第2話 朝の焼き肉と、泥を跳ね上げる悪徳男爵
昨夜の激しい雨は未明には上がり、湿った森の木々からは清涼な朝靄が立ち上っていた。
カイは欠伸をしながら木造小屋の戸を開け、冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
庭の土は雨を吸って柔らかく、素足で履いた木靴の底に重たくまとわりつく。軒下には朝露を湛えた雑草が生い茂り、朝日を浴びてキラキラとプリズムのように光を反射していた。
「ふぁ……ん、朝か」
カイは敷地の隅にある古びた井戸に向かうと、手押しポンプの柄を押し下げた。
ギー、コトン、と乾いた金属音が響き、冷ややかな地下水が勢いよく吹き出す。カイは手で汲み上げた水をバシャバシャと顔にぶつけ、荒いタオルでゴシゴシと拭った。
「おはようございます! カイ様!!」
背後から、透き通る鈴の音のような声が飛んできた。
振り返ると、そこには昨日の泥まみれの姿が嘘のように磨き上げられた少女——精霊姫エルナが立っていた。
ボロ布同然だったローブは綺麗に洗い破れ目も丁寧に繕われ、銀色の髪は朝日の光を受けて白銀の滝のように輝いている。彼女の手には、湯気を立てる素焼きの深皿と、丁寧に焼き上げられた肉の香ばしい匂いが乗っていた。
「すでに朝食の準備、ならびに聖域の清掃は完了しております! 本日の朝食は、カイ様の薪棚の陰で休んでいた野生の猪を仕留め、その最上の肉を薪の強火で香ばしく炙ったものにございます!」
「え、猪? お前一人で倒したの……?」
「カイ様のお庭(聖域)を汚す野生の獣など、私めの一撃で十分でございます。さあ、冷めないうちにお召し上がりくださいませ!」
エルナは、まるで神聖な儀式で捧げ物を差し出すかのように、恭しく膝をついて深皿を差し出した。
カイは「お、サンキュ」と受け取り、縁側に腰を下ろした。
こんがりと焦げ目のついた肉にかぶりつく。じゅわ、と脂の旨味と塩気が口いっぱいに広がり、噛むたびに豊かな肉汁が溢れ出す。
「うめえ……! お前、料理上手だな」
「あ……あぁっ……! 至高の御方にお褒めのお言葉をいただけるなんて……! このエルナ、生涯の誉れにございます……っ!」
エルナは感涙にむせび、胸の前で強く両手を握りしめた。
その眼差しは、単なる感謝を超えて、信仰に近い熱量を帯びている。カイが肉を一口噛み砕くたびに、彼女の背後には存在しないはずの光の羽が見えるかのようだった。
(素晴らしい……! これほどの豪快な食べっぷり……! 荒々しく肉を噛みちぎるその姿は、まさに太古の神獣の如き気迫……! 私の拙い料理をこれほどまでに喜んでくださるなんて、何という慈悲深さ……!)
「あ、そうだエルナ。お前、そこの雑草も集めてくれたのか?」
カイが顎でしゃくった先には、昨夜カイが教えた通り、エルナが丁寧に摘み取って編み込んだ「雑草の束」が整然と並べられていた。
一枚一枚が国家予算を吹き飛ばす『神霊草』の束である。
「はい! カイ様のお許しを得て、お庭の『聖草』を収穫させていただきました! これほど無造作に生えていながら、どれも溢れんばかりの聖気を宿しております。カイ様の圧倒的な魔力が、この土地そのものを神域に変えている証拠にございますね!」
「いや、ただの草だけどな。まあ、綺麗になって助かったわ。お前ホント働き者だなあ」
「〜〜〜〜っっっ! カイ様のお役に立てるなら、この命、何度でも捧げます……!」
カイはスープの最後の一滴をズズッと飲み干し、ふぅ、と満足げな息を吐いた。
朝食が終わり、日差しが少し強くなってきた。
食後の腹ごなしに、カイはポケットから「一番手触りのいい草(神霊草の葉)」を一枚取り出すと、爪楊枝代わりに歯の間に挟まった肉をシコシコとしごき始めた。
(ご、極上の神霊草を……歯に挟まった肉かすを取るためだけに……!?)
