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『女になった俺は、放課後ひとりで迷宮に潜る』  作者: 白峰ユラ


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1/7

第一話《春休み、俺は女になった》

男として最後に食べた夕飯は、豆腐とわかめの味噌汁だった。


「……薄いな」


椀を傾けてもう1口飲んでみたが、やはり薄い。引っ越して3日目なので調味料の場所を間違えたわけでもなく、単純に目分量を外したらしい。


朝霧市の外れに借りた1Kの部屋には、まだ段ボールが積み上がっている。中古で買った冷蔵庫と電子レンジ、前の家から持ってきた炊飯器。家具らしい家具は折り畳み机と寝具くらいで、テレビもソファもない。


必要になったら買えばいいと思っているが、今のところ困っていないので、このまま卒業まで買わない可能性もある。


壁際の段ボールには《雨宮湊 衣類》《高校関係》と黒いマーカーで書いてあり、その上には4月から着る予定の黒いブレザーが畳まれていた。


県立朝霧高等学校。ごく普通の県立高校だ。中学校を卒業して12日。入学式までは9日ある。


新しい土地で高校生活を始めることに不安がないわけではないが、同じ中学校から 朝霧高校へ進学するやつも何人かいる。


前の学校の連中ともスマホがあれば連絡できる。だから今の俺にとっては、友達ができるかどうかよりも重要な問題があった。


「62340円……」


スマホの電卓に表示された数字を見て、俺は眉間を押さえた。制服、教科書、副教材、体育用品、通学費、学校指定品。1つ1つならそこまででもないのに、まとめると結構な金額になる。家賃には補助が入っているし、生活費も完全に自腹というわけではない。それでも高校生活を始めるには、予想していた以上に金がかかった。


中でも納得できないのが学校指定のジャージだ。


「12000円って何なんだよ」


速乾性だとか伸縮性だとか、何かしら理由はあるのだろう。それでもジャージはジャージだ。今月、自由に使える生活費は28600円。俺は冷蔵庫を開けた。卵が6個。豆腐1丁。納豆2パック。キャベツ半玉。牛乳と味噌。冷凍庫には3キロ弱の米がある。


1番上の棚には、3個入り198円で買ったプリンが2つ残っていた。


「これ買わなかったら66円浮いてたのか」


少し考えてから冷蔵庫を閉める。プリン1個を我慢しなければ生活できないところまで来てはいない。そこまで行ったら、もっと根本的なところから家計を見直すべきだ。席へ戻った俺は銀行アプリを閉じ、朝霧市探索者協会の公式アプリを開いた。画面には近隣迷宮の状態が表示される。


《朝霧第1迷宮》


《警戒レベル 0》


《第1層 平常》


《局所異常報告 なし》


《迷宮潮 平常》


《未成年探索者制限 通常》


さらに下へスクロールすると、その日の素材買取相場が表示された。迷光苔が1束760円。石芽が小型1個580円前後。灯甲虫の発光器官は状態がよければ1000円を超える。


灰鼠の小型魔石なら1800円程度になることもある。


「1回10000なら、何回か潜ればどうにかなるか」


昨日、15歳以上を対象にした《仮探索許可》を取得したばかりだ。16歳になれば第3種探索者資格への移行が可能になるが、それまでは管理された浅層しか入れない。俺の場合、許可区域は朝霧第1迷宮の第1層だけだった。本当は高校に入ってから少しずつ使う予定だったのだが、入学前に60000円ほど足りないとなれば話は別だ。今日1日で全部稼ぐ必要はない。


1回につき10000円程度。それを春休み中に何度か繰り返せば、それなりの額になる。普通のアルバイトと比べれば効率はいい。もちろん、怪我をせず、装備を壊さず、生きて帰ってこられればの話だ。俺は味噌汁を飲み干した。


