ep.13
会計を済ませネットカフェを出ると、俺は一番気になっていた場所へ向かうことにした。
ブログに初めてコメントを送ったあの『白鶴神社』。
真っ白な鳥居が有名で、彼女も妹もラッキーカラーが白だからと、行きたがっていた場所。あの記事からこの運命とは名ばかりの、因縁の決着を付けに岡山へと来たんだ。
今にも雨が降り出しそうな程、空はどんよりとしていてる。白鶴神社はここから徒歩20分程離れた所。
急ぐかーー。
走り慣れたスニーカーで良かったと少し安堵し駆け出した。
今日は見えないんだな……。
後ろに影は居なかった。
半分程来た所で、空から僅かな雨粒が落ちてきた。
このまま急げば辿り着く。
そう思った時、雷が轟き始めた。
心臓へ一気に血が巡る。それは瞬く間に全身へポンプのように流し出す。
胸の辺りに拳を押し付け、騒ぐ心を押さえつけた。
はぁ……はぁっ……はっ。
ヤバい。
咄嗟に両耳を手で覆う。
湿り気を帯びた手が、背筋を滑るような気持ち悪さを感じた。
とりあえずどこか建物内へーー。
左右を見渡すと3軒ほど先に飲食店らしき看板が見えた。視界に捉えた瞬間、俺の足は向かって走り出す。
急いで扉を開けて1匹の虫も入れないように瞬時に閉めた。
「君、大丈夫かい?」
70代半ばの店主であろうエプロンを付けた男性が、声を掛けてきた。
「あっ、すっ、すいません。かっ、雷が……」
肩を揺らしながら、過呼吸気味に荒れた息を、少しずつ整え答えた。
「午前中はここら一体雨予報だからねぇ」
店主の隣で椅子に腰掛けながら、老女が優しく言った。
「分かるよ。私も雷は苦手なもんでねぇ」
その笑顔に呼吸が何故か落ち着かない。
「座って休んで行くといい」
店主はそう言って席を案内してくれた。
今更気づいたが、なんとも古びた喫茶店だ。丸い茶褐色の椅子には、年月を刻む多数の傷に、めくれ上がった革が点在している。この雰囲気と経営者の老夫婦が重なり、どこか三途の川のような死の匂いが感じられた。
落ち着かないのは、外の雷のせいだけではない。体が反応する度にギイと椅子が音を立てる。店内を雷鳴と共に光が支配した。反射するように再び耳を手で覆った。
俺は幼い頃から雷が苦手で、少しでも雷鳴が聞こえるものなら、取り乱す事も珍しくなかった。
祐希と最後に行った遠足。突然のゲリラ雷雨に情けないほど泣きじゃくる俺の耳を、温かな手が包んでくれた。
祐希の優しさに
俺は一体、何度助けられたんだろう。
テーブルにティーカップがそっと置かれた。一瞬にして余韻が掻き消される。
「良かったら」
店主はそう言って微笑みを向けた。黒い液体から白い湯気が立っている。魂でも抜かれたように上に流れてはすぐ消えた。震える手がカップを揺らし、上手く飲めずに口元から垂れた。
少量でも口内を苦みが駆け巡る。今まで飲んだものと段違いだった。
カップを見ながら思う。
これは……何だ。
香りは確かに珈琲なのに、俺には地べたに溜まったあの時の泥水みたいに感じられた。
カップを凝視していると、店主が申し訳無さそうに告げる。
「すまないね。珈琲は苦手だったかな?」
「あ、いえーー」
俯いたままそれ以上何も言えない俺に、奥から老女の声が届いた。
「私らには、あんたくらいの孫がおってね。重ねて見てしまったんよ。気を悪くさせたんならごめんね」
きっと優しい孫なんだろうな。そんな事を思う反面、俺なんかに重ねるなんて馬鹿げてると呆れた。
「いえ。すいません」
2人に軽く頭を下げる。
朗らかな表情からも、孫を大切に思う気持は伝わってきた。
「観光で岡山へ?」
店主はグラスに入った水をカップの横に置いた。
「あ、はい。これから白鶴神社へ向かうところで」
そう答えた時、レジ横にある1枚の紙を渡してくれた。
「この辺りの観光マップだから、他にも色々巡ると良いよ」
「あ、どうも」
マップの左上に丸く囲まれた楕円が目に入った。その中に『センブリ』と書かれている。
口を開けたままの俺を不思議そうに店主が見ていた。体の中から蒸気が溢れそうなのが分かる。口は横に大きく開き始めると、満面の笑みを作っていた。
ここは彼女がいつか行きたいと言っていた喫茶店だ。
「そのマップがどうかしたかい?」
店主の声に鼻息荒く答えた。
「ここ、来たかった喫茶店だったんですよ。偶然?いや、運命的でつい」
「……そうかい。ここは本当に君みたいな子がよく来るんだよ」
俺たいな子……?
