第一話 雪の中の出会い
初めての記憶は、雪の中。
雪が、降っていた。
窓の外は、白かった。
どこまでが空で、どこからが地面なのかも分からない。
荷馬車が大きく揺れるたび、木の壁が軋んだ。
ぎし、ぎし、と低い音が続いている。
リアは、荷台の隅で小さく身体を丸めていた。
毛布は掛けられていたが、寒かった。
指先を握ってみても、うまく力が入らない。
荷台の隙間から吹き込んだ風が、頬を撫でていく。
鼻の奥が痛くなるほど、冷たい風だった。
「急げ!」
外から声がした。
「この雪じゃ、日が暮れるぞ!」
「分かってる!」
誰かが怒鳴り返す。
その声も、すぐに風にかき消された。
馬が嘶いた。
蹄が雪を蹴る音が、荷台の底から響いてくる。
どこへ向かっているのか。
なぜ、ここにいるのか。
リアには分からなかった。
目を閉じて、何かを思い出そうとした。
けれど、何も浮かばない。
荷馬車が、また大きく揺れた。
身体が横へ投げ出され、リアは木の壁に肩をぶつける。
「……っ」
声が出た。
けれど、外には届かなかった。
次の瞬間、馬が激しく嘶いた。
荷台が大きく傾いた。
「なんだ!?」
「止めろ!」
怒鳴り声が重なる。
何かが崩れる音。
馬の蹄の音。
木材が折れる音。
そして――轟音。
地面そのものが揺れたようだった。
荷台が跳ね、身体が浮いた。
リアの小さな手が、何かを掴もうと伸びる。
けれど、何も掴めなかった。
視界が回る。
白い雪が、目の前いっぱいに広がった。
冷たい。
息ができない。
身体が沈んでいく。
声を出そうとした。
けれど、口の中に雪が入った。
何も見えない。
ただ、冷たい。
やがて、音が消えた。
どれくらい経ったのか、分からなかった。
リアは雪の上に倒れていた。
頬に触れる雪が冷たい。
手を動かそうとするが、動かない。
足も、動かなかった。
起き上がらなければと思った。
けれど、身体に力が入らない。
白い空を見上げる。
雪が降っている。
一片。
また一片。
まぶたに落ちて、すぐに溶けた。
「……」
誰かを呼ぼうとした。
声は出ず、喉が震えただけだった。
指先の感覚がない。
身体も、少しずつ重くなっていく。
目を閉じると、そのまま眠ってしまいそうだった。
(眠っちゃ、だめだ……)
そんな気がした。
けれど、なぜそう思うのかは分からない。
ただ、目を開けていることさえ難しくなっていく。
雪が髪に積もる。
肩に積もる。
白い布のように、身体を覆っていく。
不意に、何かが聞こえた。
遠くで、雪を踏む音。
一つではない。
いくつもの足音が、雪を踏みしめながら近づいてくる。
馬の蹄が雪を打つ音も混じっていた。
「殿下、こちらには何も――」
風に乗って、誰かの声が聞こえた。
「待て」
別の声が、それを遮る。
少年の声だった。
「……何かいる」
馬の足音が止まる。
続いて、雪を踏む音が一つだけ近づいてきた。
リアは、わずかに顔を動かした。
白い景色の中に、黒い馬が見えた。
その傍らに、何人かの人影が立っている。
その中から一人だけが、こちらへ歩いてくる。
やがて、その人が目の前で足を止める。
「……子ども?」
少年が、驚いたように呟いた。
白銀の髪。
雪の向こうから覗く、青い瞳。
リアは、その顔を見た。
けれど、何も言えなかった。
少年はしばらく黙っていた。
そして、リアの肩に手を触れる。
「……こんなに冷たい」
その声から、先ほどまでの驚きが消えた。
代わりに、張り詰めたものが混じる。
「まずいな」
少年は自分の外套を脱いだ。
雪の上に膝をつき、リアの身体を包む。
「聞こえるか?」
返事はできない。
少年が振り返る。
「誰か、村へ急いで知らせてくれ。馬車も頼む」
「承知しました」
すぐに返事が返る。
その間にも、少年はリアから目を離さなかった。
「……大丈夫だ。もう少しだから」
冷たい身体に、何かが触れた。
外套の内側に残った温もりだった。
少年はリアを抱き上げる。
少年の腕の中で、リアの手が小さく揺れる。
その手を、少年が片方の手で包んだ。
「……きっと、まだ温かくなる」
そう言って少年は、待っている者たちのもとへ歩き始めた。
その背後で、雪を踏む足音が続いていた。
雪の中を進む足音が続いていた。
リアは、少年の腕の中にいた。
身体が揺れるたび、閉じかけた瞼がわずかに動く。
寒さは、まだ消えなかった。