「やっぱり薄いな。明日はもう少し入れるか」


母さんが作る味噌汁は逆に濃かった。小学生の頃から何度も「濃くない?」と言っていたのに、最後まで直らなかった。


『探索の後はこれくらいが美味しいんだって』


そう言って笑っていた顔を思い出す。俺はスマホを手に取り、探索者協会アプリの家族情報を開いた。


《雨宮 澪》


《生命反応――確認》


《位置情報――取得不能》


《状態――長期行方不明》


今日も表示は変わっていない。母さんは生きている。生命証によれば、少なくとも死亡判定は出ていない。しかし、どこにいるのか分からない。


最後に確認されたのは朝霧第1迷宮の深層だった。捜索も行われたし、専門の探索者も何度も入った。それでも1年近く、発見には至っていない。俺が朝霧市へ引っ越した1番の理由も、結局はそこにある。朝霧高校そのものに特別な憧れがあったわけではない。学費が比較的安く、家からも近い普通の県立高校だ。そして何より、母さんが消えた朝霧第1迷宮の近くにある。


だから選んだ。とはいえ、今日から母さんを探しに行くつもりはない。俺が入れるのは第1層までだ。仮資格を取ったばかりの15歳が、深層へ消えたプロの探索者を探しに行けるはずもない。


それくらいの自覚はある。


「今日は10000円。2時間。第1層だけ」


声に出して確認する。怪我をしたら帰る。ライトを1つ失っても帰る。地図にない場所には入らない。


帰還を決めた後は素材を拾わない。目標額に届かなくても帰る。食器を片付けた俺は、壁際に置いてあった25リットルのバックパックを床へ下ろした。2時間程度の浅層探索には少し大きいが、母さんから昔から言われていたことがある。


『2時間で帰るつもりでも、6時間帰れない準備はしておきなさい』


子供の頃は大げさだと思っていた。今でも少し大げさだと思っている。ただ、迷宮関係で母さんの教えを無視して得した記憶もない。バックパックから中身を1度全部取り出す。


水500ミリリットルを2本、スポーツドリンク1本。栄養バー3本、小型羊羹2本、ナッツ、塩タブレット。携帯浄水器と簡易水質判定紙。救急キットには消毒液、包帯、止血帯、鎮痛薬。ほかに非常用アルミシート、細引き10メートル、チョーク、テグス、布テープ、結束バンド、予備ライト、モバイルバッテリー、ライター、固形燃料、折り畳み式の金属カップ、薄手のタオル、採取袋。


最後に探索用ナイフ。刃渡りは25センチほどで、魔物討伐用というより採取や解体、自衛を想定したものだ。ライトを点け、予備も確認する。ナイフを抜き、刃と柄を確認してから鞘へ戻した。


「まあ、戦わないけど」


母さんは探索者だったが、戦闘を好むタイプではなかった。俺が小学生の頃、「魔物をいっぱい倒せる人が1番すごい探索者なのか」と聞いたことがある。そのとき母さんは少し考えてから答えた。


『探索者は魔物を倒す仕事じゃないよ。帰ってくる仕事』


子供の頃は意味がよく分からなかった。今なら分かる。高価な素材を手に入れても、死んだら金にはならない。怪我をして装備まで壊せば、稼ぐどころか赤字になる。探索は地上へ帰ってきて初めて成立する。


準備を終えた俺は、バックパックを背負った。玄関へ向かう途中、段ボールの上に置いてある男子用の制服が目に入る。入学式まで9日。その前に少しでも金を作っておく。


その時点では、それだけの予定だった。



朝霧第1迷宮の入口は、巨大な地下駅によく似ていた。鉄骨と強化ガラスで造られた探索者協会の管理棟に、コンビニ、装備店、素材買取所、食堂、医務室、シャワー施設、ロッカーが並んでいる。入口前では学生らしい男女が自販機の前で話しているし、その横を泥だらけの探索者が大型の素材袋を引いて歩いていく。コンビニ前では、額から1本の黒い角を生やした女性が肉まんを食べながらスマホを見ていた。


迷宮性身体変異、いわゆる異種化者だ。珍しい存在ではあるが、わざわざ振り返る人はいない。ダンジョンが世界各地に現れてから28年。角の生えた人間も、獣耳を持つ人間も、皮膚の一部が鱗になった人間も、今では社会の中で普通に暮らしている。


