第十三話 啓一の音
〜前回のあらすじ〜
合宿は順調に進んでいく。
バーベキューをしていると
啓一の提案で、バンド名を決めることに。
様々な案が出る中、”ナギサノユラギ”に決定。
やがて取り残される香織と隆志は、思い出の焼きうどんを作りながら、懐かしい日々を語り合う。
間接キス。急接近。
お祭りデートも無事に決まり、二人の距離は徐々に縮まっていく。
バルコニーに、騒がしさが戻ってくる。
香織はまだ落ち着かない様子で、目の前に置かれたスイカを小さくつついていた。
隣では隆志が、さっきの焼きうどんの残りを懲りずに口へ運んでいる。
「……だから、ちゃんと美味いって」
「その舌一回取り替えた方がいいんじゃない?」
「ほんと可愛くねぇなお前」
いつものように言い合う二人を見ながら、南がくすくすと笑い、つまみ食いをする。
「……薄いね」
「南まで言う〜!!」
それを横目に、菫は静かにスイカの種を皿の端へ寄せていた。
「……よかったじゃん」
ぽつりと落ちたその言葉に、香織の肩がぴくりと揺れる。
「な、何が?」
「……別に」
顔を上げずに答える菫に、南が苦笑した。
「香織いいな〜。青春してるね」
「もう。やめてよゆうか」
「…お祭りのお土産話、楽しみにしてるよ」
南はわざとらしく声を潜め、
菫にも聞こえるように、香織に囁く。
「……キスの感想、お待ちしてます」
「だ、だだだ誰があんなヤツと!!」
「おいおい。何の話だ?」
「男子禁制〜」
南が和かに追い払うと、
もう一度、潮風がゆっくりとバルコニーを抜けていく。
さっきまで二人を包んでいた熱を、少しずつ冷ましていくみたいに。
香織は赤らんだ顔を覚まそうとスイカをひと口かじってから、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば——あの二人は?」
隆志もようやく気づいたように辺りを見回す。
その問いに、菫が淡々と答えた。
「……デート始めた」
「は?」
「……少ししたら戻るって」
あまりにも淡々とした言い方に、南が思わず吹き出す。
「菫、それ言い方」
「……別に間違ってない」
たしかに間違ってはいない。
けれど、その表情はどこか硬かった。
香織が、そっと菫を見る。
「……菫?」
「……別に」
小さく首を振り、スイカへ塩を振りかける。
そのとき——
遠くの廊下で、何かが軋むような音がした。
誰もまだ、それを気に留めない。
ただ波の音だけが、変わらず静かに揺れていた。
♫♫♫
コツ、コツ、と足音が鳴り響く。
久しく歩く白い大理石の床は、夜になってもほのかに明るい。
高い天井に反響する靴音が、屋敷の静けさを余計に際立たせていた。
先を歩く貴子の背中は、いつの間にかすっかり大人びて見える。
——思い出の部屋に行こう。
そう無邪気に言って、彼女は啓一をここへ連れ出した。
どんな話をされるのだろう。
少し違う空気に、思わず唾を飲んだ。
ごくり、と喉を通る音が全身に通っていく。
啓一は歩幅を少し速めると、そっとその手を取った。
貴子は驚いたように振り返ったが、何も言わない。
ただ、指先だけが小さく震えていた。
今、ここは二人きりだった。
誰にも聞かれない場所で、触れられる本音がある。
窓の外には、細い三日月。
柔らかな光が、二人の影を長く廊下に落としている。その美しさが、どうしてか少しだけ脆く見えた。
「……地下室、あんなに広かったんだな」
先に口を開いたのは啓一だった。
いつもの軽さを潜めた、低い声。
「……久しぶりだったから、私も驚いたわ」
貴子はそう言って、そっと右手に力を込める。
繋いだ手の距離が、わずかに近づいた。
けれど——
左手から伝わる小さな震えを、啓一は見逃さなかった。
「ガキの頃は、よくあの部屋でピアノの練習してたよな」
貴子は答えない。
言葉の代わりに、額にかかった銀の髪をそっと払った。
「何回か、好恵の練習で使わせてもらったことあったよな」
「あったわね。あの子が入部してすぐのときに、付きっきりで練習の面倒見てたかしら」
