②
2
衰退した人類はこのように年月を経た
悲嘆に暮れ
運命を呪い
先祖を罵る
三代を過ぎると、次の三代はこの様に変わった
悲嘆に慣れ
運命を甘受し
先祖に同情した
そして、それらの次に現代の私たちがいる
(現世界の風景)
1
フランクとミゼリーがシャルの隠れ家として通されたのは何の特徴もない部屋だった。
シャルことシャルロット=ハインリヒの話によると、その建物全体が彼女の所属している組織の管轄下にあり、彼女にはその建物五階――六部屋あるそのワンフロア全てが与えられ、任務に合わせて使用することを許されているらしい。
『任務』
彼女は確かにそう言った。
「……分かっていると思うけど、他の部屋には近づかない方が身のためよ。他の部屋は他の任務で使ってるから。貴方のややこしい物語をこれ以上複雑にする必要はないでしょう?」
つまり、彼女はいくつかの『任務』を同時に抱え、フランクの件に関してはその一つに過ぎないというのだ。
「さて、状況は好くも悪くも進んだわけだけど、どうするべきだろうね、ミゼリー」
落ち着きなく部屋の中を歩き回りながらフランクは問いかけた。
「どうもこうもないさ。まずは相手の目的を探らなければ。アンタに自由なんてないのだから」
保護という名の軟禁をされ、部屋から出ることも叶わなくなった現状では相手に行動を合わせるしかなかった。
自分たちの任務である国家安全保全局員の監視を行わなければならなかったが、それもあのように自らの命を狙われる状況では望めず、とりあえずは騒動を収めなければならない。
「まぁ、そうだね。何か探りを入れてくるだろうけど、君に応答をまかせようか?」
「嫌だね。アンタをそれほど馬鹿だとは思っていないから、節電に励んでいるさ」
ミゼリーは出窓へよじ登ると部屋の中を向いて座り停止した。
その姿は元々そこにあったかのように部屋の雰囲気と調和している。
フランクは歩き回るのをやめソファーへと腰掛けると呟いた。
「……アンティークとモダンの調和とは斯くあるべし……」
「いや、悪かったね、なんの説明もせず他の任務に――ふ~ん……暇を持て余してはいなかったみたいね」
シャルが部屋へと入ってくる。
「悪くはない趣味だけど、そういうことは自分の部屋でやってね。少し気持ちが悪いから」
そう言いつつもミゼリーを出窓から降ろしたりはせず、シャルはフランクと向き合うように座った。
「いろいろ聞きたいこともあるだろうけど……どうする? 貴方とあたしの間には互いに何の義務もない。貴方の質問に答える義務もないし、貴方が質問に答える義務もないってことね。でもそうやって探り合っていても事態が好転するわけでもない。どこかで折り合いを付けなきゃならないと思うのよ。どうかしら?」
シャルは先ほど助けてくれた格好から外套だけを脱いだ出で立ちとなり、ほとんど裸に近い状態で脚を組みかえる。
「……いいですね(このアングル)」
フランクは自分が正常な人間にも反応することに安堵した。
「というわけで、こういうのはどうかしら。一問一答形式で交互に質疑応答していくのは?」
「実にいいですね(このアングル)。全く(私の性的趣向に)問題はないです」
シャルはリラックスしたのか、背もたれに身体をあずけ、もう一度脚を組みなおす。
「じゃあ、貴方からどう――」
「どうしてそのような格好を?」
少し食い気味にフランクが質問すると、窓際から舌打ちのような音が聞こえたが、シャルには聞こえなかったのか、笑いながら答える。
「フフッ……まぁ、これが一番似合うと思っているからかな。いつも怒られちゃうけどね」
「寒くないんですか?」
「質問は一つずつでしょう? 次はあたしの番」
「なるほど。厳密にいくわけですね。なんでしょう?」
「貴方はどうしてカテリナと歩いていたのかしら?」
「カテリナ? そのような人物は存じ上げませんが……」
「嘘は駄目よ。貴方が昼間宿まで案内してもらった女性がカテリナなんだから」
「彼女は自分をカテリナとは名乗りませんでしたので」
フランクは意識的に嘘をついているわけではないため、ごく自然にそう答えることが出来た。
「では、その女性はなんと名乗ったの?」
「一問一答形式なので次は私の番でしょう」
「貴方は何も答えてないじゃない」
「『そのような人物は存じない』そう答えたでしょう? では、私からの質問です」
フランクはそこで一呼吸置き、シャルの様子を窺う。
彼女は特にイラついた様子も見せず、苦笑交じりに数度頷いただけだった。
「シャルロット=ハインリヒさん。貴女の所属を明らかにしてください。もしこの質問に答えられないと言う事であれば、私は自分の命も顧みず貴女の保護下から離れることになるでしょう。貴女の容姿は魅力的ですが、私も得体の知れない女性と一晩を過ごす程の無鉄砲さは備えていませんから」
「……謎多き女の方があと腐れなく楽しめるかもよ?」
シャルは身体を乗り出してそう言ったが、フランクは彼女の目だけを見て、おそらく世の男性たちが釘付けになるであろう部分を視界には入れないようにした。
「……質問の答えをどうぞ」
「……貴方、変態なの?」
「その質問には後で答えましょう」
観念したのか、シャルは立ち上がり部屋のクローゼットから上着を取り出す。それを羽織るとまた元の位置まで戻ってきてフランクをじっと見た。
「……あたしの所属は軍の諜報部。これでいい?」
「それを証明できる物はありますか?」
「一問一答よ?」
「嘘は駄目だともおっしゃった。証明出来る物がなければここから話は進展しませんが……」
首を傾け仕方ないとでも言うように、シャルは上半身の下着――つまりブラジャーなのだが、そこから身分証をフランクへと提示した。
そこには『国防省情報管理局諜報部 シャルロット=ハインリヒ特任中尉』と記されていた。ちなみに年齢は二十二歳ということもフランクの脳内に刻み込まれた。
どうやら身分証は偽造ではないらしい。それは仕事柄、彼自身も偽造IDを持ち歩いている国家安全保全局の端くれであるため、それくらいの見分けは出来た。
「国防省の特任中尉ですか……お若いのに……」
「今の戦争のない世の中じゃ、キャリアのエリートコースは諜報部なのよ」
「キャリアの割には鍛えてらっしゃる。特殊訓練を積んだウサギ耳に圧倒していました」
「そりゃ鍛えるわよ。危険な潜入任務もあるからね。自分の身は自分で守らなきゃ」
「別に出世したいなら国防省でなくても良かったでしょう」
「それは質問かしら?」
「いえいえ、意見ですよ。同じ国家公務員でももっと楽に出世できる省庁はたくさんある」
「そうね。最近じゃエネルギー庁なんて楽でしょうね。何の開発もせず、限られた資源の中で賄賂に比例してエネルギーを分配すれば良いだけだし」
「内務省はどうです?」
「内務省も中はいろいろじゃない。警察もあれば地方自治もあるし、国土交通もあるわね。随分と縮小されたとはいえ、これだけ内包してたら派閥争いなんか面倒臭いんじゃないかしら」
