前編 -全てはこの日記から……-
――気がつけば、その人はもう動かなくなっていた。
僕――立花亮は死体を隣にして遺書を書き綴っていた。
全ては日記から始まり、日記で終わる……
娘と妻を失ってからこの瞬間を夢に見たことがあっただろうか。想像もしなかったことだろう。
――天井に吊るしたロープに首を括る直前、僕はこれまでのことを振り返る。長い長い悪夢が今日でやっと終わるのだ……
――二年前。
「――午後二時二十分、死亡を確認しました…………お力になれず、申し訳ありません。立花さん……」
先生からそう告げられ、僕と妻――久子は絶句した。
「……先生、うちの娘は……たまちゃんは……うぅっ……ぐすっ……」
そう言って泣き崩れる妻を抱きしめ、僕も嘆いた。
「事故……だったんだ。…………もっと早く、誰かが見つけてくれていれば……死ななかったんだ……!」
……これが現実ならば、これほどまでに残酷なものがあるだろうか。僕と久子は突然告きつけられた現実に嘆き悲しんだ。
――娘の立花環希は死んだ。まだ中学一年生で十三歳という若さでこの世を去った。
警察の話では、通学途中にある下り階段から足を滑らせそのまま転落し、頭を強打したものと見られる。通りがかった住民が救急車を呼んだものの、発見が遅すぎたせいかその時にはもうすでに娘は意識不明の重体だったとのこと。
搬送先のこの病院で緊急オペを行ったものの、そのまま帰らぬ人となってしまった。
――医者の話では『もっと発見が早ければ、生存率は高かったかもしれません』とのことだった。久子は『何で誰も通りがかってくれなかったの』と現実を呪った。
……本当にその通りだった。
――まるで死人のような表情をしたまま、二階建ての一軒家に住む我が家へ帰るなり、すぐに二人の警察がやってきて、色々事情を聞いてきた。久子はずっと泣いていたため、警察を一階のリビングへ通して代わりに僕が応対した。
警察の一人がメモ帳を片手に質問をしてくる。
「娘さんとの家族関係は悪くなかったんですか?」
「――『悪くなかったか』ですか? いえ、寧ろ良い方だったと思いますよ」
「娘さんにはどのくらいの生命保険がかけられてたんですか?」
「……入ってませんよ、生命保険なんて」
「娘さんが他の誰かと揉めていたというようなお話は?」
「そんなものは聞いたことがない! 大体何が言いたいんだあんたらは? まるで娘が誰かに殺されたかのような言い方じゃないか! 断定的な言い方はやめてくれ!」
「落ち着いてください、あくまで可能性の話をしてるんです」
警察はそう言うと、きょろきょろと周りを見渡して「娘さんの部屋を見せていただいてもよろしいですか」と聞いてきた。本当は入れたくなかったが、仕方なく二階にある娘の部屋に招き入れた。
「――ここが娘の部屋だ。帰ってきてから何も触ってない」
「そうですか、失礼します。…………整理整頓されてますね」
「定期的に妻が整理整頓してたからね。娘は物を散らかす癖があったので」
「……なるほど。……ん、そちらのノートは?」
警察が机の上に置いてある一冊のノートに目を付けた。
「それは娘の物だ、勝手に触らないでくれ」
「『日記』と書かれてますね……その日記には何が書かれてるんですか? 中身を見たことは?」
「人の日記を勝手に見るような趣味はないよ」
「……娘さんは日頃から持ち歩かれてたんですか?」
「ああ、いつも日記をカバンに入れているのをよく見かけるよ。毎日持って行ってたんじゃないかな」
「……"今日"は持ち歩いてましたか? そこに置いてあるということは、"今日は"持ち歩かなかったんですか?」
「そこにあるということは、今日は置いて行ったんだろう」
「どうして? やはり何か書かれてるのでは?」
「――もういい加減にしてくれないか! そんなに調べたかったら、令状でも何でも持ってきてからにしてくれ! こっちは娘が死んで頭がいっぱいなんだ! もう帰ってくれ!!」
「――失礼しました、また何かお聞きすることがあるかもしれませんが、その時はご協力お願いします」
「わかったから早く帰ってくれ!!」
僕は目の前にいる警察とリビングで妻と話をしていた警察を外へ追い出した。警察は「また来ます」と言って去っていった。被害者の気持ちも知らないで、あれこれ聞いてくる警察はいったいどんな神経をしてるのか。
まったくもって不愉快だ。
――再び家の中に入ると、一階のリビングで妻がすすり泣いていた。
「……久子」
「ねぇあなた、たまちゃんは……本当に事故で死んだのよね……?」
「…………病院で警察がそんな風に言ってたね」
「…………事故……よね?」
「…………」
久子は、環希が『殺された』と思ってるのだろうか? 環希はとても活発で優しい子だった。正義感も人一倍強くて、昔っからイジメっ子たちをぶっ飛ばしてきたような子だった。
そんな子を殺そうとするやつがいるのだろうか。いるとしたら、あの子がぶっ飛ばしてきたというイジメっ子どもか?
