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出会い(2)

「ハハ、俺自身と同じ匂いが、君に感じられたとしか答えられない。漠然とした期待と、カマかけだ。気分を悪くさせたのなら謝る。」


 「同じ匂い」という言葉が、重い湿気を孕んだ空気の中に放たれ、俺の鼓動を不規則に乱していく。あんたの口から零れた乾いた笑い声と、その直後の率直な独白。俺の守ってきた高い壁を、あんたは暴力的な手段ではなく、自らの内側をさらけ出すことで、あまりにも容易く崩し去った。カマをかけた、という言葉さえ、この瞬間の俺にとっては誠実な告白のように響く。俺と同じ、誰にも言えない孤独や、言葉にならない渇望を抱えながら、日常という舞台で「教師」という役割を演じている男。その正体が、目の前にいる「ひろ」なのだと、細胞が直接理解してしまったような感覚が走った。


「……謝る必要なんてない。ただ、あんたが思った以上に食えない男だってことがよく分かっただけだ。同じ匂い、か。教師がそんな危なっかしいことを、教え子候補の俺に言っていいのかよ」


 俺は壁についていた手をゆっくりと離し、強張っていた肩の力を少しだけ抜いた。だが、瞳の奥に宿る熱は消えるどころか、さらに深みを増していく。プールの水面に反射する光が、あんたの顔に揺らめく影を落とし、その表情を一層ミステリアスに彩っている。塩素の匂いが立ち込めるこの空間で、俺たちは互いの仮面を剥ぎ取り、剥き出しの精神で対峙している。冬の朝の冷気が、濡れた俺の体を容赦なく冷やしていくはずなのに、あんたと視線を合わせているだけで、内側から燃え上がるような熱が全身を支配し、寒さなど微塵も感じさせない。


「あんたは、俺の中に自分と同じ影を見つけた。そして、それを言葉にすることで俺を試したんだな。……残酷な人だ。俺がずっと誰にも悟られないように、プールの底に沈めてきた感情を、そんなに簡単に掬い上げちまうんだから」


 俺は再び、吸い寄せられるようにあんたの方へと視線を戻した。今度は挑発でも、威嚇でもない。もっと根源的な、魂の共鳴を確認するような静かな視線だ。周囲の音が遠のき、ただひろの呼吸の音と、俺の心拍音だけがこの空間の主役となる。あんたという人間が、俺の人生という物語の中に不意に現れた、予測不可能な「特異点」のように思えてならない。これから始まる何かが、俺をどんな場所に連れて行くのか。恐怖よりも、抗い難い好奇心と期待が勝り、俺は自分でも驚くほど穏やかな、それでいて欲望に満ちた声を漏らした。


「期待、か……。なら、その期待を裏切らないようにしないとな。ひろ……あんたが俺と同じ匂いがするっていうなら、その匂いの正体が何なのか、俺もじっくり確かめさせてもらうぜ。……文学部の後輩として、あるいは、あんたが見つけた『獲物』としてな」


「シンギュラリティ?君こそ大層な表現をするなあ。僕の方は半信半疑でヒヤヒヤものだったが、あっさり大胆に切り返してきたね。さすが体育会。」


 冬の朝の光は容赦なく透明度を増し、プールの水面に反射して白いタイルの天井を眩しく焼き付けている。先ほどまでの張り詰めた警戒心が、あんたの「ヒヤヒヤした」という意外な告白によって、微かな苦笑へと変わっていくのを感じた。濡れた足元から伝わる冷気が、かえって頭を冷静にさせ、熱を帯びた筋肉の輪郭を鮮明に浮き彫りにする。俺の肉体を規律で縛り付ける体育会という枠組みさえ、あんたの飄々とした態度の前では、滑稽な記号のように思えてくる。


「ヒヤヒヤしてた、か。あんたみたいな食えない大人が、そんな子供みたいな言い訳をするなんてな。……期待とカマかけで俺の核心に触れようなんて、やっぱり小説家志望らしい、悪趣味なやり方だ」