あまり意味が分からなかった。店主はマップを裏向けると現れたイラストに指差した。
「これはセンブリの花でね。弱いものを助けるって意味合いが籠もってるんだよ」
盲点だった。センブリを脳が勝手に茶だと認識して疑わなかった。
「孫はこれを知ってか、今は立派な医者でね」
え……。
言葉にならなかった。
手の絆創膏は角が少し剥がれている。
俺はあえて確かめなかった。その必要制が無いほど、昨日の青年の笑みと二人の笑顔が似ていたからだ。
店主から渡された観光マップ。その折り目に、ほんの少しだけ赤いシミがついている。それがただのインクの汚れなのか、それとも……。俺はそれを震える指先でなぞった。
選ばれたーー
この老い先短い老人たちからも、バトンを渡されたんだと思った。
「おや?雨が上がったようだね」
老女は嬉しそうに窓辺を見つめながら呟く。
会計を済ませると、俺は再び軽く頭を下げた。
「神社は急な丘の上に在るから大変だけど、そこから見下ろす景色は格別だよ。あと……」
そう言って差し出された絆創膏に、煉瓦を殴りつけた傷を見透かされている気がした。
「……どうも」
絆創膏を受け取ると、あの青年の顔が一瞬過ぎった。傷も血も、命の存続さえも日常の中で生きている目。あの日から生きた心地の無い俺には、その覚悟のようなものが眩しかった。
扉を開けるとさっきの天気が嘘のように、空には太陽が姿を出している。俺の背後には影がまた現れていた。
雨水が道路の端で溜まっている。雨上がりの独特な匂いの中、白鶴神社まで歩みを進めた。
所々に看板が出ている。
あと少しだ。
太陽光に照らされ頭が熱を持つ。
細く長く続く急な坂道が参道となって、俺を神社へと案内してくれた。
なかなかの勾配に疲労の溜まった足が鉛のように重く感じる。一歩、また一歩とただ前へ進むことだけに努めた。
その先で俺は初めて息を呑んだ。
静かに佇む白い鳥居が、雨に濡れて太陽の光を反射させている。時が止まったかのように動けない。まるでこの世の物とは思えなかった。
また心拍がうるさく騒ぐ。
この世の物ではないように見える此処に、妹と行きたいと願う彼女。
途端に胸の奥が鷲掴みにされたように苦しくなった。
小さく息をしながら足を引きずるように一歩ずつ進める。
鳥居を潜ると風が一つ流れた。カサカサと何か揺れる音がする。そちらに目をやると参拝客が数人、白い折り鶴を絵馬のように結び付け奉納していた。
折り鶴……。
まただ。
祐希の笑顔が浮かぶ。
昨日まで脳裏に度々表れる、牙を剥く姿でなく。
また一つ掛けられた折り鶴。
まるで千羽鶴のように列を成すそれは
、風になびく度に飛び立ちそうだった。
ぼんやりとした意識のまま自身と繋がる影を見た。鳥居の間から伸びた先に見えた岡山の風景。
目がじわりと見開かれていく。
脳内にずっと貼り付いていた残像に一致した。震え出す手を抑えるように両手を重ねるが、増幅した揺れは身体をも蝕む。
三角形の中に池。
側に伸びた一本の樹木。
ここからだから見えたそれに
解けていくなぞへの快感と、
先程の珈琲のように黒い渦が内に広がるのを感じた。
樹木の側で何かが揺れたーー
此処からだとよく見えないが、それは確実に人のシルエットだった。
俺はすぐにでもそこへ向かうべきだったんだ。
「律は本当に、かけっこ速いね……」
祐希
ごめん。




