③
3
現代に生きる人々は併合した国家の中で
多くのものを失っていた
民族としてのアイデンティティー
人種によるアイデンティティー
属する宗教によるアイデンティティー
人々は違いを失った
それは国家間にも適用され、そこに差異はなかった
あと二百年もすれば国家と言う概念は消え去ると信じられていた
――三十年前までは
(現世界の風景)
1
フランクはミゼリーを胸に抱き、市民広場に着いた。
深夜だというのに多くの人々が集まっていた。
そこでは昼間商工会長邸周辺で見たようなやり取りが繰り返されていた。
フランク人ごみをかき分けアダムたちの姿を探す。
「彼らはいったいいつ寝るんだろうね。自分の商売もあるだろうに……今夜この論争も全く関係のない者の手によって終止符を打たれると知らずに……」
ミゼリーに向けて発した言葉もまだ不貞腐れているのが返事はない。
「……ちゃんと起こしてくれたじゃないか。そんなにつれない態度をとるものじゃないよ。私たちは運命共同体なのだから……」
それでもミゼリーはフランクの胸に顔をつけ黙っているので、フランクも人探しに集中することにした。
アダムたちは市民広場の北側にある船着場で待っていた。
アダムは大きなリュックを背負い、両手にもそれぞれバッグを握っている。
一見すると何の準備していないように見えるヘルトが手を振る。
「時間通りだな、同志よ」
シャルは小型櫂船の上でいつでも出発できる事をアピールする。
「揃ったわね。じゃあ作戦を確認するわよ。まずこの小型櫂船で貴方たちを会長邸南の橋の架かるビルに降ろすわ。ヘルトはそこから西へ、フランクは東へ移動して警備を集める。警備が集まったらアダムは会長邸に潜入、カテリナを連れ出したら徒歩でここまで逃げてくる。いい?」
アダムがシャルへ質問する。
「ここまで歩いて戻ってくるんですか? 近くで待っていて貰えたらその方が早いのでは?」
「まずは徒歩で逃げるのよ。小島から船で逃げたら、すぐに船で追われるでしょう? 追っ手を私船から離して時間を稼ぐの。それに貴方の説得がどれくい時間かかるかわからない状況で、周囲に船を着けておくのは危険よ。その荷物は船においていけばいいわ」
「なるほど。さすがですね」
何を以ってさすがと言っているのかは不明だが、誰が一番この計画を甘く考えているかは明らかになった。
アダムが荷物を船に積むのに合わせて、フランクとヘルトも乗り込む。
「それで私と彼はアダムさんが逃げた後、どうすればいいんですか?」
フランクの問いにシャルは不機嫌な顔をして答える。
「……勝手にすれば? 別に一緒に逃げる必要はないでしょう? あたしとしても一緒に逃がす必要性を感じないし。警備やPPPに捕まったとして国防省の名前を出すの? そんなことしても助からないし、国防省としても助けないわよ?」
とても酷い言い草だが、至極真っ当な意見でもあった。
PPPに捕まって国防省の名前を出せば百分率を無視して120%消されるだろうし、警備に捕まって国防省の名前を出せば、フランクの立場としては内務省に迷惑をかける上に話をややこしくする。
しかし、フランクにとってはそうだが、ヘルトに対しては少々可哀想である。
ヘルトへ同情の眼差しを送ると、ヘルトは笑って手を上げた。
「心配するな、同志よ。手品師の得意技はなんだと思っている。突然何も無いところから物を出す事ではないぞ。その逆だ。物を隠す事、それが手品師の手品師たる所以だ。何の仕掛けもなく物を出すのが得意なのは手品師ではなく魔法使いだ。自分の身くらい自分で隠せるさ」
そう言うとヘルトはシャルへも声をかける。
「問題ない。それぞれがそれぞれの役割を計画通りにこなせば全て上手くいく」
「ええ。その通りね。物分りが良くてたすかるわ。各々全力を尽くしましょう。まずは貴方たちが警備を引き付けること、それが成功への第一歩よ」
「任せておけ」
ヘルトの返事にシャルは頷くと、小型櫂船を漕ぎ始めた。
暗い水の上、明かりを消した小型櫂船が闇の中へと溶けていく。
*****
会長邸南の橋の架かるビルは、静かなものだった。
「とても常識的で現実的だな、この街の人間は」
ヘルトが皮肉たっぷりに呟く。
このように人の眠る場所で騒げば訴訟になりうるが、周りに民家のない広場では思う存分騒げると言うわけだ。
主義や主張があろうとそれによって己の利益を害する事はやらないし、主義や主張がなかろうとそれによって己が利益を得るのならば声高に叫ぶ。
「しかし、そもそもデモという行為自体がこの街の人たちには似つかわしくないと思いますけどね。あんな風に集まって叫んだって何も変わらないでしょう?」
フランクは当初から思っていたことを口にした。
新聞にこの婚約の記事が載り、連日デモが起こっているい事を記されようと、いまいち興味が持てなかった理由はそこにあった。
フランクは普段を英雄の資料に囲まれて過ごしているのだ。
何かが変わる時、何かが変わらない時、その違いを嫌と言うほど目にしてきた。
「そうだな。何かを変えるのはアダムのように実行に移せる者の力だ」
フランクの言葉で泣きそうになっていたアダムの背中をポンと一叩きしながらヘルトが勇気づける。
フランクもいちいち面倒くさい男だなと思いながらも、アダムの背中を叩いた。
「自信を持ってください。彼女にとっても一大決心を促すんですから。しかし、危険なことは私たちが引き受けます。あなたは彼女を連れて市民広場へ行くだけでいいんですよ」
アダムの震える唇がフランクを不安にさせるが、それは夜の寒さのせいだと自分を騙す。
しかし、それは成功しなかった。そもそも自分を騙すことが得意ならば、こんな事に首を突っ込んでいないのだ。
フランクやヘルトがいくら警備をうまく引き寄せようと、アダムがカテリナを連れ出さなければ徒労に終わる。
任務の主役がアダムである以上、放っておいて自分の役割だけを果たそうとするわけないもいかない。
いつまでもイジイジと俯きながら何かを呟いている姿を見ると、殴りつけたい衝動に駆られた。
そして、その衝動を抑える理由も見つからないので怒りに身を任せることにした。
だが、フランクは拳を振り下ろせなかった。
それどころか振り上げもしていなかった。
背筋が凍るような寒気に襲われていた。
それは首の付け根、脳幹の辺りまで一気に上がってきた。
「どうした、同志よ?」
フランクは自分がどのような表情をしているのかもわからない。
ヘルトが覗き込んでくる顔を見ると、おそらく非常に険しい表情でもしていたのだろう。
急に思い至ったのだ。
自分が失敗者として史料室に並べられる未来を――。
「どうもしないよ、ヘルト。ちょっと顔芸の練習をしていただけなのだよ。さあ、こちらは準備万端だ。アダム、気楽に行こうじゃないか。君はカテリナと一緒にいたい。それだけだろう?ただそれだけの希望を叶えるだけだ。何も深刻に考える必要はないよ。愛した人と一緒にいたい。至極真っ当な願望だ。遠慮することはない」
ヘルトに答え、アダムに易しい言葉をかけたのはミゼリーだった。