「確かに省内にたくさん局長やら部長やらいたら人付き合いは大変そうですね。それに私みたいな旅芸人には何をやっているかわからない部署もある……例えば、国家安全保全局とか」
フランクは自分に役者の素養があるのではないかと驚くほど自然にその部署名を口にしていた。
それにシャルは明らかな嫌悪を含んだ表情を浮かべる。
「……同じ公務員のあたしでさえあいつらが何をしているかなんてわからないわ。誰にも実態を掴ませないのに、聞こえてくる噂と言ったら、人が消えただの、人格を180度変えられただの、とにかくあいつらの現れた形跡が残った場所にはすべからく人の活気というものが消え失せてしまうということ。情報管理局の方でも――いえ、ちょっと喋り過ぎたわね。そろそろこっちの質問に入ってもいいかしら?」
「という質問なら、どうぞと答えて終わりですが?」
「フフッ。そう言えばお茶でも飲みながらと言っておきながら、何も出していなかったわね。おいしいお茶の淹れ方は知らないけど、何か飲む?」
「質問は私の番の筈なので、冷たい水はありますかという質問にしておきます。炭酸は入ってない方がいいですね」
シャルは頷くと立ち上がった。
「不便なことにこの部屋には何もないから……取ってくるわ。走り回って喉が渇いているんでしょう?」
「お気遣い感謝します」
一度ミゼリーに目を遣ると、シャルは一言冗談を言って出て行った。
「その子にはいらないわね?」
シャルが退室すると、フランクは三呼吸ほど待ってミゼリーへと話しかける。
「キャサリンがカテリナ?」
ミゼリーは眼球を縦に二度回すと、用心のためかそれ以外には微動だにせず低い声で話す。
「アンタの疑問はそこかね? それなら答えてやるが……言っただろう? 『アンタ、あの女の言う事信じているのかい?』とね。ここはどこだい、フランキー? そう。ここはヴェネトロスだ。あの女はこの街の迷路のような道に詳しかった。あの女自身も言ってたじゃないか。地元の人間でも迷うと。つまり、あの女は地元の人間の中でも生粋のヴェネトリアンというわけさ。そんな女がキャサリンなんて名前のわけがないじゃないか。わかるだろう?」
そう言われてもフランクにはいま一つ理解出来なかった。
「生粋のヴェネトリアンだからなんなんだい。まわりくどい言い方はやめて要点を的確に教示してくれないかな。我等が内務省の宿敵である諜報部の彼女が戻ってくるまでそれほど時間はないのだから」
「アンタに教えてやるには歴史の授業が三コマ必要だね。だから、十秒で理解できることだけ教えといてやろう、フランキー」
「それはありがたい。君の言葉はいちいち私の脳を刺激させるからね。脊髄で理解できる言葉を使ってくれ」
「……人を信用しすぎだ」
「短い言葉が易しいとは限らないよ。逆にそんな言い回しは言葉に深みを持たせすぎる」
「では考えなくとも良いよう命令にしてやろう。一、一問一答をやめて質問をするな。二、あの女からの提案は全て拒否しろ。以上だ」
ミゼリーにはそれ以上会話する気がないのかまた目を二度回し停止した。
そうされては仕方がないので、フランクはミゼリーの命令を自分で考える。
質問をするなというはおそらくこちらがボロを出さないようにするためだろう。確かに、探りを入れるにはこちらも手の内を虚実交えて晒す必要がある。相手は大学を卒業して一年も経たない内に昇進するような才女だ。頭脳戦を挑んだとしても手玉に取られてしまうだろう。情報管理局と国家安全保全局――同じように情報を武器にしている部局でもエリート官僚と神の悪戯で配属された変態とでは勝負にならない。
それはフランクにも分かる。しかし――。
提案を拒否しろとはどういうことであろうか。
一般的に提案というものは拒否するよりも受け入れる方が用意だ。拒否するにはそれなりの理由づけをしなければならないが、黙ってハイハイと頷いていれば相手にそれ以上踏み込まれない。駆け引きをしてまで拒否をしなければならない理由とは何であろうか。
こちらが晒してはいけない情報は自分が国家安全局の人間であるということ。これは確実に秘匿しなくてはならない。むしろそれさえ隠し通せれば、ウォルター=ハップスや英雄探しなど瑣末なことだ。
しかし、駆け引きの途中で所属が引き出されてしまったらどうであろうか。
もちろん、このように注意しておけば、自分から所属を口にするということは有り得ないのだが、あちらは情報のプロである。何かの拍子にそれがバレてしまうことはあるだろう。
おそらくミゼリーはそれでも――そうなろうとも相手の提案を全て拒否しろと言っているのだろう。
「……だとすれば、これは命の問題になるな……」
フランクの呟きには反応するものがなかったが、部屋の外からは靴音が聞こえてきた。
シャルは大きなガラスの水差しとグラスを二つ持っていた。
「素敵な水差しですね」
「ガラスはこの街の主要な工芸品だからね」
グラスに水を注ぐと、フランクは一気に飲み干した。
すると、またもや窓際で舌打ちのような音が聞こえた。
「良い飲みっぷりね。おかわりも遠慮なくどうぞ。これだけあれば朝まで十分でしょう?」
どうあっても朝まで軟禁コースなのだとフランクにも分かった。
「で、質問はあたしからだったかしら、貴方からだったかしら?」
「私からの質問はもうありませんよ。貴女の所属さえはっきりして頂いていれば特に心配はありませんし。貴女からの質問の中に疑問があればその都度説明をお願いするかもしれませんが」
一瞬シャルが眉間に皺をよせたように見えたが、すぐにシャルは椅子に座りなおし、じゃあと質問の構えを整えた。
「PPPに追われていたのは何故だと思う?」
「PPP?」
「プラウド オブ ポップ プリーチャーの事よ」
「あぁ、ウサギ耳のことですか。さぁ判りませんよ。判るわけないじゃないですか」
「ちなみあいつらがどういった組織か知ってる?」
口調は砕けているが、顔つきは取調官のように厳しいものだった。
「法王庁お抱えの秘密結社でしょう? そんなの旅芸人だって知ってる一般常識ですよ。法王庁絡みの胡散臭いことは全部彼らが関わっているらしいじゃないですか」
「……ふ~ん……つまり、この件に法王庁が絡んでいるという事は理解しているのね? いいわ。まずはウサギ耳との会話を詳しく教えてくれるかしら? 奴らがどうして貴方を襲ったのか分かるかもしれない」
そう言われたのでフランクは声真似までして事実だけを再現した。
「……なるほど……腹話術は上手なのに物まねは下手なのね」
そりゃそうだと思いつつも先を促す。
「キャサリンとカテリナ……この二つの名前が貴方の勘違いの元ね。少し歴史の講義が必要かしら?」
「……無学な旅芸人の私にはありがたいです……」
「まぁ、夜は長いしね……前時代が終わって――」