いくらなんでも、それで殺人なんてするはずがないだろう。ただ、僕たちがそう考えているだけで、現実はどうだったのかはわからないが。
僕はその場に久子を残し、二階に上がって娘の部屋に入る。
「……環希、ごめんな……お父さん、日記を見るからな」
本人には申し訳ないと思いつつ、その日記を手に取ってページを開いた。
そこには、これまでにあの子と交わした日常がそのまま書き綴られてあって、僕は涙を流した。
……本当にいい子だ、環希は。
――娘が死亡する一週間前の朝のこと。
――朝七時、いつものように朝食を取りつつニュースを見ていた時のことだ。
その時のニュースでは、ある中学校の『裏口入学の問題』について触れられていた。
「……この中学校、すぐ近くにあったな……そんな不正をしてまで入るよりも、ちゃんと勉強すればいいのに……」と漏らした僕の言葉に対し、
「お父さん、学校の先生やってるもんね。お父さんのところは大丈夫なの?」と娘が訊いてきた。
「いや、お父さんのところは聞いたことがないな。というより、知らないだけでひょっとしたら……」
「考えるだけでぞっとする話だね」
「あぁ、まったくだ」
娘と一緒に裏口入学について憤りを感じていた時、不意に娘がこう言った。
「ねぇお父さん、もし誰かが『裏口入学』をしてる事実を見つけたとしたら、やっぱり告発するべきなのかな?」
「そりゃもちろんだよ! 絶対に許しちゃいけない」
「……そうだよね」
娘は少し暗い表情をして頷いた。――そして一週間後の今日、事故当日を迎え、娘は死んでしまった。たった一冊の日記を家に残して……
――裏口入学の話を娘と交わしたその翌日からの日記には、このような文章が書き綴られていた。
私は見てはいけないものを見てしまったかもしれない。腕に怪我をしたため保健室に行こうとしたら、中で女性と黒スーツの男性がお金のやり取りをしてるのが見えた。札束を封筒に入れて女性に手渡したところだった。幸いこっちには気づいてなかったみたいだから、しばらく様子を見てた。
あんな大金を学校内でやり取りするなんて普通じゃ考えられない。もしかしたら、何か不正な取引でもやってるんじゃないか。お父さんに相談すべきかどうか迷う。
翌日、授業中にお腹を壊してトイレに行って用を足した後、廊下に出た時、ちょうど隣の空き教室から何か話声が聞こえてきた。
そっと教室の中を覗いてみると、昨日お金のやり取りをしていた女性と黒スーツの男性がそこにいた。会話は部分的にしか聞き取れなかったけれど、何とか情報を聞き出すことはできた。
どうやらあの女性はこの学校の先生らしかった。私はまったく見覚えはないけれど、つい最近入ってきた先生かもしれない。男性はその女性のことを『タケミヤ先生』と呼んでた。
でも男性の方はまったく素性が分からない。何者なんだろう? 男性は『あなた方にとっての宝物をうちの高校にくださいね』と女性の先生に微笑んでた。やっぱりこれは裏口入学のやり取りで間違いないのかもしれない。でもひょっとしたら勘違いの可能性もあるし、もう少し様子を見てから相談しよう。
なんだか、誰かに見張られているような気がする。通学路を歩いている時も、学校にいる時も、常に誰かの視線を感じる。
もしかしたら、私が裏口入学の存在に勘づいたことが、その人たちに気付かれてしまったのかも……でも、もし誤解だったら大変だし、下手に相談もできないし、どうしよう。
お父さんに相談して警察に行った方がいいのかな。この日記も外に持ち出さない方がいいかもしれない。これから日記は家に置いて行こう。明日、学校から帰ってきたらお父さんとお母さんに打ち明けよう。
――――環希が書いた日記はそこで終わっていた。
『明日』というのは今日のことだったのか。今日、学校から帰ってきたら、環希は僕たちに相談するつもりだったんだな……
まさか、そんな日に事故に遭うなんてな……
――しかし、この日記を読んだ後となれば少し考え方が変わってくる。
本当に環希は事故で死んだのか? 誰かに突き落とされたんじゃないだろうか?