「そうそう!で、俺は気づいたら爆睡しちゃって」
「あんな音の中、よく眠れたわよね」
懐かしい思い出が蘇る。
それだけで、時間の流れを忘れてしまう。
「……最後の年だったのに、残念だったわね」
「…そうだな」
自分のことのように悔しがる。
気づけば目的地に着いていた。
自室から二つ隣。
伝説が始まった部屋。
練習終わりにも何度か入ろうとして、身体が止まる。
懐かしいはずなのに、
近づくほど胸の奥が冷えていく。
ドアノブに手をかけたまま、
貴子は何度か静かに息を吐いた。
そして——
ゆっくりと、扉を押し開ける。
むわり、と熱気が押し寄せた。
防音材に囲まれたその部屋は、廊下よりも少しだけ空気が重い。
貴子は無言のまま照明をつける。
柔らかな橙色の光が、部屋の奥まで静かに広がっていった。
そこは——確かに、昔のままだった。
壁には、幼い頃の写真がいくつも飾られている。
まだ背丈も低い二人が、ピアノの前で並んで笑っている写真。
発表会の日、ぎこちなく手を繋いでいる写真。
そして——
無邪気な顔で、小さなマイクに向かって歌っている貴子。
「……懐かしいな」
ぽつりと漏れた啓一の声が、防音材に吸い込まれていく。
部屋の中央には、小さな電子キーボード。
壁際にはアップライトピアノ。
その隣には、ケースを被ったまま立てかけられたアコースティックギター。
机の上に並ぶ録音機材。
高性能のコンデンサーマイク。
繋がれたオーディオインターフェース。
編集用のタブレット。
その横には、使い込まれたピアノとギターの教本。
部屋の隅には、喉を守るために置かれた小さな空気清浄機。
それらは再び使われることを待つように、静かに眠っている。
——全部、しっかり守られている。
ここが、ただの“思い出の部屋”ではないことは明らかだった。
「……そのまま残ってる」
貴子は懐かしそうに呟き、少しだけ目を伏せる。
啓一は静かにタブレットの元へ歩み寄った。
「……触ってもいいか?」
貴子は、小さく頷く。
開いたフォルダには、いくつもの音声データが並んでいた。
啓一は古いファイルを選び、そっと再生する。
小さなノイズ。息を吸う音。
その瞬間、部屋の空気が少しだけ昔へ戻った気がした。
「……これ、覚えてる?」
啓一が画面を見たまま笑う。
「最初の投稿動画。
お前、緊張しすぎて三回も録り直した」
続いて聞こえるのは、その横でギターを鳴らす自分の拙い音。
「……で、俺が勝手に映像つけてさ」
字幕。
切り替え。
少し稚拙な編集。
「……今見ると、雑だな」
そう言いながらも、どこか誇らしそうだった。
それが、“りさこわも”の始まりだった。
名前の由来は、啓一が当時ハマっていたアニメのキャラクターを繋げたものだった。
しかしなんの因果か、それは自分の名前、『さわもりきこ』を並べ替えた響きにも似ていて——いつしか彼女は、“りさこわも”として生きることに、何の違和感もなくなっていた。
トレンドに飛びつく啓一から情報を取り、人気の曲はすぐに覚えられた。
音程で躓いたときは南の元へ通い、精密に身体に馴染むまで、何度も何度も喉を鳴らした。
顔を出さないまま、歌だけで広がっていった名前。
一年にも満たない活動だったのに、その音は驚くほど遠くまで届いた。
歌番組に呼ばれ、“天才歌い手”と呼ばれた。
……でも。
「……いい動画よね」
いくつか動画を見た後、ぽつりと溢した。
その中には、未発表の動画もいくつも混ざっていた。
貴子はタブレットの画面を指でなぞる。
止まったままの時間も。
全部そこに残っている。
かつての自分は、
まだこの場所で生きている。
「……啓一くん覚えてる?」
「ん?」
「私ね」
少し笑う。
「最初の頃は、嫌だったのよ」
「は?」
「全然伸びないし。
あなたとゆうかは、お世辞でしか褒めないし」
「お世辞ってなぁ」
「だってそうじゃない」
くすりと笑う。
「渋々コメントつけてくれたのだって、
ちゃんと覚えてます!」
「自分で頼んどいてよく言うわ!」
