第1話 ポケットの雑草と、雨宿りの全肯定少女
ぽつり、と板屋根の端から滴った雨粒が、庭の泥水溜まりに小さな波紋を作った。
六月の雨はぬるい。湿気を含んだ空気が重く肌にまとわりつき、木造小屋の柱からは湿った杉の匂いが立ち上っている。
カイは軒下の小さな縁側に腰を下ろし、生乾きの靴下を脱いで足を揉んでいた。親指の爪には、さっきまでいじっていた湿った黒土が少し挟まっている。
「……雨か。洗濯物が乾かねえな」
カイはぼやきながら、煤けた上着の袖で額の汗を拭った。
彼はこの辺境の村の境界線、森と人間の耕作地が接するギリギリの境界に一人で住んでいる。毎日の日課は、自分の小屋の周りに生えてくるしつこい雑草を抜くことだ。放っておくと、ツタや草の根が床板を押し持ち上げ、隙間から虫が入ってくる。
カイは縁側から身を乗り出すと、柱の根元に青々と茂っていた名もなき草の茎を指で摘まんだ。
ずびち、と湿った音を立てて根っこごと引き抜く。
その瞬間。
引き抜かれた草の茎から、ふっと微かな黄金色の光粒が散った。
湿気で重かった周囲の空気が、一瞬だけ清涼な蜂蜜と朝露の交じり合ったような甘い香りに包まれる。草の表面はまるで最高級のシルクのように滑らかで、手肌にしっとりと吸い付くような妙な温もりがあった。
「ん……なんだこの草。手触りだけは無駄に良いな」
カイは気にも留めず、親指で草の表面の泥を払うと、そのまま上着の内ポケットに雑に突っ込んだ。
ポケットの中には、ここ数日で抜いた同じような「やけに手触りのいい草」が十数枚、すでにはち切れんばかりに詰まっている。カイにとってこれは、作業中に汗を拭いたり、ぬめった手を拭ったりするのに丁度いい「ちょっとふかふかした天然の手拭き」に過ぎなかった。
彼が授かったスキルは『雑草抜き』。
十五歳の成人の儀で教会から告げられたとき、神官すら失笑した完全な外れスキルである。だが、カイ自身は別に冒険者になって魔物を倒したいわけでも、王都で出世したいわけでもなかったから、痛くも痒くもなかった。毎日適当に草を抜いて、庭を綺麗にして、のんびり飯を食って寝る。それだけで十分だった。
彼が知る由もないことだが――彼が『雑草抜き』のスキルで根こそぎ抜いたただの草は、その瞬間に概念が再構築され、古代神話にしか登場しない幻の万能薬草『神霊草』へと昇華していた。
一枚あれば死者すら蘇らせ、葉の一片で小国の国家予算が吹き飛ぶと言われる伝説の聖草。
それをカイは、ただの「ポケットのチリ紙代わり」として持ち歩いていた。
*
雨脚が強くなってきた。
ザァー……という雨音が、静かな森の樹々を揺らす。
カイは軒下から視線を上げ、遠くの森の境界に目を向けた。手前の濡れた縁側、その先の激しく雨粒を弾く低い雑草群、そして遠景の濃い霧に霞む巨大な大樹のシルエットが層をなしている。
その森の濃霧の奥から、ガサリ、と濡れた茂みを掻き分ける不穏な音が聞こえた。
「……ん?」
カイが目を凝らす。
現れたのは、足をもつれさせながら這うように進んでくる一人の影だった。
少女だった。
透き通るような銀色の長い髪は雨と泥にまみれ、背中に羽織った上質な刺繍のローブはズタズタに引き裂かれている。その隙間から覗く白い肌には、赤黒い血管のような気味が悪い『呪い』の痣が、首元から顔にかけて這い上がっていた。
「はっ……ぁ……っ……神よ……どうか……」
少女はカイの庭の泥の中に突っ伏すようにして倒れ込んだ。
ビチャリ、と跳ね上がった泥水が、カイの履いている靴の爪先を濡らす。
