ep.26
今朝は太陽が容赦なく体を照らしている。最寄り駅を出て間もないのに額から汗が幾度となく垂れていた。
夏の本格到来とでも言いたげに、アスファルトからは照り返しの熱、耳障りな蝉の音は格段に数を増して耳に飛び込む。
背中を覆うリュックの中は目一杯の荷物が蒸されていた。前面のファスナーの内では折り直したサイが温度を持って潜む。それは俺の熱と混じり合い、牙を剥く寸前のようだった。
『ツナグ』の門が見え、すぐ隣の看板に睨みを送る。昨日とは対照的にシンボルマークの"繋ぐ手と手"が、縄のように見えた。何かを必死で縛ばりつけるように。
「あ! 律くん、おはよー」
花壇に水やりをしていたさくらが駆け寄ってきた。
オートロックの解除をしてもらい、敷地内へと勢いよく足を踏み入れた。
希望の光だったここが、たった1日で泥沼のように汚れ、黒く塗り替わっている。
「律くん、どうしたの?」
ジョウロを持ちながら不思議そうに見つめるさくらへ、内なる興奮を抑えるように「おはよう」とだけ告げた。
その後方からは笑顔で手を振る千歳くんが見える。
あの『ころされる』の真意ーー
その隠された答えに必ず辿り着いてみせる。
体中から蒸気が噴き出るようだった。
暑さからじゃない。
全身をたぎる血液の速さが、心臓を高ぶらせた。
久しぶりの感覚だ。
祐希……行くぞ。
俺は真っ直ぐ『折り鶴』の部屋へと足を進めた。
ふいに温かく小さな手が俺の汗ばんだ掌を強く掴んだ。
「律くん」
さくらは息を切らしながら両手に込めた力を強くした。少し痛い程に握られたそれは、確かに震えていた。
「さくら?」
なかなか離そうとしない手をゆっくり解き、安心させるように無理に笑顔を繕った。何か言いたげな表情を見せたが、肩に優しく触れた後、足早に千歳くんの元へ向かった。
『折り鶴』の部屋へ入ると賑わう声が聞こえ、昨日と変わらない景色だけがそこにはあった。
「律くん、おはよう。昨日は眠れた?」
千歳くんも変わらず、聖人のような笑みだった。
これが全て偽りなのだとしたら……
その笑顔の"裏側"に真っ黒な"殺意"の顔があるとしたらーー。
考えただけで吐き気がする。
「あまり眠れませんでした」
充血した眼で射抜くように見つめながら答えると、千歳くんは引き出しから何かを取り出し俺の手に握らせた。
手を開くと目薬があった。
何も答えないでいると、また笑顔であの言葉を放つ。
「無理はしない。正直にね」
そのままそっくり返すから白状してくれ、とでも言えたらいいが、祐希の暗号だけでは何の証拠にもならない。ここからは心理戦だ。少しずつでいい、真相へと繋がる何かを見つけるんだ。
「興奮してて眠りが浅かっただけです。ホントに平気ですよ」
俺は不自然さが出ないように、少しだけ口角を上げた。
「じゃあ昨日は楽しんでくれたってことかな?」
「はい。すごく充実した1日でした」
「それなら安心したよ」
きっと昨日までならこの笑顔に陶酔していたんだろう。
呆れた自分へ少し冷めたように鼻息が漏れた。
「あの、着替えとか色々持ってきたんで泊まりでの夜勤シフトも任せてください」
これで四六時中観察出来る。
意気込みが顔に出ていたのか、千歳くんはくすりと笑った。
「やる気が凄いね。じゃあ早速今日から頼むよ」
「はい」
俺が軽快に答えた背後で、一つの冷たい視線があった。
「本当に丈夫そう」
その瞳は値踏みするような冷たさを帯びていた。
そんな事に全く気づかない俺は、疑念を全部千歳くんへと集中させた。
子供たちと楽しげに交わす会話、優しく見守る瞳。時には真剣な眼差しで正しさを伝えていた。
聖人君子……。
これ以外に表す言葉なんて見つからない。それは以前、俺が抱いていた千歳くんそのものだった。
見えない。
本当にあのメッセージを指し示すのがこの人なのかと疑問に思うほど。
部屋の掃除をしながら観察を続けていた時、再びさくらの小さな手が俺へと触れた。
「律くん、お願いがあるの」
突然のその言葉に意識が削がれた。
「え……?」
「さくらも、誤魔化すのやめたい」
また小さな手が小刻みに震えている。
その幼い顔には似つかわしくない怪訝な表情に、一旦さくらの事だけを考えた。