懐かしい思い出が蘇る。
「…ちょうど去年の今日だったわよね」
「……そうだな」
そっと手を取って、微笑み合う。
そのまま二人は、
ゆっくりと口をつける。
去年、お互い初めて触れた唇。
あの頃とは違う、更に大人びた骨格。
微かにさっきまでのバーベキューでの、肉と野菜の匂いが残る。
かつての思い出の音が、
甘酸っぱい鼓動を彩っていく。
♫♫♫
「…まだ、怖いのか?」
そっと抱き寄せてから、啓一が優しく問う。
「……まだ、少しだけ」
貴子は小さく頷いた。
啓一の胸に額を預ける。
安心する。
昔から変わらない匂い。
変わらない鼓動。
大好きな人。
本当なら、それだけで十分なはずだった。
「……ねぇ」
小さく呟く。
「私、今すごく幸せなのよ」
啓一が目を細める。
「なら良かったじゃん」
そう笑う顔が、少しだけ憎らしかった。
貴子は唇を噛む。
「……でもね」
指先が震える。
「歌うたびに、どんどん苦しくなるの」
涙を拭うこともせず、貴子は啓一を見つめた。
「気丈に振る舞わないと、やっていられないのよ……!」
啓一は言葉を失う。
「……ごめん」
気づけば、それしか言えなかった。
中三の冬。
何もかもを信じられなくなり、音さえ拒んでいた彼女。
再び音楽に向き合えたのなら、もう乗り越えたのだと。
そう、勝手に思い込んでいた。
自分は何もわかっていなかった。
どれだけ抱きしめても、
彼女の痛みを代わることはできない。
せめて——今だけでもその震えを止めたくて。
「俺……何もわかってなかった。
見ないフリしてた」
貴子の目が揺れる。
「貴子が誰よりも努力してきたことはわかってる。
だからこそ悔しいよな。その気持ちは———」
「簡単に言わないでよ!!」
悲鳴のような声だった。
胸元を掴まれると、
さっき触れたばかりの唇から、
正反対の声色が飛んだ。
「なんで……そんな簡単に言えるの……?」
貴子の肩が震える。
「私ね……この合宿中、
ずっと思い出してたの」
壁に飾られた写真へ視線を向ける。
「休みの日には、一日中ここで歌ってたことも。
眠い目擦りながら練習したことも。
声が出なくて泣いたことも」
ゆっくり。
一つずつ。
大切なものを確かめるように。
「ゆうかに付き合ってもらったことも。
好恵も見えないところで動いてくれたことも。
啓一くんが無茶苦茶な企画ばっかり持ってきたことも」
少しだけ笑う。
けれどその笑みはすぐ消えた。
「……全部、全部大事だったのよ」
声が震える。
「だから余計に怖いの」
静かに俯く。
「また失うんじゃないかって」
「……ねぇ」
貴子がぽつりと呟く。
「啓一くん」
「ん?」
「好恵から聞いたのだけれど」
その瞬間。
胸の奥が嫌な音を立てた。
「少し前……叔父様と会ったそうね」
啓一の肩が、わずかに強張る。
「…それって、偶然よね?
何かの間違いよね?」
「だって啓一くんだもの。
何か、理由があるのよね?」
そう言って笑う。
だけど笑顔は弱い。
「私は、あなたを信じたいの。
違うなら、違うって言って」
真っ直ぐ視線を向けられる。
その真剣すぎる目が、少しだけ怖かった。
「……あなたも間近で見たでしょ?
あの人の本性を」
呼吸が止まる。
その表情は、さっきまでバルコニーで騒いでいた恋人のとは全くの別人だった。
「…その後だったわよね。
合宿しようって言い出したのは」
理解が追いつかない。
喉の奥が固まり、冷や汗が静かに流れていく。
貴子はたまらず、尋問を続けた。
「どうして合宿先に、この場所を提案したの?」
「……ここは、私の栄光を守るために、
パパとママが残してくれた部屋なのよ?」
「今でも思い出すのよ…。
あの人の表情を。もう一人の私の消え方を」
覚えている。
自分のことのように苦しくなる。
それなのにどうして…。
「あれだけ楽しかった日々は、
全部叔父様に奪われたのよ!!」
じわじわと、その圧で空気を抉っていく。
床に押し倒され、貴子が馬乗りになる。
「まだ仲良くしてるとは言わないわよね?