 プールの循環ポンプが吐き出す水の音が、規則正しく、しかしどこか虚ろに広い空間へ響き渡っている。塩素の匂いが鼻腔の奥を刺激し、湿った空気が二人の間に重く沈殿していく。あんたの視線は、俺の肉体を解体するような鋭さを保ちながらも、その奥に潜む「同じ匂い」への同族意識を隠そうとはしない。俺が今まで孤独に耐えながら、水の中で守り抜いてきた静寂が、あんたという異物の侵入によって、激しく、そして心地よくかき乱されている。


「でも、その賭けにあんたは勝ったんだ。俺がこうして、あんたの目の前で逃げも隠れもしないで立っているのが、その証拠だろう。……体育会系は、一度認めた相手にはとことん誠実なんだよ。それが、俺なりの『礼儀』だ」


 一歩、また一歩とあんたの方へ足を踏み出す。冷たいタイルと濡れた肌が擦れる音が、この静寂の中でやけに官能的な響きを持って伝わってくる。至近距離で見下ろすあんたの顔には、教師としての理知的な仮面の裏で、未知の物語を渇望する男の顔が透けて見えた。俺の肺の奥に溜まった熱い吐息が、あんたの薄いシャツの襟元を揺らし、塩素の香りと互いの体温が混ざり合って、この早朝のプールを外界から切り離された二人だけの聖域へと変えていく。


「あんたが俺を見つけたように、俺もあんたを見つけた。……『ひろ』、あんたのその余裕が、いつまで続くか見ものだな。次は俺が、あんたの物語の行方を狂わせてやるよ。覚悟しておけよ、先輩」


「経験はあるのか、後輩?」


 冬の朝の静寂を切り裂くように投げかけられたその問いが、肺の奥深くに冷たく突き刺さる。プールの水面は鏡のように静まり返り、俺たちの姿を歪んだ青色で映し出していた。耳の奥で、自分の心臓がドクン、ドクンと、トレーニング中よりも遥かに重く、激しいリズムを刻み始める。エリート競泳選手として、常に完璧な数字と結果を求められてきた俺にとって、それは最も「数値化」できない、そして最も他人に触れられたくない秘部だった。あんたの瞳の奥に宿る、試すような、それでいて深い慈しみさえ感じさせる光が、俺の虚勢を音もなく剥ぎ取っていく。


「経験……。あんた、本当に遠慮っていう言葉を知らないんだな。教師なら、もう少し生徒のプライバシーを尊重する術を身につけたらどうだ?」


 濡れた肌から立ち上る熱い蒸気が、あんたのシャツの袖をわずかに湿らせていく。俺はわざとらしく鼻で笑い、首筋を伝う雫を拭うこともせず、あんたの瞳を真っ向から見据えた。塩素の匂いが鼻腔を突き、湿った空気が肺を圧迫するが、この息苦しさは湿度のせいだけではないことを自覚している。自分の内側にある、未開発で、しかし爆発的な熱を孕んだ領域。それを「経験」という陳腐な言葉で括られることへの反発と、その実態を見透かされていることへの形容し難い敗北感が、俺の血液を沸騰させていく。


「生憎だが、俺の人生はコンマ一秒を削るためのトレーニングに費やされてきた。誰かと馴れ合って、その場の体温で満足するような暇なんて、一秒たりともなかったんだよ。俺にとっての『相手』は、常に目の前の水面と、自分自身のタイムだけだ」


一歩、さらに深く踏み出し、あんたをプールの縁にある冷たいステンレスのフェンスへと追い詰める。俺の鍛え抜かれた胸筋と、あんたの胸元の間に、もはや空気の層さえ残っていない。俺の肉体が放つ、運動直後の剥き出しの熱と、塩素の重い匂いが混ざり合い、二人の間の空気を爆発しそうなほどに濃密に塗り替えていく。あんたを見下ろす俺の瞳には、先ほどまでの冷静さは影を潜め、代わりに一人の男としての、暗く濁った独占欲に近い何かが揺らめいていた。


「……それが、あんたの望む『答え』か? もし俺に『経験』がないとしたら、あんたがその最初のページを書き込むつもりかよ。小説家志望の『先輩』として、俺をその……未知の物語とやらへ、連れて行ってくれるのか。ひろ、あんたにその覚悟があるなら、俺は別に……構わないぜ」