そこからシャルの長い講義が始まった。
ミゼリーの言った通り、それは三時間ほど続いた。前日からの移動とウサギ耳との追いかけっこの疲れでうとうととしてしまい、途中何度か水を浴びせられた記憶がフランクにはある。
要はこういう事なのだ。
前時代から現代に至る過程で世界中の多くの国々は片手で足りるほどの数に併呑され、使用される言語もそれに伴って数を減らしたが、土地土地に残る文化は未だ残っており、名前の付け方もその一つであると。つまり、イタリア語圏であったヴェネトロスに英語圏で使用されたキャサリンという名はなく、それはカテリナとなるらしい。
たったこれだけのことを三時間もかけてネチネチと講義されたことに不満を覚えたが、そうなると新たな疑問が生じた。
「何故、名前を偽ったのでしょうか?」
「カテリナというのは今この国で一番ホットな女性名だけど……そうか、旅芸人さんは新聞を読む暇もないのかしら?」
本当の職業ではないものの、旅芸人を馬鹿にされたようでムッとしたが、新聞とカテリナという二つの単語を結びつけるくらいは簡単にできた。
「……カテリナ=ベントーラ……」
フランクから漏れ出た固有名詞にシャルは満足そうに頷く。
「そう。貴方が昼間道案内をしてもらった人物こそヴェネトロスの商工会長の一人娘にして、この国の次期法王庁長官を有力視されている男のフィアンセ、カテリナ=ベントーラというわけ。これでやっと話が進めそうね」
「いや、しかし――」
「望むと望まないに関わらず、貴方は国のデリケートな部分に踏み込んでしまったのよ」
手痛い失敗を犯してしまったことに気づかされる。
覆面調査員が全くの別件でさらに大きな問題に巻き込まれてしまったのだ。
彼女の動向は国の全ての情報機関が探っている。目の前にいる国防省しかり、法王庁の秘密結社しかり、そして内務省の国家安全保全局しかり。
「で、貴方はカテリナ嬢と何を話したのかしら?」
「何も話していませんよ。偶然道の角でぶつかって、びしょ濡れになってしまったので宿を紹介してもらっただけです。そんな有名人とは気がつきませんでしたので、婚約の話などしていませんし」
概ね嘘はついていない。
「婚約のことについて何も言ってなかった?」
「私がミゼリーを大事に抱えていたので変態だと思っていたのか、道すがらの会話はありませんでした」
これも概ね嘘はついていない。
しかし、婚約のことについて決定的な彼女の意思をフランクは聞いてしまっていた。
「そう……」
「国防省の諜報部としては彼女が婚約に乗り気ではない方が良いのですよね。私には新聞で得る程度の情報しかありませんが、これは政略結婚なのでしょう? 様々なロマンスは語られていますが彼女が乗り気であるとは思えませんよ? まぁ、一般人のただの感想ですが」
婚約に賛成であろうと反対であろうと、彼女の心情を慮ればそれが一般的な意見であり、フランクが彼女自身から聞いた真情を鑑みると真実でもあった。
「……私の仕事は別に彼女の婚約を邪魔することではないのよ。ところで、貴方はどうしてあんなところに居たの? 芸人なら海神広場でなく、太陽広場が仕事場でしょうに」
「初めてのヴェネトロスなので色んな場所を見てみたかったのですよ」
「場所によってはデモが行われて危険なのに? 新聞を読んでいるなら知っていたでしょう?」
「それは知っていましたが、デモは市民広場周辺での話でしょう」
「……ふ~ん……」
「な、なんですか?」
シャルの目を覗き込むと、彼女は蛇のような目をしてフランクを見ていた。
「別に。何か質問はある?」
「え? ……いや、特にはないですけど……」
「明日はどうするの?」
「疲れたので昼過ぎまで寝てから太陽広場に行ってみようかと思います」
「『行ってみようか』? つまり、予定はないという事よね」
「は? いやいや――」
「ちょっとお国のために働いてみない?」
フランクには何がどうなってその提案がなされたのか解らなかった。直前の会話を思い出しても何かミスを犯したとは思えない。
「嫌です。私、無政府主義なので」
「お金は弾むわよ。太陽広場でどのくらい稼ぐ予定だったの? その十倍出しましょう」
「お金じゃないんですよ! 人の喜ぶ顔が見たくてやってるんですよ!」
フランクはとにかく大きな声を出して拒否してみる。
「笑顔なら、カテリナの笑顔が見られるかもしれないわよ?」
「え?」
「少しは興味が湧いてきたでしょう」
まずい流れだ。
ミゼリーがどこまで予測していたかは分からないが、とにかく提案を拒否しなければバイオリンを習う夢は来世のものとなってしまうのだろう。
「全然。全く。私のような者がお国の役に立てるとは思えませんし。立ちたくもないですし。断固拒否させてもらいます」
「では、貴方がこの街にいる間ずっと監視を付けさせることになるけど?」
「どうしてですか!?」
「ウサギ耳から襲われるかもしれないじゃない。あたしたちには貴方を保護する義務がある」
「それなら警察に頼ります」
「警察? この街の警察にまた一から事情を説明するの? 言っておくけどここの警察は商工会とずぶずぶよ。行政は市長でなく商工会長を執り行っているようなものだもの。貴方がカテリナ嬢と接触したとしれれば一体どうなるかしらね」
どうなるかは分からないが、内務省管轄下の警察では絶対に素性を知られてはならない事は確かだ。目の前の諜報部に自分が国家安全保全局員とまでは最悪知られても構わないが、警察ではその下の監査室ということまで知られてしまう。
それだけは絶対にまずい。
そうなってしまえば監査室の意味がなくなってしまう。
いくら自分の所属先に忠誠心のないフランクでも、自分の所為で国家に一つ横暴の罷り通ってしまう部局を作ってしまうのは気が咎める。
「……協力すれば監視は外して貰えるんですか?」
「あたしたちもかつかつでやってるから協力者まで監視している暇も人員もないわ。というか、そんなに監視されたくないの?」
「監視します。わーいやったぁ! なんて人はそんなにいないでしょう。……で、何をすればいいんですか?」
諦めたように不貞腐れていうと、もう一度シャルはフランクをなめ回すような目で見た。
「カテリナ嬢ともう一度接触して、彼女の真意を聞いて欲しいの」
「……そんなことしたらまたウサギ耳に狙われるじゃないですか」
「大丈夫。また助けてあげるから」
「いつ狙われるか分からないのに、結局私を監視するんですか」
「冷たい瞳で監視するのと、生暖かく見守るのでは違うでしょう? それにあいつらも貴方が私とここに入ったのを知っているはずだから、大胆な行動は取れないでしょう」
「私を国防省の人間と思ってくれた?」
「そこまでは分からないでしょうけど、何か大きな組織に守られているとは思ってくれたでしょうね。隠密であることが重要なあたしらのような組織や結社には、それで十分抑止力になるわ」