「さぁ行こうか、ヘルト。持ち場まで十分ほどかかる。アダムはその間に心を整えればいい。潜入して連れて出てくるまでは三十分程かな? 余裕を持って一時間の演目を披露することにしよう……あれ、脚がうまく動かないな……あ、そうか意識を本体に集中して――」
どこにそんな力があるのだろうかという程の力で、ミゼリーの小さな手がフランクの胸を殴りつけた。
フランクは思わずよろけてしまう。
「いててて……」
それを見てアダムとヘルトが笑い声をあげた。
「ふむ。もしかすると警備員は私の橋の方にばかり集まってくるのではないかと心配していたが、同志よ。君もなかなかに優秀な芸人のようだな。いい勝負になりそうだ。では、行こう。成功しても失敗してももう逢う事はないかも知れぬが、楽しきワンナイトショウの幕開けだ」
そう言うとヘルトは闇の中へと姿を消した。
「――!?」
驚くアダムにフランクも手をあげると自分の脚で歩き出した。
*****
フランクが持ち場に着くと、そこには警備員が二人橋の前に立っていた。
橋の向こうにも警備員の姿が三人程見える。
まずはあちらの三人もこちらに向かわせなかければならない。
そこからさらに騒ぎを大きくして他の橋の警備員も引き寄せる必要がある。
普通に似非腹話術をやっても無理だろうと思っていた。
しかし、目立たち過ぎず目立つような方法を考えつくことは出来なかった。
「やぁ、深夜の警備ご苦労様です」
フランクは出来るだけ明るい口調で気軽さをアピールして話しかけたが逆効果のようだった。
警備員たちはフランクに不審がり、固い表情を作った。
「あっ、別に怪しい者ではないんです。橋を通行したいわけでもないですし」
「だったら、さっさと帰れ」
警備の一人が取り付く島も無いことを言う。
「いえね、いつもご苦労な警備さんたちに私の催しを観て貰いたく」
「自分の脚で帰れないのなら手を貸してやろうか?」
手を貸すと言っても、家まで送るのではなく、明らかにその場で眠らせてしまおうという事はフランクにも感じ取れた。
「いえいえ……それには及びません。ホント、少しだけでいいので観て貰えませんかね? いや私、今日は太陽広場でやっていたんですが全く人が集まらなくて……自信喪失ですよ。これでも地元では有名な腹話術師としてやっていたんですが……」
フランクは思いつく限りの言葉を紡ぐ。
自分の家は貧しく出稼ぎに来ている。この街で成功しなければ故郷の兄弟たちが飢えてしまう。何とか飢えを凌いだとしても、この稼ぎでは学校にも行かせられず、負の連鎖が続くだけだと。
真実の一欠けらも入っていない作り話に涙を流す。
しかし、警備員の反応は冷ややかなものだった。
「そんな奴この街にはゴロゴロいるさ。俺たちは暇そうに見えるからと言って、実際夜間警備なんてものは眠いし暇なんだが、それでもお前に付き合ってやる意味なんか無いだろう? 人情なんてものを期待するなら来る街を間違えたな」
「お前が一流の芸人で、一流の芸人が俺たちに無料で慰労公演をしてくれる――それだったら俺たちもお前の芸を観ただろう。だが、そうじゃなかった」
「芸には自信があります!」
「さっき無いと言ったじゃないか」
改めて実感させられるこの街の人々の人間性であった。
この二人はフランクが何を言おうとも、もうフランクに興味を持つ事は無いだろう。
フランクはミゼリーの背中に手を入れる。
「やめろ。やめろ。俺たちは観ないと言っただろう。そんなに披露したけりゃ金を払え。お前の練習を手伝ってやるのだから当然だろう?」
警備員がそう言うのでフランクは素直に金を渡した。
二人の警備員は驚いて顔を見合わせる。
そこでフランクは気付いた。
「あの、ちょっと準備があるんで待っていてくださいね」
橋から影になっている建物の角へと移動する。
「……ミゼリー。思ったんだが賄賂を渡せばうまく行くんじゃないか?」
「……そこに気付いてしまったかい、フランキー」
「でも、いくらくらいあれば良いかな」
「夜間警備は日当で八千から一万だろうね」
「だったら、一人一万五千と考えて、見えてる範囲にいる五人プラス隣の橋の警備員五人として合わせて……十五万くらいか。そんなに高くないね」
「……アンタは本当に下衆野郎だな。だが、人さえ集めれば良いんだから実際には金を払わなくても良いんじゃないか?」
「……なるほど。君も負けず劣らずだね……」
フランクは警備員のもとへと戻り、人を集めて欲しいと頼む。
「一人一万五千でどうでしょう?」
警備員は渋い顔をした。
「……いや、俺たちは良いんだが、あっちの三人は日雇い警備じゃなくて警察なんだ」
こんな深夜に公務員である警察がまともに働いていることに驚くばかりのフランクであったが、それならばと思い切って提案してみた。
「ならば、もう芸を観てくれとは頼みません。貴方たちと隣の橋の警備員の方で警察を眠らせちゃってくれませんか?」
どうせ怪しまれているのなら、いっそ味方に引き入れてしまえばいい。他の土地ならば、味方に引き入れるのが難しいのだが、この街では金が全てを解決してくれるのだ。身分さえ隠していれば、金持ちである事を隠す必要はない。
「……お前何者だ? 何をしようとしている」
警備員が警備員らしいことを言った。
だが、その表情は尋問をするような厳しいものではなく、驚きと怖れの入り混じったもので、警備員らしくはなかった。
質問にはミゼリーが答える。
「君たちが知りたいのはそのような事ではないだろう? さぁ、本当に聞きたい事を尋ねたらどうだ?」
二人の警備員はフランクから離れ、ひそひそと話しすぐに戻ってきた。
「俺たちが不審者を捕まえれば特別褒章で三万は貰えるんだが?」
「一人二十万出そう。それくらいあれば他の街に逃げてまたやり直すにも十分だろう?」
ミゼリーは即答した。
「本当か?」
フランクは財布や靴、ミゼリーの服の下から札束を出した。
「……いいだろう。仲間を集めるために時間が必要だが大丈夫か?」
「三十分以内に頼む」
ミゼリーの返事に警備員たちは難しい顔をしたが、やってみると了承し、二手に分かれて隣の橋へと走り出した。
「一人二十万は高すぎやしないか、ミゼリー?」
「金で解決できる事に無駄な労力を使う事もあるまい?」
「まぁ、うまくいったからいいけど……国民に申し訳ないよ……」
「アンタが公務員ってだけで申し訳ないさ。それにそれほどうまくもいってないようだよ」
橋の向こうを指差すミゼリーに促されて目を向けると、三人の警察が橋を渡ってきている。
どうやら警備員が持ち場を離れてしまった事で不審に思ったようだった。
「これにはどう対処する、ミゼリー?」
「対処のしようが無いね。もういっそ逃げてしまえばいいんじゃないかい?」
ミゼリーの言うとおり、フランクがここで逃げてしまえば警備も警察もフランクの方へと注意を向けるので任務は成功と言える。
「逃げ切れる自信がないけど?」
「それが問題だ」
警察たちは今の所警戒しているためか、ゆっくりと前後左右に注意を払いながら近づいてきているが、フランクが逃げ出せば全力で走って追ってくるだろう。
このような深夜に真面目に勤務する警察だ。フランクの軽口が通用するとも思えなかった。
「やだねぇ。同じ省員なのにこれほどまで意識が違うと、自分の方がおかしいんじゃないかと思ってしまうよ」
