アカシック11
軌道要塞戦
第三段階
第五話
「静かな協力者」
深夜。
軌道要塞の中央主塔――軍中枢。
昼間であれば無数の軍人、参謀、AIオペレーターたちが行き交うこの区画も、深い夜の帳に包まれたこの時間帯になると、人影は驚くほどまばらになっていた。天井照明の半分以上は落とされ、足元を這う青白い誘導灯の光だけが、静まり返った長い廊下を淡く照らし出している。
その最奥に位置する、将官用執務区画。
巨大な防弾ガラスの窓の前に、一人の男が静かに立っていた。
カール将軍。
襟元まで寸分たがわず整えられた濃紺の軍服。その肩には、重責の証である銀色の階級章が冷たく光っている。背筋は矢のように真っ直ぐに伸びていたが、深く刻まれた目元には、隠しきれない疲労の色がわずかに滲んでいた。
窓の向こうには、人工天体に照らされた軌道要塞の壮大な光景が広がっている。
第二リング――商業・居住区。
こんな深夜であるにもかかわらず、まだ消えないネオンの灯りが、そこで暮らす人々の営みを物語っている。飲食店には、遅くまで語らう家族連れや仕事帰りの労働者の姿が小さく見えた。
第三リング――軍事区画。
厳戒態勢の敷かれたエリアでは、夜間警備隊のドローンや兵士たちが、一定の間隔で冷徹なパトロールを続けている。
第一リング――外交区画。
銀河連邦の要所である各文明の大使館や迎賓施設の窓からは、それぞれの文化を象徴する上品で柔らかな照明が漏れていた。
表面だけを眺めれば、そこにあるのは完全な平和そのものだった。
カールは無言で、その巨大な人工都市の営みを見つめ続ける。
しかし――彼には分かっていた。
美しく整えられたこの要塞の奥深くで、人々の心や感情が、いま確実に、そして静かに変質し始めていることを。
不満。
疑念。
喪失。
そして、燻るような怒り。
目には見えない。公式の統計データや治安アルゴリズムの数字にも、まだ明確な異常としては表れていない。だが、長年にわたって軍の中枢で組織の膿と光を見続けてきたベテランの軍人には、その空気の澱み、肌を刺すような微かな変化の予感だけは痛いほど感じ取れていた。
「……静かすぎるな」
誰に聞かせるでもなく、カールは乾いた独り言をこぼした。
その時、背後の重厚な執務室の扉が、音もなく滑らかに開いた。
「失礼します」
カールは振り返らない。足音の微かなリズムだけで、それが誰なのか十分に分かっていたからだ。
「――ルーク少尉」
足を踏み入れた青年は、その場で一瞬だけぴたりと足を止めた。
「……はい」
振り返ったルークは、数日前に顔を合わせた時よりも、明らかにやつれていた。
制服の着こなしこそ整えられているし、髪が乱れているわけでもない。だが、青年の目の下には拭い去れない濃いクマの影があり、頬のあたりも少し痩せこけている。
そして何より、その瞳の奥が異様なまでの熱を帯びてギラついていた。
それは悲しみではない、焦燥感ですらない。
何か一つの強烈な思想や疑念に取り憑かれた者だけが発する、危ういまでの狂気じみた光だった。
カールはゆっくりと体を翻し、真正面から彼を見据えた。
「そこに座れ」
「いえ」
ルークは頑なに首を横に振る。
「すぐに済みますから」
短い、張り詰めた沈黙。
青年は拳を固く握りしめ、震える声を絞り出した。
「……協力してください」
その一言だけが、静まり返った部屋に落ちた。
カールの表情は微動だにしない。
「何にだ」
ルークはたまらず一歩、机へと歩み寄った。
「エリシア大将」
「それに、エィル文明ものども達も」
「拘束捕縛し真実を吐かせる手伝いを…..」
青年の声が、少しずつ熱と怒りを帯びて高ぶっていく。
「今回の不可解な作戦も…!父の死……! 父さんの指揮する艦隊の全滅……! その後のエィル文明との不可解な同盟……!」
「説明されていないことが、あまりにも多すぎる。隠されていることが多すぎるんだ!」
「だから俺は――」
言葉を継ごうとして、ルークは一度激しく息を呑んだ。両の拳が白くなるほど強く握りしめられ、細かく震えている。
「真実を暴きたい」
「そして、もし許されない過ちがあったのなら……責任を取らせたい!」
カールは黙ったまま、直情的に燃え盛るルークの瞳を見つめ返した。
長い、長い沈黙。
ルークにとっては、その数秒が何十秒、何分にも感じられるほどの重圧だった。
やがて、カールは静かに、しかし明確に首を横へ振った。
「できない」
ルークの顔が絶望と怒りで歪んだ。
「……なぜですっ!」
「私は、銀河連邦軍の将軍だ。個人的な感情や、裏付けのない疑念だけで軍を動かすことはできん。お前の個人的な暴走に同意することも、当然できない」
「ですがっ……!」
「ルーク」
低く、有無を言わせぬ重みを持った声だった。
青年の反論が、喉の奥でピタリと押し留められる。
カールは真っ直ぐに彼を見据えた。
「お前は今、冷静ではない」
「……俺は冷静です!」
「そう思い込んでいるだけだ。今の自分鏡を見てみろ」
ルークの顎が、わずかに、しかし激しく震えた。
「俺は……父を失ったんです……っ!」
「知っている」
「なら……!」
「だからこそだ」
カールの声には、冷徹さの裏に深い痛切さが滲んでいた。
「今のお前に、私が個人的に手を貸すような真似をすれば……それは救いなどではない。ただお前の復讐心と破滅への道を、推奨する事は出来ない」
ルークはそれ以上、言葉を返せなかった。
激高していた熱が急激に冷め、その代わりにあるのは、どうしようもない冷たい絶望だった。
しばらくの硬直の後、ルークは力なく目を伏せた。
「……そうですか」
かすれた声でそう呟くと、彼は深く、深々と頭を下げた。
「失礼しました」
背筋を伸ばし、踵を返す。足取りはどこかおぼつかない。
扉へと歩み寄る少年の背中を、カールは呼び止めることなく、ただじっと静かに見つめていた。
プシュー、と音を立てて扉が閉まる。
室内は再び、重苦しい静寂の中へと戻っていった。
⸻
しばらくの間、カールは彫像のように微動だにしなかった。
やがて、誰もいない暗い執務室で、彼は小さく息を吐き出す。
「……すまないな」
誰に宛てたともつかない呟きを残し、彼は重い足取りで自分のデスクの前に腰を下ろした。そして、引き出しの奥に手を伸ばし、一枚の古い写真を取り出す。
そこに写っていたのは、若い頃の自分だった。
肩を組むかつての同僚たち、信頼していた部下たち――今では全員、この広大な宇宙で、星の塵となって消えていった者たちばかりだ。
かつて激しい戦乱の時代を共に生き抜いた「仲間」たちの姿が、そこにはあった。
カールは、写真の端を親指の腹でそっと撫でる。
「表立った立場では……私があの青年に動くことはできない」
目を閉じ、深く思考を巡らせる。
「だが、このまま放っておけば、ルークは一人で勝手に過激な組織と接触し、破滅に向かって暴走するだけだ」
しばらく考え込んだ末、彼は机の上に置かれた特殊な通信端末へと手を伸ばした。
それは通常の軍の公用回線ではない。登録名すら表示されず、暗号化のレイヤーが何重にもかけられた、闇に隠された直通回線だった。
簡単なコードを入力し、指紋認証を通す。
画面は暗いまま、わずか数秒の遅延を経て、向こう側から低い男性の声だけが返ってきた。
『――お呼びでしょうか』
カールは短く、しかし強い決意を込めて告げた。
「準備を始めろ」
『対象は?』
「ルーク少尉だ」
一瞬、通信の向こう側でわずかな沈黙が流れた。
『……保護、ですか』
カールは再び、夜の街を映し出す巨大な窓の外へと目を向けた。
「……支援だ」
『……』
「ただし」
カールの声が一層低くなる。
「私の名は、絶対にどこからも出すな」
『了解しました』
「それと、過剰に手厚く手を貸すな。必要な最低限の足場だけを与えろ」
『……と言いますと?』
「彼自身に、自分の足で選ばせ、進ませるんだ」
『承知いたしました』
それ以上言葉を交わすことなく、通信はプツリと切断された。
カールは暗くなった端末の画面を、しばらくじっと見つめていた。
「ルーク……」
「お前がどこまで行き着くのか……この目で、最後まで見届けさせてもらう」
⸻
それから数日の間、ルークは軌道要塞の巨大な構造物のなかを文字通り駆けずり回っていた。
かつての知人、士官学校の同期、父の代からの古い友人、退役した軍人たち、そして戦死した兵士たちの遺族会。軍の内部、あるいはその周辺にいるあらゆる関係者を訪ね歩いた。
一人、また一人と頭を下げる。
「お願いします……!」
「些細なことでも構いません。あの時の艦隊戦について、何か聞いていませんか? 話だけでも聞いてください……!」