「そうか、童貞か。いや、俺達の場合処女って言うべきか。まあ、どっちでもいいが、君は21だろう。よく我慢してこれたな。鉄の我慢だったろうな。」


 「処女」という、この場にあまりにも不釣り合いで、かつ剥き出しの言葉が、耳の奥で爆ぜた。全身を巡る熱い血が、一気に顔面へと集中し、視界がわずかに火照りで歪む。エリート競泳選手として、常に自己を律し、秒単位で人生を管理してきた俺にとって、その言葉はこれまで積み上げてきた全ての栄光を飛び越え、最も無防備な核心を容赦なく抉り出すものだった。プールの水面が、俺の動揺を映し出すかのように、微かな振動で波紋を広げている。


「……あんた、本当に、口の利き方には気をつけた方がいい。教師がそんな下世話な言葉、よくも平然と吐けるな」


 絞り出すような声は、怒りよりも、正体を見透かされたことへの屈辱と、どこか深い場所で疼く「解放感」に震えていた。俺は、あんたを追い詰めていた壁の手に、指が白くなるほどに力を込める。鍛え抜かれた俺の体は、あんたの言う通り、欲望を削ぎ落とし、ただ速く泳ぐためだけに研ぎ澄まされてきた鉄の塊だ。だが、その冷徹な鉄の下には、長年誰にも触れさせず、自分自身でさえ持て余してきた、ドロドロとした熱い衝動が沈殿している。塩素の匂いが鼻を突くたびに、理性という名の防波堤が、あんたの挑発的な視線によって音を立てて崩れていくのが分かった。


「我慢、か。あんたに何がわかる。……この21年間、俺がどれだけのものを水の中に捨ててきたか。欲も、甘えも、全部プールの底に沈めて、俺はただの『記録を出す機械』として生きてきたんだよ。それを『鉄の我慢』なんて綺麗な言葉で片付けられると、反吐が出るな」


 俺は、あんたとの距離をさらに数ミリ詰め、鼻先が触れ合うほどの位置で動きを止めた。あんたの瞳の中に、動揺している俺の顔が、情けないほどはっきりと映っている。教師らしい冷静な態度の裏側で、俺のこの無様なまでの「純潔」を愉しんでいるのか、それとも、同じ孤独を抱える者として慈しんでいるのか。あんたの首筋から漂う、わずかな洗剤の匂いと、大人の男特有の落ち着いた体温が、俺の未熟な感覚を狂わせていく。俺の喉仏が大きく上下し、湿った空気を必死に肺へと送り込むたびに、あんたの存在が俺の聖域を完全に支配していくのを感じた。


「ひろ……あんたが俺のその『鉄の我慢』を壊したんだ。責任、取ってくれるんだろうな? 小説のネタにするだけじゃ、俺は到底納得できない。あんたが俺の沈黙を破ったんだから、その先にあるものが何なのか……その身をもって、俺に教えろよ。先輩」


「馬鹿、そう容易く、自分を差し出すな。君は自分の価値を分かっていない。俺達の世界じゃ、君のような存在は垂涎の的なんだぞ。」


 「馬鹿」という、叱責の中に微かな慈しみが混じった言葉が、俺の火照った耳朶を打つ。その響きは、厳格な父の怒声とも、コーチの無機質な指示とも違い、俺という一人の人間を正面から受け止めようとする「ひろ」という男の、不器用で真っ直ぐな温度を宿していた。俺が今まで命懸けで守り抜いてきた「完璧なエリート」という価値。それをあんたは、世間の期待とは全く別の、もっと生々しく、本能的な場所にある「価値」として定義し直して見せた。俺の肉体が、まるで競売にかけられた高価な芸術品のように、あんたの言葉によって別の意味を持ち始める。