そのような思いがよぎったものの、この日記に書かれている文面だけでどうにかなるとはとても思えなかった。一階のリビングで今もすすり泣いている久子に、『娘は事故じゃなくて、誰かに殺されたんだ』なんてことが言えるだろうか?
それに騒ぎ立てれば当然、この日記のことも公にしなくてはならなくなる。警察が証拠もなしに動くとは思えないし、もしも日記に書かれている通り、娘が通っていたあの学校で取り引きがおこなわれているとすれば、それを公にされたくない『何者か』が、何かよからぬ手を使って来てもおかしくないのではないか。
――久子が心配だ。今騒ぎたてるのは得策じゃない気がする。
今は……今はとにかく時間が必要だ。どうするべきか慎重に考えなければ……
――腕時計を見てみるともう六時を回っていた。日が暮れるのがとても早くなってきたものだ。
「通夜の準備、始めないとな……」
とりあえずこの日記は、一階にある自室の鍵付きの引き出しの中に厳重に保管しておこう。久子にあの日記を見せるわけにはいかないからな。
昔から久子は精神的な面で不安定な状態だったから、これ以上不安要素を増やすのは酷だろう。
――そう思って僕は、久子の精神が不安定なことを理由にして、何か得体の知れない恐怖から逃げるようにして、『裏口入学』の件を忘れ去ろうと、目を瞑る選択を選んだ……
――――通夜を終えて一か月後。
久子はみるみる生気を失い、やせ細っていった。まるで死人のような顔をして、真っ暗なリビングの中、椅子にもたれて座っていた。
「久子、電気つけないと暗いだろう……?」
「…………えぇ……」
「…………少しずつでいいから……一緒に乗り越えていこう。いつも寂しい思いをさせてすまないな……」
「…………ありがとう、あなた…………でもね、たまちゃんはわたしたちの一生の宝物だったのよ……」
…………その通りだ。環希はとても明るくて、優しくて素敵な子だった。
「……寂しいわね…………本当に」
「…………あぁ」
――涙が溢れてきて、たまらず久子を抱き寄せる。お互いの体温を確かめ合うように……
それは、もう二度と環希は帰ってこないのだという現実が、重くのしかかっているようだった。
夢であればいいのにと何度も嘆いた。本当に……理不尽だ。
――環希が死んで丁度一年が経とうとした頃、いつものように朝食を取るべくリビングに向かった時だった。
「……おーい、久子ー? 寝てるのかー?」
……返事はなかった。
ギギギ……ギギ……ギギギギギ…………
――すぐ傍で何かとてつもなく嫌な音が聞こえてきた。
ギギギ……ギィイイ…………ギギギギ……ギギ……
…………いや、直視しないようにしていただけかもしれない。音の元凶はもう目と鼻の先にあるではないか。
ギギ……ギイィイ…………ギギ…………
「――――ひさ……こ…………」
――目と目が合った。僕は大事な人の名前を呼びながら、まるでマリオネットのように揺れている彼女を見上げていた。
「あ……ぁあ…………うわぁあああああっ!!」
――死亡推定時刻は深夜二時から四時までの間。寝静まった時間を見計らって、久子はリビングで天井にロープを吊るし、首つり自殺を図ったのだ。
心労が祟っていたこともあり、自殺で間違いないと警察は断定した。
これでもう僕は独りだ。環希を失い、久子も失った今、僕には何も残っていない。
残っているとすれば、家族三人で仲良く幸せに過ごしてきたこの家と思い出だけだ。それも今となっては、もう随分と色あせてしまったが。
――そうして自室で一人、運命を呪って机に突っ伏していた。壁時計の針を刻む音だけが、この静かな部屋の中に響き渡る。
……いや、違う。それだけじゃないはずだ。
僕は顔を上げると、鍵付きの引き出しを開けて、あるものを手に取った。
そう、手元に残っているのは環希が死ぬ直前に残してくれたこの一冊のノート。これは例えるなら、開けてはならぬパンドラの箱なのだろう。
だが僕にはそれ以上に失うものはないのだ、何が起こったとしても問題はないはず。
環希…………お前がやろうとしたこと、お父さんがしっかり引き継いでやるからな。それから久子、本当にすまなかった。もっとちゃんと傍についててやれば、お前を失うこともなかったのにな…………駄目なお父さんで、本当にごめんな…………
僕はその一冊のノートを鞄にしまい込むと、家を出た。
――さて、交番付近までやってきたのはいいものの、これからどうすればいいのだろう?
