第1話:森の中で、元トラック運転手は人生のやり直しを決意する
道路というものは、油断したやつから食っていく。
田島壮太は、それを嫌というほど知っていた。
信号のない交差点。
雨の日の白線。
無茶な割り込み。
寝不足の朝。
そして、ほんの一瞬の気の緩み。
どれひとつだって、人を殺すには十分だった。
だからこそ壮太は、いつも慎重だった。
「はいはい、次の荷は十時指定ね……わかってますよ!」
片耳のイヤホン越しに聞こえる事務所の声へ、壮太はぶっきらぼうに返した。
有料道路を走るトラックのエンジン音が、低く腹に響いている。
荷台には、午前指定の雑貨と食品。
崩したら面倒なやつばかりだ。
(割れ物多いんだよなあ今日)
(しかもこの後、細かい時間指定が三件)
(四十にもなると、こういう予定表見るだけで肩がこるんだよ)
壮太はハンドルを握ったまま、小さく息を吐いた。
独身。
彼女なし。
愛想なし。
友達も少なめ。
代わりに配送経験だけはやたら長い。
誰より早く積めるわけでもない。
誰より口がうまいわけでもない。
ただ、事故なく丁寧に運ぶことだけは、ずっと真面目にやってきた。
(まあ、それしか取り柄ないしな)
(結婚とか、結局できなかったなあ)
(若いころにもう少し愛想よくしてりゃ違ったんだろうか)
そんなことを考えていた、その時だった。
前方。
ガードレールの切れ目の向こう。
ありえない場所から、小さな影が飛び出してきた。
「は?」
子どもだった。
どうしてこんなところにいるのか。
どうやって入り込んだのか。
そんなことを考えるより先に、体が動いていた。
ブレーキ。
急ハンドル。
荷台が悲鳴のように軋む。
「っ、危ねえッ!」
タイヤが甲高く叫んだ。
車体が傾く。
視界が斜めにずれる。
ガードレールが砕ける。
(やばい)
(あ、これ、落ちる)
一瞬だけ、妙に静かだった。
子どもの顔は見えなかった。
荷物のことも、会社のことも、その瞬間には消えていた。
ただ、ひとつだけ頭に浮かんだ。
(俺の人生、最後までこんな感じかよ)
次の瞬間、世界がひっくり返った。
◇
目が覚めた時、最初に感じたのは土の匂いだった。
「……ん?」
柔らかい落ち葉。
湿った空気。
どこかで鳥の鳴く声。
壮太はゆっくり身を起こした。
「ここ、どこだよ……?」
目の前に広がっていたのは、道路でも病院でもなく、見たこともない深い森だった。
高い木々が空を隠し、木漏れ日がまだらに地面を照らしている。
風が吹くたび葉がざわめき、遠くで水の流れる音がした。
(生きてる……のか?)
(いや、落ちたよな確実に)
(助かる高さじゃなかったと思うんだけど)
壮太は自分の胸や腹を触った。
痛みはない。
骨も折れていない。
というか、妙に体が軽かった。
「……軽い?」
違和感に眉をひそめ、両手を見た。
ごつごつした、日焼けした四十男の手ではなかった。
指は細く、肌も若い。
「は?」
思わず立ち上がる。
視界がやけに高い。
いや、身長はたぶん元とそう変わらない。
けれど、体つきがまるで違った。
筋肉で張っていた胸や腕の重さがない。
ひょろりとしている。
軽い。
驚くほど軽い。
「いやいやいや、ちょっと待て…」
近くの水音を頼りに歩き、小川へたどり着く。
水面をのぞき込んで、壮太はその場で固まった。
「……誰だこれ?」
映っていたのは、二十歳そこそこの若い男だった。
背は高い。
顔立ちは悪くない。
むしろかなり整っている。
筋肉むきむきだった前世の自分とは違い、すらりとした好青年という感じだ。
少し長めの黒髪。
切れ長の目。
愛想がよければ、たぶん普通にモテる顔。
「……え、俺?」
(いや待て待て待て)
(若返ってる?)
(そんなことある?)
(死んだら若返るサービスとか聞いてないぞ)
自分の頬をつねる。
痛い。
「夢じゃねえのかよ……」
そこでようやく、ひとつ大事なことに気づいた。
「トラック!」
振り返る。
ない。
森のどこにも、あの見慣れた車体はなかった。
白いボディも、へこんだ荷台も、積み荷も見当たらない。
「マジか……」
(仕事道具ごと消えたのかよ)
(いや、仕事はもうどうでもいいのか?)
