01.二人旅ではないけれど
遊覧船の甲板に立って海の景色を眺めていたら、潮風がビュウと吹いて、肩下まで伸びたハルの黒髪を空に跳ね上げた。
髪が目に入りそうになって、思わずぎゅっと目を閉じる。
すぐに風は止んだのでまた目を開けると、いつの間にかシアンがハルの風上側に移動していた。
彼の大きな身体で風を遮ってくれたようだ。
髪が跳ねていたのか、シアンが大きな手でハルの頭を撫でて整えてくれる。
「ありがとう、シアンさん」
ハルがお礼を言うと、シアンが「いいえ」とにこやかに笑う。
国宝級の美貌が輝いていた。
今日の彼は特別機嫌がよさそうだ。
「雨が上がって良かったですね、今日が新婚旅行日和なのは、神が私たちの門出を祝ってくれたのでしょう」
「あ、うん。晴れて良かったね。新婚旅行じゃないけどね」
確かに昨日の雨が嘘のように、空は青空を見せていた。シアンの言うように、今日は旅行日和かもしれない。
だけどこの旅行は新婚旅行ではない。
二人の結婚は、「次の神託が下って、それを成し遂げるまでは絶対に認めない」と、ドンチャ王子が決めたからだ。
新たな神託はまだ下らないし、まだ結婚もしていない。
だからシアンの「新婚旅行」という言葉を聞き流さずに、一応訂正しておいた。
二人の他に船に乗る英雄はいないが、この旅は決して新婚旅行ではない。
「同じようなものですよ。二人きりの旅行ですからね」
爽やかな笑顔を見せるシアンは、少し離れた場所に立つミルキーが目に入らないようだ。
ミルキーが、不安げな様子でハル達を見ていた。
今日は朝早くに王城を出て船に乗り、シアンの祖国のセレスト国に向かっている。
ハルはシアンの帰省に付き添っているところだ。
ハル達は船の上だが、国宝級美貌の仲間達は、そろそろ王都から遠く離れた僻地に向かって出発した頃だろうか。彼等はドンチャ王子から魔物討伐の指令を受けている。
一週間ほどかかる討伐らしいので、ハルの愛するケルベロスには、昨日ねぎらいのスペシャルブラッシングをしてあげてきた。
それほど大きな討伐ではないが、なぜハル達だけが魔物討伐の参加を免除されたかというと、今回の討伐は、神の神託を受けたものではないからだ。
討伐撮影は、神の神託のみに課せられるものなので、撮影担当のハルは通常の討伐に参加しても意味がない。ドンチャ王子は、ハルを除いた英雄達に魔獣討伐の指令を出していた。
参加義務があるのは、討伐担当者と調理担当者と治癒担当者だけだ。
もちろん―――討伐担当のシアンには参加の義務はある。
だけどシアンがゴネたのだ。
「私がハルを置いて、そんなに遠く離れた地の討伐に行けるわけがないでしょう?神から祝福を受けたこの指輪がある限り、私達は離れる事が出来ないって事は、王子もご存知でしょうに。
ちょうどいい機会です。神託の討伐が始まってから、私だけ故郷に帰れていませんからね。故郷の母も年老いてきていますから、母が元気なうちに顔を見てこようと思います。
あ、もちろんハルは連れて行きますね。この指輪があるので、離れようにも離れる事が出来ませんから」
「この指輪」と神から受けた指輪を主張しながら、シアンがドンチャ王子に交渉していた。
指輪は離れた相手のいる場所に導くだけで、指輪をしているからといって、離れられないわけではない。
普通に遠く離れる事は出来る。
「この辺にいるな」と感じるだけだ。
だけどどこへ行っても、すぐに指輪をたどってハルの所へ帰ってしまうだろうと考えたドンチャ王子が、条件を出した上でシアンの帰省を認めたのだ。
シアンが主張する通り、確かに神託の討伐が始まってから、シアンだけが故郷に帰れていない。
「休暇の時に一人で帰省すればいいと思うのですが………。でもそんな事を言ってもシアン様は聞かないのでしょうね………」と、ドンチャ王子はシアンに聞こえるように、本人の前で深いため息をついていた。
「ハルも一緒に討伐に来ればいいだけだろう?」と他の英雄達はゴネていたが、『行かなくていい討伐なら、行かないでおこうかな』とハルは考えた。
討伐に行くより、シアンの故郷のセレスト国に興味があったからだ。
ドンチャ王子が、帰省を認める上で出した条件は二つ。
一つは神の贈り物のぬいぐるみを持っていく事。
そしてもう一つはミルキーを護衛に付けること。
条件というほどの条件ではない。
最初からハルはぬいぐるみを待って行くつもりだったし、ミルキーは護衛と言っても仲の良い友達だ。パールとピュアも護衛に付けてもらいたいくらいだった。
双子はちょうどエクリュ国に帰省していたので一緒に来れなかったが、ミルキーは「双子にもすぐに連絡をします」と約束してくれた。
仲良しの双子にはセレスト国で会えるだろう。
『みんなで色んな所を観光しよっと』と、ハルはセレスト国の旅を楽しみにしている。
「ああ、リュックからまたハニコが飛び出してますよ。しまっておきますね」
背負っていたリュックの口がまた勝手に開いて、神からの贈り物のユニコーンのぬいぐるみが、また顔を出していたようだ。
シアンがギュッ、ギュッとぬいぐるみを奥に詰め直して、リュックの口をしっかりと閉じてくれていた。
「海に落ちたら大変ですからね」とシアンが優しい微笑みを見せる。
「ありがとう。シアンさん」
シアンにお礼を伝えると、シアンから少し離れた場所に立つミルキーが、顔色を悪くしてハルを見ている事に気がついた。
ぬいぐるみが落ちそうで、ハラハラさせてしまったのかもしれない。胃の辺りを押さえている。
「もう大丈夫だよ、ミルキーさん」と、ハルはミルキーに安心してもらえるように声をかけた。
護衛をしているハルが、「もう大丈夫だよ」とミルキーに声をかけてくる。
どこにも大丈夫な要素が見られなくて、ミルキーは返す言葉が見つからないが、「はい……」と小さな声で返事を返しておく。
胃がキリキリと締め付けられていた。
今回の護衛は、ドンチャ王子からの厳命だ。
帰省中の双子にも、至急セレスト国に向かうよう、電報を打っている。
「今回の旅はくれぐれも二人から目を離さないように。特にシアン様には注意が必要だ。
もし邪なオーラを感じる事あれば、遠慮なく彼に聖魔法を放てばいい。責任は私が取ろう」
どんな時でも温厚であるはずのドンチャ王子が、これまでにないくらい厳しい顔を見せながら、ミルキーに出した指令だった。
――余命宣告を受けた気分だった。
報復が怖いので、あまり強い聖魔法を打つ事も出来ないままに、浄化魔法をシアンに放ち続けているが、邪なオーラは絶える事なく湧き上がっている。
『恐ろしい人だ………』とミルキーは震える。
だけど恐ろしいのはシアンだけではない。
ハルの背負ったリュックには、神獣ユニコーンが憑依したゆいぐるみが入っていて、何度シアンがリュックの口を固く閉じても、すぐに顔を覗かせるぬいぐるみは、呪いの人形のようだ。
今またしっかりと口を閉じられてしまったリュックからは、禍々しいオーラが滲み出ていた。
キリキリキリキリとミルキーの胃が悲鳴をあげている。