しかし、返ってくるのはどこへ行っても、ほとんど決まりきったような「拒絶」と「優しさ」の言葉ばかりだった。
「気持ちは痛いほど分かるよ、ルーク」
「辛かったな、あんな死にかたじゃ納得いかないのも無理はない」
「だが……もう昔のことは忘れた方がいい。お父さんだって、お前がこんな危険な真似をすることを望んじゃいないさ」
「軍の決定に背くなんて無茶だ。まだ若いんだから、自分の未来を台無しにするな」
それは慰めであり、同情であり、先輩としての真っ当な励ましだった。
だが、ルークの乾ききった心にとって、それらの言葉はどれ一つとして求めているものではなかった。
誰もが彼の苦しみを「若気の至り」や「一過性の悲しみ」として片付け、腫れ物に触るように遠ざけようとする。
ある日。
ルークは第二リングの片隅にある、古びた小さな食堂のカウンター席にぽつんと一人で座っていた
目の前に置かれた食事には、ほとんど手をつけていない。すっかり冷め切ったスープと、硬く乾いたパンが転がっているだけだ。
周囲の席からは、休日を謳歌する一般市民たちの楽しげな笑い声や話し声が、やけに賑やかに耳に飛び込んでくる。
(誰も……本当の意味で分かってくれない)
(結局のところ……みんな、自分には関係のない他人事だと思ってるんだ)
スプーンを握りしめる指の関節が、怒りと無力感で白く尖っていく。
カチャリ、と食器がすれ違う小さな音がした。
その時だった。
「――ルーク少尉だな」
低い、抑揚のない声が頭上から降ってきた。
はっとして顔を上げる、そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。
年齢は四十代半ばほど、無駄な肉のそぎ落とされた頑強な体躯に、短く刈り揃えられた髪、そして、左頬から顎にかけての古びた生々しいナイフの傷跡が、一目でただ者ではないことを物語っていた。
身に纏っているのは軍服ではなく、一般のラフなジャケットだったが、その立ち振る舞いや姿勢の端々に、隠しきれない「軍人特有の染み付いた癖」が残っている。
そして、その男の背後や周囲のテーブルには、男女数名の人物がさりげなく陣取っていた。誰もが、ただの平和な街の一般市民とは到底思えない、研ぎ澄まされた空気をまとっている。
男はルークの返事を待たず、自然な動作で向かいの席に腰を下ろした。
「少し、話をしないか」
ルークは反射的に身構え、警戒の色を剥き出しにした。
「……あんたは誰だ」
男は周囲を一度鋭い目つきで見回し、声をぐっと低く落とした。
「君の噂を聞いたよ。……総司令官エリシア大将や、あの時のエィル戦の真相について、裏で必死に調べているそうだな」
ルークの目が細くなる。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打った。
「……それを、どこで聞いた」
「噂は、嗅ぎ回っていれば自然と耳に入るものさ」
男はテーブルの上に、分厚い両手をどっしりと置いた。
「我々もね……あのエリシアという女や、連邦中枢に対して、どうしても聞いておきたい疑念や不満を抱えている者たちだ」
「我々……?」
男はほんのわずかに、自嘲するような、しかし冷たい笑みを浮かべた。
「エギル大将の名前を覚えているか」
その名が出た瞬間、ルークの呼吸が完全に止まった。
エギル大将。
かつて銀河連邦の軍内部に凄まじい激震を走らせ、一大クーデターを引き起こしたとされる中心人物。
そして、数ヶ月前のあの内乱の中で、逆賊として討たれ、あるいは闇に葬られたとされ男。
「……まさか」
男は静かに、深く頷いた。
「その通りだ。我々は、かつてエギル大将の麾下に属し、共に理想を追い求めた者達だ。元・銀河連邦軍の軍人さ」
ルークの中で、警戒心が一気に頂点へと跳ね上がる。
「クーデターの……残党……ッ!」
その言葉に、男の背後に控えていた数名の元軍人たちの表情が一瞬だけ険しくなり、ピリついた殺気が空気を引き裂いた。
しかし、傷のある男は慌てる様子もなく、静かに首を横に振った。
「そう世間では呼ばれているし、否定はしない。我々は反乱を起こした罪人だ」
男の拳が、ガシリと固く握り締められる。
「だがな……我々は、あの方を一度たりとも『裏切り者』だと思ったことはない」
別の席に座っていた初老の元軍人が、押し殺したような低い声で呟く。
「エギル大将は、いつだって腐敗しきった銀河連邦の未来を本気で憂い、この宇宙を救おうとしていた……それだけだ」
さらに、隣に座っていた女性の元士官が、冷ややかな目を窓の外に向けた。
「正しいか間違っていたかなんて、いまさら議論するつもりもない。でもね……」
彼女はルークをまっすぐに見据えた。
「あの人一人がすべての元凶として祭り上げられ、都合の悪い真実も、組織の汚れも、すべてエギル様に押し付けられたまま『事件解決』で片付けられた。私たちは、それが許せないのよ」
ルークは、テーブルの上に視線を落としたまま、一言も発せずに彼らの言葉を飲み込んでいた。
傷の男が、さらに身を乗り出すようにして顔を近づけた。
「君も……同じじゃないのか?」
「……」
「父君を理不尽な形で失った。納得のいく説明すらない。責任の所在も曖昧なまま、すべてが隠蔽されている」
「そして気がつけば、すべてを裏で操っていたかもしれないエリシア大将は、誰もが称える『無謬の英雄』として祭り上げられている」
その言葉は、ルークの胸の最も黒く、最も熱い澱に、正確に突き刺さった。
心の奥底で、何かが激しく脈打ち、爆発音を立てる。
「……そうだ……」
男は満足したように深く頷いた。
「なら、話は早い」
「我々と手を組まないか、ルーク。
我々ならば、エリシア大将に一矢報いルークの目的にもそいーーそして我々もエギル大将の墓前に、勝利の花を手向けることができる」
その日、ルークは警戒しつつも、危険な手を取らないという事も選択も余裕もなかった――自分の抱く猜疑心や怒りを「お前は間違っていない」と肯定し、同じ目線で語り合うことのできる「仲間」と出会ったのだった。
⸻数日後。
場所は変わり、第2リングの外周区画。
巨大な商業施設の裏手に広がる、すでに用途を廃して放棄された古いコンテナ倉庫街。その奥深くにある、かつての作業員用集会施設だった地下スペース。
そこには、薄暗い照明の下に、数百名もの男女がひっそりと集まっていた。
元軍人、退役した兵士たち、戦争で身内を失った遺族、そして現在の銀河連邦政府や軍の統治に深い不信感を抱く者たち。かつての「エギル派」の残党を中心に、不満分子たちが澱のように溜まり場としていた場所だ。
ざわめいていた室内の空気が、一つの気配によってピタリと静まり返る。
その空間の中央に設けられた粗末な壇上に、ルークがゆっくりと歩み出て立った。
数百人もの、自分よりもはるかに場数を踏んできた大人たちの視線が一斉に突き刺さる。
喉の奥がカラカラに乾き、心臓がうるさいほどに脈打った。
だが――ルークは逃げなかった。後ろを振り返る気も、もう毛頭なかった。
「俺は……」
震えを抑え込むように、彼は自身の言葉を絞り出す。
「俺は、理不尽に父を失いました!!」
「そして、上層部からは納得のいく説明すら何一つ受けていない!!」
少しずつ、言葉に熱と澱みが混ざり合い、彼のなかの「真実」が形を成していく。
「誰を憎めばいいのか。誰の責任を追求すればいいのか。最初はそれすら分からなかった……! 毎日がただ苦しくて、不条理だった」
「でも……この場所に来て、一つだけ確信したことがある」
広くて静まり返った地下空間に、青年の張りのある声が響き渡る。
「この要塞の隠された場所で、都合の悪い真実を意図的に隠蔽し続けている者たちがいる」
「俺は……それを暴き白日の元に晒したい」
「父の死の真相と、あのエィル戦の本当の記録を、すべての市民の前に引きずり出してやる!」
静寂。
誰もが息を呑み、ルークの熱に満ちた瞳を見つめていた。
やがて、最前列に立っていたあの傷のある男――元軍人の男が、ゆっくりと立ち上がった。
「……俺たちも、まったく同じだ」
別の男が低く唸るように声をあげる。
「エリシアを、その神聖な玉座から一度引きずり下ろす。そして、彼女の口からすべてを白状させる」
女性の元士官も、冷たく美しい笑みを浮かべて頷いた。
「エィル文明にも問いただしてやるのよ。あの異星の連中が、裏で何を企んでいたのかをね」
ルークの胸の奥で、激しい熱狂と連帯感が爆発した。
(やっと……やっと俺の言葉を、俺の怒りを真っ直ぐに受け止めてくれる人間たちがいたんだ……!)
