第十八話 呼び笛
戦場から二か月が過ぎた。
リアは正式にレオニスの専属護衛騎士に任命された。
騎士団の宿舎の部屋の中には、簡素な寝台と机、それから騎士団から支給された衣類が並んでいる。
リアは棚から荷物を一つずつ取り出した。
着替えを畳む。
手入れ道具を布に包む。
机の上に置いていた小さな水差しを片付ける。
必要なものだけを鞄へ入れていく。
最後に、壁へ立て掛けていた剣を手に取った。
鞘を留めていた革紐を確認し、そのまま腰へ差す。
部屋を見回す。
荷物をまとめると、思っていたよりも何も残らなかった。
リアは鞄を持ち上げた。
扉を開ける。
廊下へ出ると、窓から差し込んだ昼の光が床に細長く伸びていた。
リアはその光を横切り、三番隊の隊舎へ向かった。
訓練場から、木剣の音が聞こえてくる。
乾いた音が一定の間隔で響いている。
リアが入口に立つと、近くにいた騎士が振り返った。
「お、リアだ」
「お疲れさまです」
リアが頭を下げる。
騎士はリアの肩から下がる荷物へ目を向けた。
「もう行くのか?」
「はい」
「そうか」
騎士は笑って、手を上げた。
「頑張れよ」
「ありがとうございます」
その声を聞いた別の騎士も振り返る。
「リア!」
「はい」
「レオニス殿下の護衛騎士だってな」
「はい。本日付で、正式に任命されました」
「知ってるよ」
騎士が笑う。
「いやあ、出世したな」
周囲から小さな笑い声が上がった。
リアもわずかに口元を緩める。
その奥から、ヴィクトルが歩いてきた。
「来たか」
「隊長」
リアが姿勢を正す。
ヴィクトルは手にしていた木剣を壁へ立て掛け、リアの鞄を見る。
「荷物はそれだけか?」
「はい」
「相変わらず少ないな」
リアは黙って頷いた。
「……しっかりやれよ」
「はい。お世話になりました」
リアは深く頭を下げた。
ヴィクトルはわずかに口元を緩めた。
「気にするな」
リアは顔を上げる。
訓練場には、いつもの騎士たちがいる。
木剣を手にした者。
盾を磨いている者。
壁際で水を飲んでいる者。
その一人が手を上げた。
「たまには顔を出せよ!」
「はい」
別の騎士が笑う。
「ちゃんと仕事してるか、見に行くからな」
「……はい」
リアの口元に、また小さな笑みが浮かんだ。
ヴィクトルが手を上げる。
「ほら、行け」
「はい」
リアは一礼し、三番隊の隊舎を後にした。
背中の向こうで、再び木剣の音が響く。
王城へ続く廊下は、昼の光に満たされていた。
高い窓から差し込む光が、磨かれた床に細長く落ちている。
角を曲がったところで、向こうから人影が現れた。
銀色の長い髪が、窓から差す光を受けて淡く輝いている。
セレナだった。
侍女を二人従え、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
リアは足を止め、道を譲った。
「セレナ様」
頭を下げる。
セレナも足を止めた。
「……誰かと思えば」
セレナが目を細める。
「噂の騎士様じゃない」
「はい」
リアが顔を上げる。
セレナは小さく笑った。
「今日からなのね」
「はい。本日付で、レオニス殿下の専属護衛騎士を務めることになりました」
「そう」
セレナは頷き、リアをしばらく見つめた。
やがて、少しだけ口元を緩める。
「弟をよろしくね」
「お任せください」
リアが答える。
セレナは小さく頷いた。
「頼もしいわ」
それだけ言って、リアの横を通り過ぎる。
数歩進んだところで、セレナが振り返った。
「……あまり無茶はしないでね」
「はい」
セレナは微笑んだ。
「では、またね」
「はい。失礼いたします」
セレナが歩き去っていく。
銀色の髪が廊下の先へ消えていくのを見送ってから、リアも歩き出した。
執務室の前で、リアは足を止めた。
扉の向こうから、かすかに紙をめくる音が聞こえている。
