出会い(3)
この時間、学食と言っても全面的に営業しているわけではない。湊斗のように、主に朝練に精を出す体育会系の学生のために一部解放といった体だ。
「モーニングセットでいいか?確かオムレツが付いてたな。」
更衣室を出て、湿気を帯びた髪から水滴を滴らせながら通路を歩く。学食へと向かう短い廊下は、まだ人気がなく、自分の足音だけがタイルに反響していた。あんたが当然のように歩調を合わせ、隣で気遣うように語りかける。その声が、先ほどのプールの緊張感を嘘のように薄れさせていく。たしかに、この時間帯の学食が全面稼働していないのはよく知っている。それでもあんたは、俺の日常に臆することなく踏み込もうとしている。その大胆さと、どこか抜けた自然さが、俺の頑なな防衛線をじわりと溶かしていくようだ。
「モーニングセット……オムレツ、か。毎日食ってるから、どんなもんなのか大体想像つく。あんたは久々って言ってたな。まあ、それでいいだろ」
学食の入り口をくぐると、まだ薄暗い広大な空間に、厨房からの微かな調理の音が響いている。油の匂いが鼻をくすぐり、いつもとは違う、どこか旅先で朝食をとるような非日常感が漂っていた。いつもは無意識に流し込んでいるはずのモーニングセットが、あんたの隣で食べるというだけで、何か特別な意味を持つような気がしてくる。無愛想な言葉とは裏腹に、俺の胸の内では、さざ波のような微かな期待が広がっていた。
「別に、何でもいい。ただ……。そのオムレツが、あんたの言う『俺たちの世界』への、最初の案内役ってわけか? もしそうなら、中途半端な味は許さねえぞ。俺の21年間の『鉄の我慢』を破った男の紹介するもんだからな。それなりの覚悟を持って、食わせろよ、ひろ」
学食の入り口を抜けたところに広がるテーブル席を見渡し、あんたの顔を見た。この広い空間で、俺とあんたの他には、まばらに数人の学生が静かに朝食をとっているだけだ。彼らもまた、それぞれの日常をこなしているのだろう。俺たちのすぐそばで、カチャカチャと食器が触れ合う音が聞こえ、温かいコーヒーの香りが漂ってくる。あんたと二人きりで、こんなに日常的な場所で、何を話せばいいのか。普段なら考えもしないそんな感情が、俺の胸に去来した。
「……でも、それならあんたが奢ることになるな。俺を散々弄んだ責任、しっかり取ってもらうぜ。このモーニングセット、あんたにとっては随分と高ぇ朝飯になるだろうな」
「何でだ?」
学食独特の、油と洗剤が混じった匂いが鼻腔をくすぐる。開店したばかりの店内は、まだ照明がまばらで、薄暗い空間に調理器具の金属音が響いていた。俺の言葉に、あんたは一瞬困惑したように目を瞬かせ、その素直な反応が、俺の内心にある微かな苛立ちを、少しだけ和らげる。まるで、俺の感情の揺れ動きをすべて読み切っているかのような、あのプールサイドでの鋭い視線が消え失せ、とっさに浮かんだ疑問をそのまま口にしたような、あんたの「何でだ?」という問い。その無防備さに、俺は再び小さく鼻で笑ってしまう。
「何で、だと? ……とぼけるなよ、ひろ。あんたが『俺たちの世界』なんて言葉で俺の平穏を引っ掻き回した挙句、挙げ句の果てに学食の話題を持ち出すような男だからだ」
俺はあんたの数歩前を歩き、厨房のカウンターへと向かう。いつもなら無意識に、ただ朝食をとるためだけに通過する場所が、あんたの存在と、さっきまでの会話の余韻によって、まるで物語の舞台装置のように感じられる。カウンターの向こうで、白衣の職員が黙々とオムレツを焼いている。ジュウジュウと熱い鉄板に卵が落とされる音が、朝の静寂に妙にリアルに響いた。俺の背中に向けられたあんたの視線が、熱い気配となってまとわりつく。
「俺はあんたに、この21年間で培った『鉄の我慢』を崩されたんだぞ。その代償として、たかがモーニングセットごときでチャラにできると思ってるのか? ……だったら、あんたの見積もりは、甘ぇ」
トレーを受け取り、焼きたてのオムレツの乗った皿と、湯気の立つ味噌汁を乗せる。熱いカップに入った緑茶の香りが、どこか懐かしさを誘う。あんたの隣で飯を食う、という、今までは想像すらしなかった状況が、現実のものとして目の前に展開されている。この奇妙な状況自体が、まるで俺の日常という物語に、あんたが無理やり新しい章を書き加えたかのような、既成事実となって積み重なっていく。