少女の名はエルナ。
東方の森に潜む純血の精霊族の姫であり、同時に王国の権力闘争に巻き込まれ、禁忌の黒魔術『死蝕の呪印』を打ち込まれた逃亡者だった。
この呪いは発動すれば三日三晩全身の血を腐らせて死に至らしめる不治の呪い。逃げ延びた果てに力尽きた彼女の意識は、すでに深い闇の底へと沈みかけていた。
(ああ……ここまで、ですか。私を追う男爵の手から逃れ……最後はこんな見知らぬ泥の中で……)
冷たい雨が顔を叩く。死の冷気が全身を侵食していく。
その時。
「おいおい、参ったな。人の家の庭で倒れられると、あとで掃除が大変なんだよ」
頭上から、どこか緊張感のない男の声が降ってきた。
ズシ、とぬかるみを踏みしめる足音が近づき、エルナの身体が軽々と抱き起こされる。
「う……あ……逃げ……てください……私は……呪われて……」
「呪い? 知らんけど、顔中泥まみれじゃねえか。服も濡れて冷たくなってるぞ」
カイはため息をつきながら、抱きかかえた少女の顔を見る。長旅と雨で冷え切り、皮膚は氷のように冷たい。
拭うものが欲しくなったカイは、習慣のように上着の内ポケットに手を突っ込み、手近にあった「手触りのいい草」を一枚引っ張り出した。
「ほら、じっとしてろ。泥が目に入るぞ」
カイは一切の躊躇もなく、その草——『神霊草』の葉を、エルナの泥まみれの頬や額、そして黒い呪印が蠢く首元にゴシゴシとなすりつけた。
瞬間。
——シュウゥゥゥッ……!
眩いばかりの純白の聖光が、エルナの全身を包み込んだ。
雨の薄暗闇を一瞬で吹き飛ばすほどの光芒。草がエルナの肌に触れた箇所から、まるで熱湯をかけられた氷のように、赤黒い『死蝕の呪印』が悲鳴を上げて消滅していく。
全身を苛んでいた激痛が、嘘のように引いていく。冷え切っていた内臓の奥底から、信じられないほどの温かい生命力が脈打ち、全身の細胞を急速に再生させていった。
「ひぁ……っ!?」
エルナはあまりの衝撃に目を剥いた。
体内で何が起きたのか、一瞬理解できなかった。
絶対の死をもたらす大悪魔の呪いが、完全に消え去っている。それどころか、逃亡の旅で疲弊しきっていた魔力回路が完璧に充填され、肌の傷ひとつ残らず治癒しているのだ。
(な……なにが……何が起きたの……!? 今、このお方は私に何をなさったの……!?)
混乱しながら、エルナはカイの手元を見た。
カイが指先で捏ねくり回し、使い終えた手拭きのように雑に捨てようとしているその青い葉。
(あ……あれは……『神霊草』……!? 神話の時代、精霊王すらも生涯に一度拝めるかどうかと言われた、世界の根源たる奇跡の聖草……!? それを……ただの拭き掃除用の布のように……私の顔の泥を拭うためだけに……使われたというの……!?)
「よし、泥は取れたな。立てるか?」
カイは満足そうに頷くと、ポケットからさらにもう一枚の葉を取り出し、自分の湿った指先をぬぐってから足元にポイと捨てた。神話の奇跡が、二枚連続で地面の泥に捨てられた瞬間だった。
エルナの全身に、激しい戦慄が走った。
この男は何者だ。
粗末な木こりのような服を着て、無造作に立つこの男。だがその眼光(ただの寝ぼけ眼である)には、世俗の富も名声も意に介さない、圧倒的な絶対者の余裕が漂っている。
国家を傾けるレベルの超絶な秘宝を、まるで庭の雑草であるかのようにポケットに詰め込み、行き倒れの女を救うためだけに惜しげもなく使い捨てる——。
(神……いいえ、神を超えた至高の存在……! このお方は、人界に身を隠された真の支配者様……!)