環希の件はもう事故死でカタがついてしまっている。あれから警察は家に来る気配がなかったし、おそらく早いところ事件を片付けてしまいたかったのかもしれない。
そうなると、やはり再捜査は望みが薄いだろうか…………
「……おい、そこのアンタ」
――頭を悩ませていたその時、ヘルメットを被ったライダースーツの男が声をかけてきた。
「……僕ですか?」
「ああ、アンタだよ。交番前で何やってるんだ?」
「…………他人のあなたが気にするようなことでもないですよ」
変な男に絡まれたと思い、踵を返して引き上げようとしたその時だった――
「――――最近、『裏口入学』が流行ってるらしいな……?」
――踵を返した状態のまま僕は固まった。
「そういや、丁度一年前…………この近くの中学校で行われていたっていう話を聞いたなぁ……?」
「…………何者なんだ、あんたは……」
僕はライダースーツの男と向き合い、身構えた。
ひょっとしてこの男、僕が『裏口入学』について探っていることを嗅ぎつけたのか? まさか、例の黒スーツの男の仲間じゃないだろうか。
相手がヘルメットを被っているせいで表情が読めない。さぞかしおぞましい表情でこちらを見ているのだろう。
「――公安だよ、それ以上は言えないがな」
「はぁ? 公安? テロリストでも現れたっていうのか?」
「ほう? アンタ、公安を知ってるのか?」
「ドラマでよく見るよ。公安にも色々な種類があるんだろう? 大体は『公安警察』でよく知られているとか」
「……なるほどねぇ、暢気な一般人どもには聞き馴染みなんてないものだと思ってたんだが……そうでもなかったみたいだな」
「……それで? その公安が僕に何の用なんだ?」
「くくっ……アンタ、『学校の教師』やってるんだよな? だったら少しくらい謎解き出来るだろう? まさか、この程度の問題すら解けないほど、落ちこぼれてないだろうに……?」
――さすが公安警察だ。僕の身元はとっくに割れているらしい。しかし、何が目的なんだろう……?
……いや、今はこの男の挑発に乗ろう。『裏口入学』の手掛かりが掴めるかもしれない。僕は一度咳払いをした後、口を開いた。
「なるほど、大体読めてきたぞ。……あんたはその『裏口入学』について探ってるんだろ? 何せ公安が出しゃばってくるくらいだ。『裏口入学』に加担した組織は、僕らの想像を遥かに超えるようなとんでもない奴らなんだろう。あんたは、僕がその『裏口入学』の手掛かりを掴んでいると睨んで、僕に会いに来た。交番に駆け込まれて下手に『裏口入学』のことを騒ぎ立てられると面倒だから、違うか?」
「…………ご明察。ただ、ここで話をするには目立つな。そこの公園で情報を聞かせてもらおうか」
「僕は素直に従っていいのかな。後ろから刺されたらたまったものじゃないんだが?」
「……さて、それはどうだろうな? アンタの返答次第では、"色んな意味"で刺されることになるかもしれんな……?」
――とりあえず、この男の言う通りにした方がよさそうだ。
僕たちはすぐ近くの公園のベンチに腰を下ろす。どうせ手詰まりなんだ。いっそのこと、この男に全部ぶちまけてしまおう。
そう思って僕はこれまでのいきさつをこの男に話した。
「…………災難なことだな。それで孤独になったアンタは、その日記とやらに書かれた『裏口入学』について探ろうとしたのか。まぁ普通に、『闇社会』の連中に握りつぶされて終わりだろうな」
「ぐっ……だったら、どうしろって言うんだ。このまま目を瞑れば、死んだ娘や妻になんて顔をすればいいのか……」
僕は頭を抱えて悩んだ。
「もう僕には失うものなんて何一つないんだ。どんな危険を冒してでも、僕は娘の無念を晴らしたい……!」
「アンタ一人だけの問題なら、盛大に暴れればそれで解決するだろうが、そんな単純な問題じゃないと俺は思うがな」
僕一人だけの問題じゃない……?