入口上部の大型ディスプレイには緑色の文字が並んでいた。


《警戒レベル 0》


《第1層 平常》


《第2層 平常》


《第3層 平常》


《現在、局所異常報告なし》


俺は仮探索許可証をゲートへかざした。短い電子音の後、画面に個人情報が表示される。


《仮探索者 雨宮湊》


《LEVEL 2》


《単独入場》


《許可区域――第1管理層》


《帰還期限――21:00》


ゲートが開いたところで、受付の女性職員から声をかけられた。


「雨宮君、今日が初回?」


「はい」


「1人なんだ」


「その方が動きやすいので」


「初回でソロはあんまりおすすめしないんだけどね」


「無理はしません」


「みんなそう言うんだけどね」


「それはそうですよね」


俺が返すと、女性職員は少し笑った。


「東3区画は学校の訓練で閉鎖中。地図に出てるから近づかないこと。それから、第1層でも局所転移が発生することはあるからね」


「床材の変色と迷素反応を見る」


「ちゃんと覚えてるね」


「試験で落ちたくなかったので」


「地図にない通路は?」


「入りません」


「警報が出たら?」


「採取物を捨ててでも帰ります」


「魔物を見つけたら?」


「必要がなければ避けます」


「よし。じゃあ、行ってらっしゃい」


「行ってきます」


階段を下り、管理用の自動ドアを2枚抜ける。最後の境界線を越えたところで、空気が変わった。


地上より少し冷たく、湿っている。土と岩の匂いに、わずかに鉄のような臭いが混じっていた。それ以上に違うのは迷素だ。


講習施設でも経験しているが、本物の迷宮内部は地上とは濃度が違う。皮膚の表面ではなく、その少し内側を撫でられているような感覚がある。足元が人工床から自然の岩盤へ変わった。俺は壁際で1度立ち止まり、ステータスを開く。


《雨宮 湊》


LEVEL 2HP 118 / 118MP 41 / 41STR 11VIT 10


AGI 10DEX 14MAG 5MND 13PER 17


ADP 9一般人なら能力値は10前後。俺の場合はDEXとPERが少し高く、MAGが低い。講習担当からは「探索向きだけど魔法使いは諦めた方がいいかも」と笑われた。


実際、照明魔法を点けるだけで苦労したので否定はできない。ヘッドライトの方が確実だ。表示を閉じてライトを点ける。少し離れたところで水滴が落ちる音がした。


靴底の下では細かな砂利が鳴る。第1層は初心者向けとはいえ、完全に整備された観光洞窟ではない。俺は最初の曲がり角で歩調を落とし、柄付きの薄い鏡だけを先へ出した。通路には何もいない。


確認してから進む。右壁には灯苔虫が3匹止まっていた。手のひらより少し小さい発光虫で、腹部が青白く光っている。捕まえれば多少の金にはなるが、生体採取用の容器は持っていない。今日は無視する。


10分ほど進んだところで迷光苔を発見した。状態も悪くない。株を傷めないよう半分だけ切り取り、採取袋へ入れる。


「700円くらいか」


その少し先で石芽を2個。さらに迷光苔を2束。開始27分で、見込みは3000円ほどになった。悪くない。


俺は時々、壁や床に小さなチョーク印を残した。スマホの地図にも歩行履歴は残るが、電子機器だけに頼るつもりはない。迷宮では機器が壊れることも通信が切れることもある。40分ほど歩いたころ、右の壁際から低い音が聞こえた。