「一般国民的にはアンタの方がおかしいのさ。残念ながら公務員の常識ではないけどね」
警察は橋の半分を越えて来た。
「橋を落とすようなビームが――」
「出ないね」
くだらない事を言っている場合ではないが、そのような事しか口からでない。
その時――。
橋の向こう。
会長邸のさらに向こう。
ヘルトのいるはずの橋の方から大きな歓声がおきた。
喚声といった方が良いのかもしれない。
橋を渡っていた警察もその方向へと顔を向ける。
何かを伝えようとする大きな声は、左右へとわかれ、すぐに島全体へと広がっていく。
警察は声の方へと向かうか、フランクの方へと来るか迷っていたようだが、来た道を引き返し、騒がしいし島へと戻っていった。
「ヘルトが何かしたんだろうけど、この騒ぎはなんだ? やりすぎだろう」
ミゼリーは黙っている。
しばらく様子をみていると、広がっていった叫び声や怒声がまたヘルトのいる西の橋へと集まっていく。
「さて、どうする、フランキー?」
任務としては十分に役目を果たしていたが、フランクはアダムの事が心配になった。
目の前に広がる無人の橋と同じような光景がアダムの前にも広がっているはずだが、果たして彼は橋を渡ってカテリナのところまで行けるのか。それを確認せずこのまま姿を消せば安全ではあるが、それでは何のために危険を冒したのかがわからない。
「仕事は最後まで見守らなきゃ」
「その言葉は公務の時に聞きたいものだね」
フランクは橋を渡る。
防風林に囲まれた白亜の城が闇夜の中にライトアップもされていないのに月明かりだけで輝く。
「これは前時代の遺物を公邸に使っているわけじゃないんだろう? いや、個人宅が島に一軒という自体でおかしいとは思っていたけど、個人所有でこんなものが建てられるなんて」
随分と分かり易く自己主張しているものだ。
フランクはそう思った。
しかし、これくらいの事をしなければ、この街を牛耳る商工会長など務まらないのだろうとも思った。
「こんなお城を建てるなら、警備員にも金を払ってやればいいのに」
「あれは素人用の警備だろう? 玄人に備えては警察に金を払っているんだろう。ただ、何が起きているかわからないがそれも無駄になっているわけだが」
未だに騒ぎの収まらない西に目を向けると、ランプの明かり右往左往している。
警察も混乱しているのか、口にしている言葉がどうもはっきりしない。
大きな声を上げて指示をだしたり、状況の説明をしたりしてはいるが具体的なことで共通しているのは一つだけだった。
『橋が消えた』
フランクは思い出す。
『心配するな、同志よ。手品師の得意技はなんだと思っている。突然何も無いところから物を出す事ではないぞ。その逆だ。物を隠す事、それが手品師の手品師たる所以だ。何の仕掛けもなく物を出すのが得意なのは手品師ではなく魔法使いだ。自分の身くらい自分で隠せるさ』
ヘルトの言葉だった。
本当に橋が消えているのなら、フランクも一目見てみたかったが、一つ懸念があった。
「……もしかすると、アダムは橋を渡れないのかもしれない……」
「そうだね。西の橋が消えてしまえば、警察は北と南の橋を渡って対岸へ渡ろうとするだろうからね。じゃあアンタが代わりにお嬢様を連れ出しに行くかい?」
それには抵抗があった。
脇役という事で積極的に関わってきたが、カテリナを連れ出すという主役の任を果たすのは躊躇われる。
同じ事件に関わっている時点で、そんな事は瑣末な問題と思われるかもしれないが、フランクにとっては全く意味合いが違う。
「おい、フランキー。さんざん公務員であることから逸脱してきたのにここでそれを気にするのかい?」
「君は止めると思ったんだがね。ここで私が失敗しようと成功しようと、後にこの事件が国の方向性を決めようものなら名前が載るのは私だよ? そんな事が許されるのかい?」
「名前を残した公務員なんて歴史上いくらでもいるだろうさ」
「私はそんな事恥ずかしくて出来ないね」
「決めるのはアンタじゃない。未来の歴史家だよ。それにアンタはどれだけ止めてもやると決めたはずじゃないか。それを今更やめる? そうかい。じゃあ勝手にすればいい。でも、アンタはやめるにも協力がいるんだろう? 人間なのに一人で何も出来ず、人形の協力がいちいち必要なんだろう? あぁ、協力してやるさ。大声でも出せばアンタは捕まって、はいさようなら。それが望みなんだろう?」
「おい、ミゼリー。すでに声が大きいよ」
興奮というものが人形にあるのかは定かではないが、ミゼリーを抱くフランクの胸は熱を持っているように感じた。
「少し落ち着いておくれよ。私にはどうしてこの件に関して君がそれほど熱くなるかわからないな」
「熱くなんてなっていないさ。こちらには感情なんてないのだからね。もしあったとしても、それでアンタに何かを訴えられるわけでもない」
フランクは泣き叫ぶ幼児をあやすようにミゼリーを上下にゆする。
「君は私を止めたいのかい? それとも続けさせたいのかい?」
「意思なんてないのさ。ただ、ものの道理を説いているだけなんだから。アンタの好きなようにやればいい」
ここでままごとを続けているわけにもいかないので、フランクは決断をしなければならない。
東の橋へ引き返し、このまま何事もなかったように本来の任務に戻るのは簡単だ。
この街に滞在しなければならないといっても、この事件の関係者に近づかなければこれだけ人の出入りの激しい街の中では見つかる事も無いだろう。
しかし、カテリナとぶつかってからの一連の流れにフランクは奇妙な縁を感じていた。
特別な第六感が働いたわけでもなく、人間として当たり前の奇妙な縁に対する責任という奴なのかもしれない。
一期一会であろうと関わった人間に不幸な思いをさせたくない。
フランクはそう思っていた。
「……では、好きにやらせてもらおう。協力してくれるね」
城の東側から入れそうな場所を探す。
すぐに使用人が使っているであろう勝手口を見つけ中をのぞく。
中は洗濯場になっており、そこを抜けると料理場があった。
騒ぎのせいで誰も居らず、易々と侵入に成功した。
「さて、お姫様の部屋はどこかな?」
広いダイニングルームから廊下に出ると、二階から声が聞こえる。
声はおそらく警察のもので、住人に部屋から出ないように説明しているようだった。
階段をドタドタと上下している足音がいくつも聴こえてくる。
「正面からは難しそうだね?」
フランクは身を潜めながら屋敷の奥へと向かい、正面階段の他に二階へと上がる術を探す。
廊下の突き当りを曲がると大きな扉があった。
「構造上、屋敷の一番奥にある大きな扉というのは主人の部屋だと思うのだけど」
胸に抱かれるミゼリーは何も答えない。
「一応さっきから独り言を言っているつもりはないんだけど。どうせ協力してくれるなら楽しくやるべきだと思うんだ。私たちは運命共同体なのだから」
「……じゃあ言わせて貰うが、正面階段以外に二階へと上がる道なんてないと思うね。構造上」
「どうして?」
「エントランスフロアにある階段以外に何の意図があって階段を作るんだい?」
「脱出用とか」