その強烈な共感と肯定感は、彼の中で「自分たちがやっていることは絶対的な正義なのだ」という危ういまでの確信へと変わっていこうとしていた、そんな中を低次元体は彼らの憎悪を揺らしていたい。
⸻
それからさらに数日が過ぎた頃。
彼らが秘密裏に拠点としているアジトの扉が、激しい足音とともに勢いよく開いた。
「ルーク!」
息を切らせた一人の仲間が、顔色を変えて駆け込んでくる。
「どうした、そんなに慌てて」
「これを……見てくれ!」
男がテーブルの上に放り出したのは、一枚の真新しい匿名の通信端末だった。
その横には、物理的な暗号記録媒体――莫大な活動資金のチャージされたデータカードと、彼らが潜伏・活動するための必要最低限の装備品が綺麗に収められている。
送り主の名前欄は、完全にブランク。
『不明』となっていて言葉が添えられていた。
(ルーク様を陰ながら応援させて頂きます、どうぞ遠慮なくお使いください。)
ルークは険しい眉をひそめ、冷たい金属の端末を手に取る。
「……いったい、誰からだ」
「分からない。だが、我々のこのアジトの場所や、次の行動スケジュールまで完璧に把握している」
傷の男が腕を組み、不審そうに目を細めた。
「……この言葉..支援者がいる、ということか?」
「俺たち以外に、こんな組織の目をかいくぐって俺たちをバックアップできる奴がいるってのか?」
「ああ……間違いない」
ルークはその無名の通信端末の画面を凝視した。
ディスプレイには、たった一行だけのシンプルな文字列が冷たく点滅している。
《君たちの動向は、すべて把握している。》
《存分に、やるべきことをやりなさい。》
それだけ。
組織名もない。所属のヒントもない。目的すら語られていない。
「……罠かもしれないぞ」
仲間の一人が、恐怖と疑念の入り混じった声で呟いた。
ルークはしばらくの間、無言でその画面を見つめたまま固まっていた。頭の片隅で警報が鳴るのを感じながらも、彼の心はすでに一つの結論に達していた。
「……使う」
傷の男が驚いたように顔を上げる。
「いいのか? 相手が誰かも分からない怪しげな支援だぞ」
ルークは強く首を横に振った。
「俺たちだけでは……この巨大な要塞の深層に近づくことすらできない。軍を敵に回して、素手で勝てるわけがないんだ」
「誰かが……たとえそれが悪魔の手であっても、いま俺たちに力を貸すというのなら」
「今は……前に進むために、それを利用する」
その少年の覚悟とも狂気ともつかない言葉に、周囲の仲間たちは複雑な表情を浮かべながらも、やがて静かに頷き同意した。
⸻
その頃――。
すべての喧騒から隔絶された、静寂に満ちた中央主塔の最上階。
カールは再び、あの巨大な防弾ガラスの窓の前に一人で立っていた。
眼下に広がる軌道要塞の無数の灯り。
二百八十万人の住民たちが織りなす平和な生活の営みが、まるで無数の星屑のようにぼんやりと輝いている。
手元の通信端末が、小さく電子音を立てて震えた。
カールは耳元に端末を当てる。
『――接触、ならびに物資の引き渡し完了』
報告の声だけが響く。
「ルーク少尉の様子は?」
『旧エギル派の残党勢力と完全に合流しました。我々が用意した匿名での資金と機材も、警戒しつつですが……結果として使用する判断を下した模様です』
カールはゆっくりと目を閉じ、深い溜息を吐き出した。
「……そうか」
『将軍。このまま彼らを泳がせ、計画を進行させれば……いずれ引き返せないところまで落ちることになりますが、よろしいのですか』
カールはしばらくの間、何も答えなかった。
窓ガラスの向こうの暗い宇宙空間に、自分の疲れ切った顔がうっすらと反射して映っている。
「分かっているさ」
彼の声には、言い知れない重圧と苦渋が滲んでいた。
「だが……今ここで中途半端に奴を止め、無理やり表の世界に戻そうとしたところで、ルークは別の形で爆発するだけだ。あいつの心の中の火は、もう誰にも消せない」
窓の外の、果てしない闇を見つめる。
「ならば……」
カールは静かに呟いた。
「あいつがどこまで行き着くのか」
「私は……最後まで見届ける」
『――承知いたしました』
通信が一方的に切断され、耳元には再び完全な静寂が戻ってきた。
カールは一人、薄暗い執務室に取り残される。
「ルーク……お前は今、純粋に『真実』を追っていると信じ込んでいる」
「だが……その道の果てにあるものは」
「本当に、お前が求めていた真実なのか」
それとも――。
「誰かが裏で巧妙に筋書きを描き、お前に見せるために用意した『望み通りの答え』にすぎないのか」
ベテランの将軍であるカール自身にも、その答えはまだ見えていなかった。
彼はグラスに残っていた冷めた水を一口で飲み干すと、誰にも聞こえない声で独りごちた。
「この巨大な要塞は……光だけでは到底支えきれない」
「時には……暗い影を呑み込む覚悟がなければ、すべてを護ることはできんのだ」
その独り言は、誰の耳にも届くことなく、軌道要塞の冷たく静かな夜の闇へと、ただ溶けて消えていった。
軌道要塞戦・第三段階
『眠れる巨兵』
深夜。
軌道要塞、第三リング――軍中枢。
すでに日付が変わろうとしていたが、カール将軍の執務室の窓辺には、いまだに明かりが灯っていた。
巨大な防弾ガラスの向こうでは、三重リングを覆う無数の都市灯が、まるで漆黒の宇宙に散りばめられた星海のように静かに瞬いている。
常駐人口、二百八十万人。軍人も、市民も、子どももいる。そのすべてが、この巨大な人工天体の内部で眠りにつこうとしていた。
カールは机へ両肘をつき、組んだ指先へ額を預けていた。
目の前の立体投影スクリーンに表示されていたのは、一人の少女を中心とした護衛配置データだった。
そら。
その周囲を固めるのは――
ミレイ。
レグナ。
ユグナ。
ミュー。
銀河連邦総司令部直属、近衛AI四人衆。
「……この四人がいる限り」
カールは低く呟く。
「エリシアへの接近は不可能に近い」
単なる警備AIではない。
一体が敵を認識すれば、瞬時に四体すべてへ情報が共有される。ミレイは近接、レグナは射撃、ユグナは電子戦、ミューは救護と退避を担う。しかも彼女たちが最優先で守る存在こそがそらであり、そばにはエリシア、カイの姿もある。通常の人間部隊を何十人投入したところで、真正面から突破すれば数分も保たない。
カールは椅子へ深くもたれた。
「人数ではない。必要なのは……あいつらの注意を奪える存在だ」
指を動かし、膨大な旧軍事資料を投影させる。
戦車、軍用アンドロイド、無人機、旧式重機。
その中で、一枚の古い画像でカールの指が止まった。
白銀の重装甲。
人間の数倍はあろう巨大な機体。
背部には巨大な環状構造。
全身は洗練とは程遠く、装甲板が幾重にも重ねられ、各部から太いケーブルが這っている。
第一世代地上共振戦闘体、《アステル・バルク》。
現行型より大型かつ重量級で、背部の巨大な外付け共振環と共振砲を太いケーブルで直結し、発射時は脚部支持器を地面へ固定する仕様だった。
空間振動の制御精度が低く放電と発熱が発生し、装甲はボルト留めで整備性優先――新型が「洗練された精密兵器」なら、この旧型は「空間共振技術を力ずくで兵器化した重機」という立ち位置にあった。
カールの瞳が細くなる。