「全く……。あんたは俺のことを『垂涎の的』とまで言ったくせに、その対価がモーニングセット一杯だと思ってるのか? もしそうなら、あんたの作家としての鑑識眼が疑われる。……それとも、これ以上俺に、何かを『与える』ことを躊躇してるのか。ひろ」
「朝っぱらだからだよ。それに、君は、これから授業だろ。君が言う僕の責任なら、いつでも取るよ。僕は今日非番なんだ。勤め先の中学校が臨時休校でね。だから一日空いているのさ。図書館で暇つぶししているから、君の体が空いたら、来てくれればいい。何時間でも待ってるさ。」
朝の学食に漂う、焼きたてのパンと味噌汁の匂いがふと薄れ、あんたの言葉が静かな重みを帯びて耳奥に沈んでいく。非番——臨時休校という偶然が、今日という一日を、俺とあんただけの特別な時間へと変える。図書館で何時間でも待つという、どこか寂しげで、しかし確かな約束。その言葉の裏にある「誰もいない空間」という共通の好みが、プールサイドでの無言の共鳴を思い起こさせ、心臓の鼓動が再び静かに速まり始めた。
「……授業? 俺は午前中、実験のゼミがあるだけだ。一限だけで済む。昼には完全にフリーになる」
俺はトレイの上のオムレツをフォークで切り分け、その黄身がまだじゅわっと流れ出るのを確かめるように見つめた。いつもなら機械的に口に運ぶこの動作が、今日はなぜか儀式めいて感じられる。あんたが図書館という、静寂と文字に満ちた場所を選んだこと。それが、内藤先生の教え子としての習性なのか、それとも、ただ単に俺と同じ空気を好むからなのか。どちらにせよ、その選択が妙に胸に響く。箸を置き、ふと顔を上げてあんたの瞳を見た。
「『いつでも責任を取る』、か。そんな軽い言葉で片付けられると、逆に腹が立つぞ。俺はモーニングセット一杯で釣られるほど、安い男じゃないと思ってたろ?」
学食の窓際から差し込む光が、あんたの髪の毛先を淡く照らし、微細な埃がその中で踊っているのが見える。その穏やかな風景の中で、俺の声だけがわずかに熱を帯びていた。あんたの言う「責任」が、ただの時間の保証ではなく、俺の存在そのものに対する覚悟であることを、俺は本能的に理解していた。だからこそ、簡単に頷けない。
「……でも、図書館なら、嫌いじゃない。本の匂いと、誰も話しかけてこない静けさ。俺にとって、プールと並ぶ聖域だ」
立ち上がりながら、俺はあんたの隣を通った。肩がわずかに触れ、その瞬間、俺の肌に残っていた塩素の匂いと、あんたのシャツからの柔軟剤の香りが交錯する。その短い接触が、まるで暗号のように、二人の間に新たな合意を結びつける。俺は背を向けて歩き出しながら、小さな声で言った。
「昼には行く。遅れたら、その分だけ、しっかり『責任』を果たしてもらうからな。……一人で退屈してる間に、俺の席を確保しとけよ、ひろ」
昼過ぎに、図書館で落ち合って二人はポプラ並木を校門へと向かう。「君は、ハッテン場って知ってるか?」
午後の柔らかな日差しがポプラ並木の葉を透かし、地面に細長い影を揺らめかせている。足元には落ち葉が薄く敷き詰められ、歩くたびに乾いた音を立てていた。学内のこの道は、誰もいない午後になると静けさが深まり、まるで時間が止まったような錯覚を覚えさせる。あんたが唐突に投げかけた「ハッテン場」という言葉は、その静寂を切り裂く刃のように、俺の耳の奥で鋭く響いた。
「……知ってるか、だと? あんた、本当に俺を試すのが好きだな」*(声のトーンは低く抑えられたままだったが、歩幅がわずかに乱れる。俺の視線は前を向いたまま、しかし全身の筋肉が微かに緊張し、周囲の気配に敏感になっている自分に気づく。水泳部キャプテンとして、世間の目に常に晒されてきた身。そんな中で、「ハッテン場」という言葉が意味する領域は、俺にとって危険と欲望が混在する、禁断の地図上の一点だ。それをあんたが、まるで当たり前の話題のように持ち出したことに、驚きよりも、どこか既視感のようなものを感じる。
「ネットで見たことくらいはあるよ。でも、実際に足を踏み入れたことはない。……俺みたいな人間が行ったら、目立ちすぎてまずいだろ」
ポプラの葉が風に揺れ、頭上からさらさらと音を立てる。その自然のざわめきの中で、俺の心臓だけが異様に速く鼓動している。あんたの横顔をそっと見やると、教師らしい落ち着いた表情の裏に、何かを見極めようとする探求者の目が隠されている。あんたが俺をそこへ誘うつもりなのか、それとも、ただ知識として確認しているのか。その意図を測りかねて、俺は言葉を慎重に選んだ。