エルナの中で、すべての論理が劇的な飛躍を遂げた。
「あ……あ……っ」
「ん? まだ気分悪いか? とりあえず中入れよ。雨で冷えたろ」
「はいっ……!」
「そういえば、俺の名前はカイって言うんだ。お前さんは?」
「私めはエルナと申します!」
エルナはぬかるんだ地に両膝をつき、カイの靴の爪先に額をこすりつける勢いで深々と頭を下げた。その瞳には、熱狂的な崇敬と、絶対の帰依の色が宿っていた。
*
小屋の中は、薪ストーブの暖かな橙色の光に包まれていた。
薪がパチ、と爆ぜる乾いた音が響き、鍋から漂うカブと干し肉の塩スープの匂いが部屋中に満ちている。
カイはストーブの前に丸椅子を引き寄せ、濡れた上着を干しながら、木製のスプーンでスープをすくって口に運んでいた。フーフーと息を吹きかけ、ズルズルと音を立てて飲む。
「ふぅ……やっぱ雨の日は温かいスープに限るな」
そのカイの斜め後ろで、エルナは正座をし、背筋をピンと伸ばして彼の一挙一動を食い入るように見つめていた。
彼女には、カイがスープを飲むその無駄のない所作すらも、宇宙の真理を噛み締める深遠な儀式に見えていた。
(素晴らしい……! 何という無駄のない、削ぎ落とされた日常……! これほどの至高の力を持ちながら、欲望に溺れず、おごらず、ただ静かに世界の調和を見守っておられる……!)
「あのな、君」
「はいっ! カイ様! 何なりとお命じくださいませ!!」
カイが振り向くと、エルナは弾かれたように返事をした。
「いや、そんな肩肘張らなくていいよ。服、乾くまで置いてやるからさ」
「カイ様のご情けにより命を拾い上げられた身……! カイ様のお世話から雑用、果てはカイ様をお邪魔するあらゆる害敵の排除まで、この命がつきるまで捧げ尽くす所存でございます!」
「エルナちゃん、雑用できるんだったら、明日から庭の落ち葉はきと、皿洗い頼んでいいか? 俺、家事めんどくさくてさ」
「勿論にございます……!! 私のような未熟者に、至高の聖域の維持をお任せくださるとは……感涙にむせびます……!」
エルナの瞳にはうっすらと涙すら浮かんでいた。
カイは(なんだかやけに畏こまった奴だなあ)と思いながら、固くなったパンの耳をスープに浸してモグモグと噛んだ。
「まあ、好きにしなよ。あ、あとそのポケットの雑草な、まだまだ庭にいっぱい生えてるから、欲しかったら勝手に抜いて使っていいぞ」
「〜〜〜〜〜〜っっっ!?」
エルナは息を呑んだ。
神霊草が……あの世界の均衡を揺るがす聖草が、この庭には「いくらでも生えている」……!?
そしてそれを私に「勝手に使え」とおっしゃるのか!?
(やはり……! このお方にとって、世界の宝など路傍の石と同義……! このお方の懐の深さ、慈悲の大きさは底が知れない……!!)
「カイ様……! カイ様は、まさに世界を照らす真の御方……! 私はどこまでもお供いたします……!」
「お、おう……なんかサンキュ。じゃ、俺もう眠いから寝るわ」
カイは大きなあくびを一つすると、奥の粗末なベッドにゴロリと横になり、頭まで毛布をかぶった。三分も経たないうちに、すーすーと気持ちよさそうな寝息が聞こえ始める。
エルナは胸の前で両手を固く組み、静かに横たわるカイの寝顔を、まるで神像を見るような神聖な眼差しで見つめ続けた。
(カイ様……あなたのその平穏、このエルナが命に代えてもお守りいたします。どんな愚かな者がこの聖域を侵そうとも、私が即座に灰に変えてみせますわ……)
外では雨が静かに降り続いていた。
屋根を叩く雨音はどこまでも優しく、小屋の中は世界で最も安全で、世界で最も圧倒的な密室となっていた。
——だが、この時二人(正確にはエルナだけ)はまだ知らなかった。
エルナを追って村に近づきつつある、欲深き悪徳貴族・ボルス男爵の私設騎士団が、すぐそこまで迫っていることを。
(第一話 完)