顔を上げてライダースーツの男と向き合い、訊いた。
「どういう意味だ?」
「『日記』の存在が、果たしてどれほどの人間に知れ渡っているのか……という意味だよ」
「…………そりゃ……いつも外に持ち歩いてるから……学校の友達や先生は知ってるかもしれないな」
「――だよな? だったらもし、その日記の中にとんでもないことが書かれてて、他の誰かが知ったとしたらどうなる……?」
「――えっ」
――思わず僕は息を呑んだ。確か、あの日記によれば、娘が『裏口入学』の取引現場を見たのが死ぬ一週間ほど前だったはず。正確には六日前だったか。だとすると、その六日間の間に環希のノートを盗み見た誰かがいたとしたら……? 盗み見るとまではいかなくとも、何かのトラブルで偶然にもそれを見てしまった人がいたとしたら……?
「ま、まさか……僕の行動次第で、その日記の存在を知っている人たちが?」
「――あぁ、その口を塞ぐために、全員消されてもおかしくないかもな」
そんな……だとしたら、もう僕だけの問題じゃすまなくなる。例の日記は僕が持っているから、僕さえ黙っていれば、他の人たちが狙われることもなくなる。
『日記はただの日記』として、その役目を終えるだろう。
……しかし。
『ねぇお父さん、もし誰かが『裏口入学』をしてる事実を見つけたとしたら、やっぱり告発するべきなのかな?』
『そりゃもちろんだよ! 絶対に許しちゃいけない』
『……そうだよね』
あの時の娘との会話を思い出す。本当に目を瞑るつもりだったのなら、胸の中にしまっておくだけでよかったはず。
でも環希は、それを日記に書き綴ることで誰かに伝えようとしたんだろう。自分が狙われていると分かったから、その日記を奪わせないために、家に日記を残して……死んだ。
きっと、その日記を僕たちに託すことこそが、『相談』になると思って。
その時、僕はなんて答えただろう?
『危ないから、これはお父さんたちが預かるよ』とか、『警察に持って行こう』とか、『環希は、このことは忘れて勉学に励みなさい』とか、もっともらしい理由をつけて、日記を奪い取ろうとしたんじゃないだろうか。
命の危険があると分かっていて、娘をそんな学校には行かせず、転校させようとしたかもしれない。
…………でも、環希はきっとそれは望んでいない。とても正義感が強いあの子ならば、ちゃんと向き合って戦うことを僕たちに望んでいたのではないだろうか……
そう思い、僕は一度ライダースーツの男から視線を逸らし、天を仰いだ。
環希……久子……これから僕はとても危険なことをしようとしているのかもしれない。けれど、どうかあの世で見守っててくれないだろうか……
――覚悟を決めた僕は、再びライダースーツの男と向き合った。
この公安警察ならば、何か助言をしてくれるかもしれない。そう思って、胸の内を明かした。
『僕は逃げたくない』と。
「――そうか、だったら……一つ、良い案があるぞ?」
「……なに?」
――それから翌年の二月。
「――た、立花くん……これは一体……?!」
――僕が勤める中学校の校長室にて、突然突き付けられたその文書を見て、校長はとても青い顔をしていた。白髪混じりの髪を何度も掻きむしりながら、眼鏡のレンズを通して文字に目を走らせていた。
幸い、ここには僕と校長以外には誰もいない。話をするなら今しかない。
「校長、あなただったらご理解頂けることと存じますが……」
「い、いや……理解はできるよ? し、しかし……」
「受理して頂けないんですか?」
「い、いや、検討はするとも! そりゃ長年この中学校に勤めてくれたんだ、他の学校の生徒さんを見たくなる気持ちもわかるさ! しかし……なんでよりによって異動先が"あの学校"なんだね!?」
「"あの学校"だと、何か不都合でもおありですか?」
「ぐっ…………い、いや…………その…………」
校長が僕の異動願いを受理してくれなければ、やるべきことが果たせなくなってしまう。
書類にはそれを通すだけの文章を入れたつもりなのだが……これでも伊達に教師をやってきたわけじゃない。
「校長、お願いします」
僕は頭を下げた。他に出すものを出せと言われれば出す覚悟だった。しかし――
「…………顔を上げてくれ、立花くん」
「えっ……?」
「分かっているとも……『娘さんのため』なんだろう?」
「それは……」
――校長には気づかれていたようだ。
「きみが"あの学校"で何をしようとしているのかは敢えて聞かないよ。ただ……気を付けてくれよ?」
「校長……」