「脱出用の階段があったとしてもアンタに見つかるほど建築家も馬鹿じゃないだろう」
「そんなにとげとげしい言葉をわざわざ選んで使う意味があるのかい? で、それならどうすればいい?」
「他に道がないんだから、正面から行くしかないだろう」
「あんなに警察か出入りしているのに?」
「……アンタ野球は知っているかい?」
「観戦に行ったことはないけど、ルールくらいは知っているよ」
「じゃあ、アンタはさっきの料理場に戻ってバットになりそうなものを見つけて素振りの練習でもしているんだね」
「……暴力的だね。私の好みじゃないけど、こういう状況では仕方ないとしよう。でも、獲物を引き付ける役が君というのがちょっとね」
ミゼリーはフランクの手から逃れ、廊下に立つとよちよちと歩く。
「不意打ち以外の方法でアンタに警察を伸せるのかい? それに気を失えば、人形が動いてたなんてのは夢幻となってしまうさ」
「そんなよちよち歩きでうまくおびき寄せる事ができるのかい?」
「ビームは出せないし、武器を隠し持っているわけでもないが、実は百万パワーがあったりすのだよ」
そういうとミゼリーは笑うように片目を閉じた後、一跳びで長い廊下の端まで行ってしまった。
「……おいおい、そんな力があるのなら、私がバットのようなものを素振りする必要なんかないんじゃないか? それに、昨日PPPの奴らに殴られていたのも助けられたんじゃ……」
ミゼリーが廊下の角を曲がり見えなくなったので、フランクは料理場へと向かってバットのようなものを探した。
*****
頭部を強打され気を失った不幸な警察官の着衣に、フランクは身を包む。
ミゼリーがどのようにしておびき寄せたかはフランクには分からなかったが、計画通りに料理場へと来た警察官は未知の恐怖に怯えながら夢の中へと誘われただろう。
ミゼリーを抱き、カテリナ嬢の私室へと向かう。
置いていこうとも思ったが、カテリナがフランクの顔を忘れている可能性もあるので連れて行くことにした。
エントランスホールの大階段で幾人かの警察官とすれ違うが、外の状況が変化しているのか人形を抱いた見知らぬ同僚に構う暇はないようだった。
「あの一番出入りの激しい部屋かな?」
「どう考えてもあそこは商工会長マッテオ=ベントーラの部屋だろう。お嬢様の部屋は……おい、フランキー。その角を右だ。今、使用人の姿が見えた」
ミゼリーの言うとおり角を曲がると、左右に二つ扉がある。
「どっちだい?」
「そんなの知らないよ。建築家じゃないからね。別に間違えたところで命をとられるわけじゃないんだからどっちでもいいだろう」
フランクは建物の奥にあたる左の扉を開く。
中には窓から外を覗くカテリナの姿があった。
「なんですか!? 突然入って――貴方は……」
「やぁ私ミゼリーよろしくね」
カテリナは驚きと戸惑いを混ぜ合わせたような表情でフランクの方へと駆け寄ってきた。
そして声を潜める。
「……どうしてこんな所に……?」
「まぁ、事情は色々とあるんですが、簡単に言うと貴女を誘拐に参りました」
「誘拐?」
「えぇ。アダム=ジョンソンという方をご存知ですか?」
「アダム!? アダムとお知り合いなのですか!」
「そうです。彼に頼まれて貴女を誘拐に来たのです。時間もありませんし、早く一緒に来ていただけませんか?」
フランクがカテリナの腕に手を伸ばそうとすると、彼女は身体を捻りそれを拒んだ。
「……この騒ぎは貴方が起こしたのですか?」
「正確には私ではないですが……まぁ、そうですね。アダムとその仲間たちによる仕業である事には間違いありません」
「こんな事をして……彼は何と言っていました?」
「誰も自分たちのことを知らない場所で貴女と二人で過ごしたい……と。そんな事を言っていましたよ。貴女さえいれば彼は他がどうなろうと構わないようでした。それが彼の愛なのでしょう」
カテリナは押し黙りテラスへと向かう。
「彼と一緒に行かないのですか?」
「……どうせ逃げ切れるわけがないのです。私が行かず彼一人ならば追手もそれほど激しくはないでしょう。彼に伝えてください。私は行けません」
「では、さっさと行きましょうか」
カテリナが今度は驚きと軽い怒り、それに軽蔑と隠し味に呆れを混ぜ合わせた表情をした。
「私の言葉を聴いていませんでしたか? それとも理解できないのかしら?」
「聞いていましたし、理解もしているつもりですが」
「私の言葉が旧イタリア訛りだから馬鹿にしていらっしゃるのね」
カテリナからの怒りをかわすようにフランクはミゼリーへと話しかける。
「私は国語の教師ではないので授業をする気にならないのだが、どうすれば彼女に理解させる事ができるかな?」
「私の嫌いなことを教えてやろう。例えば面白い体験をしたとして、その話を何度もする人間がいるだろう? 同じ人間に何度も話すのは聞かされる方が迷惑だ。これは間違いないね? だが私は違う相手にだろうと何度も同じ言葉を繰り返すのは嫌いなんだ。だってそんなのは面倒くさいし、なんだか恥ずかしいだろう。一度目は面白い体験を他の人間と共有したいという願望だが、二度目以降は自分の話を広めたいという虚栄心と予想する反応を相手が返してくれるという自己満足じゃないか。と言う事で、アンタが私の言葉を借りたいと言うのなら貸してやらない事もないが、勝手にしてくれ」
「そんなにだらだらと喋るのはなんだかクールじゃないよ、ミゼリー」
一人と一体の会話を聞いていたカテリナが怒気を強めて質す。
「……初めにぶつかった時から計画の内だったのですか? 偶然を装って先回りをしていたのですか?」
カテリナの心の防壁が上がっていくのをフランクは感じる。
「それは誤解です、カテリナ嬢。この顔の痣、貴女と関わったお陰で私はPPPに命を狙われたのですよ。それでもここに来たのは、貴女とアダムさんの幸せを願ってです」
「……PPP? どうして貴方がPPPに狙われるのですか?」
「御自分の立場が分かっていらっしゃらないようですね。PPPは法王庁お抱えの秘密結社です。当然、貴女が法王庁次期幹部と結婚する事を望んでいる。私はそれを妨害しようとする人間だと思われたのでしょうね……今となってはそれも勘違いではなくなってしまいましたが。つまり、アダムさんはPPPに狙われるリスクを負ってでも貴女とともに行きたいと行動を起こしたのです。その覚悟も理解せず悲劇のヒロインぶるのはやめてもらいものです」
「……そんな危険なことなら尚更行けません。確かに私はアダムを愛しています。しかし、愛とはお互いを思い遣ることでしょう」
「愛だとか恋だとかそんな哲学を聞いているわけではないんです。貴女がどうしたいかを聞いているだけなんですよ」
「だから私は――」
カテリナがフランクへと詰め寄ろうとすると、胸のミゼリーがカテリナの頬をぽよんと殴った。柔らかく握られた拳はカテリナに全くダメージを与えられなかったが、彼女を驚かせるには十分だった。