あなたの家は、接触禁止を言い渡されていない。けれど、私たちの事情は知っているはずだわよね?」
「もし、あの子たちまで、あの人の計画に巻き込むつもりなら——」
息を吸い直し、顎を掴む右手の力が強まる。
「…私はあなたを生涯許さない」
違う。
そう言えばいい。
それだけで終わる。
それなのに——
喉が動かなかった。
貴子は少しだけ手を緩め、もう一度啓一を真っ直ぐ見つめる。
「ゆうかや好恵と、一緒に乗り越えた仲間だと、私は信じてる。
…だから、何かの間違いよね…?」
けれど啓一には、
その表情が、全てに絶望したあの夜と重なる。
「…ねぇ。どうなの?啓一くん」
静かな殺意を感じた。
否定しなければ。
抱きしめなければ。
そのとき——
「——その辺にしたら」
鋭い声。
貴子は素早く手を離し、声の方を振り返る。
そこには菫が立っていた。
啓一は喉元で凝固していた息を溶かすように咳き込んで、身体を起こす。
「…菫ちゃん!あなたいつから……!?」
「……叔父様がどうのってくだりから」
最悪のタイミングだった。
扉を開け放しにしていたことに気づいたときには、何もかもが遅かった。
「……やっぱり、貴子はあの歌い手だったのね」
部屋には入らないまま、淡々と違和感をぶつけていく。
「……妙だと思ってたのよ。
あれだけ上手いのに音楽を避けてたことも、
あれだけ機材が揃ってることも、
貴子だけやたら俯瞰していたことも、
二人で不自然にどこかへ行ったことも」
「啓一がこの合宿に一番熱心だったことも」
「……安心して。誰にも言わない」
少し間を置いて、菫は続けた。
「でもさ」
怒っているというより、
どこか寂しそうだった。
「私たち、何だったんだろうね」
部屋が静まり返る。
「ずっと同じ場所を見てると思ってた」
視線は貴子へ。
そして啓一へ。
「でも、本当に大事な話は全部別の場所で進んでたんだ」
ゆっくり息を吐く。
「誰にでも言いたくないことがあるのはわかる」
それでも——と続ける。
「同じグループで活動してる以上、私たちにだって知る権利はあったと思う」
「何があったかは知らない。
でも、こうなった以上ちゃんと話してほしい」
菫は罪悪感を抱えながらも、
目の前の状況への憤りを吐き出した。
「大体さ、二人でコソコソ喧嘩するのは勝手だけど、
私たちに見られる可能性は考えなかったわけ?」
「……巻き込まないようにしてくれたのかもしれないけど、それでも何も知らされないままなのは辛いよ。
蚊帳の外にされてる身にもなってよね」
菫の声は最後まで静かだった。
だからこそ、その距離が痛かった。
啓一は自分への苛立ちを懐にしまわず、
菫へ振り下ろした。
「…さっきからなんなんだよ。
お前に関係ねぇだろ!どっか行けよ!!」
荒い呼吸が、誰もいない廊下に響き渡る。
季節外れの温度感に、全員の動きが止まった。
その長い間奏を打ち消したのは、貴子の正気のない笑い声だった。
息を漏らしたような微かな音。
その後で、貴子は再び口を開いた。
「……アンタも出ていきなさいよ」
小さな声。
「肝心なこと一つも答えられない人に、もう話すことなんかないわ!!」
貴子の叫びが、部屋を震わせる。
そのまま啓一を部屋の外へと突き飛ばし、渾身の平手打ちを披露した。
頬にクリーンヒットしたそれは、自分のベースよりも深く、どこか清々しささえ感じるほど、乾ききった音だった。
菫も一瞬困惑するも、すぐさま哀れみの眼差しを向ける。
その視線は、
問い詰めるでもなく責めるでもなく。
ただ——
信じることを、やめた目だった。
三日月が、じわじわと雲に覆われていく。
もう、さっきまでの笑い声は戻らない。
どこかで、閉め忘れた扉が静かに軋んだ。
その音だけが、
もう戻れない場所を告げていた。
バルコニーに残った三人は、
まだ何も知らずに笑っている。
室内を気にする南。
香織の側にスイカの種を除ける隆志。
変わらない態度に文句を言う香織。
それぞれが違う夜を抱えたまま——
六人の合宿は、最終日を迎える。
その日が、六人が揃った最後の日になることなど、何も知らずに。
さっきまで鳴っていた音は、
——もう、どこにもなかった。
ご覧くださりありがとうございます。
前回までとは一変、シリアス回ですね。
何気ない日常が、少しずつ壊れていく。
どうなる最終日。
合宿編。いよいよクライマックスです。
次回もお楽しみに。
夜留タクト