シャルの口元は笑っているが、目は先ほどから変わらず笑っていない。
「でも、真意を聞いてどうするんですか?」
「もし、本心から婚約を嫌がっているなら逃がすのよ。国防省で保護して彼女の意思を公にする手筈を整える」
確かに国防省としては法王庁と商工会が繋がるのを避けたいので筋は通っている。フランクの管轄外のことではあるが、内務省としてもそれは同じなので、ここで手を貸したとしても次官補殿にはそれほど怒られることもないだろう。
ウォルター=ハップスについても調べを進めなければならなかったが、それは一月以内に済ませばよいし、なによりこの件により国防省に監視されたままでは動きようがないため、シャルを手伝うのに何の障害ないように感じられた。
(同じ公務員どうし仲良くしなきゃね)
「分かりました。やりましょう」
「そう言ってくれると思ってた。やり方は貴方に一任します。ここは自由に使っていいわ。それで、期限は二日ほどあればいいでしょう?」
「二日ですか……期限を守れなかったら?」
「その時は貴方の代わりを探すだけよ」
国防省に消されるのか法王庁に消されるのを黙認するのか、どちらかは判らないがどちらかであることは確からしかった。
「な~んてね」
部屋の中で誰一人笑っていないのにそんななんちゃってギャグをかましてシャルは出て行った。
すぐにミゼリーの方へとフランクは向き直ったが、停止したまま動く気配がない。
歴史の講義の間、少しは仮眠をとれたはずではあったが、これからのことを想うとどっと疲れが襲ってきたため、フランクはカテリナへの接触方法も本来の任務についても何も考えず眠りについた。
2
商工会長邸は市庁舎のある市民広場から少し東へ行ったところにあった。
まさにこの街の王とでも言うかのように小島の上に建てられ、一見したところ船着場もなく、島には四方に架けられた橋を渡って行く以外には他に術がない威風堂々とした姿である。
フランクは昼過ぎに起きて部屋に用意されていた食事を済ませると、ミゼリーを連れてそこへ向かっていた。
シャルの隠れ家からは歩いてもそれほどの距離ではない。
しかし、目的地までは用意にたどり着けそうになかった。
カテリナの婚約に対してのデモ隊が周囲に集まっていたのだ。
そこには賛成派も集まっていて、小競り合いとは言えない衝突も起きていた。
警察やおそらく私的な警備員は橋の通行を管理するだけで、市民たちの争いの仲裁に入らないため、暴力が暴力を呼び、その沈静化には負傷者だけでは済まず、誰かの死を持ってなされなければならないのではないかと思える程だった。
「小島へと続く橋の架かる建物の内部はおそらく人で溢れかえっているだろうね」
ミゼリーが言うことはフランクにも容易に想像できた。
「そうだろうね。何か方法を考えなきゃいけないな。それより、尾行はされていないだろうね」
「視界に入る限りそれらしい者はいないが、視界に入るような追跡者がいるとは思えないが」
「あっちは君をただの人形と思っているはずだから、君の視界には注意は払わないさ。君がこうやって後ろに目を光らせ、それで安全だというのなら安全なんだろう。嘘か本当かシャルも言ってたからね、私たちを監視する余剰人員なんていないんだろう」
「監視するより、次の使い捨てを探した方が建設的なのかもしれないね。アンタを黙らせるなんて簡単な事だし、意に沿わない事をしでかせるタマではないことは見抜かれているんだろう」
フランクはプラカードを持って声を上げるだけの集団の層から、そのプラカードを武器として扱う集団の層へと入っていく。
「おいおい、フランキー。何の当てもなく踏み込むつもりかい?」
「当てならあるだろ。昨日借りたハンカチが」
「そんな物が通行許可証代わりになるとは思えないね」
「やるしかないさ。君も皮肉ばかり言ってないで、たまには建設的な意見を述べて欲しいものだ」
「存在自体が非建設的なのに、そんなこと出来る訳ないだろう」
まったくその通りだ。
ミゼリーのそのような物言いには、いつものフランクならば少し感傷的になるところだが、辺りのバイオレンスな世界がそうはさせてくれなかった。
“いくら商人とはいえお嬢様まで法王庁に売る気か!? この恥じ知らず!”
“ヴェネトリアンの誇りを忘れるな!?”
“自由と独立を失って我等ヴェネトリアンに何が残る!?”
そうヴェネトリアンが抗議すれば、
“恥知らずはお前らだ! お嬢様を売るなどと表現するお前らだ!”
“売れるものなら何でも売ってきたお前らが今更何を言う!”
“その汚い商売魂は残るだろうよ!”
と、ヴェネトリアン以外の商人たちは返す。
お互いがそれぞれの利益のために口先だけの主張をぶつけ、少し離れた場所からそれを見ていたならばフランクも鼻で笑ってしまうところだったが、その渦中にいる状況では笑ってもいられなかった。
“おい、邪魔だよアンタ!”
“よそ者がこんな所で何の用だよ!”
そのように怒鳴られ肩を押される。
しかし、振り上げたプラカードが首や背中に直撃しながらも、なんとか橋の入り口へとたどり着く事ができた。
大柄の警備員にハンカチを示しながら説明する。
だが、男は無言で首を振りフランクを喧騒の方へと押し戻そうとした。
「ちょっと、待ってくださいよ! これ本当にカテリナ嬢から借りたんですよ? だいたいあなた達に通行を規制する権利なんかあるんですか?」
「そうやって入ろうとするお前のような奴はたくさんいるんだよ」
男は声を荒げる事もなく、顎である方向を指す。
フランクがそちらに目を向けると、別の屈強な警備員になよなよとした雰囲気の男が柔らかくウェーブした茶色の髪を掴まれていた。
「毎日毎日来たって駄目なものは駄目なんだよ。旦那様からもお前は通すなと言われている。手荒なマネはしたくないが口で言っても解らない奴には手を出すしかないだろう? あぁ、そんな目で見ても無駄だ。こちらも仕事でやっているんだから。お前もこの街で生まれ育ったなら解るだろう。ビジネスライクに行こうぜ」
警備員はそう言って髪を掴んだまま男の顔を引き上げ、もう片方の手で顔をぺちぺちと叩いた。
フランクは自分に対応した警備員に尋ねる。
「あのなよなよとした彼は?」
「お前と同じようにお嬢様に逢いに来る男の一人さ」
「カテリナ嬢には私や彼の以外にも逢いに来る男がいるのですか?」
「商工会長の娘とお近づきになりたい男なんて山ほどいるよ。未来は自分次第だが、当面は大富豪になれるからな。この街の男ならきっかけさえ掴めば何とかやれると思っているんだろうよ。ただ、あの男は旦那様じきじきに中に入れてはならないと言われているから、随分とお嬢様に近づけはしたんだろうな」
なよなよとした男がデモの方へと蹴り飛ばされているのが見えた。
「まぁ、あぁなったら失敗だろうがな」
フランクは警備員の言葉に頷く。
「そうですね。せっかく近づいてもああなっては……」