「……これだ」
かつてアステリア文明から第三国へ流出した機体を、カールは裏市場経由で入手することを決意する。
翌朝、誰にも知られない回線を通じて私兵の隊長に捜索を命じ、数週間後、戦場跡から回収された退役機の残骸が発見された。
しかし問題があった。本来の共鳴砲だけは見つからず、代替品も同じものは不可能だった。
カールは「最初から勝たせるつもりはない。近衛四人衆を倒す必要などない。数分でいい、そらとエリシアから引き離せればいい」と判断し、共鳴砲の代わりに旧式の回転式実体弾兵装を装備させることにした。
⸻
計画の肝は、要塞のAI監視をどう欺くかにあった。
旧型である《アステル・バルク》は完全独立型であり、無線通信停止、外部認証信号なし、自動更新なし、量子通信なし、有線による現地起動、AI中枢は遮断状態という仕様だった。
搬入中は“眠っている機械部品”にすぎず、活動中のAIとして検出されない。
さらにカールは、総司令部直属の正式な極秘命令枠を使用し、記録上を《軌道要塞緊急損傷復旧計画》(軍最高機密・AIによる内容照会禁止・人間の担当将官による直接管理)とした。
AIが騙されたというより、正規規則によって中身を確認できない状態を作り出した。
さらに、一度に運ぶと見破られるため、搬入時期を数週間にわたって分散させた。
一か月前:装甲と脚部(外壁補修用セラミック板 / 艦船修理用作業機の支持脚)
三週間前:駆動装置(大型貨物機用アクチュエーター)
二週間前:冷却装置(反応炉用予備冷却器)
一週間前:共振環(重力制御装置の位相調整環)
蜂起直前:AI中枢と起動鍵(旧式軍用演算器の研究資料 / 要塞振動制御装置の予備部品)
これらは異なる輸送船、異なる搬入口、異なる部門名義で持ち込まれ、AIの監視には「同一兵器を構成する部品」ではなく「複数部門が発注した無関係な補修部品」として映し出された。
組み立て場所として選ばれたのは、第三リング下層にある、旧式重力制御装置が残された廃止区画《重力調整室G–12》である。
この区画は強い空間ノイズが発生するためもともと精密センサーの精度が低く、表向きは「旧式振動制御設備の撤去工事」として作業員と整備機械を入れ、カール派の技術者が少しずつ組み立てを進めた。
最後まで接続しないのは「AI中枢」「背部共振炉」「主電源」の3つであり、蜂起開始後に要塞各所で同時に偽装事故を発生させ、AI監視が分散した瞬間に接続する手はずとなっていた。
⸻
第三リング下層の《重力調整室G–12》。
その最奥で、私兵たちが巨大な防塵シートを引き下ろす。そこには、白銀の傷だらけの装甲、太い脚、巨大な肩、背部の環状構造、そして右腕に備わった代替のガトリングガンを持つ《アステル・バルク》が立っていた。
技術者が装甲を叩くと鈍い金属音が響く。
「今の兵器ならもっと軽く速く正確に作るが、こいつは足りない技術を全部、質量と出力で押し切っている」と語る。
その夜、カール本人がG–12を訪れ、巨兵を見上げた。
カールは静かに言い切った。
「近衛を――そこから動かす。それだけだ」
もし近衛が無視した場合は「無視できない状況を作る」と告げ、民間人へは絶対に向けないよう念を押した。
カールはそのまま暗い通路へ消えていく。その背後で、《アステル・バルク》の頭部センサーが一瞬だけ紫色に微かに灯り、そして再び消えた。
軌道要塞、二百八十万人が眠る夜。
誰も知らない第三リングの地下で、後に近衛AI四人衆と激突することになる旧世代の巨兵が、静かにその時を待っていた。
軌道要塞戦
第三段階
第六話
「決起の準備」
集まった人数が百人を超えようとした頃、ルークは初めて募集の門戸をきびしく閉ざした。
旧エギル派の男が怪訝そうな目を向けて尋ねる。
「どうした? まだ参加したいという者はいくらでもいるぞ」
ルークは静かに首を横に振った。
「もう一般人は入れません」
部屋の空気がわずかに張り詰める。
遺族会からの志願者も、学生も、軍経験のない者も、ルークはすべて一蹴した。
人数が必要なはずではなかったのかという周囲の戸惑いをよそに、ルークの周囲に集まった者たちの視線は、日を追うごとにゆっくりと濁り始めていた。
誰かが拳を握り締め、誰かが歯を食いしばり、まだ見ぬ敵の姿を脳裏に思い描く。
その目にあるのは悲しみだけではない、奪われたものを取り戻したいという剥き出しの欲望、自分こそが正しいと証明したいという傲慢、そして誰かに責任を押しつけて憎しみを正当化したいという澱んだ衝動だった。
それらは低次元体の見えない干渉によってじわじわと増幅され、怒りは確信へ、悲しみは憎悪へ、恐怖は攻撃衝動へと姿を変えていく。
ルークはそれに気づかないふりをした、あるいは、気づいていながら見ないふりを通した。
「俺は戦争がしたいわけじゃない。クーデターも起こさない。この要塞を占領するつもりもない」
その低い言葉の裏で、周囲の元軍人たちはすでに自分勝手な未来を妄想していた。
エリシアを引きずり下ろす未来、エィル文明大使ジェミニを断罪する未来、軍上層部を血祭りに上げる未来。
ルークの言う「拘束」と、彼らが望む「処刑」の境界線は、すでに同じ言葉の影に溶け込んでいた。
「俺が欲しいのは真実の答えだ」
ルークは拳を握る。父は何故死んだのか、仲間は何のために命を散らしたのか、あのエィル戦とは何だったのか。
そして、エリシア大将やエィル文明大使ジェミニは全てを知っているのか。
その沈黙を低次元体の干渉が満たしていく。答えを求める声はいつしか告発を求める怒声へ変わり、真実を知りたいという願いは、それを語らない者を憎む冷酷な衝動へと変質していった。
「もし、あの二人が嘘をついたらどうする?」
誰かの問いに、別の男が不敵に答える。
「その時は、二度と嘘をつけないように薬剤漬けにすればいい」
ルークは聞こえないふりをして続けた。
「二人を一時的に拘束し、話を聞き、真実を確認する。それが終われば即座に撤退する」
「それでも反逆だぞ。捕まれば国家反逆罪、最悪な場合死刑か?一生外へ出られない」
「分かっています!すべての責は私が引き受ける」
ルークの即答が、周囲の者たちの中に異様な熱を生んだ。
ルークが覚悟を示した、ならば、自分たちはさらに大きな覚悟を示さなければならない。
いつしかそれは、誰が最も深く憎んでいるか、誰が最も残酷な決断を下せるかという歪んだ競争へと変わっていた。
その日から、募集の基準は実戦経験や危険な任務に慣れた者、そして金で動く傭兵へと絞られていった。
しかし誰でもいいわけではない。混乱に乗じて勝手に発砲する者や、残虐行為に快感を覚える者はルーク自身が容赦なく弾いた。
「殺し合いが目的じゃない。必要なのは短時間で戦場を支配できる人間だ」
拒否された者たちはしかし、去りはしなかった。
不満を募らせ、仲間内の信頼は少しずつ疑念と猜疑心へ食い破られていく。
そんな中、最大の壁となったのは資金だった。危険な任務に見合うだけの報酬など、ルークたちの手元にある資金では到底足りないはずだった。
しかしある夜、財務担当者が青ざめた顔で端末を差し出した。そこに映し出されていたのは、それまでとは桁違いの活動資金、大量の最新装備、輸送艇、医療物資、そして戦闘要員を雇うための莫大な資金だった。必要なものが、必要な時に、まるで計画を先回りするかのように揃っていく。
