40.ミルキーが失念していたこと
もう一つの栗は焚き火の奥に入ってしまった。
ハルは栗を諦めて、枝で地面に落書きを始める。
「↓」と自分の少し横方向に下向きの矢印を書き、「オルトロちゃん」と名前を書く。
ハルは今、オルトロソファーで寛いでいるところだ。
次に「→」「パールちゃん」「←」「ピュアちゃん」と書いた後、「←――」「ミルキーさん」と書いていく。
自分の方向に矢印を書かれて、何げにハルの落書きに目をとめたミルキーは、ハッと気がつく。
「あの……ハル様。英雄様達に手紙を書きましたが、ハル様の文字は読めないのでは……?」
「あ、うん。でも大丈夫。雰囲気で伝わると思うんだ。この文字だって雰囲気で伝わるでしょう?」
「この文字」とハルが枝で指すのは、ミルキーに向けられた矢印の文字だ。
「もしかして私の名前を書かれているのですか?」
「そうだよ。やっぱり伝わるよね」
「………」
ミルキーは黙り込んだ。
不吉な予想が頭をよぎる。
自分が宛名を書いた手紙は、確かに英雄達には届いているだろう。
だけど封を開けて手紙を見ても、ハルの文字では何が書かれているか分かりようがないはずた。
あのサイン会で、ハルがこの世界の文字を書けないことは、ミルキーは知っていた。
――もちろんミルキーが知っている事は、英雄達も知っている。
知っていたはずなのに、宛名だけ書いて事情を説明しようともしなかった自分を、英雄達は許すだろうか。
ハルが消えた時、もし英雄達がハルの側にいれば、神への道へ進もうとするハルを素早く止めたかもしれない。ケルベロスならば、いつでもハルの側にピッタリと寄り添っていただろう。
ハルの居場所を英雄達にいち早く知らせる事をしなかったミルキーに、英雄達は怒りを向けるかもしれない。
いや。手紙よりも、もっと英雄達を怒らせる事がある。
自分はハルの護衛でありながら、護衛対象者のハルを一瞬でも見逃してしまった。
――これは確実に英雄達の逆鱗に触れる事だろう。
もし。もしもハルが神の世界からあのまま戻って来ていなければ、戦士達の怒りはどこへ向いていただろうか。
『もしかすると英雄様達の怒りを向けられた結果、私は神の元へ送られる事になったのでは……?
私に危険が迫っていたのは、英雄様達からの危険だったのでは……?』
知ってしまった真実に、ミルキーは身を震わせる。
ミルキーはミルキー騎士団の総長だ。
身体は虚弱だが、そう簡単にやられるような自分ではないとミルキー自身は思っている。
だけど英雄五人――いやたとえ一人でも本気で来られたら、自分の運命はそこで終わりだろう。
神の言葉の意味を理解して、ミルキーは震えた。
「ハル、この世界の文字が書けないのか?じゃあ英雄達は、ハルがマラカイト国に来てることも知らないのか?」
セージがハルに確認をする。
「文字は書けないけど、手紙にはイラストも書いてるし分かると思うよ。こんな感じで書いたんだ」
ハルはケルベロス――三頭の犬の顔を書いた隣に、オルトロス――二頭の犬の顔を書いて、オルトロスの上に「待ってるね」という言葉を吹き出しに囲って見せた。
「ああ……まあ。これならマラカイト国に来てる事は伝わる……かな?」
「だよね。討伐休みが終わる前にドンちゃんに集合場所を確認するから、またその時会おうねって感じの事も書いてるよ」
英雄達には伝わっている前提で、ハルは当然の事のように話すと、セージが困惑した様子でハルの言葉を否定した。
「そこまでは伝わってないと思うぞ……」
「そうかな?じゃあセージさんの屋敷に戻ったら、字の勉強をするよ。文字を覚えたら手紙を書き直そうかな」
「それはあまりに連絡が遅すぎるんじゃねえか……?」
幼馴染のフレイムがさすがに気の毒で、カーマインが口を挟む。
「じゃあ手紙のお手本を書いてもらって、それを写そうかな」
「書いてもらえよ……」
『呑気すぎるだろう』と思うが、カーマインは黙った。黒戦士を否定する言葉は、今のカーマインには使いたくない言葉だった。
「大丈夫ですよ、ハル様は一生懸命お手紙を書きましたから」
「マラカイト国に来ている事は伝わっていると思いますし、ハル様に御用があれば英雄様が来てくださいますよ」
「そっか、そうだよね。じゃあもう連絡はいいかな」
双子の励ましで勇気づけられたハルは納得したように頷いている。
『この双子も、英雄達には冷たい奴らだな……』とカーマインは思うが、やっぱりハルと仲のいい双子への批判の言葉は呑みこんだ。
「もう夜も遅くなったし、テントに入ってみんなでトランプしてから休もっか。ババ抜きしよう!」
「ハル様、もう休まれた方がよろしいのではないですか?明日も早いですし……」
多くの魔獣が出るこの地での野宿だというのに、ハルが嬉しそうに魔法のカバンからトランプを取り出して、みんなに掲げて見せた。
ミルキーが戸惑って声をかけると、ハルは元気に言葉を返す。
「私はしっかりお昼寝したから大丈夫!ミルキーさんは眠たくなっちゃった?」
「あ、いえ、そういうわけでは―」
返事途中で、ミルキーがハッと顔を強張らせた。
ハルがいなくならないように寄り添っていた双子も、ビクッと身体を震わせる。
セージやセルリアン、カーマインやルビーも急に険しい顔になった。
オルトロスも、もたれているハルを気遣って立ち上がりはしないが、低く唸り出した。
皆が同じ方向を睨んでいる。
「え、何?どうしたのみんな。……え、まさかオバケ……?」
ハルにはみんなが何に反応しているのか分からず、怖くなった。
大概の魔獣や魔物ならば、ここにいる者達で対応出来るはずだ。ここまでの反応を見せる事はないだろう。
――魔獣や魔物とは違う何かがやって来る。
『怖い!!』
ハルは幽霊だけは見たくないと思っている。
あれだけはダメだ。あれはただそこにいるだけで、人を絶望に突き落とすものだ。
「――近い。来るぞ!」
緊迫した声で何かの訪れを告げるセージの声に、ハルはぎゅっと目を瞑った。