そう言いながら警備員の側を離れた。
そして、終わる気配の無い暴力の中をフランクは男を捜した。
男はよろよろと覚束ない足取りでデモの層を抜け、橋の架かる建物から回廊を通り遠ざかろうとしていた。
すぐに回廊へと出てフランクは男に呼びかけた。
すると男は驚いた顔をして、振り向いた。
「なんですか?」
フランクは奇妙な違和感を覚えたが、男が不思議そうに見つめてくるので呼び止めたわけを話す。
「あ、いや、なんというか……大丈夫ですか?」
男は警戒しているように怪訝な表情を浮かべる。
「あ、私、腹話術師をしているのですが、昨日カテリナ嬢に助けてもらって……というか、そんな事はどうでもよいのですが、先ほど警備員に乱暴されていたようなので」
「……いいんです。どちらにせよカテリナは僕のことなんか忘れてしまっているんですから……」
男はうなだれてしまう。
「カテリナ嬢とお知り合いで?」
「……あなた誰ですか?」
フランクの事を怪しんで聞いたという感じではなく、自分に構うなという態度で男はとぼとぼ歩きだしながら呟いた。
フランクは男の正面に回りこんだ。
「私はフランク=シュタイナー。見ての通り腹話術師を生業としています」
ミゼリーの背中に手を入れ、男の方へ会釈させる。
「やぁどうも。私ミゼリー。よろしくね」
いつも以上に感情の無い声だった。
フランクは背中をつねったが、全く効かないようで、その肌の柔らかい質感にフランクの方が気が咎めてしまった。
「腹話術師が僕に何の用ですか?」
男はそう言いながらも、興味の無さそうにフランクを置いて行ってしまおうとする。
傷心男をならばこの対応も不思議ではなかったが、フランクは先ほどから何かこの男に違和感がある。
しかし、その違和感の正体を突き止めようにも、男の何がおかしいのか手がかりがない。
歩いていく後ろ姿をじっくりと観察しても、どこにでもいそうな中肉中背で特徴がない。
「なぁ、ミゼリー。あの男におかしなところは何かあるかな?」
ミゼリーを胸の前で抱きなおす。
「アンタが何を聞きたいかは分からないが、生物学的におかしなところはなさそうだよ。ずいぶんとよろけて歩くのを見るとアルコールを摂取している可能性は見受けられるが……別にハートブレイクした男が酒を飲んだっておかしなことじゃない」
ミゼリーの言うとおりだが、フランクは男の後ろをついて行く事にした。
「二日しかないのにこんな事をしている暇あるのかい? どうせ散歩するならあの小島の周りをすればいいじゃないか。そうすりゃ何か浮かぶかもしれない」
ミゼリーを無視して男の追跡を続ける。
男は歩き続けるうちにだんだんと痛みが治まったのか、覚束なかった足取りもしっかりとしたものになっていた。
「なぁ、フランキー。この下手な尾行をいつまで続ける気なんだい。誰が迷惑って尾行されてる傷心男が一番可哀想だよ。彼女に忘れられ放っておいて欲しいのに、人形を抱えた何だか気持ちの悪い男に何ブロックもついてこられ……やめてくれと言いたいけども、それを言う元気すらないなんて。アンタのやってることはただの嫌がらせだよ?」
それでもフランクは続ける。
いくつもの水路を越え、回廊を上っては下り、下りては上る。
前を歩く男はたまに振り返るが、それにはどうぞ気にせずにと言って返した。
フランクの中で少しずつ男の違和感について分かってきた気がしたのだ。
まだ言葉にするにはあやふやでおぼろげだが、なんとなく自分が何に焦点を当てているのかを把握する事ができてきた。
男の背中を見ながらなんとか言葉にしてミゼリーに伝えようと思索に耽っていると、不意に辺りが騒がしくなっている事に気がついた。
前を歩く男との間に人影が幾度と無くよぎる。
「……ミゼリー、ここはどこだい」
「アンタがこの街で最初に来るべきだった場所“太陽広場”さ」
周囲は商工会長邸のある市民広場周辺とは違い、華やかで文化的な賑わいがあった。
笛や太鼓の音が鳴り響き、手品や踊りを催している大道芸人とそれを囲んで観ている人々の輪がいたるところに出来ている。
「彼はどこに行く気だろうね?」
「さぁ、この辺りに住んでいるのか、大道芸でも見て心を癒したいのか、はたまたアンタを撒きたいのか……」
見失わないよう注意を払ってついて行くと、あるところで男は立ち止まり振り返った。
フランクは手を挙げ微笑む。
「お気になさらず」
男はフランクの方へと向かってきた。
「……あなたはなんなんですか?」
「カテリナ嬢について聞きたくて」
「ただの旅芸人でしょう? この街の政治に関係もなければ、彼女と親密な間柄にあるわけでもない。そんなあなたに僕は何を話せばいいんですか?」
「どうやったらカテリナ嬢に逢えますかね? 昨日借りたこのハンカチを返したいんです」
男は眉間に皺を寄せた。
「昨日? 昨日彼女と逢ったんですか?」
「えぇ。偶然ですけど。海神広場近くの回廊でぶつかったんですよ。それでその後宿まで案内してもらって……どうしました?」
男は口を開け、思いつめたような表情をしていた。
「……海神広場まできていたのか……その話を詳しく聞かせてもらえませんか?」
零れだしてはいないものの涙を溜めた瞳で真剣な眼差しを向けてきたため、フランクは男の真意を図らなければならなかったはずではあるが、勢いで頷いてしまった。
二人は太陽広場内のカフェテリアに場所を移し、向かい合った。
カテリナとぶつかって宿までの話をすると、男は深いため息を着いた。
「……どうせどこへも行けない……そう言ったのですね……」
「えぇ。まぁそんな事を言ってました……」
そして、男はまた深く息を吐くと嗚咽を漏らしだした。
「もしかして、あなたと逃げ出す約束をしていたんですか?」
そう尋ねると男の嗚咽は激しくなり、それに合わせて何度も何度も頷いた。
フランクは胸が痛むのを感じる。
「すみません。私がぶつかったりしなければ――いや、その後、宿まで案内してもらわなければあなたとの約束を破らせずに済んだに――本当にすみません!」
逃げ出したところですぐにPPPに捕まってしまうだろうことを知っていたが、逃げ切れる可能性が1%であろうとその可能性に賭けるチャンスすら潰してしまったことにフランクは心から謝罪した。
嗚咽を漏らす男と、人形を抱えたこれまた男が陽気な音楽の響くカフェテリアで向かい合って座っている姿は、周囲から注目の的になっていた。
しかし、フランクは勘弁してくれよといった心持ちにもなれず、うつむいてそれを甘受するしかなかった。
「くるっぽー」
突然、二人の挟むテーブルの上に鳩が現れ、そう鳴くと飛び立った。
フランクと目の前の男が飛び立つ鳩の方へと視線を奪われると反対側から声がした。
「なるほど……なるほど……実に興味深い」
声の方へと顔を向けると、昨日あった髭の手品師が座っていた。