「私はね、長年教育に携わってきて思うことがあるんだよ。同じ人という生き物でありながら、どうしてこうもすれ違うのかってね」
「それは、人はそう簡単に分かり合うことができないから、でしょうか」
「もちろんそれもある。ただ、やっていい事と悪い事の区別は、できるんじゃないかね?」
「……仰る通りですね」
「我々教員は、それを教える立場にあり、正していかねばならないはずだ。それなのに…………私たちはそれに目を瞑ることしかできないんだよ……」
「……『裏口入学』のお話ですか……?」
「あぁ……"あの学校"では確かにそれがおこなわれているようだ。しかし、何か大きな力が働いているのか、証拠一つ残っておらん状態でね……」
――やはり、大きな権力が"あの学校"にはあるらしい。まぁ、それが聞けただけでも大収穫だ。
「ただ、きみのような人間ならば……あるいは……」
「……『あるいは』?」
「――いや、なんでもない。……きみの異動願いを受理しよう。再来月からあっちの学校で活動できるよう働きかけてみよう」
「本当に受理して頂けるんですか?」
「あぁ、きみの勤続年数や勤務態度からして、希望校の勤務はおそらく通るだろう。幸い、きみはまだ大きな権力に目をつけられてないようだからね」
「……ありがとうございます!」
――よかった、校長が話の分かる人で。安心した僕は踵を返して、校長室を出ようとした。
「――立花くん」
――妙に静かな声で僕を呼んだので、気になって振り返った。
「なんでしょう?」
「娘さんと奥さんを亡くして、さぞ辛かっただろう…………だがね、これだけは覚えておいてくれ」
――校長はそう言うと、僕の目を真っ直ぐに見据えてこう続けた。
「――命を大事にね。きみは娘さんや奥さんの分まで生きなくてはならない。それが、残された人が亡くなった人に対してできる唯一の弔いではないのかね……?」
「…………肝に免じておきます」
それだけを告げて、僕は校長室を出た。
――亡くなった人の分まで精一杯生きる、それは勿論のことだ。だが、今はそんな悠長なことは言ってられないだろう。気がかりなのは、あの日記の存在をどれだけの人が知っているのか。
確か、娘には何人か友達がいたはずだ。さすがに"そいつら"の魔の手は迫っていないと思うが、もしもその不正とやらで、娘の友人たちや他の人たちにも危害を及ぼすようなことがあれば……その時は。
――たとえこの手を血に染めてでも……力ずくで止めるまでだ。
「このクラスの副担任になります、立花亮です。よろしくお願いします!」
――いつになっても、新任の挨拶は慣れないものだ。
あれから二カ月が経った。僕は娘が通っていたこの中学校へ無事に異動を果たし、これで計画の第一段階である『潜入』に成功したことになる。
中学三年生となれば、高校のことのか将来のこととか考える頃だろうか……
娘がまだ生きていれば、将来について語っていただろうか……
おっと、いけない。不安な表情はなるべく表に出さないようにしなくては。
さて、いつものように生徒一人一人を見ながら、軽く自己紹介をしていくとしよう。
なるべく娘の話題に触れないように、慎重に、慎重に……
――そして、一人の女子生徒と目が合った。眼鏡をかけた真面目そうな生徒さんだ。なぜかとても悲しそうな目でこちらを見ていた。
――僕の自己紹介が終えた後、担任の新垣留美子先生が再びその場をあずかった。
「っていうわけで、このダンディな先生がこのクラスの副担任だから、みんな悪さしないようにねー!」
「「はーい!」」
…………この女性教師は軽いノリなのか、それともこれが素なのかわからないが、とにかくお茶目だった。職員室で挨拶を交わした時も、廊下ですれ違った時も。ポニーテールの髪をなびかせながら、
『わーおっ! イッケメンッ!』『こらこら、暗いぞー? スマイルスマイル!』『えーっ? あたくしですか? あたくしが気になって仕方ないと、そういうわけですか?』などなど。
とにかく、眩しかったのだ。悪く言えば、騒々しい人だった。
…………今日は始業式のため、午前中で生徒たちを帰した。職員室に戻り、一息つく。
……僕はワープロソフトで文書作成をしながら、わかっている情報を整理していく。
少なくとも、今ここに集まっている職員の中に『タケミヤ先生』という人物は存在しなかった。もしかしたら偽名の可能性もあるが、僕はこの中にいる誰かが『タケミヤ先生』ではないかと思っている。女性教員は確か三人いた。すぐそこにいる担任の新垣先生を含め、後で探りを入れるつもりだ。