(ここどこだよほんとに)
不安がじわじわと胸を締めつける。
すると、すぐ近くの茂みががさりと鳴った。
「ひっ…」
壮太は反射的に身構えた。
飛び出してきたのは、ウサギ……に見えた。
だが、普通のウサギではない。
体が大型犬くらいある。
しかも額に短い角が生えていた。
「なんだお前?」
角ウサギは赤い目で壮太を見たあと、ぴょんと跳ねた。
その一跳びが、やたら高い。
「いや無理無理無理、そういうの日本にいないから!」
(終わった)
(ああ終わったわこれ)
(森だし、若返ってるし、角ウサギいるし)
(異世界じゃん)
言葉にした瞬間、妙にすとんと腹に落ちた。
「……異世界か…」
角ウサギは何事もなかったように去っていった。
壮太はその場にしゃがみ込み、顔を覆った。
「異世界……マジかあ……」
しばらく黙ったあと、指の隙間から空を見上げる。
「……じゃあ…」
(人生やり直し、できるのか?)
胸の奥で、情けないほど単純な期待が灯った。
四十歳独身。
人付き合いが苦手で、仕事ばかりしてきた。
悪い人生だったとは思わない。
でも、満ち足りていたとも言えなかった。
もし本当にやり直せるなら。
見た目も若い。
知らない世界。
しがらみもない。
「……結婚、したいな…」
ぽつりと漏れた本音に、自分で驚く。
「いや、何言ってんだ俺」
(でも大事だろ)
(せっかく若返ってるんだぞ)
(ここで一人で終わったら、何のための二周目だよ)
ぐっと拳を握る。
「よし!」
壮太は立ち上がった。
「異世界で頑張ろう!」
「真面目に働いて…」
「できれば好かれて…」
「できれば結婚して…」
「できれば平和に暮らす!」
言っていて、ずいぶん欲望が素朴だなと思った。
だが壮太には、それくらいがちょうどよかった。
まずは森を出ようと歩き出した、その時。
足元に木箱が落ちているのが見えた。
古びた小箱だ。
たぶんさっきまではなかった。
「ん?」
拾い上げようとした瞬間、箱がふっと消えた。
「え」
壮太は固まった。
「今、消えたよな?」
慌てて周囲を見回す。
ない。
どこにもない。
「は!? 俺また死んだ?」
(落ち着け)
(消えたのは箱だ)
(俺じゃない)
深呼吸して、頭の中でさっきの木箱を思い浮かべる。
すると、何もない空間から、ぽん、と音を立てて箱が現れた。
「うおっ!?」
取り落としそうになりながら、なんとか抱える。
「何これ?」
もう一度念じる。
消える。
出す。
現れる。
「……収納?」
試しに近くの石を拾って念じる。
消える。
出る。
現れる。
「はああ?」
さらに周囲の枝、落ち葉の束、手持ちの小石で試す。
全部いける。
「何だこれ、便利すぎるだろ」
(待てよ)
(収納能力ってことは……)
(もしかしてトラックの代わりか?)
そう思った瞬間、頭の奥に妙な感覚が流れ込んできた。
荷台。
固定具。
積載。
保管。
配送。
まるで長年使い込んだ仕事道具の感触が、そのまま体に溶け込んでいるようだった。
「……トラックごと、俺の中に入ったのか?」
意味はわからない。
けれど、なぜかしっくりきた。
壮太は木箱を見下ろし、それから森の先へ目を向けた。
「運ぶことなら、できる……のか?」
その時だった。
遠くから、かすかな悲鳴が聞こえた。
「きゃっ……!」
若い女の声だった。
壮太の背筋がぴんと伸びる。
「女性!」
(いやそこ食いつくのか俺)
(でも困ってるっぽいし)
(ここで助けたら印象いいのでは?)
(いや下心丸出しは駄目だろ)
(でも助けるのは大事だろ)
「よし、行くか!」
壮太は自分に言い聞かせるようにつぶやき、声の方へ走り出した。
落ち葉を踏みしめる足が驚くほど軽い。
若返った体は、森の中でもよく動いた。
(落ち着け田島壮太)
(まずは人助けだ)
(感じよく)
(怖がらせず)
(できれば頼れる男っぽく)
(あと、できれば将来的に結婚につながる感じで)
そこまで考えて、壮太は自分で自分に呆れた。
「俺、必死すぎるだろ……」
けれどその顔は、少しだけ笑っていた。
異世界の森は、まだ何もわからない。
危険かもしれない。
ひどい場所かもしれない。
それでも。
仕事しかなかった四十年の先に、こんな形で続きをもらったのなら。
今度こそ、ただ荷物を運ぶだけじゃない人生を選びたい。
その一歩目としては、困っている誰かを助けに走るのも悪くない。
高い木々の隙間から差し込む光の中を、壮太はまっすぐ駆け抜けていった。
まだ自分が、この世界の命綱になるなどとは、夢にも思わずに。