けれど背中に回された腕から、かすかな温もりが伝わってくる。
それを追うように、意識がゆっくりと沈んでいった。
「殿下」
後ろから声がする。
「村までは、そう遠くありません。このままなら――」
「急ごう」
少年の返事は短かった。
「この子の体温が下がりすぎている」
「はい」
足音が速くなる。
誰かが先に走っていく気配がした。
しばらくして、白い景色の向こうに小さな影が浮かび上がった。
家だった。
一つ。
二つ。
雪に埋もれた屋根の向こうから、細い煙がいくつも立ち上っている。
少年が村の入り口まで来ると、先に走っていた者が家々へ声をかけた。
「人を頼む!暖炉を空けてくれ!」
「怪我人か?」
「子どもだ!」
扉が開く。
冷たい風とともに、何人もの村人が外へ出てきた。
その視線が、少年の腕の中へ集まる。
「まあ……」
「こんな小さな子が……」
「早く中へ!」
村人の一人が駆け寄ってきた。
少年は頷く。
「暖かい場所を」
「こちらへ!」
案内されたのは、村の中央にある大きな家だった。
扉が開くと、暖かな空気が流れてくる。
中央には共同の暖炉があり、赤々とした火が薪を燃やしていた。
その熱気に触れた瞬間、少年はようやく足を止めた。
「ここでいい」
床に毛布が敷かれる。
少年はそこへリアをそっと横たえ、外套を外す。
その下から現れた小さな身体には、雪がまだ残っていた。
「湯と、何か食べられるものを」
「すぐに」
少年の言葉に、村人たちが慌ただしく動き始める。
薪が追加され、火が大きくなる。
濡れた衣服を乾かすための場所も用意される。
その間も、少年はリアの傍を離れなかった。
一枚、また一枚と毛布が重ねられ、重みを増していく。
それでも、リアは目を開けない。
「……大丈夫でしょうか」
村人の一人が小さく尋ねた。
少年は答えず、毛布から出ていたリアの手を取る。
指先は、まだ冷たい。
少年の眉がわずかに寄った。
「もう少し、火を近くに」
「はい」
暖炉の薪が弾けた。
ぱち、と乾いた音がする。
赤い火の粉が一つ、暗い炉の奥で跳ねた。
しばらくすると、別の村人が木の器を持って戻ってきた。
「簡単なものですが、温かいスープです」
「ありがとう」
少年は湯気の立つ器を受け取った。
豆と野菜を煮込んだ、薄いスープだった。
「……おい」
リアに呼びかけるが、返事はない。
「聞こえるか?」
小さな肩を、そっと揺らす。
まぶたがわずかに震えた。
「分かるか?」
もう一度。
今度は、ほんの少しだけ目が開いた。
けれど、焦点は合っていない。
「起きたか」
リアは、ゆっくりと瞬きをした。
少年はスープを木匙で少しすくい、息を吹きかける。
それから、リアの顔を覗き込んだ。
「少し飲めそうか?」
返事はできなかった。
「……そうか」
リアの様子に匙を置き、器を持ったまま少し考える。
「じゃあ、まずは手を温めよう」
少年はリアの手を取った。
冷たい指先を、自分の両手で包む。
リアの指が、わずかに動いた。
少年は何も言わない。
ただ、手を離さなかった。
しばらくしてから、もう一度、木匙を手に取る。
「少しずつでいい」
匙が、ゆっくりと口元へ近づいてくる。
「飲めるだけで、いいから」
リアは、かすかに口を開いた。
匙の先が、唇に触れた。
温かな液体が、舌に触れた。
冷え切った身体には、それだけでも強い刺激だった。
「……っ」
喉が震え、リアは咳き込んだ。
少年はすぐに匙を引き、リアの背中へ手を回し、身体を起こす。
小さな身体が、少年の腕の中で何度か揺れた。
「ゆっくりでいい」
背中を、一定の間隔で軽く撫でる。
咳が収まるまで、少年は何も言わなかった。
やがてリアが小さく息を吐くと、少年はようやく手を止めた。
「……急に飲んだら苦しいよな」
叱るでもなく、困ったように笑う。
その声が、すぐ近くで聞こえた。
リアはゆっくりと目を開いた。
暖炉の火が見えた。
赤い炎が、暗い部屋の中で揺れている。
その前に、少年が座っていた。
銀色の髪が火の明かりを受けて、白く輝いている。
青い瞳が、こちらを見ていた。
リアは、その瞳から目を離せなかった。
不思議だった。
なぜ、この人がここにいるのか。
なぜ、自分はこの人に抱かれているのか。
考えてみても、何も分からない。
少年はそんなリアの顔をしばらく見ていたが、やがて木匙を器へ戻した。
