第103話 復讐の炎
窓の外、病院船を護衛する駆逐艦のエンジン音が、今さら、不眠不休のパトロールを続けている。
十五時間。
その気の遠くなるような時間の間、ベルナールは一度もその場を離れなかった。
自らの手の甲から血が滲むほどに拳を握りしめ、ただひたすらに、手術室の扉を見つめ続けていた。
その隣では、疲れ果てたユキが、ベルナールの厚い軍用マントを毛布代わりに丸まって眠っている。
中隊のメンバーも、ある者は壁に寄りかかり、ある者は忙しなく廊下を歩き回り、誰もが「その時」を待っていた。
やがて、重い扉が開き、血に染まった術衣を纏った医師が姿を現した。
「……中将閣下」
医師の言葉に、中隊の全員が凍りついたように動きを止める。
「若奥様は、助かりました。7.92mm弾が砕けたカメラで威力を減じ、さらに肋骨の表面を滑るようにして脇腹から抜けたのです。まさに奇跡の弾道……内臓への致命的な損傷は避けられました。激しい出血で予断を許さない状況でしたが、もう命に別状はありません」
その瞬間。
「……っ、…………ぁあ……っ!!」
立ち上がろうとしたベルナールが、その場に膝を突いた。
四十四歳、冷徹なる戦略家。
連邦軍の英雄。
そんな肩書きも、階級も、プライドも、すべてが崩れ落ちた。
彼は顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。
十五時間の恐怖と、二度と失いたくないという渇望が、激しい嗚咽となって病院の廊下に響き渡った。
「…………っ、……ユイ……っ! ユイ……!!」
その凄まじい号泣に、リヴァイアサン中隊の面々は、かける言葉も見つからず立ち尽くした。
「……おい。……今は、行くべきだ」
ハインツが、バツの悪そうに、しかしどこか優しい顔で仲間の肩を叩いた。
「……あの旦那のあんな顔、俺たちの給料じゃあ拝めねえよ。あとは、二人きりにしてやんな」
とガリアス
ハインツとガリアスに促され、中隊のメンバーは一人、また一人と静かにその場を立ち去っていく。
マントの中で目を覚ましたユキも、涙を拭いながら、泣き続けるベルナールの背中を一度だけ見つめ、静かに廊下の向こうへ消えていった。
病院船の静かな廊下。
ベルナールの慟哭だけが、新しい夜明けの始まりを告げるように、いつまでも、いつまでも続いていた。
病院船『フローレンス』の特別病室。
外は駆逐艦による厳戒態勢が続き、政治の舞台では「停戦中の暗殺未遂」という火種が、帝国と連邦のパワーバランスを激しく揺さぶり始めていた。
だが、この白く清潔な部屋だけは、それらすべての喧騒から切り離されていた。
「中将、少し休みたまえ。……今回の件は、政治が大きく動く。それまでは、若奥様の近くにいてやるといい」
シリチャイ大将の言葉は、命令であり、同時に彼女なりの最大の慈悲だった。
ベルナールは、その「若奥様」という言葉に、いつもなら何らかの否定や当惑を見せたはずだった。
しかし、今の彼にそんな余裕はない。
彼はただ、短く「……感謝します、大将」とだけ告げ、深く頭を下げた。
扉が閉まり、部屋に二人きりの沈黙が戻る。
ベッドの上には、幾本ものチューブに繋がれ、蒼白い顔で眠り続けるユイの姿。
昨日までの、あの爛漫な笑顔も、生意気な「お父さんごっこ」の軽口も聞こえない。
ベルナールは、パイプ椅子を引き寄せ、彼女の小さな手を両手で包み込んだ。
傷つかないように、それでいて二度と離さないという意志を込めて。
「……ユイ」
掠れた声でその名を呼ぶ。
四十四年の人生で、彼は多くの部下を失い、家族を失い、心を殺して戦場に立ってきた。
だが、今こうして彼女の指先の微かな温もりを感じているだけで、胸の奥が張り裂けそうなほどの痛みを覚える。
(……私は、君がいなければ、もう息をすることさえ忘れてしまうのだな)
彼は決意していた。
彼女の意識が戻り、その瞳が再び自分を映し出すまで、一歩もこの場を動かない。
軍服の皺も、無精髭も、周囲の視線も、もはやどうでもよかった。
窓から差し込む月光が、眠るユイの横顔を淡く照らす。
その美しさと危うさに、ベルナールは再び溢れそうになる涙を堪え、ただ静かに、彼女の眠りを守り続けた。
彼女が目覚めた時、一番に「おかえり」と言える場所。
そこが、今の彼の唯一の戦場だった。
その声は、春の雪解けの雫のように、静寂に沈んでいた病室に響いた。
「……ねぇ、ジャン……お水、欲しい……」
握りしめていた小さな手が、微かに動く。
ベルナールは、弾かれたように顔を上げた。
最後にいつ眠ったのか、最後にいつ食事を摂ったのか、もはや記憶の彼方だった。
軍服は皺だらけで、頬はこけ、顎には無精髭が深く刻まれている。
連邦軍の英雄の面影など、どこにもなかった。
だが、その充血した瞳に、七日間待ち望んだ光が射し込む。
「……ユイ……? ユイ、私が、分かるか……!?」
掠れた声で呼びかけながら、彼は震える手で吸い飲みを取り、水を注いだ。
ユイは、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
視界が揺れている。