「うるさい小娘だね。外の騒ぎが聞こえないのかい? あんた達の糞みたいなメロドラマにこんなに多くの人間が巻き込まれてるんだ。これを収めるには二つしかないのさ。アンタが消えるか、アダムが消えるか。でも、アダムとかいう小僧は諦めるつもりなんて全くなさそうだったけどね。ずっと迷っていたよ。ずっと怖がっていたよ。震えて最後までどうするか迷ってた。それでもアンタを奪いに来たのさ。国家権力も秘密結社も敵にまわしてね。こう考えているんじゃないか? もし失敗してここで捕まって――いや、死んでも悔いはないってね。で、アンタは死んだアダムを想ってこう想うんだろう『あぁアダム。私のせいで死んじゃって……わ~ん』その通りさ。アンタのせいで死ぬんだ。アンタのせいで愛した男は死ぬんだ。彼の望みを叶えるチャンスはあったのに……愛とは何かね? 涙に暮れる悲劇のヒロインを演じることかね? それとも、愚かな求愛者と駆け落ちする勇気あるが馬鹿な姫君を演じることかね?」
「……でも……」
カテリナは搾り出すように言った。
彼女の不安はフランクにも分かる。
どちらを演じようと幕の間に捕まるか、幕の降りた後に捕まるか、その違いしかないのかもしれない。
その逆にどちらの場合も逃げ切れる可能性はある。
二人の物理的距離に開きはあるが。
今度は拳を開き、ミゼリーがカテリナの頬を撫でる。
「アンタがフランキーにキャサリンと名乗ったのは何故だい? どこにも行けないと諦めておきながらも、それでもカテリナではない別の人間に成りたかったからじゃないのかい?」
カテリナは顔を上げ涙の溜まった瞳でミゼリーを見つめる。
「……本当に生きているみたいに喋る人形ですね……」
2
フランクたちは屋敷から出た。
カテリナの先導に従い、防風林に沿って南西へと向かう。
警察や警備員は西側の河岸に集まっているのだが、その視線は橋の架かっていた水路へと向いているため、フランクたちに気がつく者はいなかった。
「東の橋から逃げないんですか?」
フランクが声を潜めて何度か同じ事を尋ねたが、カテリナは唇の前で指を立てるだけで答えず、辺りに注意を払いながら足早に進むだけだった。
二人(と一体)が小島の西南端につくと、対岸の様子もわかった。
幾つかの松明が右へ左へと忙しなく動いている。
何かがおかしい、フランクはそう思ったが、カテリナがそこに繋いであった小船に乗り込むよう指示を出すので、小島から脱出する事を優先してその違和感を口に出さなかった。
フランクは櫂を手に、これから先の計画を説明した。
フランクが語り終えるまで黙って聴いていたカテリナは、頷くと月明かりでは分かりづらい苦笑をした。
「……とてもロマンチックとは言えない現実的な計画ですね……自由を得るのは何年後になるかしら……」
フランクは答えなかった。
ミゼリーも口を挟むことはなかった。
黙ってシャルの待つ船着場へと向かう事を選択する。
慰めも、励ましも、気休めも必要がなかった。
カテリナの言うとおりであるし、自由を得る確証も無い。
そんな事は計画に関わる全員が共有して分かっていることだ。
それが分かっていながら『それでも――』に賭けているのだ。
それにフランクとミゼリーにとっては仕事の九割方は終わっていた。
仕事と言っても本業ではなく副業のサービスみたいなもので、その上リップサービスまでしてやる奉仕の精神はさすがのフランクにもなかった。
後は無事に届けるだけ。
それだけに集中してフランクは船を漕ぐ。
カテリナの案内もあり、船はシャルの待つ船着場へと迷うことなく着く。
「あら、お姫様だけ?」
シャルがカテリナへと手を伸ばす。
カテリナはシャルの船へと乗り移った。
「貴女が国防省のシャルロットさんですね。ご協力ありがとうございます……それで、アダムはどこに?」
「どう言う事なの、フランク?」
「まぁ、色々と手違いというものは起きるものですよ。私はてっきりこちらに戻ってきていると思ったのですがね……」
「あたしとしてはお姫様だけで十分だけど。でも、それじゃあお姫様は納得しないだろうから少しだけ待ちましょう……あれ、貴方もこっちに乗るの?」
フランクもシャルの船へと乗り移ろうとするとそんな事を言われる。
「乗りかかった船ですから」
「その巧いこと言ったなぁって顔やめなさい。そんな事より、つけられてはないでしょうね?」
「まぁ、私なんかが気付ける範囲では」
それもおかしいと思っていた。
屋敷のある小島は騒がしかった。PPPもその騒ぎの中で怪しい人間に目を光らせていたはずだ。それなのにカテリナを追って来る者をフランクは気が付けなかった。もしかするとミゼリーは察知しているのかもしれないが、何も言ってこないということは危険はないのだろう。
フランクはシャルに尋ねる。
「ところで広場にあんなにいた人々はどうしたのですか?」
あれほど騒がしかった人々も今は見当たらない。
「さぁ……貴方たちを降ろして、あたしがこっちに戻って来た時にはもういなかったわ。さすがに夜も遅いしもう帰って寝てるんじゃないのかしら」
確かにあと二時間もすれば日の昇る時間である。こんな時間まで集まっているのもまたおかしな話だ。
しかし、フランクはなんとなくもやもやとしたものを胸の中に抱えてしまう。
計画と少々異なってしまったとはいえ、アダムさえ戻ってくれば辻褄はあう。何もかもがうまく行き過ぎていることに不安を覚えるのだ。
「……あの、国防省の方々にアダムの捜索を御願いできないのでしょうか?」
カテリナがシャルにすがるように頼む。
「この街から逃げ切れたら国防省も手を貸すだろうけど、逃げ切るまでは自己責任よ。私は出世のために協力しているけどね」
カテリナは手を組み祈るように瞳を閉じた。
「ヴェネトリアンなのに神を信じているの?」
シャルが言わなくてもいい皮肉を言った。
信仰心などなくても、こんな時は祈ってもよいだろう。自分の不安を取り除き、愛する者の無事を心配して。神様には迷惑かも知れないが、どうせ神様は物理的に何かをしてくれるわけでもないし、気休め程度に使われることを由としなければ存在意義などないじゃないか。
フランクはそんな事を考えていた。
だが、実際に助けてくれるシャルを無視して、神に真剣に祈るような人間を視界に入れるのも不快だったのでフランクはカテリナに話しかけた。
「ところでアダムさんとの馴れ初めはどんなものだったんですか? 新聞には婚約相手とは幼馴染のように書いてましたし、そうすると三人とも幼い頃からの知り合いなのですか?」
カテリナは祈りを中断させた。
「私と婚約者についての新聞記事は全部デタラメです。彼とは数年前から何度も食事をともにした事はありますが、それも今回の婚約のための布石で、二人きりで会った事もなければ世間話すらしたことはありません。彼にとって私はモノなのです」
「政略結婚なんだからそりゃそうでしょう。そんなに鼻息荒くする必要もないじゃない。お姫様だって別の男とロマンスを楽しんでいるんだから」
シャルは心底馬鹿にしたような口調でカテリナに言った。
「言い過ぎですよ。いいじゃないですか、皆が皆物分りの良い優等生になってしまったら、世の中はつまらないものになってしまいますから」
「自分をモノのように扱われて不満を覚えるのは、自分が組織の中に組み込まれた事のないお子ちゃまだけよ。自分の恵まれた境遇も知らずに糞みたいに不満を垂れ流して。あたしの船でそんな事は許さないわ」