「いや、言葉は要らない同志たちよ。悲しみと喜びとの違い――それは言い換えれば結果の違いに過ぎない。どのようなプロセスを経ようと、終わりよければ全て良しとも言えるし、画竜点睛を欠くとも言える。要は終点――ファイナルデェスティニーをどこに置くのかという問題だと思うのだ。うむ。君と言う電車はこんな所で停まってしまうのかい?」
そこまで言うと、髭の男はフランクと嗚咽を漏らしていた男の肩に手をかけた。
「面白――いや、これこそエンターテイ――いや……この悲しき彼の物語に私も登場人物の一人として一枚かませてくれないかい? 私の名前はヘルト=シャルフリヒター。君は?」
ヘルトと名乗る男の勢いに押されたのか、嗚咽を漏らしていた男は素直に名乗った。
「アダム=ジョンソンです」
「うむ。良い名だ、アダム。そして、君は?」
「……フランク=シュタイナー……ちなみこちらはミゼリーです……」
「私ミゼリーよろしくね。ヘルトなんとかさん」
「シャルフリヒターだ。腹話術をするならばもう少し愛想良くしなければ」
爽やかに親指を立てるヘルトに、フランクは警戒するのも馬鹿らしく感じ苦笑するしかなかった。
「さて、ではアダムよ。君の終点をどこに置くか、まずはそれを決めよう。そうすれば自ずと何をするべきか見えてくるはずだ」
ヘルトが他の席から椅子を持ってきて座りながら言った。
アダムはすぐには答えられず悩み始める。
「難しく考える事はない。君は駆け落ちしようとした。だが、実行に移す前に頓挫した。本人に真意を問おうにも会うことは許されない。さて、どうする? どうしたい?」
「……僕はカテリナと――」
「いやいやちょっと待ってください!」
フランクはアダムの言葉を遮る。
「こんな注目を集めた場所でこの話をするのはまずいでしょう。彼女は今この街で、いやこの国で一番注目されている女性です。様々な諜報機関も街の中には紛れ込んでいるでしょうし、そんな彼女のことをこんなあけっぴろな所でするのは……」
二人は周囲の様子を確認すると、自分たちがどれだけ注目を集めているかを理解したようでフランクの意見に同意した。
「ではどこで我々は語り合ったらよいのだ、同志よ。諜報機関などと言ってしまったらどこであろうと安心して語らえぬではないか」
「私に一つ当てがあります。そこがどこかはここでは言えませんが、秘密が守れる場所である事は確かです。あったばかりの私を信用しろとは言えませんが、アダムさんがこのような状況に陥っている原因の一つに私がなっていることに心から申し訳なく思っているのは本当です。何かできる事があるのなら協力したいとも思っています」
フランクは深々と頭を下げた。
「や、やめてください。ますます注目を浴びてしまいますよ」
「そうだぞ、同志よ。我々がここでこのように集ったのもこれまた何かの縁だ。アダムの物語は終わっていないし、我々の物語はこれからが本番だ。私はこの街に詳しくないし、アダムと彼女が深い仲だったのならアダムの家も張られている可能性がある。つまり、我々は君に着いて行くしかないのだよ、フランク。遠慮なく道案内をしてくれたまえ」
フランクはこの二人を信用していなかった。
二人が何者であるかの見当すらついていなかったが、アダムについては最初から何か違和感があったし、ヘルトにいたっては怪しさ以外のものを感じられなかった。
だが、こうも考えていた。
旅芸人を装ってカテリナに近づくのは難しい。それをアダムなら何かのきっかけになるかもしれないし、ヴェネトリアンの道案内も欲しかった。そして、またPPPに狙われた場合やシャルの国防省が自分を消そうとした場合、近くにヘルトを連れているのは悪くない予防策となる。ヘルトが一般人であろうと、他の何かであろうと、このように目立つ男がいると手を出しにくくなるのは間違いないだろう。
「アダムとやらに一つ聞きたい」
フランクが頭を上げるとミゼリーが喋りだした。
「君のやろうとしている事はこの国を揺るがす大事件になるかもしれぬ。多くの者を巻き込み不幸にするかも知れぬし、幸福にするかも知れぬ。今、彼女と関わるとはそういうことだ。君にその覚悟はあるのか?」
アダムは戸惑ったような表情をして、ヘルトの方へと顔を向ける。
しかし、それにはヘルトも真剣な顔をして頷きを返すだけだった。
「……僕には国のことや他の人がどうなるかなんて事を考えることは出来ません。ただカテリナを救ってやりたいんです」
「彼女は救いなんて求めてないかもしれないが?」
「それでも今悲しい彼女を見るのは嫌なんです」
「悲しい顔をしていようが今後君がその顔を直に見る事はないと思うが?」
ミゼリーはアダムを追い込んでいくように覚悟を求める。
「……僕が……僕が一緒に居たいだけなのかもしれません……でも、それが僕の確かな意思です」
その言葉にヘルトは拍手を送った。
「十分だ。十分だよ、同志よ。君に意思がありその通りに行動するならば、君に他の者など関係ない。他の者が君の意思に抵抗したいのならばその者も自らの意思をもって行動すればよいだけの話だ。そうだろう?」
演説のようなヘルトの言葉に周囲からも拍手が上がり、ヘルトは丁寧な三方礼をしてみせた。
そして、ヘルトはアダムを立ち上がらせる。
「さぁ行こう。君の終着駅を求めて!」
このまま消えてしまいたい衝動に駆られながら、フランクは二人の袖を引っ張り群集の中から連れ出すのでいっぱいだった。
*****
三人はシャルの隠れ家に着いた。
勝手に二人を連れてきた事に何かしらのアクションがあるとフランクは予想していたが、予想と違いすんなりと部屋まで入って来られた。
「ここはどこですか?」
アダムが部屋の中を見回りながら尋ねる。
「国防省の管理する建物ですよ」
フランクは正直答えた。
「同士よ。君は国防省の人間なのか!?」
ヘルトが驚く。
「いえ。私はただの腹話術師ですよ」
そう答え、カテリナ嬢と出会ったことにより、PPPに襲われたがシャルに助けられ国防省に保護されたことを説明した。
もちろん国防省の思惑については話さなかった。
「へー。良かったじゃないか。PPPと言ったら狂信者の集まりなのだろう? ああいう連中がいると法王庁も迷惑だろうな。せっかくの布教活動も説得力がなくなってしまう」
「そんなことよりカテリナはPPPに狙われているんですか!?」
「狙われたのはフランクだ。そして、もしかするとアダム、君も狙われるかもしれないな。連中はこの街のお姫様の騎士にでもなったつもりなんだろう。婚約の邪魔になりそうな輩は片っ端から排除する。そういうことだろう? 同志よ」
「そういうことです。つまり私たちがカテリナ嬢とアダムさんの駆け落ちを成功させるのに最大の障害は警備や警察でなくPPPということになります。まぁ、私たちのような旅芸人には警察や警備ですら難関ですがね」
アダムはよろよろと後ずさりそのままソファーに座り込む。
