑う。
グウィンは渋い顔で舌打ちをしたが、決してそのマントを突き返すことはしなかった。
「ったく!しゃーねーな!」
乱暴な口調とは裏腹に、彼はその派手なマントを丁寧に軍服の上に羽織り、しっかりと留め金を締めた。
◇ ◇ ◇
その頃、王都の屋敷の厨房では、私と侍女のアンナによる秘密の特訓が始まっていた。
「違いますお嬢様、火が強すぎます!もっと弱火でじっくり煮込まないと、お肉が硬くなってしまいますよ!」
「もう!鍋の火加減なんて、帳簿の数字よりずっと難しいじゃないの!」
煤で顔を汚しながら、私は木べらを握りしめて悪戦苦闘していた。
商会のツテで集めた、体を温め滋養をつける貴重なスパイスの数々。それらをふんだんに使った軍人風商家の煮込みを作れるようになるのが、今の私の目標だ。
政略結婚とはいえ、彼は私の夫なのだ。
いつかあの仕事バカがひょっこり帰還した時に、冷え切った食事を出すわけにはいかない。
「最高の一皿で出迎えて、彼の胃袋ごと私のペースに巻き込んでやるんだから」
◇ ◇ ◇
軍からの急報が届いたのは、私が煮込み料理のスパイスの配合にようやく納得できた日の午後だった。
死なずのグウィン率いる部隊が、敵の猛攻を受けて孤立。その後消息を絶ち、軍上層部は彼らを戦死扱いとして処理したというのだ。
手の中の紙片が、パラリと床に落ちた。
「あの不器用な大男が死んだ? そんなはずがない。だって、私があんなに派手なマントを送りつけたのだから……。 あんなものを着て死んだら、敵の笑い者じゃないの」
悲しみに暮れる暇すら、私には与えられなかった。
報せを聞きつけた両親が、即座に屋敷に乗り込んできたからだ。
彼らの顔に悲哀の色は一切なく、あるのは醜いまでの歓喜だった。
「英雄の未亡人という極上の箔がついたお前なら、次はもっと王家のお偉方と政略結婚ができる」
そう言い放った父親の顔を、私は一生忘れないだろう。
──ふざけないで!
私の口から出たのは、氷のように冷たい声だった。
両親の冷酷な言葉が、私の中の商人の血を完全に沸騰させた。
(あの仕事バカは、私の無理難題に文句を言いながらも必ず応えてきた。こんなところで勝手に死ぬような男じゃない)
私はすぐさま実家の商会の帳簿を引っ張り出し、軍部への流通経路を全て洗い出した。両親は商売の拡大に夢中で、実務の大半を私に任せきりにしていたのが運の尽きだ。
私は商会の筆頭株主である祖父の署名と印を盾に物流を凍結。実家が軍に納品するはずだった大量の補給物資を、私個人の名義で全て差し押さえた。
「今日限りで、私はあなたたちと縁を切らせていただきます」
怒りで青ざめる両親に絶縁状を叩きつけ、私は屋敷を飛び出した。
「アンナ、馬車に物資を積みなさい。最前線へ行くわよ」
炊き出し用の巨大な鍋と、ありったけのスパイスを抱え込んだアンナが、力強く頷いた。
「もう!あの仕事バカは何を考えてるの!私が直接文句を言いに行ってやるんだから!」
私は自ら手配した長大な馬車の列を率いて、夫が消えた最前線の基地へと力強く馬を走らせた。
◇ ◇ ◇
最前線基地に到着した私を待っていたのは、想像を絶する惨状だった。
度重なる敵の襲撃と補給線の寸断により、兵士たちの士気は底をつき、負傷者たちがうめき声を上げている。指揮系統は崩壊し、誰もが絶望の淵に沈んでいた。
(こんな泥沼で、あのバカは戦っていたのね……)
だが感傷に浸る暇はない。
私はすぐさま持ち込んだ大量の物資を荷馬車から下ろさせ、同行させた商会の人間を顎で使って配給の陣頭指揮を執った。
負傷者の手当てを最優先し、食料は部隊ごとに正確に計算して分配する。帳簿と在庫を睨みつけながらの無駄のない采配に、当初は軍の部外者だと反発していた兵士たちも、次第に私を救世主を見るような目で扱い始めた。
「奥様、まさか本当に最前線までいらっしゃるとは」
背後からかけられた声に振り返ると、そこには包帯だらけの痛々しい姿ながらも、見覚えのある男が立っていた。
グウィンの補佐官、ベイルだ。
彼が生きているということは、部隊の全滅は免れたということ。私ははやる気持ちを必死に抑え、冷ややかな態度を崩さずに夫の安否を尋ねた。