「子どもには子どもの感じ方ってものがあるんですよ。それは大人になると失われてしまうかけがえの無いものなんです。かわいいと思って許してやらないと、逆にシャルさんの方が子どもっぽく思われてしまいますよ」
「……フランクさん。貴方も私を馬鹿にしているんですね……」
カテリナの傷ついた少女のような言い回しにシャルが鼻で笑う。
「馬鹿にするというわけじゃないんですよ。子どもには子どもの対応を、大人には大人の対応をしているだけです」
シャルが声をあげて笑う。
「そんな大笑いして見つかるじゃないですか! ……二人の馴れ初めを聞きたかっただけなのにどうしてこんな事に……」
肩を落とすフランクにカテリナも笑って口を開く。
「そうでしたね。私も余計な事を言ってしまいました。アダムとは一年程前にこの街で出逢ったのです。ちょうど婚約が決まろうかという頃でした。私が落ち込んで街を彷徨っていた時に昨日の――もう一昨日かしら――フランクさんと同じように回廊でばったり」
「ぶつかって何か落としました?」
「いえ。あの時はあの人も職を失ったばかりで元気がありませんでしたから、あんなに勢いよくぶつかったりはしませんでしたよ」
懐かしそうに思い出しながらカテリナは微笑む。
「出逢って一年で駆け落ちなんて、随分とお手軽な人生ね」
また突っ掛かるシャルにカテリナは優しく答えた。
「運命的な出会いに時間は関係ありませんわ」
「神は信じないくせに運命は信じるんだ?」
「信じるのは己の意思です」
どこかで聴いたような言葉だったが、それを思い出すと恥ずかしさまで蘇ってくるので封印する事にした。
だが、それは無理だった。
「そう! 信じるのは己の意思!」
声の方に視線をやると、ヘルトとアダムが立っていた。
「お嬢さん。物の道理が分かってらっしゃる。朝まで語らいを楽しみたいところだが時間がない。同志よ、アダムはこの通り無事連れてきた。私はまだする事があるので先に行ってくれ」
ヘルトがアダムの背中を押し、船に乗り込ませる。
「アダム!」
「……カテリナ」
感動的に抱き合う二人。
フランクはそんなものに目を向けたくなかったのでヘルトに尋ねた。
「一緒に行かないんですか?」
「私は旅芸人だ。まだまだこの街で稼がなくてはいけないのでな。それにこれ以上一緒にいたとしても私にできる事はないだろう。ここでお別れだ。しっかりアダムを守ってやってくれ、同志よ。では!」
ヘルトは文字通り消える。
焦っているような様子は感じられなかったが、何か急いでいる事は確かなようだった。
「追っ手がきているのかもしれないわね。これ以上ここに留まる理由もないし、船を出すわよ。フランク、降りるなら今よ?」
シャルの眼光が鋭かったため一瞬たじろぐが、ここで降ろされてもPPPから身を守る術がないので、街から出て身の安全を確保するまでは乗せてもらうことにした。
3
東の空の藍色が白みがかってきた。
フランクたちを乗せた船は幅のあるヴェネトロスの主水路を進んでいる。
小さな水路の方が追っ手に見つからないという利点はあったが、シャルの小型櫂船は帆も装備していたため小回りよりも船足を優先させていたためそちらを利用した。
それに深夜でも主水路ならば人目がありPPPも襲いづらいだろうという考えもあった。
港に近づいてきたので、シャルは速度を落とすために帆をたたむ。
「……何か変ね……普段ならもう船舶が往来していてもおかしくないのに……」
シャルが辺りの様子を窺いながらそう言った。
フランクもそれは感じていた。
隣で呑気にイチャつく二人に嫌気がさしていたので、シャルの側へと立つ。
「全てがうまく行き過ぎていますね。PPPも追ってきませんでしたし」
シャルは何か考えるようにフランクを見つめる。
「……まぁ、逆に都合がいいか……」
「そうですね」
シャルはカテリナたちのいる船尾へと向かう。
フランクも船首から辺りの様子を一確認してついて行く。
都合の良いことに不満はない。むしろ感謝すべきだ。だが、フランクは何かを成すに当たって何の代償も払わないことに慣れていなかった。職業病と言うべきか、何事にもまず疑ってかかることが癖になっていた。
この件が片付き、本来の任務を果たした後は少し休養を取ろう。
そんな事を考える。
しかし、そうすると安穏とした余生を送るのが遅くなってしまう。
バイオリンも買えないし、レッスン代も払えない。
悩ましいところだった。
不意にドタドタと物音が聞こえ船尾に顔を向ける。
音は船尾から左舷へと移動していて視線を移すと、アダムが床を這うように船首へと向かっていて、それをシャルが追っていた。
もう一度アダムの方を見ると目が合いアダムが叫ぶ。
「助けてください!」
アダムはシャルに船首へと追い詰められていく。
「何をしているんです?」
「必要なのはお嬢様だけなの。だから、他の人間は邪魔なだけ」
シャルは先ほどまでと変わらない口調で答えた。
「確かに、カテリナ嬢さえ隠してしまえば、婚約は破談になりますし、国防省としてはそれで良いかもしれませんが――だからって、そんな……ナイフを持って追い回すこと無いでしょう」
静かな水路にシャルの高笑いが響く。
「ねぇ、フランク。貴方、自分は安全だとでも思っているの? この男の後は貴方よ。そりゃそうでしょう。こんな国家を揺るがす事件に巻き込まれたんだもの、舌を抜くか殺すしかないでしょう。あぁ、ごめん。舌を抜いたらどうせ死んじゃうから、結局殺す以外の選択肢はなかったわ。だから言ったじゃない。降りるなら今よって」
簡単な算数の計算問題を解説するように、シャルはフランクたちを殺すための道理を説く。
「私たちを殺したとしてもヘルトさんがいます。彼なら計画通りアダムさんとカテリナ嬢が公に声明ださなかったら訴えますよ?」
「旅芸人一人が何を吠えようと公務員はそんなに暇じゃないでしょう。それに彼の事はPPPが追ってるから大丈夫よ」
「……PPPが追っていて何故大丈夫なんですか。彼がPPPに捕まり、国防省と貴女の名前が出れば、法王庁と国防省の争いになりますよ」
「それもいいんじゃない?」
「軍と国内最大の私兵集団の争いですよ? 正気じゃない。それがどういう結果をもたらすか公務員なら分かるでしょう」
「だって、あたし公務員じゃないもの」
シャルは呆れたように息を漏らし、言葉を続ける。
「だって、あたしPPPだし。争いごとだ~い好き」
「……貴女がPPP……?」
「本当なら信仰心のないあのお姫様どころかヴェネトリアンを皆殺しにしたいところだけど、この街に信者を増やす方があたしの信仰心を神に示せるでしょう? だから殺さない。あぁなんてあたしは――マーベラス。そして貴方はストゥーピッド。本当に気付かなかったの? PPPに追われていた貴方を突然現れた国防省の人間が助けるなんて、それなんてヒーロー戦隊? 無理だから。そんな登場無理だから。あたしがPPPでグルだから、あんな格好良い救出劇が演じられたのよ?」
フランクはミゼリーに囁く。
「……気付いてた?」
「だから、最初から関わるなと言っただろ? 命に関わるとも言ったかな?」