この学校でやり取りされている『裏口入学』について、もっと奥に入り込めば、娘の死の真相も明らかになるかもしれない。
「――なぁに難しい顔してんの? 立花せんせー?」
「――わっ?!」
――考え事をしていたせいか、いきなり横から話しかけられてびっくりした。
「新垣先生ですか……いきなり顔を覗き込まれたらびっくりしますよ」
「あっははは! ごめんごめん!」
新垣先生は楽しそうに笑いながら、両手をすり合わせて謝ってくる。謝る気ゼロだなこの人。ちょうどいい、まずはこの人に探りを入れてみよう。
「ちょっと考え事をしてましてね……」
「あらら、どうしたの?」
「三年生になる生徒たちを見るとなると、やはり難しい問題があるんだろうなってね」
「まぁねーっ、いまどきの子って扱いがむずいでしょー、もうめんどくさくない?」
――先生がそれを言ったらおしまいなのでは……
「バカなことを言うもんじゃありませんよ、新垣先生」
――話に割って入ってきたのは、数学の小谷豊先生。細目が印象の男性で新垣先生のお目付け役のような存在だと。子供のような立ち振る舞いをする新垣先生を小谷先生が宥めるようなイメージだ。
「バカとはなんだバカとはーっ!」と新垣先生。
「バカにバカと言って何が悪いんです?」と小谷先生。
二人は少し離れたところで小競り合いを始めた。これこそまるで子供の喧嘩だと思うのだけれど。
「……この学校の雰囲気にはもう慣れましたか? 立花先生」
――次に声をかけてきたのは看護教諭の浅見幸子先生。こちらは背中まで伸びる長い髪が特徴的で、とてもグラマーな人だ。
「……まぁ、なんとなくは慣れました」
「ふぅん……? 結構曖昧なんですね」
――そして浅見先生は少し声のボリュームを落としてこう言った。
「……『娘』さんが通ってた中学校なのに……?」
「――っ!?」
――はっとして浅見先生の顔を見た。ひょっとして気づかれたのだろうか。
「本当は亡くなられたあの日、娘さんに手を合わせたかったんですけど…………家族葬だったみたいですし……」
さすがに、環希の父親であることはすぐばれるだろうから、隠す必要もないだろう。寧ろ隠すことで逆に不審がられるかもしれない。
「お気持ちだけで十分です、浅見先生。ただ、あまりそのことに触れるのはご遠慮頂けると助かります」
「あっ……ごめんなさい」
浅見先生は人差し指を唇に当てて静かに微笑んだ。
「何か不安なことがあれば相談してくださいね。私、カウンセリングも担当してるので」
そう言い残して浅見先生は職員室から出て行った。さて、資料の作成の続きをしよう。
「…………立花先生……」
ぼそっと呟くような声で僕を呼んだのは音楽を担当している吹雪夏先生。この人も浅見先生と同じく髪の長い人で、前髪は右目が隠れるようなスタイルだ。なんでも学生の頃、目の周りに酷い傷を負って、その傷跡を隠すために前髪で隠してあるのだと、新垣先生が言っていたな。
「あ、吹雪先生、どうしました?」
「…………こっちの資料も…………お願いします…………」
「はい、わかりました」
両手で丁寧に手渡された資料を受け取る。すると、吹雪先生はそそくさと職員室から出て行った。
――さて、ここにいる女性教員はこれで全部のはずだが…………この中に『裏口入学』の件に加担している人物がいるのだろうか。現段階では皆目見当もつかなかった。
…………資料の作成を終えて校舎から出ると、一人の女子生徒がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。確か、自己紹介の時に悲しそうな目で見ていたあの眼鏡の子だったか。
「あの……立花先生」
「ん? きみは確か…………池田さんだったかな?」
「はい…………あの…………」
――池田さんは何か言い辛そうにしていたが、やがて覚悟を決めたような表情をして言った。
「たまちゃんのお父さん…………ですよね?」
「――っ!」
『たまちゃんのお父さん』…………そう言われた瞬間、娘の姿がフラッシュバックした。長い時間、あの事故現場で倒れていたであろう痛々しい娘の姿が鮮明に脳裏に浮かび上がった。
この子は娘の友達ではないのか、そう思い意を決して尋ねてみた。すると、彼女は静かに頷いた。
娘が歩いたであろうこの通学路を池田さんと共に歩く。『たまちゃんに手を合わせたい』と申し出てきたからだ。娘と一番仲良くしてくれていたというこの生徒の申し出を拒否するような真似など、僕にはとてもじゃないができなかった。