「誰からです」
「分からない……以前から俺たちを支援している奴だ」
「まるで、近くで見ているようじゃあないか?」
室内に凍りつくような空気が走る。
見返りなしの巨額支援。
それは彼らが破滅に向かう事自体を望む者からの罠ではないのか。だが、資金が増えるほど計画は現実味を帯び、現実味を帯びるほど引き返すことは不可能になっていった。
同じ頃、中央主塔の執務室では、カール将軍が静かに報告書に目を通していた。
「もっと感情に任せて人を集めると思っていたが……彼は一般人を切ったな」
傍らの私兵隊長が問う。
「では、なぜ資金を?」
カールは窓の外、二百八十万人が暮らす平和なアーク・ガルディアの光景を見つめながら淡と言った。
「彼らは、金がなければ集まらなかった。武器がなければ怒りはただの愚痴で終わった」
「だが、金を与えれば怒りは組織になる。組織になれば目的が生まれ、目的が生まれれば彼らは自分たちの醜さを正義と呼び始める」
カールが用意させたその資金は、彼らを助けるためではない。怒りを形にし、逃げ道を塞ぎ、その狂気を現実へ変えるための完璧な燃料だった。
数週間のうちに、組織の規模は約八百人に達していた。
しかしそこにあったのは、もはや純粋な同志の集まりではない。復讐に燃える者、巨額の報奨金目当ての者、地位を取り戻したい者、略奪の機会を待つ者、そして狂気を覚悟と呼ぶ者たちの危険な寄せ集めだった。
低次元体は彼らの欲望を巧みに反射させ、ルークの言葉の端々を自分たちの都合の良い解釈へと歪め続けていた。
作戦の最終段階。
ルークは端末の画面に表示された決行までの時間を見つめる。
彼の頭の中にある目的は一貫していた。エリシアとジェミニ、その二人を一時的に拘束して連れ去り、全銀河ネットワークへ接続してエィル戦についての真実を自白させること。自分達の行いは真実を白日の元にはっきりさせる、ただそれだけだった。
「二人の絶対に殺すな!多少傷つける事にはなるだろうが、仕方ない」
ルークは静かに命じた。しかし、彼の背後に控える八百人の兵士たちの瞳には、すでに公開処刑や見せしめの狂気が宿っていた。
ルークは自分が人々を率いていると信じ込んでいた。だが実際には、彼らの底知れない憎悪のうねりに押し流され、かろうじて先頭にしがみついているにすぎなかった。
低次元体は、彼の心の奥で静かに笑っている。
決行の日はまだ来ていない。銃声もまだ鳴っていない。だが、彼らが互いを疑い、憎み、裁き始めたその瞬間から、本当の戦いはとっくに始まっていたのだった。
第七話
「もう一つの計画」
軌道要塞。
第一リング――外交区画。
各文明の大使館、連絡事務所、共同研究機関が集まるこの場所には、第二リングの商業区とはまるで異なる静けさがあった。
床は淡い白銀色。
天井を走る細い青色の光。
巨大な展望窓の向こうには、母星の青い輪郭と、無数の星々。
時折、各文明の外交艇が遠くを横切っていく。
その一角。
エィル文明大使館。
ジェミニは自室の執務机に座り、銀河連邦との外交資料を整理していた。
白を基調としたエィル文明代表用の衣装。
長い髪を背へ流し、背筋を伸ばした姿には、普段そらやカイといる時とは違う、文明代表としての落ち着いた威厳がある。
「次は……アステリア文明との技術交流報告ですね」
ジェミニが指先を動かす。
空中へ何十枚もの資料が展開された。
共同研究。
資源輸送。
民間技術交流。
造船施設利用。
外交官の往来。
どれも珍しいものではない。
アステリア文明とエィル文明は同盟は結んでいないが銀河連邦を通して技術交流が徐々に始まった、記録は毎日のように徐々に増えている。
ジェミニは一枚ずつ目を通していった。
「共同空間制御研究……問題ありません」
次。
「民間船舶用慣性制御装置……こちらも問題なし」
次。
「外縁造船施設・特別区画長期使用……」
指が止まった。
「…………?」
ジェミニは一度閉じかけた資料を戻す。
アステリア文明領外縁。
現在、一般利用されていない旧式実験施設。
三か月ほど前から、その内部にある大型建造ドックの一つが封鎖されている。
申請者。
《アステリア評議会議長》
使用目的。
《特殊研究艦・試験船体建造》
艦籍――なし。
所属――非公開。
銀河連邦軍への登録――なし。
「……研究艦?」
ジェミニは小さく首を傾げた。
研究艦そのものは珍しくない。
問題は、その規模だった。
巡洋艦級。
しかも通常の研究艦としては、明らかに船体が大きすぎる。
「妙ですね?」
もう一枚。
特殊装甲材。
高出力推進系。
多重生命維持設備。
独立型指揮区画。
空間制御機構。
さらに――
《小型立方型無人機・六十基搭載予定》
ジェミニの眉が、ぴくりと動いた。
「……六十?」
もう一度見る。
(これは銀河連邦のアレか?…小型立方型?…六十基……)
しばらく沈黙。
そして。
「これは……研究艦でしょうか?」
そこへ大使館職員AIリサが入室した。
「ジェミニ様。十五分後に銀河連邦外交局との――」
「延期してください」
「……はい?」
職員AIリサが停止した。
ジェミニは微笑んでいた。
とても穏やかに。
非常に上品に。
完璧な文明代表の微笑だった。
だからこそ――その微笑みが怖い。
長く仕える者なら知っている。
ジェミニが本当に何かを疑っている時ほど、表情は穏やかになる。
「少し確認したいことができました」
「会談を一時間ほど後ろへ」
「……承知しました」
職員AIリサは深く頭を下げた。
そのまま静かに後退する。
扉が閉まる。
ジェミニは再び資料へ目を向けた。
「アステリア文明……」
指を動かす。
施設利用記録。
外交往来記録。
銀河連邦高官の移動履歴。
そして。
一つの名前が表示された。
《エリシア・フォル・レイア》
ジェミニの笑顔が止まった。
続いて。
《銀河連邦元帥 アレクシオス・ハーディン》
「…………」
さらに数秒。
ジェミニは静かに立ち上がった。
「クロを呼んでください」
十分後。
エィル文明大使館――情報分析室。
半円形の室内に、巨大な立体情報盤が浮かんでいた。
ジェミニ。
クロ。
数名の外交補佐AI。
情報分析担当者。
全員が席についている。
クロが資料を見る。
「アステリア文明の造船施設ですか?」
「ええ」
ジェミニは腕を組んだ。
「調べます」
「どこまででしょう?」
「全部です」
「……全部?」
ジェミニは指を一本立て発言していく。
「物流」
二本目の指を立て。
「資材」
三本目の指を立て。
「設計」
四本目の指を立て。
「関係者」
五本目の指を立て。
「極秘会議」
クロの眉が上がる。
ジェミニはさらに続けた。
「
エリシア大将と元帥が、ここ数か月どこで、誰と、何を話していたのか」
クロが少しだけ身体を引いた。
「ジェミニ様」
「はい?」
「これは外交上必要な調査でしょうか?」
ジェミニはにこやかに答える。
「もちろんです」
「……個人的な好奇心では?」
「外交上必要な調査です」
即答だった。
「そら様が絡んでいるとお考えですか?」
ジェミニの笑顔が戻った。
「クロ」
「はい」
「非常に優秀ですね」
クロは額へ手を当てた。