リアは一度だけ姿勢を正し、扉を叩いた。
「失礼いたします」
返事を待ってから、扉を開く。
静かな室内へ、一歩足を踏み入れた。
窓際の机に、レオニスがいた。
差し込む午後の光が、机の上に広げられた書類を照らしている。
レオニスは一枚の書類へ目を落としたまま、ゆっくりと紙をめくった。
さらり、と乾いた音が響く。
リアは数歩進み、立ち止まる。
しばらくして、レオニスが顔を上げた。
青い瞳が、まっすぐリアを捉える。
「……来たな」
「はい」
レオニスは椅子から立ち上がった。
「傷はもういいのか?」
「完治しております」
「そうか」
レオニスが頷く。
「なら、改めて。よろしく頼む」
「はい。よろしくお願いいたします」
リアが深く頭を下げる。
レオニスはその姿を見て、わずかに笑った。
「……これで、ようやく正式に俺の騎士だな」
リアが顔を上げる。
「はい」
短い返事だった。
レオニスは窓の外へ目を向けた。
春の光を浴びた王都の街並みが、遠くまで広がっている。
「今日は荷物を置いて、城の中を案内しよう」
「承知しました」
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「失礼します」
聞きなれた声が響く。
「入れ」
レオニスが返事をすると、扉が開いた。
入ってきたのは、灰色マント姿の少女だった。
焦茶色の短髪。
肩掛け鞄。
そして妙に落ち着いた猫みたいな目。
伝令部の制服ではないが、ユリアだった。
両手に二つの木箱を抱えている。
一つは細長く、もう一つはそれより小さい。
ユリアは二人の前まで歩き、一礼する。
「本日より、王室専属配達人を務めることになりました。ユリア・レインです」
レオニスが目を細める。
「君も来たか」
「はい、来ました」
ユリアはにこりと笑った。
「今後は、私が書簡や荷物を運びます。公式のものでも、私的なものでも、お任せください」
そう言って、ユリアはリアへ視線を向ける。
「こちらでも、よろしくお願いします、リアさん」
「こちらこそ」
リアは小さく笑う。
ユリアは両手に抱えていた木箱を、机の上へ静かに置いた。
「さっそくですが、シリウス様よりお荷物を預かっております」
レオニスが眉を上げた。
「あいつから?」
「はい。まず、こちらをリアさんへ」
ユリアは細長い箱を、リアの前へ滑らせる。
「専属護衛騎士に着任したお祝いです」
ユリアは留め具を外し、蓋を開けた。
中には一本の剣が収められていた。
鞘には、王家の紋章が刻まれている。
リアが目を向けると、ユリアが説明を続けた。
「シリウス様が贔屓にされている職人に作らせたものです。リアさんが今使っている剣に、形を合わせてあります」
リアは剣を取り上げた。
鞘から刃を抜く。
窓から差し込む光が刀身を滑った。
柄を握り直し、手首を返す。
そして、その場で一度振った。
ヒュッ、と風を切る音が響く。
もう一度。
今度は少し大きく振る。
さらに一度、足を踏み出して刃を返した。
リアは剣を止め、柄を握ったまましばらく確かめる。
指の位置を変え、手首を軽く動かす。
「……確かに、よく手に馴染む」
刀身を眺め、口元をわずかに緩める。
「さすがだな」
ユリアも小さく笑った。
「それと、ご伝言です」
リアが顔を上げる。
ユリアは少し間を置いてから告げた。
「『兄様を頼んだ』と」
リアは手にした剣へ目を落とした。
やがて鞘へ納める。
カチ、と小さな音がした。
「……『お任せください』と返しておいてくれ」
「はい、お伝えします」
リアは小さく笑う。
次に、ユリアは、もう一つの木箱をレオニスの前へ置いた。
「こちらはレオニス殿下へ。私の着任の際に、ご助力いただいたお礼の品です」
「律儀だな」
レオニスは目を細めて笑った。
ユリアが蓋を開ける。