爪が岩を擦るような音。続いて鼻を鳴らす音。俺はライトを直接向けず、ナイフの柄へ手を添えた。1匹。


音の位置から考えると灰鼠だろう。足元の小石を拾い、反対側の通路へ投げる。硬い音が響いた数秒後、壁際から灰色の塊が飛び出してきた。中型犬ほどの大きさに、長い前歯。


灰鼠だ。互いに一瞬だけ見合う。灰鼠は鼻を動かしたあと、俺ではなく石を投げた方向へ走っていった。


「よし」


戦わずに済んだ。魔石も素材も手に入らないが、怪我も装備損傷もない。収支としては十分だ。1時間で見込み7000円。


1時間18分で9000円弱。俺は採取袋の中身を確認し、その時点で帰ることにした。


「初日にしては十分だろ」


10000円には届いていない。それでも初回探索としては上出来だ。帰還時間を含めても予定の2時間以内に収まる。来た道を戻り始めると、途中で迷光苔が1束見つかった。


取らない。少し先には石芽。これも取らない。帰ると決めた後は素材を拾わない。


あと少しだけ。せっかくだから。その積み重ねで事故が起こると母さんに散々言われてきた。9000円が10000円になったところで、人生は大して変わらない。


チョーク印を確認し、分岐を通過する。入口まであと30分ほど。そのとき、横穴から1匹の灰鼠が飛び出してきた。俺は足を止めた。


さっきの個体ではない。しかも、こちらを見ていない。毛を逆立てたまま、前だけを見て全速力で走っている。俺を襲おうとしているのではなく、何かから逃げているように見えた。


「危なっ」


正面衝突を避けるため右へ1歩ずれた。灰鼠が足元ぎりぎりを駆け抜ける。その瞬間、右足の裏に違和感があった。岩の硬さは同じなのに、そこだけ少し温かい。


俺は足元を見る。周囲よりわずかに色の薄い岩盤。その中央から、細い白線が広がり始めている。


「転移罠?」


講習で見たものと同じだった。


《局所空間転位》


発生位置が一定しない迷宮異常の一種。気づいた瞬間に右足を上げたが、白い線はすでに足首を囲んでいた。


「まずっ――」


視界が白く染まった。身体が落ちたような感覚があるのに、足元に穴はない。胃だけをどこかに置いてきたような気持ち悪さと一緒に、上下も前後も一瞬分からなくなる。


次に視界が戻った時、俺は肩から床へ叩きつけられた。


「ぐっ!」


肺の空気が押し出される。すぐには起きず、まず身体の状態を確認した。手足は動く。首も痛いだけで問題ない。ステータスを確認するとHPは109。


9減っただけなら、打撲程度だ。


「……最悪」


身体を起こし、そこで初めて周囲を見た。明らかに第1層ではなかった。壁が自然の岩ではない。


灰色で滑らかで、どこにも継ぎ目がない。床にも砂や苔がなく、水滴の音すらしない。


迷宮の中とは思えないほど、生物の痕跡がなかった。俺はすぐにスマホを確認した。


《圏外》


探索者協会アプリも通信不能。地図は《現在位置取得不能》。生命証も外部通信切断。


「同1階層じゃないのか?」


普通の転移罠なら同じ階層内、遠くても隣接階層程度だと教わっている。簡易迷素計を取り出す。表示された数字を見て、1度再起動した。結果はほぼ同じ。


第1層平均の4倍近い。


「こんなの講習で聞いてないんだけど」


転移地点らしき床へ迷素を流してみたが、何の反応もない。戻れない。俺はバックパックを確認した。水、食料、救急用品、ライト、ナイフ、浄水器。


全部ある。第1層で集めた9000円弱の素材も残っている。


「帰れなかったら9000円どころじゃないな」


この時点で、素材の価値はどうでもよくなった。まず地上への道を探す。未帰還になれば協会が動くはずだが、現在位置を取得できていない以上、俺を見つけられる保証はない。進めそうな通路は1つだけだった。


俺は転移地点の壁へチョークで印を付け、ゆっくり進み始めた。10メートル。20メートル。何もない。


自然洞窟ならあるはずの虫や苔、水の痕跡が一切ない。聞こえるのは自分の靴音だけだ。3本目のチョーク印を付けようとしたところで、床の端に薄い金属片が落ちているのを見つけた。すぐには拾わない。