「……駄目じゃないですか……絶対無理だ……子どもの悪戯じゃないんですよ……もう終わりだ……何も出来ず、カテリナとも逢えず、このまま僕は死んでいくんだ……」
「そんなに悲観するな同志よ。君には世界一の手品師がついている」
「ふざけないでください! 手品師なんかに何が出来るんですか!? どうせ他人事なんでしょう。惨めな男の叶わぬ恋を一歩引いたところから見て楽しんでいるだけなんでしょう!」
アダムは頭を抱え俯いたまま怒鳴った。
「手品師に何が出来るか? ハハハ。何が出来るかだって!? ……何が出来る?」
「ん……そうですね……私たちが何をするかによります。アダムさん。何をするかを決める前に何も出来ないと決めて嘆くのはやめましょう」
「僕とカテリナを駆け落ちさせてくれるんじゃないんですか?」
「まぁ、最終的には――」
「ファイナルデェスティニーだ。同志よ」
「……ファイナルデェスティニーはそうですが、その過程を話し合う間に何が出来るか見えてきますし、そうすればきっと……」
「……きっと……?」
アダムが救いを求めるような目でフランクを見上げてくる。
「……ハッピーになれる、と思います」
どう転ぼうがそうはなれそうもないとフランクは思った。
失敗すれば言わずもがな、成功したとしても一生何かに追われているという感覚から逃れることは出来ないだろう。
それでもカテリナ嬢を連れ出し婚約を破談させるためにはアダムの協力は不可欠に思えたのでそう言うしかなかった。
「……そう思うかい、ヘルト?」
「もちろんだ。君こそ彼女のヒーローなのだから」
3
三人がカテリナ救出作戦について語り合っていると日も落ち、街は藍色のカーテンをかけた。
おおよその役割分担は済んだ。
行動は今日の深夜。まずフランクとヘルトが小島へと架かる四つの橋のうち二つで騒ぎを起こす。
「騒ぎと言っても平和的にだ。我等は旅芸人なのだから」
警備がヘルトとフランクのいる二つの橋へと集まってくる隙を窺って、アダムが屋敷へと忍び込む。
「でも、カテリナが拒否したら……?」
「その時は素直に諦めろ、同志よ。君は彼女の運命の人じゃなかったって事だ。だが、時として人は『相手のために』という耳障りは悪いが口当たりのいい言葉で嘘を吐く。駄目できない。無理行けない。ここまではまだ押せる。ただこう言われたら大人しく引き下がるべきだな」
「どう言われたら?」
「『行かない』と言われたらだ。つまり、君のためでも誰のためでもなく、自分のために自分の意思を通そうとした時、君は彼女の意思を尊重すべきだ。そうだろう、同志よ?」
意思など関係なく、フランクとしてはアダムにカテリナを連れ出してもらわなければ困るが一般的な意見としては同意しておいた。
しかし、仮にカテリナを連れ出すことに成功したとしても三人には大きな問題があった。
三人は私用船など当然所有してないため、いくら救出作戦が成功しようと朝まで街から出られなかった。
「さて同志たちよ。事がうまく運んだとしても悠々と逃げ切れるわけではないだろう。警備も追って来るし、PPPに至ってはお姫様の婚約を守るために、我等の命など虫けら同然のようにひねり潰しにくるだろう。いくらアダムとカテリナ嬢がこの街の路地に詳しかろうと徒歩ではこの街から出られない。我等には一つピースが欠けている」
ここで三人の作戦会議は停滞してしまう。
「アダム、君には船を貸してくれる友達はいないのか?」
「……そんな友達がいたら見ず知らずのあなた方の力なんか借りませんよ……」
「小型櫂船を借りるというのはどうだ? こんな危険な事に貸し切るのはかなりの金が必要になるだろうが、金が全てのこの国では金さえ出せば貸してくれると思うが?」
「……そんな金持ちなら、商工会長邸への出入り禁止命令なんて出ませんよ。金さえあればなんだって叶うんですから……」
金銭的不自由はフランクには無かったが、勝手に加わってきたヘルトは別としてこれ以上一般人を巻き込むのは気が進まなかった。
アダムは悲劇の主人公を気取っている三流役者のように落ち込み、ヘルトは何を考えているか分からない表情で室内を見回す。
フランクは入口のドアを凝視した。
この部屋の中が監視されているだろうことは分かっていたし、ここでの会話の内容もおそらく知られている。
行動を起こすためには船が必要でそれを今用意出来るのはこの部屋の外にいる人間だけだ。
時間を無駄にする事は無い。
そう語りかけるようにフランクはドアの向こうへと視線を送り続ける。
ままならぬ状況にアダムが発狂しようかというその時、ドアは開いた。
「こんばんは。そろそろあたしの出番かしら?」
シャルの入室にアダムは何か声を上げようとしたが、シャルは人差し指を自分の唇の前に立てそれを制す。
またも裸のような格好を見せびらかしながらヘルトの前に立つと、蛇のような視線を這わす。
ヘルトも負けじとニヤニヤとしながら舐めまわすような視線をシャルへと這わした。
「貴女が国防省の……お役人らしくないお姿だ……」
「先入観は人を殺すわよ。この場合の人というのは貴方のことだけど」
「殺して欲しいものだね。私はヘルト=シャルフリヒター。君は?」
「私はシャルロット=ハインリヒ。お察しの通り国防省のお役人よ。……あなたはアダム=ジョンソンね?」
「え? どうし――」
「カテリナ嬢のお屋敷に出入り禁止になってるくらいの有名人を知らないと答える方が難しいわ。フランク、なかなか目の付け所がいいじゃない」
「目を付けていたなら先に教えて欲しかったですね」
「どうしてあたしが貴方に彼の存在を教えなければならないの? あたし、貴方に何か頼んだかしら? 貴方が勝手に彼のお手伝いをしたいと思っただけでしょう。違う? そして、そんな貴方たちに感動した私は国防省とは関係なく船を提供しましょうという話をしたいだけなんだけど」
ぬけぬけと何を言っているんだとフランクは思ったが表情には出さない。
アダムは自分を取り巻く状況の変化についていけないのか、ぽかりと口を開けたまま動けないでいる。
「ふふん」
ヘルトの方は何かしらに気づいたのか、そう鼻で笑って頷いていた。
「それでアダムさんはこの街から出てカテリナ嬢とどこに行きたいのかしら?」
シャルの質問は尤もであった。
国家の大事に関わる人物を連れ出して、国内に匿うのは難しい。かと言って、どこか国外に亡命させたところで外交問題に発展しかねないため、おそらくどの国も公には受け入れを拒否するだろう。
つまり、街から出たところで行くところなどない。
シャルが言っていたように、逃げた後の二人はメディアに露出し世論に訴えかけるしかない。
それは国論を二分して長い戦いになるだろう。
だが、当人たちにその意思がなければ戦い抜くことは厳しく、人々の心を動かすことも難しい。
アダムはこの大切な質問に、特に考える事もなく、
「誰も僕らを知らない場所でのんびりと二人で暮らしたいです」