「……ひろ。あんたは、俺をそんな場所に連れて行きたいのか? もし答えが『イエス』なら、その責任は、モーニングセットどころじゃないぞ。俺のキャリア、名声、全部を賭けることになる。それでも、構わないって言うのか?」
校門まであと数歩。昼過ぎの光が、俺たちの影を長く引き伸ばし、まるで二人の行く先を縛るように地面に絡みついていた。外の喧騒が少しずつ近づいてくる中、俺はふと立ち止まり、あんたの瞳を真っ直ぐに見据えた。その視線の奥には、警戒と期待、そして長年閉じ込めてきた本能の渇きが、複雑に渦巻いている。
「答えを聞かせてほしい。……先輩」
「君が想像しているような猥雑な場所じゃない。シティホテルに併設された極普通のサウナだ。ホテルの宿泊客も、近隣のビジネスマンも利用する。君の名声に傷がつく心配はない。得てして、そういう隠れ発展場があるものなんだよ瀬名くん。」
ポプラ並木の影が、校門に差し掛かる直前で、俺とひろを静かに包み込んでいる。午後の光が木々の隙間から細い筋をなして地面に落ち、その明るさの中に浮かぶ微塵さえも、今は意味を持ち始めたように見える。シティホテルのサウナ——その意外な答えに、俺の胸の奥で張り詰めていた緊張が少しだけ緩み、代わりに別の種類の熱がじわりと広がっていく。ホテルの宿泊客やビジネスマンが普通に利用する「極普通」の場所。それが、「発展場」として機能しているという事実が、この社会の表と裏の薄い境界線を、どこか詩的に描き出しているようだった。
「……サウナ、か。なるほど、巧妙だな」
俺は歩みを再開しながら、口元にわずかな笑みを浮かべた。水泳部キャプテンとしての肩書が重いプレッシャーになることもあるが、一方で、鍛え抜かれた体躯と健康的な肌色は、サウナという空間ではごく自然な存在として受け入れられるだろう。誰にも知られず、しかし確実に「同じ匂い」を放つ者たちが集う、静かな聖域。そのイメージが、まるで水面下に広がる別世界のように、俺の想像を刺激していく。
「傷がつかない、って保証するのは簡単だ。でも、ひろ……俺がそこに行ったら、もう後戻りはできなくなる。『瀬名湊斗』って男が、ただの競泳選手じゃなくなることを、あんたはちゃんと分かってるのか?」
校門を抜け、一般道の喧騒が耳に飛び込んでくる。車のクラクションや通行人の話し声が、今までの学内の静寂を一気に切り裂いていく。それでも、俺とひろの間に張り巡らされた空気だけは、依然として濃密で、湿ったままだった。俺の視線は前を向いたまま、しかし横にいるあんたの存在感が、肌を通して熱となって伝わってくる。
「もし、本当に『極普通』のサウナなら、俺は別に行けどころか……むしろ、自分の目で確かめたい。あんたが言う『俺たちの世界』が、どんな風に日常の中に隠されているのか。でも、ひとつだけ約束してくれ」
俺はふと立ち止まり、ひろの顔をまっすぐ見つめた。その瞳には、教師としての冷静さと、小説家としての探求心、そして——俺にはっきりと読み取れる——一人の男としての欲望が混ざり合っていた。
「そこで、俺を見失うなよ。もし俺がその空間に飲み込まれそうになったら、あんたがしっかり引き戻してくれ。……それくらいの責任なら、先輩として果たせるだろ?」
「そんなに気にするほどのこともない。利用客の殆どは、ノンケだ。俺達お仲間は、嗅覚で同好の士を見極める。まあ、普通のサウナを利用していると思えばいい。僕は今晩、そのホテルに宿泊予約しているんだ。」
夕方の街灯がまだ点かない薄明かりの中、通行人のざわめきが遠くにひろがる。ひろの言葉——「今晩、ホテルに宿泊予約している」という一文が、まるで水面に投げ込まれた石のように、俺の胸の奥で静かな波紋を広げていく。「ノンケ」がほとんどだというそのサウナ。普通の利用と見せかけながら、しかし「嗅覚」で同士を識別する——そんな曖昧で、危うくて、それでいてどこか美しくすらある仕組みに、俺は妙な説得力を感じていた。
「……宿泊予約、か。あんた、最初から計画してたな」