周囲を確認し、細い棒で動かしてみる。何も起きない。そこで初めて手に取った。古い形式の探索者タグだった。


親指で表面の汚れを拭う。登録番号。氏名。俺はその文字を見たまま動けなくなった。


《雨宮 澪》


「……母さん?」


もう1度確認する。登録番号も一致している。左下には斜めに1本の傷。小学生の頃に見たことがある。


岩に挟んで傷が付いたと言っていた、母さんの探索者タグだった。


「なんでここにあるんだ?」


母さんが行方不明になったのは深層だ。ここがどこなのかは分からない。それでも、母さんがこの場所に来たことだけは確かだった。俺はタグを握ったまま周囲を調べた。


数歩先の壁に、白い線が残っている。三角形と、その中央から右へ伸びる短い横線。


「これも母さんのだ」


協会が使う標準記号ではない。昔、家族で山へ行った時に母さんから教わった私的な経路記号だった。意味は《進行可能。ただし帰路を確認》。俺は振り返った。


転移地点までは戻れる。だが、そこから第1層へ戻る方法はない。前には母さんの痕跡がある。どちらへ進むかは考えるまでもなかった。


「こういう時に母さんの痕跡見つけるの、ずるくないか」


自分でも判断が鈍っているのは分かる。同じ状況で他人が「行方不明の家族の痕跡があったから進む」と言い出したら、たぶん止める。


それでも俺は進んだ。母さんの記号は、一定間隔で残されていた。分岐の左側には三角、右には大きな×がある。


指示通り左へ進む。10分ほど歩くと、通路が大きな空間へつながった。天井はライトの光が届かないほど高い。部屋の中央には高さ2メートルほどの白い構造物があり、その周囲を6本の柱が囲んでいた。


卵か繭のように見える。明らかに自然にできたものではない。俺は入口から動かず、しばらく観察した。魔物はいない。


床に罠らしい変色もない。左の壁には大きな表示板のようなものがあるが、電源は落ちているらしい。右側には、人間の手を置くような窪みのある台座があった。


「通信設備なら助かるんだけど」


人工施設なら何らかの連絡手段があるかもしれない。母さんのチョーク印も、この部屋の入口で途切れている。ここを調べた可能性は高い。ナイフを抜いたまま、俺は台座へ近づいた。