「ここで、たまちゃんは亡くなったんですよね……」
――気づけば例の事故現場についていた。少し長い距離の上り階段がそこにある。見上げてみると結構な段差があった。あそこから下りてくる時はそうでもなさそうな感じがしたのだが……あそこから転落したらたまったものじゃないだろうな。それに、確かにここは人通りが少なそうだし、事故となれば発見までにどのくらいの時間がかかることやら。
「――そういえばきみは、家に来るのは初めてだったね」
「あ、はい……そうです」
「この階段を上って少し歩いた所に二階建ての一軒家があるんだ。そこが我が家だよ」
…………そうして彼女と共に、寂れた我が家へと戻ってきた。一人の時間に慣れていたせいか、家に誰かがいると思うと安心感が出るものだ。
久子と環希と三人で暮らしていた頃のことを思い出し、急に涙が込み上げてきた。
「お邪魔します……」
彼女は靴を綺麗に揃えて玄関へ上がった。僕は仏壇が置いてある和室へと案内する。
そこには久子と娘の遺影を置いてある。
「…………奥さんも……亡くなられたんですか……?」
「あぁ、心労が祟ったのか…………自殺したんだ」
「…………っ!」
――言わなくていいことだと思ったが、つい口にしてしまった。
今まで誰にも打ち明けられる相手なんかいなかったから、環希と仲良くしてくれていた彼女がいたことで、堰を切ったように話してしまいたかったのかもしれない。
「ごめんな池田さん。こんなこと、いきなり言われても困惑するだろうにな……」
「…………いえ……困惑だなんて滅相もないです」
しばらく二人で、久子と環希に黙祷を捧げた。
その後、池田さんをリビングに通してお茶を用意した。
「せっかく来てもらったのに、ロクなものを用意できなくて……申し訳ない」
「……お気になさらないでください…………」
少しお互いに沈黙が続いたが、やがて彼女はこう切り出した。
「あの…………このようなことを先生に聞くのは本当にどうかしてるとは思うんですけど……」
「ん? どうした?」
「たまちゃんは本当に事故で死んだんでしょうか……?」
「…………どういうことかな?」
「たまちゃん、前にこんなことを言ってたんです。『誰かに見張られてるような気がする』って」
――どくん、と心臓が高鳴った。
なんだ、今のこのワード、どこかで聞き覚えがあるような……
そうだ、あの日記! 娘が残したあの日記には死の前日に同じようなことが書かれていたはずだ!
「ちょっと待ってくれ池田さん! きみがそれを聞いたのって、いつのことなんだ?」
「確か……たまちゃんが亡くなる前日の昼休みです。その翌日に事故で亡くなったっていうから、気になって気になって…………お線香も上げに行けずに、申し訳ありません……」
「まぁ、家族葬で葬儀をおこなったというのもあるし、それは仕方ないけれど…………あの、池田さん。娘が日頃から持ち歩いていた日記のことは知ってるかな?」
「えっ? はい、知ってます」
「ひょっとして、中身は見たのかな?」
「まさか、とんでもないですよ!」
彼女は慌てて両手を振って否定した。
よかった、『裏口入学』の件にはまったく関与してなさそうだ。ただ、彼女の話を聞いてますます怪しくなってきた。
環希はやはり、『裏口入学』に加担していた何者かによって殺された可能性が高くなってきたということだ。
――帰宅する彼女を途中まで送り届けた後、家に戻って考え事を始めた。
これからどうすればいいのか。環希が殺されたという決定的な証拠はどこにもない以上、警察は動いてくれないだろう。
やはり、自分の手で真実に辿り着くしかないのだろうか…………
「――――っ?!」
はっとして目が覚めた。どうやらリビングのソファで眠りこけていたらしい。もう辺りはすっかり暗くなっていて、腕時計を見ると夜の九時を回っていた。
「いて……っ!」
変な態勢で寝ていたためか、腰が痛む。
「もう部屋で寝よう…………」
そう思って廊下に出て――
ゴンッ!!
――刹那、玄関のドアに何か重いものがぶつかるような大きな音が聞こえた。
「…………なんだ?」
気になって玄関のドアを開けてみると、足元に何か大きな石のようなものが転がっていた。
拾い上げると、そこに紙切れのようなものが輪ゴムで留められていて、その紙切れを開いてみると、次のようなことが書かれてあった。
『おまえはどこまで嗅ぎつけた?』と……
(後編へ)