「……分かった。話聞くから」
汚れた雑巾を床に置き、その場に並んで座ると、さくらは俺にだけ聞こえるように話しだした。
「今日ケースワーカーさんが来る日なの。近くの学校に通い始める時期を、決める日で。いつも千歳くんと3人でお話するんだけど、今回は律くんが来て」
「え、俺!? でも、入ったばっかで何も分からないし、そんな大事な話なら尚更千歳くんの方が」
「律くんじゃなきゃ、ダメなの」
必死に訴えるように、さくらの声は無意識に大きくなっていた。
「さくら、何がダメなんだい?」
その声に身体が硬直した。まるで首根っこを掴まれた感覚だ。
気づいた時には千歳くんの姿が目の前にあった。
さくらは口をもごもごさせ、両手は筋張るほど力が入っている。
「なぞなぞの対決です!」
咄嗟に出たのはバカみたいな言葉だった。臨機応変に対応できない自分に情けなくなる。
明らかな嘘。
なのに、千歳くんは笑った。
「さくらは本当になぞなぞが好きだね。でも、律くんも僕くらい強いよ?」
嘘に対して嘘で答える。
あまりにも自然でそれが裏なのか表なのか判別できない。
そもそもこの人はどちらも同じ……?一つ脈打つ度に全身が揺れる。
この心臓の鼓動音だけで、動揺が悟られそうだった。
「さくらは……まだ外の世界には早いから。律くんが来てくれて本当よかったね」
軽く頭を撫でながら、視線はさくらを離さないように捉える。
眼帯で隠れた瞳までも、見透すほどに。次第に力んださくらの手からは筋は消え、諦めるように頷いた。
「ケースワーカーさんが30分後に来るから、部屋で待っててね」
「うん……。じゃあ待ってる間、律くんとなぞなぞしててもいい?」
「勿論だよ。律くん、頼むね」
「は…い」
隠しきれない動揺は裏返った声で露わになった。
何もしてないのに、息が切れる。
俺はそれを武者震いの類なんだと思い込むようにした。決して"恐れ"ではないのだと誤魔化すように。
「それじゃあ、僕から1問出そうかな。『芸能人』『政治家』『力士』『怪盗』この中でクイズに答えることが出来たのは誰? よく、考えてね」
千歳くんは一切表情を変えずに微笑んだまま部屋を後にした。
何故かそのなぞなぞは、俺にだけ向けられているような気がした。
「律くん、こっち来て」
さくらに手を引かれるがまま、共同生活をする家へと案内された。
脳内では先程の問題が巡る。
『よく、考えて』
あえて言ったその言葉が引っかかる。
そんな事を思っていると、白い壁と茶色いドアのある三角屋根の家が見えた。
ここに入るのは初めてだ。
洗濯機の回る音が聞こえ、スタッフの1人が2階で掃除機をかけている。
さくらの部屋に入ると殺風景さが目に止まった。子供の部屋なのに、まるで"らしさ"が見えない。真っ白な部屋には本棚が2つ。勉強する為か参考書、問題集がびっしりと並ぶ。そして数冊だけなぞなぞ本と絵本があった。
窓際には机が置いてあり、隅にはベッド……それだけだった。荷物はクローゼットにしまってあるのだろうが、それにしても物が無さ過ぎる。子供……ましてや女の子だ。ぬいぐるみの1つや2つあってもおかしくない。
これじゃあ、まるで
勉強する為だけの部屋。
脳がそう確定させた時、さくらは真剣な表情で口を開いた。
「千歳くんはさくらを助けてくれたから、いつか恩返ししなきゃだめなの。だから頑張って夜もお勉強してる」
「そう……なんだ」
あれ……
喉の奥がつっかえる感覚。
「その為にも、学校にまた通いたかったんだけど」
さくらは椅子に座るとくるくるとゆっくり回転させた。
『さくらにはまだ外の世界は早い』
さっきの千歳くんの言葉が脳内に蘇る。
子供たちを守りながら、ひとたび外に出ようとすると阻む。現にここの子供たちはみんな学校へ通っていない。
抱いてはいけない想像が脳内を駆け巡った。だとしたら、みんな自分の意思ではここから出られない……。
正しく言うとしたら
"捕まっている"んだ。
千歳くんという名の檻に。
その時ドアをノックする音が3回。
こちらの返事を待たず、即座に開いた先で、檻の主が聖人の笑みという仮面を被っていた。
背筋に流れる汗。
温度を持つはずが、
やけに冷たく感じた。