と答えた。
フランクは呆れてしまったが、他の二人も同じような感想を抱いたらしい表情をしていた。
冷静にそんな場所はないと教えてやることも可能だったが、フランクはカテリナさえ連れ出せば、後の婚約を破談させる仕事はシャルのものだったため黙っている。
そもそもこんな事は本来の仕事から全く関係ないもので早く終わらせたかった。
「なるほど。きっとシャルロットさんがうまくやってくれますよ」
フランクはそう言ってシャルへ視線を送ると、アダムもシャルの手を取って何度も頭を下げていた。
「では同志たちよ。私は割り当てられた任務を果たすのに少々準備をしてくる。アダムも何かと荷物が必要だろう? 一旦ここでおひらきとして、また作戦実行前に集まるのはどうだろうか? 何時にする?」
「一時でいいんじゃないかしら。あたしも船を用意しなければならないし、逃亡先も考えなきゃいけないから……二人で大丈夫? 国防省の人間を警護に付けましょうか?」
シャルがヘルトに答えた。
「いえ、あまり目立つような事はしたくない。狙ってくるとしたらPPPだ。わざわざ我等の背後に国防省がいることを喧伝する事もあるまい」
「……それもそうね。では、集合は一時。市民広場にしましょう」
頷くとヘルトはアダムを連れて出て行った。
「警護を付けなくていいんですか?」
「……あの男、何者?」
「手品師ですよ。かなり腕のいい。なんか縁があるみたいで、私がこの街についた時にも偶然同じ船だったんですよ」
「へーそう……じゃあ、あたしは船を手配してくるわ。貴方は警備を引き付ける方法でも考えてなさい」
シャルもそう言うと何か不満そうに扉を強く閉じた。
*****
普段あまり人と話すことのないフランクは頬骨の辺りを指マッサージしながらソファーへと腰掛ける。
尾行による疲れももちろんあったが、ひくつく顔の筋肉が疲労の大半が顔面に集中していることを教えていた。
「随分とおとなしかったじゃないか。コミュニティー障害の私をもっと気遣ってくれてもいいんだよ」
「無駄にエネルギーを使いたくないし、自分の出る幕くらいは理解しているさ。それでこんなどうでもいいことに巻き込まれて、アンタは何をしているんだい。とても正気とは思えないね」
なんとくアダムにあった違和感につられてこのような現状になってしまったが、フランクにもこれが正気でないことは解っていた。
目立たず目立つ者を消す人間をそっと監視する立場であるのに、今やこの国で一番注目を集めている人間に直接関わろうしている。
おそらくフランクがこの件に関わらなくとも、国防省や内務省はカテリナの婚約を解消させるために動くだろう。
カテリナやアダムの意思など無視して、彼らの得意で最も効率の良い方法を使って。
それを酷い事だと思うし、二人を可哀想だとも思う。
しかし、フランクは別に二人に感情移入しているわけではなかった。
親身になって考えどうにかしてやりたいと思ったわけではなかった。
揺れた感情の度合いは人それぞれで言い表すのは難しいが、それは例えるなら雨の日に箱に入れられた捨て猫を見つけた程度のものだった。同じ光景を幼い子どもが見たのであれば、その子は真剣に猫を救ってやりたいと思うのだろうが、すでに成人した男性が雨の日に猫を見たところで感情はそれほど揺れ動かない。自分の懐事情や環境が整っていれば拾うだろうし、そうでなければ悪いと思いながらも次の通りすがりに託すだけのこと。
未来が見えてしまうのだ。
予言者や占い師でなくとも、それくらいの未来は常人なら見えてしまう。
アダムとカテリナの事についても同じ事が言えた。
二人にはどうしたって明るい未来は待っていない。
アダムはカテリナを忘れてしまった方が平穏な日々を送れるし、カテリナは政略結婚とはいえ次期法王庁の幹部と結ばれた方がアダムのようななよなよした男と結ばれるより五十年後に幸せだったと言えるだろう。
「まぁ、その通りだよ、ミゼリー。私自身も何故こんな状況になっているか良くわからないよ。どうして警備を引き付ける方法を考えなくちゃいけないんだと思っているよ。だが、仕方ないじゃないか。気が進まなくても協力しなきゃ国防省に何されるかわからないのだから」
「仕方ないって範疇を超えていると思うがね。あんな傷心ボーイと関わる必要はなかったし、ましてや怪しげな手品師に粘着されるなんて馬鹿げているだろう。アンタの仕事は国家に関わることなのに、一般人の痴情のもつれに首を突っ込んで」
「解っているよ。私だって乗り気じゃなし……本当に何故だかわからないんだ」
フランクは頭を抱えて苦悩したりしなかった。
自分で自分のやっている事と感情の間に矛盾を感じているのだが、その原因が解らないためまったくしっくりこない。
だが、遣り方を変えようとか逃げ出してしまおうとかも思わなかった。
「おいおいフランキー。いくらアンタが巻き込まれ型人間で、お人よしの断り下手だとしても、仕事とプライベートは分けてくれよ。そうしなければ壊れてしまうよ? 周りのモノもアンタ自身も」
「ああ、それも解っているつもりだよ。本当に君は非常識な存在なのに常識的な意見をいつも言ってくれるね。とても感謝しているが、やると決めた事はやるんだ」
「自分で理由も解らないのにやると決めちゃったのかい? 狂ってる。本当に狂ってる。それが人間と言うものだなんて言うんじゃないよ? 矛盾を孕んだ自分を受け入れ、肯定して、それでも進んでいくだなんて青春ぶった言い回しは遠慮願いたいね。アンタは自分を解っちゃいないんだ。これはとてもおかしなことだよ。これはとてもおかしなことなんだ。真面目に正面から向き合えば解るはずだろう? それをしないのはアンタが本当は答えを知っていて、ただそれから逃げているだけじゃないか。そんな臆病でチキン野郎のくせに周りを巻き込んで壊してしまってもいいだなんて……本当に――」
「呆れてしまうかい? だけど、この件についてはもう同意を求めてはいないんだよ、ミゼリー。あと君に求めるのは協力だ」
「最低だな、アンタは。精神陵辱男だな」
「それでも君は協力するしかない」
「……クソッタレ……」
ミゼリーはとても小さな音量で、しかしはっきりとその五音を発声した。
その音を聞いてフランクは微笑み、ミゼリーの頭をなでる。
柔らかいと思った。
頭、頬、耳、顎、唇、鼻、目、それぞれを虫眼鏡で見るようにそれだけで見れば人間にしか思えない精巧な人形。
人間的な思考を持ち、人間的な嗜好を持つのに人形であるという事から逃れられない人形。
存在自体が憐れで不憫な人形に、そんな言葉を使わせた自分に多少の落胆はあるものの、結局は道具として使ってしまう人間。
「……君は協力するんだよ、ミゼリー……」
フランクはそう言って目を瞑る。
「……」
ミゼリーは体内時計を調節し、約束の時間に間に合うようにセットすると停止した。