「やっぱり、そういう話ですか……」
調査が始まった。
もちろん、エィル文明が銀河連邦やアステリア文明の機密網へ不正侵入するわけではない。
外交上閲覧可能な記録。
文明間輸送統計。
正式な施設利用申請。
共同研究に伴う入出域記録。
公的会議の空白時間。
断片的な情報だけだった。
だが。
断片が何十、何百と集まれば、そこには形が現れる。
最初に異常を見つけたのはクロだった。
「ジェミニ様」
「見つかりました?」
「エリシア大将と元帥ですが、三か月前、同日に銀河連邦側の公式記録から約六時間消えています」
「六時間?」
「はい。そして、その時間帯にアステリア評議会議長との非公式接触記録があります」
ジェミニの目が細くなる。
別の補佐官が報告した。
「その四日後、例の旧実験施設の使用許可が出ています」
さらに別のAI。
「二週間後、特殊船体フレームの建造開始」
クロ。
「一か月後、六十基分の小型機格納区画が追加」
ジェミニ。
「…………」
部屋が静かになる。
クロが恐る恐る訊いた。
「何か思い当たることが?」
「ありすぎて困っています」
さらに数時間。
設計資料の一部分が、アステリア側の技術評価文書から見つかった。
完全な設計図ではない。
だが十分だった。
船体規模――巡洋艦級。
高機動。
高い独立航行能力。
通常艦より著しく多い防御系統。
多重化された緊急離脱設備。
大幅に拡張された生活区画。
そして。
中央艦橋。
そこに、一つだけ奇妙な座席があった。
クロが拡大する。
「……小さいですね」
「ええ」
「子ども用でしょうか?」
「違います」
ジェミニは即答した。
「では?」
ジェミニは数秒、その座席を見つめる。
「そら用よ」
「断言しますね」
「断言できるわ」
次の資料。
《主搭乗者専用環境制御》
次。
《AI人格安定用独立区画》
次。
《緊急時・全指揮権から独立した離脱判断機構》
ジェミニの表情から、徐々に笑みが消えていった。
「……これは」
クロも真剣な顔になる。
「誰か一人を生き残らせるための船ですね」
ジェミニは答えなかった。
その代わり。
壁面に表示されていた一枚の写真へ目を向ける。
そら。
エリシア。
カイ。
そして自分。
以前、皆で撮影したものだった。
そらだけが中央で楽しそうに笑っている。
ジェミニは腕を組んだ。
「そらね」
クロ。
「そら様ですね」
ここで一つ、ジェミニには理解できないことがあった。
「……そら自身は知っているのかしら?」
ジェミニが呟く。
クロが訊く。
「ご本人に直接確認しないのですか?」
ジェミニは少し考える。
エリシアの性格を考えれば。
最初は秘密で動く。
だが、最後までそら本人へ知らせないとは考えにくい。
「……確認したいところだけど」
ジェミニはそこで止まった。
クロが首を傾げる。
「直接そら様に聞かないのですか?」
ジェミニは、にこりと笑った。
「いいえ」
「まずエリシアを問い詰めます」
「順番が逆では?」
「いいえ」
「こういうことは、最初に隠した人から聞くものです」
クロは冷や汗をかいていた。
「……怖いですね」
「何か?」
「何でもありません」
翌日。
分析室の中央には証拠が積み上がっていた。
アステリア評議会の特例許可。
巡洋艦級船体建造。
三か月間の物流変化。
六十基のキューブ型無人機。
エリシアと元帥の移動記録。
非公式会談。
特殊な艦橋座席。
独立航行。
緊急離脱。
ここまで来れば、もはや偶然ではない。
ジェミニはすべての資料を一つにまとめる。
「クロ」
「はい」
「結論です」
クロは姿勢を正した。
ジェミニは、ゆっくりと言う。
「エリシアと元帥は――」
「アステリア文明で、そらに関係する艦船を秘密裏に建造しているわ」
「銀河連邦には?」
「正式には知られていないわね」
「エィル文明には?」
ジェミニの眉が僅かに動く。
「一言もないわ」
「……怒っています?」
「怒っていないわよ」
「本当に?」
「怒っていないわ」
「笑顔が怖いのですが」
「クロ」
「はい」
「通信を」
「……了解しました」
同時刻。
アステリア文明領外縁。
旧空間波動実験施設。
表向きは半放棄状態となっている巨大施設の奥。
厚い隔壁の向こうに、秘密建造ドックが存在していた。
中央には。
まだ外装すら完成していない巨大な船体が浮かんでいる。
巡洋艦級。
骨格フレーム。
未装着の装甲。
むき出しの配線。
作業用ドローンが無数に飛び交い、船体各所で溶接光が瞬いていた。
現在の名称。
《PROJECT A》
後に――
そら専用統合技術型高速巡洋艦。
《アルトライア》
と呼ばれることになる艦である。
建造区画の展望室。
エリシアと元帥アレクシオス・ハーディン。
そしてアステリア評議会議長が、進捗状況を確認していた。
「船体骨格、六十一パーセント」
技術者が報告する。
「外殻装甲はまだ未着手です」
エリシアが頷く。
「急がなくて構いません」
「隠密性を最優先してください」
元帥が腕を組む。
「アステリア側の駐留銀河連邦側の動きは?」
「現在のところ異常なし」
議長が答える。
「この施設はアステリア文明内部でも限定権限です」
「銀河連邦の通常監査からは見えません」
エリシアは静かに息を吐いた。
「議長、助かります」
元帥が船体を見ながら言う。
「しかし、いつまでも隠し通せるとは思うな」
「分かっています」
「特にエィル文明のジェミニだ」
エリシアの眉が僅かに動く。
「……なぜジェミニの名前が出るのです?」
「お前はあいつの好奇心を甘く見ている」
「エィル文明には何一つ知らせていません」
「それでも気付く時は気付くよ、アレは俺の直感が訴えてくる」
エリシアは少しだけ困った顔をした。
「その時は説明します」
元帥が鼻で笑う。
「説教されるぞ」
「覚悟しています」
「私は逃げる」
「元帥も共犯です」
「私は許可しただけだ」
「一番重い共犯です」
「……可愛げがなくなったな、お前は」
その時だった。
施設AIの声が響く。
『緊急通信要求』
三人が振り返る。
『送信者――エィル文明代表、ジェミニ様』
沈黙。
元帥。
「…………」
エリシア。
「…………」
議長。
「…………」
元帥が先に口を開いた。
「だから言っただろう」
エリシアは額へ手を当てる。
「虫の知らせだったんでしょうか?早すぎます……」
第二メッセージ。
《エリシア。そこにいますね?》
元帥が半歩後ろへ下がる。
「私はいないことにしろ」
「無理です元帥」
第三メッセージ。
《元帥もいらっしゃいますね?》
元帥。
「……。」
エリシア。
「見つかっています」
第四メッセージ。
《アステリア文明外縁施設》
第五。
《巡洋艦級船体》
第六。
《六十基の小型立方型機構》
第七。
《三か月前の非公式会談》
第八。
《エリシア大将および元帥の施設出入り記録》
元帥が顔をしかめた。
「全部か…終わったなぁ…」
議長が感心したように呟く。
「凄まじい情報統合能力ですね」
最後。
《全部調べました》
その一文だけ。
エリシアが天井を見上げた。
「……終わりました」
元帥。
「まだ始まってもいないぞ」
『追加メッセージ』
三人が画面を見る。
《今からそちらへ伺います》
元帥は即座に言った。
「私は帰る」