エルナはあまりの神涜的な光景に眩暈を覚えたが、すぐに(違うわ! これは世俗の『価値観』という概念そのものを嘲笑うカイ様のお戯れ……! どこまでも底が知れない御方……!)と自らの中で解釈を完璧に完結させた。
*
だが、その平穏な朝の空気は、突如として破られた。
遠くの森の小道から、ドスドスと重い蹄の音が響いてくる。
同時に、静かな朝の森に漂う草木の香りを台無しにするような、汗と馬の脂、そして下品な鉄と革の臭いが風に乗って運ばれてきた。
「……ん? なんかうるさいな」
カイは歯に挟んでいた草をポケットに戻し、眩しそうに遠くを見つめた。
カイの立つゆるやかな丘の上の木造小屋からは、狭い一本道をこちらに向かって進んでくる車列が視界に入った。
手前にはぬかるんだ泥道を蹴散らす重装騎兵の群れ。その中央には、金糸の刺繍が施された無駄に豪華だが悪趣味な馬車が、ガタガタと車輪を軋ませながら迫ってくる。
湿った風が吹き抜け、空が急激に鉛色へと陰り始めた。
ぽつり、と再び冷たい雨粒がカイの頬を叩く。
「ひっ……!?」
エルナの顔色がサッと青ざめた。
彼女はその豪華な馬車の扉に刻まれた、双頭の蛇の不吉な紋章に見覚えがあった。
「ボルス男爵……!! なぜ、この場所が……!?」
「ボルス? 誰だそれ」
「私を追っていた悪徳貴族にございます! この地方の領主でありながら、影で密貿易や人体実験に手を染め、私から精霊族の秘宝を奪うために『死蝕の呪印』を打ち込んだ凶悪な男です……!」
馬車がカイの庭の真ん前で急停車した。
ぐちゃり、とぬかるんだ泥が跳ね上がり、カイが綺麗に掃除したばかりの庭を汚す。
馬車から降りてきたのは、丸々と太った豚のような体型の男だった。
体に合っていない派手な金の甲冑を身に纏い、指にはジャラジャラと宝石の指輪をはめている。その顔は醜く歪み、脂汗でギトギトと光っていた。背後には、いかにも粗暴でガラが悪い私設騎士たちが二十人以上、剣や斧を抜いて控えている。
「ふはははは! 見つけたぞエルナ姫ぇ!!」
ボルス男爵は下品な大笑いを上げ、ブタのような鼻を鳴らした。
「死蝕の呪印で野垂れ死にかけたかと思えば、こんな辺境の貧相な木こりの小屋に逃げ込んでいたとはな! ……む? 貴様、なぜ呪いが解けている!? 顔の痣はどうした!?」
「ボルス……! 無礼者め、カイ様の前でその不潔な口を開くな!!」
エルナはカイの前に立ち塞がり、鋭い眼光で男爵を睨みつけた。
「カイ様……? ハッ! なんだその薄汚い平民の男は!」
ボルス男爵はカイを一瞥すると、心底蔑むような顔で唾を吐き捨てた。ペッ、と音を立てて泥に落ちた唾を、カイは不快そうに眉をひそめて見つめる。
「おいおい、人の家の敷地に勝手に乗り込んできて、泥は跳ね上げるわ唾は吐くわ……常識ねえのかよおっさん」
「あぁん!? 平民の分際でこの私、ボルス男爵様に口を叩くか!! よいか愚者め! このあたりの土地はすべて我が男爵領! 貴様のような無能な開拓民など、虫ケラ同然なのだよ!」
ボルス男爵は腰の細剣を抜き、カイの胸元を指し示した。
「そこにいる精霊姫は我が公国の重要な『資産』だ! それを匿った罪は重い! さらに、見ればその女が持っているその草の束……ふむ、何やら妙な清涼な香りがするな。貴様、不法に領内の特産物を密猟していたな!?」
「は? これただの庭の雑草だけど」
「黙れ!! 言い訳など聞く耳持たん! 全財産と、その女と、その妙な草をすべて置いてここから失せろ! さもなくば、我が騎士団の鉄の足で、この小屋ごと踏み潰してくれるわ!!」
「ぞ、全財産って……俺の部屋、カブとパンの耳くらいしかねえぞ」
カイのどこまでも緊張感のない返答に、ボルス男爵は顔を真っ赤にして脈打ちさせた。
「貴様ぁぁぁ!! この私を愚弄するかぁぁぁっ!!」
ボルス男爵の怒号とともに、ジャァァ……と本格的な雨が降り始めた。
激しい雨粒が騎士たちの鎧を叩き、甲高い金属音を響かせる。重苦しい暗雲が空を覆い、辺りは夕暮れのように薄暗くなった。
だが、カイの後ろに立つエルナの表情は、驚くほど静かだった。
(……ああ、哀れな豚め)
エルナは冷ややかな瞳でボルス男爵を見つめていた。
(カイ様がなぜ、これほどまでにくだらない戯言に怒りもせず、適当な相槌で流しておられるのか……そなたには分からぬのだろうな。
カイ様にとって、そなたらなど『存在していない』に等しいのだ。ハエが羽音を立てている程度の認識なのだ。
あえて愚者の底浅い欲望に付き合ってあげているのは、自滅する機会を与えてやるという、カイ様のご慈悲なのだから……!)
「カイ様」
エルナはカイの背中にそっと歩み寄り、可憐な声で囁いた。
「この愚か者ども、私の力で一瞬で塵に変えましょうか?」
「え? いや、暴力は良くないだろ。雨も降ってきたし、濡れるから早く帰ってほしいんだけどな……」
カイは心底面倒くさそうに溜息をつき、濡れた上着の内ポケットに手を突っ込んだ。
そこには、朝摘んだばかりの「ふかふかした雑草(神霊草)」が、何枚も重なって入っている。
「ぬううう! ええい、騎士団よ者共! まずはあの生意気な平民の首を刎ねろ! 見せしめにしてやるわ!!」
「ハッ!!」
ボルス男爵の合図とともに、二十人を超える重装騎士たちが一斉に剣を抜き、泥を跳ね上げながらカイへと襲いかかってきた!
怒号と鉄の擦れ合う音が、雨音を切り裂いて響き渡る!
「死ねぇぇぇ、平民ぃぃぃ!!」
肉迫する鉄の刃。迫る圧倒的な暴力。
だが——カイはただ、だるそうにポケットから草を一枚取り出し、雨で濡れたおでこを拭おうとしていただけだった。
(第三話へ続く)