中には、小さな笛が二つ並んでいた。
細身の筒状をした木製の笛で、手のひらに収まるほどの大きさだった。
表面には羽根を思わせる細かな線が刻まれ、先端には小さな翼の飾りがついている。
木肌は淡く、ところどころに手作業で削った跡が残っていた。
どちらにも細い紐が結ばれ、首から下げられるようになっている。
「南方地方の民芸品です。大鳥の鳴き声を模した笛で、甲高く澄んだ音が出ます」
リアも箱を覗き込む。
「もともとは獣避けや魔除けに使われていたものですが、シリウス様の提案で、騎士団の連絡用として試験運用されていました」
レオニスは笛を一つ取り、顔の前に掲げてその形を確かめる。
「へぇ……あいつも、妙なところで役に立つな」
ユリアは小さく笑って、続ける。
「この度、全隊で正式運用することに決まりましたので、ぜひお二人にもお持ちいただきたいと」
「そうか」
レオニスは頷き、もう一つの笛をリアへ差し出す。
リアは笛を受け取り、首へ下げる。
「一度鳴らせば、居場所を伝える合図。三度鳴らせば、緊急事態の合図となっています」
「分かりやすくていいな」
レオニスが笛を指先で転がす。
ユリアが小さく笑った。
「よろしければ、鳴らしてみてください」
「ここで?」
レオニスは眉を上げ、目を瞬く。
「はい」
ユリアは頷いて、窓へ歩み寄る。
窓の留め具を外し、大きく窓を開けると、風が室内へ吹き込んだ。
「シリウス様が、『聞こえたら返事をする』とおっしゃっていました」
レオニスの口元がわずかに緩む。
銀髪が風に揺れる。
紐を指に掛け、窓辺へ歩み寄った。
そして、一度だけ吹く。
――ピィィィィ……。
甲高く澄んだ音が、王都の空へ広がっていった。
三人が窓の外へ目を向ける。
しばらくして――
遠くから、同じ音が返ってきた。
――ピィィィィ……。
レオニスが目を見開いた。
「ははっ。本当に返ってきたぞ」
レオニスは窓の外へ顔を向け、遠くから返ってきた音に耳を澄ませる。
やがてリアへ視線を移した。
「聞こえたか、リア」
「はい。南門の辺りですね」
「……これはいい」
レオニスが目を細めて笑う。
「あいつは昔から、城に帰ってくる度に騒がしくてな」
口元に、懐かしむような笑みが浮かぶ。
「姿が見えなくても、何処にいるのかすぐ分かったんだが……」
遠くの音に耳を澄ませる。
「ついに、城の外でも居場所が分かるようになったのか」
しばらく、三人は窓の外を眺めていた。
王都の屋根が、午後の光の中に連なっている。
通りを行き交う人々は小さく、馬車の音も遠い。
やがて、レオニスが笛を首から下げた。
レオニスは笛を一度眺め、それからユリアへ目を向けた。
「……あいつに頼まれたから、少し手伝ったが」
窓から入る風が、ユリアの胸元に下げられた笛を揺らす。
「君は、シリウスの側にいたかったんじゃないのか?」
ユリアはすぐには答えなかった。
手が、肩から下げた配達用の鞄に触れる。
革の留め具を指先で確かめるように撫でた。
「いいんです」
レオニスが黙って見つめる。
「シリウス様は、大事なものほど遠くに置きたがる人ですから」
ユリアは王都の向こうへ目を向ける。
先ほど笛の音が返ってきた方角だった。
「それに私なら、どこにいても、すぐに駆けつけられます」
胸元の笛へ指を添える。
細い紐が、指先で揺れた。
「そのための、配達人ですから」
レオニスはしばらくユリアを見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうか」
リアも窓の外へ目を向けた。
遠くの街並みの向こうから、風が吹いてくる。
しばらくして――
遠くで、もう一度だけ笛が鳴った。
――ピィィィィ……。
たくさんのご愛読、ありがとうございました!
またいつか、彼らの物語を。