「旦那様はご無事です。……いや、無事というには語弊がありますが、確実に生きておられます!」
ベイルの口から語られたのは、信じがたい奇跡の話だった。
部隊が敵の奇襲を受けたのは、青い花が狂い咲く広大な高原地帯だったという。
多勢に無勢で部隊は散り散りになり、部下を逃がすために殿を務めたグウィンもまた、敵の集中砲火を浴びて倒れた。
しかし、敵の掃討部隊はすぐ足元に倒れている彼を見つけることができなかったのだ。
「奥様が送られた、あのド派手な花柄のマントのおかげですよ」
ベイルは痛む腹を押さえながら、くくっと笑いを漏らした。
マントの鮮やかな青と緑のボタニカル柄が、周囲に咲き乱れる高原の花々と完全に同化し、完璧な迷彩効果を発揮したのだという。あんなふざけた柄のマント、普通なら戦場では格好の的になるはずが、その場所に限ってはこれ以上ない隠れ蓑になったのだ。
敵の目を欺き、致命傷を免れたグウィンは、今も身を潜めながら帰還の機をうかがっているはずだ、とベイルは断言した。
「もう!本当に運のいい仕事バカなんだから!」
安堵で膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪え、私は勢いよく振り返ってアンナを呼んだ。
「さあ、泣いている暇はないわよ!大鍋の準備をなさい。あのバカが迷わず帰ってこられるように、とびきり匂いの強いやつを作ってやるんだから」
私は腕を捲り上げ、持ち込んだ貴重なスパイスを惜しげもなく鍋に放り込んだ。軍人風商家の特製煮込みの強烈で食欲をそそる香りが、夕闇の迫る戦場に力強く広がっていった。
◇ ◇ ◇
数日間の不眠不休の炊き出しが続き、私の体力も限界に近づいていた。
濃霧に包まれた早朝の最前線基地。冷たい空気を切り裂くように、スパイスの強烈な香りが漂い続けている。
鍋をかき混ぜる手を止め、私は重い瞼をこすりながら霧の奥を見つめた。
「もう!いつまで私を待たせる気なのよ」
悪態をついたその時だった。
見張りの兵士が弾かれたように立ち上がり、霧の向こうを指差して叫んだ。
「誰か来るぞ!」
ざわめきが広がる中、濃霧を割って泥だらけの一団が姿を現した。足取りはおぼつかなく、誰もが満身創痍の体を寄りかからせるようにして歩いている。
その先頭に立つ大男の姿を捉えた瞬間、私の心臓は早鐘のように打った。
泥と乾いた血にまみれ、あちこちが破けてはいるものの、その肩には鮮やかな青と緑のボタニカル柄が確かに揺れていた。
──私が送りつけた、あの悪趣味なまでに派手なマントだ。
死線を引きずり回されたような酷い有様なのに、彼はまっすぐにこちらへ向かって歩いてきた。
その足取りは、風に乗って漂う鍋からの湯気に導かれているかのようだった。
私の目の前まで辿り着いた彼は、ゆっくりと顔を上げ、鼻をひくつかせた。
無精髭に覆われた顔。頬には新しい傷ができている。
私を射抜くような鋭い眼光はすっかり鳴りを潜め、どこか安堵したような色を浮かべていた。
「……うまそうな匂いだな」
それが、奇跡の生還を果たした「死なずのグウィン」が最初に発した言葉だった。
気の利いた愛の言葉なんて一つもない。やっぱりこの男は、どうしようもない不器用な仕事バカだ。
商人の娘としての矜持も、冷徹な仮面も、今の私には何の役にも立たなかった。
ぽろぽろと零れ落ちる涙を拭うことすら忘れ、私は持っていた木べらを放り投げた。
「もう!遅すぎるのよ、この仕事バカ!」
文句を叫びながら、私は泥だらけの彼の胸に思い切り飛び込んだ。
痛む体に応えたはずなのに、彼は顔をしかめることもなく、太くたくましい両腕で私をしっかりと抱き留めた。
「……ったく!しゃーねーな!」
頭上から降ってきたのは、呆れたような、けれど今までで一番優しく響く笑い声だった。
戦場に不釣り合いなスパイスの香りと、花柄のマントに包まれながら、私はようやく気づいた。
政略結婚という最悪のスタートから始まった私たちは、
──この瞬間、ようやく本当の夫婦になれたのだと。