「……これから忠告するときは理由もはっきりと明言してくれるとありがたいね」
「次があればね」
「君の百万パワーでどうにか出来ないかな?」
「残念ながら人に向けて発揮できないようにプログラミングされている」
「……直接でなくても船を転覆させたり……」
「人に害を与えることは出来ないのだよ。だから、バッドのようなもので殴らせたのもアンタにさせたし、そもそも殴れとは言っていないだろ? 素振りをしていろと言っただけだ」
「……まったく君の思慮深さには頭が下がるね。肝心な事を言い逃すきらいがあるけど」
ぶつぶつと言っているフランクにシャルが口を開く。
「お人形ちゃんと最後の会話を楽しんでおきなよ。もう口が利けなくなるんだから。あと、水路に飛び込んでも無駄よ。両岸にはPPPがしっかりと配置されているから」
フランクには確認出来なかったが、水の冷たさを身をもって知っている者としては水に飛び込む気にはなれなかった。
「じゃあ、アダム=ジョンソンといったかな? 貴方の名前は歴史に刻まれる事なく消えていくけど、残念がらないでね。まぁ、心配しなくても、そんなありきたりな名前ならいずれきっと同姓同名の別の人間が残してくれるわよ、その名前をね」
シャルは安っぽいサスペンス演劇のようにナイフをアダムの首に当て余裕をかましたりしない。アダムやフランクから不意の反撃があった場合に備えられる距離をとっている。
迂闊に動く事が出来ないフランクは視界の端にカテリナを捕らえた。
彼女はゆっくりとシャルの背後へと忍び寄っている。
不意打ちであろうと武器も持たないカテリナがシャルに何か出来るとは思えなかったので、フランクはなんとか眉を動かし彼女に思いとどまらせようとする。
だが、薄暗い船上でそんな事をしてもカテリナに伝わるわけがなく、彼女はフランクの方に注意も払っていないので、ただの顔面体操をしている人間でしかなかった。
シャルとの距離が一跳びになり、カテリナは止まる。
「ナイフを下ろしなさい」
まさかの声掛けだった。
フランクは心で舌打ちし、何故不意打ちをしないと毒づいた。
しかし、カテリナの行動によりシャルの注意が分散されたことは確かなのでしばらく様子を見ることにした。
シャルは身体をフランクの方へと向け、今度は三人を視界の中へと入れる。
「どういうシナプスの繋がり方で命令口調になっているのか分からないのだけど?」
シャルは手を広げるしぐさをしただけで、構えは解かない。
それに構わずカテリナはシャルの前を通りアダムの下へと歩き出す。
「ナイフを貸しなさい」
「嫌よ。二人で心中でもされたら堪らないもの」
「そんな事はしません。ナイフを貸しなさい。代わりにこれを預けますから。これなら私がナイフで自分を突き刺すより速く腕でも肩でも撃ち抜けるでしょう?」
カテリナはスカートを捲り、太ももに隠し持っていた銃をシャルへと渡す。
「どうしてそんな物を――というか、そんな物があるならどうして使わないんですか」
何かしらの隙を突こうと思っていたフランクもそう言わざるを得なかった。
「これでこの方を撃ったとしても、別の誰かがまた私たちを狙うでしょう。有益な方法とは思えません」
「そんな事言いながら暴発でもするように仕掛けてあるんじゃないでしょうね?」
「護身用の銃にそんな細工をしてあると思いますか?」
「よくある話よ? 貴女みたいなまともに銃も使えないお嬢様が銃を取り出したところで、すぐに悪漢に奪われるっていうのは。それを計算して貴女に銃を持たせた人間は暴発するように細工する」
「では、私が先に撃ってみましょう」
カテリナは水面に向かって引き鉄を引く。
乾いた音と水面が弾ける音がほぼ同時に耳をうつ。
「もう一発――いえ、もう二発撃ってもらいましょう」
言われた通りカテリナは水面に向けてもう二発撃った。
「これでいいかしら?」
白煙の上がる銃をカテリナはシャルへと渡す。
「……それでこのナイフで何をするつもり? 人に奪われるくらいなら愛する人の命さえ自分のものにしてしまうってこと? そんなロマンチックな事をしてくれるの?」
「ナイフを渡しなさい」
質問には答えず、カテリナは手を差し出す。
シャルはカテリナの顔と手を交互に眺め、考えているようだった。
「……妙だね……」
ミゼリーがフランクにぎりぎり聴こえるくらいの声量で呟いた。
「……まともな事なんてあったかい……」
フランクも可能な限り声量を落として言った。
「……確かに死ぬつもりやあたしを殺すつもりならこれでやってただろうし、お嬢様にナイフを貸したところであたしに不利益になるようなことは何もないでしょう……でも、嫌。任務の最終段階において不確定要素を持ち込ませるのは小者のやることよ」
全くその通りだ。
闇組織の人間は物語を面白くする必要などないのだ。
相手がシャルの言う小者なら付け入る隙もあっただろうが、相手が本物の場合フランクには成す術がない。
お手上げ状態だった。
フランクはこのまま人知れず消される運命を甘受しなければならない事を覚悟した。
だが、カテリナはそうではなかった。
シャルの持つナイフの刃を左手で握りこむ。
「こちらに渡しなさい」
指の隙間から滴るものがフランクにも見える。
「指を切り落とすわよ?」
「どうぞ……」
シャルは一気にナイフを引く。
血しぶきが上がるわけではなかったが、フランクはカテリナの痛みを想像して背筋が痙攣するような感覚を得る。
「それじゃ指は落ちないわ」
カテリナは手のひらを広げシャルへと差し出す。
「……分かったわよ。何がしたいの」
渡されたナイフをカテリナは右手に持ち替える。そして、シャルに背を向けアダムの方へと近寄っていく。
「カ、カテリナ……何をする気なんだ?」
アダムが恐怖で震える声を出す。
「アダム。私と一緒に居たいですか?」
「あぁ、もちろんだよ、カテリナ。君と一緒に居るために僕はこんな事をしてしまったんだから。君と一緒に入れないなら死んだ方がマシだ」
シャルが銃を構える。
「安っぽいロマンスを観るためにナイフを渡したつもりはないのよ。やるならさっさとやりなさい。で、なければあたしがやるわ。さっきよりずっと安全にやれるんだから」
「……アダム。ありがとう。でも、死んだ方がいいなんて言わないで。死んでしまったら一緒にはいられないわ」
カテリナはアダムの側まで来ると、船首を背にシャルの方を振り返った。そして、船べりに左手を掛ける。
「なな、何をする気だい、カテリナ!」
「今すぐその左手を船べりから離しなさい!」
カテリナが水路へ飛び込むと思ったのだろう。アダムとシャルが慌てて声をあげた。
だが、カテリナの取った行動はそうではなかった。
「これが私の答えです」
カテリナは左手に自らナイフを突き立てる。
少なくとも距離のあるフランクにはそう見えた。
今度は派手に血しぶきが上がる。
「――カテリナ!?」
ゆっくりとアダムに向き直るカテリナは指が一つ欠けた手の甲を船のランプに照らした。
そして宣言する。