「垂涎の的……? あんた、俺をそんな目で見てるのか。教師っていう仮面を被りながら、心の中じゃ、俺みたいな未熟な男をどう料理しようか考えてるわけか」


 俺は壁についていた手をゆっくりと下ろし、あんたの胸元に、震える指先をそっと触れさせた。薄いシャツ越しに伝わる、俺よりも少しだけ速い鼓動。塩素の匂いが立ち込めるこの密室のような空間で、その鼓動だけが、俺たちが今、単なる先輩後輩という枠を超えて惹かれ合っていることを証明している。あんたの言う「自分の価値」なんて、俺にはまだよく分からない。ただ、この21年間、誰にも必要とされなかった俺の「内側の熱」を、あんたが求めてくれているという事実だけが、砂漠に降る雨のように俺の乾いた心を潤していく。


「自分を差し出すな、なんて……今更遅いんだよ。あんたが俺の聖域に踏み込んで、その『匂い』を嗅ぎ当てた時から、俺はもう、逃げ場なんて失ってる。あんたが俺に価値があるって言うなら、その価値を決めるのは、世間でも内藤先生でもない……あんた自身だ」


 プールの換気扇が回る低い振動が、足裏から全身へと伝わってくる。朝陽はさらに高くなり、水面の反射が俺たちの視界を白く塗りつぶしていくが、俺の意識は、目の前の「ひろ」という存在に、これまでにないほど強く収束していた。俺は、あんたの首筋に顔を埋めるようにして、深く、その「同じ匂い」を吸い込む。そこには、俺と同じ孤独と、それを隠し通してきた大人の狡猾さが混ざり合い、抗い難い色香となって俺を誘惑していた。


「ひろ、あんたの言う『俺たちの世界』ってやつを、もっと詳しく教えてくれよ。俺がどれだけ価値のある存在なのか、言葉だけじゃなくて、もっと別の方法で……。俺の鉄の我慢が、完全に溶けてなくなるまで、あんたが俺を飼い慣らしてみろよ」


「まあ、そう熱く成らないで。朝練終わりの朝食でもどうだい?僕も学食は久ぶりで、懐かしいから。」


 冬の早朝のプールに、あんたの声が予想外に軽やかに響き渡った瞬間、俺の全身を痺れさせていた独特の緊張感が、すっと霧散した。激しい運動で乱れた呼吸は、あんたの提案する「学食」という言葉の拍子抜けするほどの日常感に、次第に落ち着きを取り戻していく。水面を打ち終えたばかりの熱を帯びた筋肉が、冷たい外気に晒されて、ひんやりと弛緩していくのを感じた。まるでジェットコースターのように感情を揺さぶられた直後の、この奇妙な脱力感。


「……朝飯? あんた、俺の腹の中まで見透かしてるのかよ。ずいぶん都合のいいタイミングで切り出すな」

 俺は、先ほどまであんたを見つめていた鋭い視線をわずかに逸らし、肩にかけていたタオルを首に巻き直した。塩素の匂いが強く鼻腔を刺激し、全身の皮膚に吸い付くような湿度が、このプールの静寂を一層深めている。あんたの提案は、俺が今ここで感じている熱量とはあまりにもかけ離れていて、その飄々とした態度が、どこか憎らしくもあり、同時に得体の知れない魅力としても映る。この男は、俺の感情の揺れ動きをすべて計算に入れているのだろうか。そんな疑念が、頭の片隅をよぎった。


「学食なんて、俺は毎日食ってるから懐かしさの一片もねえよ。まさか、俺を散々弄んで、最後は飯を奢って終わりにするつもりか? そんな生ぬるい結末は、あんたの書く小説には似合わないと俺は思うがな」


 俺は、あんたとの距離を再び取り、自分のスポーツバッグを手に取った。更衣室へと続く通路の冷たいタイルが、裸足の裏にひんやりと伝わる。背後から感じるあんたの視線は、さっきまでの粘着質な熱とは異なり、どこか達観したような、それでいて興味深げなものだった。こんなにも胸の内をえぐり出された後で、日常へと戻っていくことに、わずかな抵抗感を覚える。しかし同時に、あんたと共有するこの非日常が、まだ続くことへの期待も膨らんでいく。


「……まあいい。そこまで言うなら、付き合ってやるよ。着替えてくる間、あんたはそこで待ってろ。ただし、学食に着いたら、さっきの話の続きをしっかり聞かせてもらうからな。あんたの言う『俺たちの世界』がどんなものなのか、この目で確かめてやるよ。」

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