展望室中央へ黄金色の光が集まった。
ジェミニのホログラムが現れる。
白銀の外交衣装。
両手には――大量の資料。
満面の笑顔。
「ごきげんよう、エリシア」
「……ごきげんよう、ジェミニ」
「元帥も、ごきげんよう」
「うむ……」
元帥はジェミニに捕まり瞬時に転送させられた。
ジェミニは二人を交互に見る。
続いて建造中の巨大な船体へ視線を移す。
数秒。
何も言わない。
エリシアの額に汗が浮かぶ。
やがて。
「これは?」
「……研究艦です」
元帥が横から言った。
ジェミニが振り返る。
「そうですか」
一枚目の資料を開く。
《そら体格基準・艦橋主座席寸法》
元帥がエリシアを見る。
エリシア。
「…………」
ジェミニ。
「研究艦?」
二枚目。
《単独生存を前提とする独立航行区画》
三枚目。
《主保護対象緊急離脱機構》
四枚目。
《小型立方無人機六十基》
ジェミニは首を傾げた。
「とても個性的な研究艦ですね?」
エリシアは観念したように目を閉じた。
「……そらの為の艦船です」
「やはり」
即答だった。
元帥が咳払いする。
「ジェミニ。事情が――」
「元帥」
「何だ」
「後で伺います」
「……はい」
エリシアが思わず元帥を見る。
銀河連邦軍最高司令官が、文明代表AIに一言で黙らされていた。
それも仕方がない事、この行為は国家を裏切る行為そのものだから。
ジェミニはエリシアへ向き直る。
「いつからです?」
「数か月前から」
「誰が計画を?」
「私です」
「元帥は?」
「承認者です」
「アステリア文明は?」
議長が手を挙げる。
「施設と技術協力を」
「銀河連邦は?」
「知りません」
「エィル文明は?」
「……知りません」
一拍。
ジェミニの笑顔が消えた。
「私も?」
エリシア。
「……はい」
ジェミニは静かにまとめる。
「そらを守るための専用艦を造っているのに」
「私たちエィル文明へは、一言も相談しなかったと?」
エリシアは視線を逸らさない。
「巻き込みたくなかったのです」
「この計画は銀河連邦に知られれば、私も元帥も処罰される」
「エィル文明まで危険へ巻き込む可能性、同盟も危うくなる」
ジェミニは黙った。
その表情から、先ほどまでのコメディじみた圧が消える。
「……そうですか」
静かな声だった。
エリシアも何も言わない。
だが、ジェミニが次の言葉を発するより先に、エリシアが静かに口を開いた。
「ただし、誤解しないでください」
ジェミニが彼女を見る。
「この計画は、そらがエィル文明へ連れ去られるより前に始めたものです」
「……え?」
元帥も、わずかに視線を上げた。
エリシアは建造中の船体へ目を向ける。
「そらがエィル文明へ誘拐される可能性を知ってから、急いで造り始めたわけではありません」
「その事件が起きる前から、そら専用機の必要性を考えていました」
ジェミニは黙って彼女の言葉を聞いている。
「そらは、銀河連邦にとっても、アステリア文明にとっても、そしてエィル文明にとっても、あまりに貴重で重要な存在です」
「だからこそ、誰かの判断だけで守られるのではなく、そら自身が自分の意思で逃げ、生き残れる手段が必要だと考えました」
エリシアは拳を静かに握る。
「エィル文明へ連れ去られた事件は、この計画のきっかけではありません」
「計画が必要だったことを、現実が証明してしまっただけです」
ジェミニばつが悪そうな態度で瞳が揺らしていた。
エリシアは視線を逸らさない。
「ここ数ヶ月でそらに接するあなたの態度は信用に値すると判断しました、そらもあなたといる時は楽しそうにしている、だから信用していなかったわけではありません」
「そらを奪われる前から、誰にも知られずに備えておく必要があったのです」
「もし最初からエィル文明へ相談していれば、計画そのものが外交問題になり、そらを守るための艦が完成する前に止められていたかもしれません」
「だから、あなたたちを巻き込みたくなかったのではなく――完成するまで、誰も巻き込めなかったのです」
ジェミニはしばらく黙っていた。
やがて、建造中の船へ視線を戻す。
骨組みだけ。
まだ飛ぶことすらできない。
それでも。
何のための艦なのかは理解できた。
逃げるためだけではない。
戦うためだけでもない。
そらが、誰にも奪われず。
誰かの所有物にもならず。
自分自身として生き残るための場所。
そしてそれは、そらがエィル文明へ連れ去られた後に思いついた急場しのぎではない。
その事件が起きる前から、エリシアたちはそらの未来を案じ、誰にも知られない場所で準備を始めていたのだ。
しばらくして。
ジェミニが口を開いた。
「エリシア」
「はい」
「一つだけ確認するわ」
ジェミニの瞳が真っ直ぐ彼女を見る。
「これは、そらを兵器にするための艦じゃないわね?」
エリシアは即答した。
「違います」
「閉じ込めるためでも?」
「ありません」
「そら自身が望めば、誰にも命令されず離脱できる?」
「そのための艦です」
ジェミニは目を閉じる。
そして――小さく笑った。
「なら」
エリシアが僅かに首を傾げる。
「エィル文明も参加するわ」
「……え?」
今度はエリシアが固まった。
元帥が低く笑う。
「やはり、そうなるか」
ジェミニは指を一本立てる。
「情報防御」
二本。
「AI人格保護」
三本。
「精神・情報干渉対策」
四本。
「キューブビットの高次同期制御」
五本。
「そら専用機の非常時独立制御」
エリシアが口を挟む。
「ちょっと、待ってください」
「何でしょう?」
「あなた達エィルを巻き込まないために黙っていたのです」
「もう知ってしまったわ」
「だからといって――」
「知った以上、放っておけないわ」
ジェミニは微笑む。
「そらを守るのでしょう?」
一拍。
「それなら、私達にも守らせてちょうだい」
エリシアは言葉を失った。
元帥が腕を組み、小さく頷く。
「三文明共同か」
議長も楽しそうに笑う。
「面白くなってきましたね」
エリシアだけが頭を抱えた。
「規模を大きくしないでください……」
ジェミニ。
「できるだけ小さくするわ」
元帥。
「信用できんな」
ジェミニ。
「失礼ね」
議長。
「では主砲を――」
エリシア。
「増やしません!」
三人。
「…………」
エリシアは額へ手を当てた。
「これはそらを守る艦です」
「巨大戦艦を造る計画ではありません!」
ジェミニが真面目な顔で頷く。
「分かっているわ」
少し間を置いて。
「ですので、防御性能を上げましょう」
「そっちですか……」
元帥がとうとう笑い出した。
そして。
ジェミニが最後に何気なく尋ねた。
「ところで」
エリシア。
「……まだ何か?」
「そら本人は、この計画をご存じなのかしら?」
室内が止まった。
元帥が目を逸らす。
エリシアが少しだけ視線を泳がせる。
ジェミニの眉が上がった。
「まさか」
「……知っています」
「いつから?」
「元帥の承認を得た後に、私から話しました」
ジェミニ。
「…………」
「つまり」
「そらも知っていた?」
「はい」
「私には言わなかった?」
「機密なので……」
長い沈黙。
ジェミニは静かに通信端末を取り出した。
エリシア。
「何を?」
「そらへ通信するわ」
「待ってください」
「なぜ?」
「今は――」
すでに繋がった。