けれど、目の前にいるボロボロの男が誰であるか、彼女の魂が忘れるはずもなかった。
「……ひどい顔……。ジャン、泣いてたの……?」
弱々しく、けれど確かな意志を持った指先が、ベルナールの頬を、深く刻まれた涙の跡をなぞる。
ベルナールは、差し出した水の容器をテーブルに置くのももどかしく、彼女の指を、再びその熱い頬で包み込んだ。
「……ああ、泣いていたとも。君がいない世界で、どうやって笑えばいいのか、私はもう忘れてしまっていたんだ……」
七日間、張り詰めていた緊張の糸が、彼女のささやかな一言でふっくらと解けていく。
ベルナールの目の前で、世界で一番愛おしい存在が、再びこの世界に戻ってきた。
ユイは水を一口含み、喉を潤すと、いたずらっぽく、けれど慈しむような笑みを浮かべた。 「……七日間も……お風呂入ってないでしょ? ……ちょっと、おじさん臭いかも……」
「……構わん。君が目覚めてくれるなら、私は一生、泥水にまみれていても構わなかった」
ベルナールは再び、彼女の額にそっと唇を寄せた。
それは父としての慈愛ではなく、地獄の縁から愛する女を連れ戻した、一人の男としての深い誓いだった。
病室の窓から、新しい朝の光が差し込んでくる。
それは、二人がこれから歩む「未来」という名の、あまりにも眩しい光だった。
意識が戻ってからのユイは、まるで失った七日間を取り戻すかのように、ベルナールをこき使い始めた。
「お願い、ジャン。お風呂入ってないから体拭いて。……あ、そこはもっと優しく! 痛いよぅ」 「……す、すまない。これくらいの力加減か?」 「そうそう。あと、フルーツ食べたいな。リンゴはうさぎさんにしてね。あ、本も買ってきて。あと、髪もとかして!」
かつて「氷の貴公子」と恐れられた中将が、おぼつかない手つきでリンゴを剥き、繊細な手つきで彼女の髪にブラシを通す。
その顔は、睡眠不足でボロボロのはずなのに、どこか柔和で、頼みごとをされるたびに「あ、ああ、分かった」と、嬉しそうに立ち上がるのだ。
「ねぇ、このパジャマ変えて。もっと可愛いのがいい! これじゃおばあちゃんのパジャマだよー」
「これ買ってきたの?……まあ、入院してる間しか着ないから、仕方ないけどさ。……あ、それよりジャン、髭剃って! チクチクして痛い。あと、夜は怖いから……ずっと、わたしの横にいて」
「……ああ。どこへも行かない。君が眠るまで、いや、目が覚めるまで、ずっとここにいるよ」
ベルナールは、自らの髭をさすりながら苦笑し、彼女の細い肩を抱き寄せた。
その光景は、もはや「中将と広報官」ではなく、ただの「献身的な夫と、彼を独占したい若妻」そのものだった。
その頃、病室のドアの外。
ユキが、お見舞いの花籠を抱えたまま、ドアノブに手をかけた状態で石化していた。
(……なによ、なによあれ! 扉の隙間から漏れてくる空気が甘すぎて、血糖値が上がりそうだわ!)
ユキは何度も、何度も見舞いに来ている。
だが、そのたびに中からは「ジャン、あーんして」「こら、あまり動くと傷に響くぞ」といった、糖分過多のやり取りが聞こえてくるのだ。
「……もう! バカユイ! ラブラブすぎるのよ! 少しは独身の友達の気持ちも考えなさいよ!」
ユキは結局、その日も病室に入ることができず、ドアの前に花籠をそっと置いて立ち去った。
「……まったく。あんなに泣いてたくせに、目が覚めたらこれなんだから。……でも、まあ。……生きててよかったわね、本当に」
ユキの呟きは、廊下を通りかかった看護師にさえ聞こえないほど小さかったが、その顔には、親友の「生還」と「恋愛成就」を祝福する、優しい笑みが浮かんでいた。
大東亜エウロ欧州連合統合参謀本部。
重苦しい空気の中、ディスプレイには帝国側の沈黙と、連邦各地で激化する暴動の様子が映し出されていた。
「被害に遭ったのは広報官の少女一人。だが、世論にとっては『リヴァイアサン中隊への暗殺未遂』という事実だけで十分だった。捕虜の証言はすでにプロパガンダとして拡散され、大東亜、エウロの両国で、開戦を叫ぶ声は止まるところを知らん」
参謀総長は、深く椅子に身を沈め、こめかみを押さえた。
「今、帝国と戦端を開いて勝てるのかね?」
「……無理です。AAUとの先の戦いによる消耗が激しすぎます。物資、人員、そしてシュテルツァーの配備状況……どれを取っても、今この瞬間の全面戦争は『自殺行為』です」
「そうか。ならば、外交ルートを維持し、帝国に謝罪と賠償を要求し続けろ。国民には『戦略的忍耐』を求めるしかあるまい」
だが、その言葉が虚しく響くほど、外の熱狂は凄まじかった。
軍部内では「卑劣な暗殺を許すほど我が軍は腐ってはいない」と息巻く若手将校たちが暴発の機を窺い、街頭では右翼と極左が珍しく手を取り合い、「リヴァイアサンの誇りを守れ!」とシュプレヒコールを上げている。
皮肉なことに、ユイという一人の少女が流した血は、国家という巨大な怪物を揺り動かす「聖なる火種」と化していた。
その「火」は、もはや外交文書や理屈で消せるレベルではない。
国民は「英雄の無念」を晴らすための生贄を求めていた。
そしてその生贄とは、他でもない、沈黙を続ける帝国である。