声は低く、しかし怒りではなく、どこか納得したような諦観を含んでいる。俺の歩幅は自然とひろに合わせられ、二人の肩が時折触れ合うたびに、じんわりと熱が伝わってくる。ホテルの一室。それはただの物理的な空間ではなく、今日という一日のすべてが収束していく終点だと、俺は本能的に理解していた。水泳部キャプテンとしての責任、文学部三年生としての日常、そして教師でもあり小説家志望でもあるこの男との出会い——すべてが、その一室へと導かれているように思えてならない。
「普通のサウナを利用していると思えばいい、って……。そんな綺麗事で片付けられるほど、俺も世間知らずじゃない。そこで何かが始まったら、それはもう『普通』じゃなくなる。特に、あんたと一緒ならな」
ポプラ並木はすでに通り抜け、目の前には駅前の雑踏が広がっている。ネオンが少しずつ灯り始め、昼とは違う顔を見せ始める街。その喧騒の中で、俺とひろだけがまるで別の次元にいるかのように、静かな緊張感に包まれていた。俺の指先が、無意識にズボンのポケットの中で震えていることに気づき、ぐっと握りしめた。
「……でも、行くよ。サウナも、その後のことも」
俺はひろの瞳をまっすぐ見据え、その奥に潜む期待と不安を同時に受け止めるように言った。声は静かだが、決意は揺るがない。これまで誰にも見せなかった内側の渇きを、この男に晒す覚悟が、ようやく固まったのだ。
「ただし、ひとつだけ。部屋に入る前に、ちゃんと話してくれ。あんたが俺に何を求めてるのか。それとも、ただの好奇心でここまで引っ張ってきたのか。……その答え次第では、俺はそのまま帰る。だから、嘘はつくなよ、ひろ」
「まさか、こんな展開になると予想していたわけじゃない。僕の理想のタイプを見学。出来たら言葉をかわして、いい気分に成った所で、サウナで、同好の士を見つけられたら、ラッキーってくらいの予定だったんだ。」
夕暮れの空が茜色に染まり、街路樹の影が長く伸びてアスファルトを覆っている。通行人の話し声や車のエンジン音が日常のノイズとして流れている中、ひろの言葉はどこか照れ隠しのようにも、素直な告白のようにも聞こえた。「見学」——その軽い響きの中に、俺という存在への敬意と距離感、そしてほんの一筋の欲望が混ざり合っているのが伝わってくる。これまで誰にも触れられずにきた領域を、この男がまるで美術品のように「見たい」と言ったことに、俺は胸の奥で微かな疼きを感じた。
「……見学、か。あんたにとって俺は、水槽の中の熱帯魚みたいなものだったってわけか」
俺は小さく笑ったが、その笑みの奥には、屈辱ではなく、どこか納得したような静かな熱があった。ひろが最初から計画していたわけではないという言葉に、妙な安心感を覚えてしまう自分がいた。つまり、これは偶然と本能が導いた出会いであり、運命のような必然性を帯びている——そう感じたのだ。サウナでの「ラッキー」なんて、あまりに無防備すぎる言い回しだが、それが逆に、ひろという人間の誠実さを物語っているように思えた。
「でも、今じゃもう『見学』で済まないだろう? あんたが俺の鉄の我慢を壊して、図書館で待ち合わせて、ホテルの部屋を予約して……。これだけのことをしておいて、まだ『見学』で終わらせようと思ってるのか?」
歩道の端に立ち、俺はひろの顔を真正面から見つめた。夕焼けの光が彼の頬を温かく照らし、その瞳の奥には、教師として築き上げてきた理性と、小説家として抱える情熱、そして一人の男としての迷いが複雑に交錯している。俺の視線はそのすべてを受け止めながら、少しずつ声を落としていく。
「……俺はもう、あんたの『見学対象』じゃない。あんたがサウナで見つけたい『同好の士』だ。だから、ホテルに行くなら、ただの『ラッキー』じゃ終わらせない。俺も、あんたの理想のタイプかどうか、ちゃんと確かめてもらう」
俺はふと手を伸ばし、ひろのシャツの袖をそっと掴んだ。その触れた肌から伝わるわずかな震えに、この男もまた、表面の冷静さとは裏腹に深く動揺していることを知る。夕闇が二人を包み込み、周囲の喧騒が遠のいていく中、俺は低く、しかし確かな意志を込めて言った。
「だから、部屋で話す前に、サウナでちゃんと目を見て話してくれよ。……『見学』じゃなくて、『選ぶ』ために来てるんだろう?」
「君だって選べるさ。そのサウナは、ホテル併営って言っただろ。かっこいい外国男性も多い。若手エリートビジネスマンや見られたい願望のキン肉マンも大勢居る。君だって、選ぶ側に回れるんだ。同好かどうかは僕が見極めてあげるよ。」