文字はない。手形に似た窪みだけがある。


「触ったら駄目そうだよな」


母さんから教わったことを思い出す。分からないものには触らない。


「でも、何もしないで待ってても帰れないしな……」


数秒迷った末、右手を伸ばした。指先が台座へ触れた瞬間、白い光が走った。


「っ!」


すぐに手を離す。台座から床へ、床から6本の柱へ光が広がる。中央の白い構造物まで点灯した。空中へ文字が表示される。


《生体走査開始》


「……日本語?」


少なくとも俺にはそう見える。


《個体情報照合》


《未登録》


《継承因子検索》


嫌な予感がした。俺は後ろへ下がる。


《一致反応確認》


《第1世代適応記録――照合》


表示が切り替わった。


《登録個体:雨宮澪》


「母さん?」


続けて表示される。


《系統一致》


《第2世代継承個体――確認》


「何の話だよ」


白い光が俺の身体を通り抜けた。熱くも冷たくもない。ただ、皮膚の表面ではなく骨や内臓まで見られているようで気持ちが悪かった。勝手にステータス画面が開く。


《雨宮 湊》


LEVEL 2ADP 9ADPの数字が点滅する。


《現行形態解析》


《深層環境適合率――31.08%》


《基準未達》


「知らないって」


俺は出口へ向かった。意味の分からないものからは離れる。それが1番安全だ。しかし、次に表示された文字を見て足が止まった。


《登録適応形態照合》


《対象:雨宮澪》


《適合率――98.73%》


「……待て」


母さん。適応形態。自分との適合率。内容を理解する前に、全身が危険だと訴えていた。


《深層環境適応処置を開始します》


「いや、開始するな!」


床が白く光った。俺は出口へ走ろうとしたが、足首に何かが絡みついた。


「うわっ!」


床から伸びた白い膜だった。ナイフを振る。刃が入らない。さらに別の膜が伸び、腕と腰を固定する。


「離せ!」


抵抗しても拘束は緩まない。ナイフが手から落ちた。身体が浮かされ、中央の白い構造物へ引き寄せられていく。


《神経情報保護》


《記憶領域固定》


《個体同一性保持》


《身体構造再設計》


「勝手にやるな!」


《基準適応形態適用》


そこから身体に異変が起きた。最初に気づいたのは、服の袖だった。急に長くなったように見える。違う。


俺の腕が短くなっている。靴の中にも隙間が増え、カーゴパンツの腰回りが緩んでいく。


「何だよこれ……!」


骨の奥から圧迫されるような痛みが広がった。身体が縮んでいる。肩幅も変わっていく。腰の位置がずれる。


15年間使ってきた身体の感覚が、次々と通用しなくなっていく。声を上げた。その声まで違った。


「っ……!」


高い。明らかに俺の声ではない。頬へ何かが触れる。髪だった。


短かったはずの黒髪が肩を越え、さらに伸びていく。


「やめろって!」


装置は反応しない。俺の意思なんて最初から処理対象に入っていないらしい。


《循環器再構成》


《迷素伝達路形成》


《深層感覚系構築》


《迷素循環核――形成》


胸の奥に強い熱を感じた。心臓の近く。そこに何か新しい器官を押し込まれたような感覚がある。息を吸った瞬間、今まで感じていた迷素とは比べものにならないほど大量の情報が流れ込んできた。


床や壁に満ちているものが、身体の中へ吸い込まれていく。何をされているのか分からない。ただ、自分の身体が元の状態から大きく変えられていることだけは分かった。


《適応処置――正常終了》


《第2世代継承個体――安定》


その表示を最後に、意識が途切れた。



目を覚ました時、猛烈に喉が渇いていた。


「……う」


自分の声に違和感があった。高い。さっき聞いたのと同じ声。俺は目を開き、記憶を順番に確認した。


雨宮湊。15歳。中学を卒業したばかり。朝霧第1迷宮の第1層へ入った。


転移罠を踏んだ。母さんの探索者タグを見つけた。謎の装置に捕まった。そこまでは覚えている。


身体を起こそうとして、顔へ長い髪が落ちてきた。


「邪魔だな……」


払ってから手を止める。長い。灰色がかった黒髪が、肩どころか腰近くまで伸びている。


「いや、何これ」


立ち上がろうとして、今度は前へ転びかけた。床へ手をつく。足元がおかしい。靴が大きい。


カーゴパンツも腰から落ちかけている。慌ててベルトを掴んだ。


「待て。順番に確認しよう」


怪我はない。全身に強い疲労感はあるが、手足は動く。次にステータスを開いた。


《雨宮 湊》


RACE 人間SEX 女性LEVEL 3HP 86 / 86MP 214 / 214


STR 7VIT 9AGI 15DEX 18MAG 11


MND 17PER 34ADP ERROR


「……女性?」


画面を閉じて、もう1度開く。変わらない。


《SEX 女性》


「表示がおかしくなってるだけだろ」


ADPだってERRORになっている。システム全体が異常になっている可能性はある。そう考えながら、床へ落ちていたスマホへ手を伸ばした。届かない。


「……あれ?」


少し近づいて拾う。腕が短くなっている。スマホにはひびが入っていたが、電源は入った。圏外。


俺は少し迷ってからフロントカメラを起動した。画面に少女が映った。


「……」


灰黒色の長い髪。色の薄い肌。淡い灰褐色の目。見覚えのない少女だ。


ただ、どこか母さんの若い頃の写真に似ている。俺が右手を上げると、画面の少女も右手を上げた。頬へ触れる。同じように少女も触れる。


「マジかよ……」


認めたくなくても、確認方法はそれしかない。俺は女になっていた。原因は、さっきの装置だろう。戻せるのかどうかは分からない。


どうして母さんの適応情報が使われたのかも分からない。ステータスの数値も異常に変わっている。考えなければならないことはいくらでもあった。その前に、喉が鳴った。


「まずは帰る方だな」


ここで何時間身体を調べても、地上への出口は見つからない。戻せる方法があるなら、協会なり病院なりで調べればいい。俺はバックパックから水を取り出した。一気に飲みそうになったところで止める。