「これで私は永遠に誰のもとへも行けません。それでも法王庁が商工会と近づくために私を利用するのなら、今後法王庁の教義はこう罵られるでしょう『傷物の教え』と。この街は商人の街で、私は商人の娘です。独立独歩の精神を守るためなら売れるものは売りましょう。利用できるものは利用しましょう。しかし、誰かの利益のために己を売る事はしません。それがヴェネトロスの――商人の娘です」
愕然としてフランクは口を開けなかった。おそらく他の二人も同じ思いだったのだろう。
どうしてそこまでするのか理解できなかった。
カテリナは愛のない政略結婚をさせられるとはいえ、それは相手も同じだ。ならば、形式上婚姻をしていても、アダムとの時間は作れるはずだ。
それは元々そこにあった純粋な愛に背徳感が混じり、筆舌に尽くしがたい甘美なものとなるだろう。
そんなものを求めていないとしても、左手の薬指を切り落としてまで拒絶する理由はないはずだ。
フランクはそう思ったが、一方でこうも思った。
全ての理屈を超越してしまう感情に名前をつけるとしたら、それが愛なのかもしれない、と。
理屈の上では馬鹿馬鹿しい茶番だと理解しておきながらも、目の前で現実として見せられると心が動かずにはいられなかった。
今、目の前にいる彼女はどの五体満足な人間より美しく完璧で完全に見えた。
パチパチパチパチ――。
パチパチパチパチ――。
パチパチパチパチ――。
パチパチパチパチ――。
拍手が降り注ぐ。
頭の上から降ってきたようで、まるで空から舞ってきたように船へと音の粒が降り積もる。
水路に並ぶ視界の中の家々に端から端まで明かりがついていく。
そして声が聞こえた。
「レディース&ジェントルメン。ようこそ今宵の催しに。私、今回の公演を主催させていただいた興行主、ウォルター=ハップスでございます」
声は明らかにヘルト=シャルフリヒターのものだった。
フランクは岸を見るが、いつの間にか人々がたくさん立ち居並んでおり、しかも逆光となっているため誰が誰だか区別がつかない。
「主役を演じたお嬢様。ヴェネトリアンのお姫様。恋する乙女、夢見る少女……どれも正しくどれも間違ってはいないがそのような言葉では物足りない。彼女の結婚に賛成の方々も反対の方々も、彼女の覚悟は認めるところでしょう。この娘がいる限り商人の町ヴェネトロスはその独立性を保てるであろう。そのような彼女に最もふさわしい肩書きとはなんなのか……そう。英雄だ。この街を二分する論争に終止符を打ち、商人としての矜持をヴェネトリアンに限らず全ての商人に思い起こさせた。彼女を英雄と言わず何と言おう!」
歓声と先ほどの柔らかな拍手とは違い激しく興奮した拍手の雨が降る。
フランクは鼓動が速くなるのを感じる。
何かファンタジー世界に立っているような、どこか違う世界に飛ばされたような感覚がひどく不安にさせる。
陶酔と高揚のみの空間に、恐怖に似た感情が襲ってくる。
シャルを見ると激しくうろたえた表情をして、握った銃の照準をどこに合わせてよいか分からないかのように震わせている。
周囲に集まった人々は拍手や思い思いの歓声では足りないのか、カテリナの名を合唱しゆっくりと進む船についてくる。
とてつもない場違い感がフランクを恥ずかしくさせ、どこかに逃げ出したい衝動に駆られる。
しかし、どこにも逃げられる場所はなく、高まっていくカテリナコールになす術なく立ち尽くす。
そしてコールはこれ以上ない程の絶頂へと至る。
世界はカテリナという名前で満ちた。
カテリナという名前を持つ者を欠いて。
気持ち悪いほどに調和の取れた影絵の中で一つの影が何の前触れもなく倒れこんだ。
その場にいた全ての者が息を呑み、一瞬にして静寂が広がる。
フランクは倒れたカテリナの下へと駆け寄りながら、指を切り落とした事によるショックか出血によるものだと思った。
だが、そうではなかった。
頭を撃ち抜かれていた。
人々のコールで銃声がかき消されていたのだ。
フランクはシャルを睨む。
「あ、あたしじゃないぞ……」
確かに銃口から先ほどのように白煙は上がっていない。
カテリナへと視線を戻す。
撃ち抜かれたのが胸などであれば愛する者への最後の言葉でも吐けたのだろうが、頭を撃ち抜かれたカテリナは自分が死んだ理由も分からぬくらいの即死で間違いなかった。
アダムはカテリナの側へ寄ることすらできないようで、細かく首を振りながらうずくまったままだ。
フランクは立ち上がり、船上から周囲を見回す。
異常を察知した人々がざわつきだす。
そこへまたウォルター=ハップスを名乗った声が響く。
「英雄となる芽は摘み取らねば」
英雄を――摘む?
耳慣れた言葉だった。
しかし、その言葉は決して一般人から耳にする事はない。
フランクとミゼリーの会話の中でしか出てこないフレーズだ。
ウォルター=ハップスは内務省国家安全保全局の人間だ。経歴が黒く消されていたのはそのためだ。
それは分かった。
だが、フランクの下へ資料が回ってきたという事は、ウォルター=ハップスは英雄候補でもある。
それは分からなかった。
彼のどこに英雄の要素があるのか。
ミゼリーによれば英雄の定義はこうだ。
『その個人で超人的な事が出来ずとも、人々に影響を与え世界を変える事が出来る者だ。変える世界が正しかろうと間違っていようと、それは後世の者が判断することであって、現代に生きる人々がその変革を自分の意思として望ませることの出来る者』
今まさにカテリナという英雄によって、人々は影響を与えられ導かれようとしていた。
人々はカテリナに触れ、自分たちの意思を持ってヴェネトロスの独立独歩を守ろうとしていた。
その旗頭を失ってしまっては、人々はどうすればよいのか分からなくなる。
ウォルター=ハップスによって一瞬は静まり返った周囲もまたざわめき始めた。
泣き声もあれば怒声や罵声もある。
あれだけ統一されていた人々の精神はばらばらになっていた。
整然と行進するように船について来ていたのに、今は立ち止まり座り込む者も現れ思い思いに自己の感情を吐露している。
船が港へと入るゲートをくぐる。
そのゲートの上に彼は立っていた。
「一人の英雄はいらない。一人の英雄に群がる群集もいらない。これからは彼ら全てが英雄となる。見ろ、あの悲しみと怒りに満ちた瞳を。彼ら全員が英雄となり世界を変えるのだ。今はまだ哀れな群集たちよ。己の中の悲しみが皮膚を貫きほとばしるのならば、悲しみのない世界を創ってみるのだな。では、また会おう。フランク=シュタイナー」
ゲートをくぐり、フランクが振り返るとその姿すでにない。
いつの間にかシャルロット=ハインリヒも姿を消しており、船上には英雄に振り回されただけの哀れな男が二人と人形が一体――そして、英雄の魂の抜け殻が一つと残るだけだった。
「……ウォルター=ハップス……」
呟いたのはアダムだった。
アダムはカテリナを抱き上げ、フランクには読み取れない感情の入り混じった複雑な表情をする。
「……引き返そう。彼女を連れて行くことは出来ない……ここが彼女のホームだから……僕も彼女なしでは街を出る意味がない……ここに残る意味もないけれど……」
「これからどうするつもりですか?」
「わからないよ……でも、今はあのゲートの向こうにいる人たちと悲しみを共有したい……」
広がる外洋には未だ朝日が昇らなかった。