「もう少し飲めそうか?」
リアは答えなかった。
「……まだ無理か」
少年は器を脇へ置いた。
「じゃあ、少し休もう」
そう言って、毛布を肩まで掛け直す。
その動作があまりにも自然で、リアは目を瞬いた。
少年は再びリアの手を取った。
冷えた指先を、自分の手の中へ収める。
その温度が、じわじわと伝わってくる。
リアは、自分の指をわずかに動かした。
少年の手が、それに気づく。
「温かくなってきたな」
その言葉に、リアは初めて少しだけ目を細めた。
何かを聞きたかった。
けれど、続く言葉が出てこない。
何度か口を開いては閉じる動作を繰り返す。
少年はそんな様子を見て、首を傾げた。
「名前は?」
リアの身体が、わずかに固まった。
口を開くが、やはり声にならない。
「……」
少年は急かさず待った。
しばらくして、リアが小さく首を横に振る。
少年は少しだけ目を伏せた。
「分からない?」
リアは、また首を横に振った。
自分でも、それが何を意味するのか分からなかった。
分からない。
ただ、それだけを伝えたかった。
「……そうか」
少年は、少しだけ笑う。
「じゃあ、今はいい」
その声は穏やかだった。
「元気になってから、考えればいい」
リアはしばらく少年を見つめた。
暖炉の薪が、ぱちりと鳴る。
少年は器を手に取った。
「もう一口だけ、飲んでみるか?」
今度は、リアも拒まなかった。
木匙が近づいてくる。
温かなスープが、少しずつ喉を通っていく。
冷たかった身体の奥へ、ゆっくりと熱が広がっていった。
リアは、もう一度だけ少年を見た。
銀色の髪。
青い瞳。
そして、冷えた手を包んでいる温かな手。
それだけを、リアは覚えていた。
翌朝。
リアが目を覚ますと、暖炉の火は小さくなっていた。
窓の外は、まだ雪だった。
白い景色の中を、風が横切っている。
身体を起こそうとすると、肩に掛けられていた毛布がずれた。
「起きたか」
暖炉の前に、昨日の少年がいた。
椅子に座り、窓の外を眺めている。
その傍らには、大人たちが数人立っていた。
リアが目を覚ましたことに気づくと、一人が少年へ声をかける。
「殿下、そろそろ出立のお時間です」
「分かった」
少年が立ち上がる。
リアは、その姿を目で追った。
少年がこちらへ歩いてくる。
「具合はどうだ?」
リアは答えなかった。
けれど、昨日よりは身体を動かせた。
それを示すように、毛布の上で、指を握ったり開いたりする。
少年はそれを見て、小さく頷いた。
「昨日よりはいいな」
そのとき、別の村人が湯気の立つ器を持ってきた。
「朝のスープです」
「ありがとう」
少年が受け取る。
そして、リアの前にしゃがんだ。
「まだ食べられるか?」
リアは器を見た。
昨日と同じ匂いがする。
少年が匙を取る。
「少しずつでいい」
今度は、リアも素直に口を開いた。
温かなスープが喉を通る。
昨日よりも、ずっと飲みやすかった。
「そう、それでいい」
少年が微笑む。
やがてスープを飲み終えると、少年は器を村人へ返した。
「世話になった」
「とんでもございません」
外から、馬の嘶きが聞こえていた。
少年が立ち上がり、外套を羽織る。
扉の近くにいた者が、少年のために外套の襟を整えた。
村人が、頭を下げる。
「道中、お気を付けください」
「ああ、あとは頼む」
「はい」
少年が扉へ向かう。
冷たい風が入り込んだ。
リアは、毛布から手を出した。
小さな手が、宙へ伸びる。
その様子に、少年が振り返った。
「……どうした?」
リアは答えられない。
ただ、少年を見ている。
少年は少しだけ目を丸くした。
それから、こちらへ戻ってくる。
リアの前にしゃがみ込む。
「まだ何かあるか?」
答えの代わりに、リアは少年を見つめた。
少年は少し考えてから、リアの頭に手を置いた。
「元気になれよ」
それだけ言って、手を離す。
少年は立ち上がった。
扉が開く。
白い雪の向こうへ、少年が歩いていく。
その後ろを、何人もの人影が続いていった。
馬の蹄が、雪を踏む。
少しずつ遠ざかり、やがて音も聞こえなくなった。
リアは、自分の手を見た。
昨日、少年が包んでくれた手。
もう、あのときほど冷たくはない。
リアは、小さな手を握った。
まだ、温かかった。
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