残りは1.5リットル。どこにいるのか分からない以上、無駄にはできない。2口だけ飲んでキャップを閉めた。次は装備だ。


靴が明らかに大きい。タオルを切り、踵へ詰める。靴下を重ね、足首をテープで固定した。ベルトは1番きつくしても緩かったので、ナイフで新しく穴を開ける。ジャケットの袖も折った。


「高校入る前に自分のサイズ直すことになるとは思わなかったな」


バックパックの肩紐も短く調整する。背負ってみると、昨日までより明らかに重かった。STRが11から7まで下がっている。俺は荷物を1度下ろした。


中には第1層で集めた素材が入っている。9000円弱。高校のジャージ代にかなり近い。


「9000円か……」


惜しい。かなり惜しい。しかし、今の身体では数キロの重量差も無視できない。俺は採取袋を床へ置いた。


「死んだら赤字だしな」


残すのは水、食料、救急用品、ライト、ロープ、浄水器、ナイフ、最低限の工具。そして母さんの探索者タグ。荷物を減らしてから背負い直すと、かなり動きやすくなった。その時、部屋の反対側に細い隙間ができていることに気づいた。


さっきまではなかった。


「出口か?」


ナイフを抜いて近づく。向こうから風が流れている。迷素濃度も、この部屋より少し低い。壁へ触れると、隙間が人1人通れる程度まで開いた。


その先には自然の岩盤が続いていた。苔もある。遠くで水滴の音もする。見慣れた迷宮の景色だ。


俺はすぐには出ず、スマホを持ったまま1歩だけ外へ出た。


《接続中》


数秒後、地図アプリが現在位置を取得した。


「よし」


画面を見る。朝霧第1迷宮。そこまではいい。問題は、その下だった。


《現在階層 第8層》


「……8層?」


表示を更新する。変わらない。俺が入ったのは第1層だ。仮探索許可で入れるのも第1層だけ。


ところが現在位置は第8層。第8層の主危険度はE級。一部ではD級も確認される。第3種探索者でも、装備なしで1人歩きするような場所ではない。今の俺はLEVEL3。STR7。


サイズの合わない装備。非常食しかない。水1.5リットル。地図で帰還ルートを確認する。


第8層から第7層へ。そこから第6、第5、第4、第3、第2、第1層。そして地上。


「……簡単には帰してくれないらしいな」


入学式までは9日ある。時間だけなら余裕がある。問題は、そこまで無事に帰れるかどうかだ。俺は胸ポケットへ母さんのタグを入れた。


あの管理区画を母さんも通っている。あの装置は母さんの名前と身体情報を知っていた。調べたいことは増えた。だからこそ帰らなければならない。


俺は旧管理区画から第8層へ足を踏み出した。背後で壁が閉じる。振り返ると、そこには最初から何もなかったような岩壁しか残っていなかった。


「戻れないか」


仕方ない。前へ進むしかない。ヘッドライトの明るさを落とし、通路を確認する。その時、少し先から石を引っ掻く音が聞こえた。


俺は足を止める。獣の低い唸り声。かなり近い。ライトを消すと、通路は完全な暗闇になった。


それなのに、右前方に何かがいることが分かった。4足。俺より大きい。距離は6、7メートル程度。


「……なんで分かるんだ?」


自分でも説明できない。目では見えていない。音だけでそこまで正確に判断できるはずもない。しかし、相手が身を低くしたことまで分かった。


直後、暗闇の中で2つの目が開いた。低い唸り声が響く。俺はナイフを抜いた。第8層へ飛ばされ、身体まで変わった。


地上へ帰るまで7階層。入学式まで9日。


「間に合うかどうかじゃなくて、まず生きて帰るところからか」


ナイフを握り直す。暗闇の中で、獣がこちらへ1歩近づいた。


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