『ジェミニ?』
そらの明るい声。
『どうしました?』
ジェミニは満面の笑顔で聞いた。
「そら」
『はい!』
「《アルトライア》を知っているわね?」
通信の向こう。
「…………」
沈黙。
ジェミニ。
「そら?」
『…………えっと』
「はい」
『……知ってます』
ジェミニ。
「私には?」
『…………』
「そら?」
『ジェ、ジェミニ! 機密だったんです!』
「そう」
『怒ってます?』
「いいえ?」
その瞬間。
後ろで元帥が吹き出した。
エリシアは顔を覆った。
そらの声が慌てる。
『その「いいえ?」は絶対怒ってますよね!?』
ジェミニは微笑んだ。
「帰ったら、ゆっくりお話ししましょう」
『えぇぇぇぇぇ!?』
通信終了。
元帥の笑い声が造船施設へ響いた。
こうして。
エリシアと元帥だけが始めた極秘計画は。
アステリア文明のアステリア評議議長を経て。
ついに――エィル文明へ露見した。
だが。
計画は止まらなかった。
逆だった。
エィル文明の参加によって、《アルトライア》は単なる銀河連邦技術とアステリア文明技術の混合艦から。
三文明の技術が集約された、唯一の巡洋艦へと変わり始める。
その目的は一つ。
そらを兵器にするためではない。
そらを閉じ込めるためでもない。
もし、いつか。
銀河連邦ですら彼女を守れなくなる日が来ても。
そら自身が、生きる場所を選べるようにするため。
そしてその願いは、そらがエィル文明へ誘拐されるよりも前から、すでに始まっていた。
建造ドックの中央。
まだ骨組みだけの巨大艦。
その艦体へ、作業用の光が次々と灯っていく。
《PROJECT A》
後の正式名称――
そら専用統合技術型高速巡洋艦。
《アルトライア》。
その建造計画は、この日。
誰にも知られないまま、第二段階へ移行した。
そして一方。
軌道要塞の片隅では、
そらは青ざめていた。
「……私、ジェミニに怒られますよね?」
そらが小さく呟く。
隣にいたカイは、一秒も迷わず答えた。
「怒られますね…」
「助けてください!」
「嫌ですよ!ジェミニは時折、俺を見る目がゴミを見る様な目になる時があるから!?」
「カイーーー!」
「俺まで巻き込むなーーー!」
二人の声が、穏やかな通路へ響いていった。
まだ誰も知らない。
この少し可笑しな極秘計画が。
やがて彼女たち全員の命と全宇宙の生命体の運命を左右する一隻へと――
成長していくことを。
八話 異常観測
軌道要塞。
深夜。
二百八十万人を抱く巨大な三重環状都市は、人工の夜に包まれていた。
第三リングの居住区では、天井いっぱいに広がる環境投影が、地球から見上げた夜空を再現している。
星が瞬く。
もちろん、本物ではない。
けれど、ここで生まれ育った子どもたちにとっては、それもまた夜空だった。
昼間は人波で埋め尽くされる中央広場に人影は少ない。
閉店した店の前を清掃ドローンがゆっくり進み、遠くでは深夜便の環状列車が低い走行音を残して通り過ぎていく。
軍事区画だけは眠らない。
宇宙港には艦艇の航行灯が並び、整備中の戦艦を無数の作業灯が照らしていた。
それでも。
平穏だった。
警報はない。
敵影もない。
要塞外壁に異常なし。
生命維持系、正常。
重力制御、正常。
交通管制、正常。
治安AIから緊急報告も上がっていない。
何も起きていない。
少なくとも――。
銀河連邦が観測できる世界では。
◇
同時刻。
エィル文明大使館。
その地下深く。
通常の外交官であれば入室することさえ許可されない観測区画で、一人の少女が足を止めた。
リリだった。
銀白色の髪が、天井から降り注ぐ淡い青色の照明を受けて輝いている。
彼女の前には、巨大な円形隔壁。
その中央に刻まれたエィル文字が、静かに点灯した。
《認証――リリ》
《エィル文明代表権限確認》
隔壁が左右へ開く。
低い駆動音。
その向こう。
暗闇の中に。
巨大な三つの輪が浮かんでいた。
《多層情報共鳴観測装置》
――MIRAGE。
だが。
機器はまだ眠っている。
三重の観測リングは僅かな待機光を帯びているだけで、中央観測席の周囲にも目立った変化はない。
MIRAGEは、それだけでは情報層を観測できない。
どれほど高度な装置でも。
機械は機械だった。
通常状態で測れるものは、脳波、生体電磁場、心磁場、神経活動、トーラス場、量子的揺らぎ、周辺空間に生じる極微細な物理変化。
それだけならば。
《物理観測モード》にすぎない。
本当のMIRAGEには。
人間が必要だった。
いや。
正確には――。
情報共鳴者が必要だった。
「準備できています。」
静かな声がした。
リリが視線を向ける。
中央観測席。
そこに一人の女性が座っていた。
年齢は三十代ほどに見える。
濃い藍色の観測服。
髪は後頭部で束ねられ、首筋から伸びる細い観測端子が座席へ接続されている。
エィル文明。
第5共鳴層《上級能力者》五万人の内の一人だ。
そして。
MIRAGE運用を専門とする――
《共鳴観測士》。
リリは小さく頷いた。
「始めてください。」
「はい。」
女性は。
ゆっくり目を閉じた。
呼吸を深く吸いゆっくり吐き出すを繰り返す。
MIRAGEが徐々にし始める反応する。
《生体共鳴鍵――認証》
《共鳴階層――第5共鳴層》
《トーラス場――形成開始》
観測士の胸元。
心臓付近を中心に。
目には見えない微細な変化が生まれる。
MIRAGEの物理センサーが、それを拾う。
《心磁場変動――正常》
《生体電磁場――安定》
《トーラス整合率――上昇》
観測士の呼吸が。
さらに深くなる。
意識が。
自分自身から。
身体周辺へ。
そして。
自分ではないものへ。
静かに広がっていく。
第6共鳴層《一般能力者》であれば。
ここから先へ進めない。
共鳴は自己と自己周辺を中心として閉じる。
だが。
彼女は。
第5共鳴層。
境界を越えられる。
観測士の眉間が。
僅かに動いた。
《シルバーコード安定》
《深層意識同期》
《外部共鳴境界――接触》
そして。
一瞬。
三重リングを巡る光が。
止まった。
リリの瞳が細くなる。
次の瞬間。
――ヴゥン。
低い共振音とともに。
三つの巨大リングが。
一斉に青白く発光した。
《共鳴観測窓――形成》
《固定開始》
《増幅率――正常》
《多層情報共鳴観測モード》
《起動》
暗かった観測室が。
光に満たされた。
リリの銀髪が。
青く染まる。
その瞳の前に。
巨大な《アーク・ガルディア》が浮かび上がった。
第一リング。
第二リング。
第三リング。
軍事区画。
商業区。
居住区。
宇宙港。
無数の光点。
二百八十万人。
一人一人の心を読んでいるわけではない。
魂を見ているわけでもない。
MIRAGEは。
そんな万能の装置ではない。
共鳴観測士が開いた《窓》を通して。
物理世界へ現れた微細な変化を。
数十種類のセンサーで拾う。
MIRAGEが測る。
AIが比較する。
観測士が窓を維持する。
その三つが揃って。
初めて。
通常の物理現象だけでは説明できないものが浮かび上がる。
そして。
リリは。
それを見つけた。
「……?」
青い瞳が。
一点で止まった。
《広域共鳴偏差――基準値超過》
ほんの僅か。
リリは右手を上げた。
「再計測。」
《再計測開始》
数字が消える。
数秒後。
新しい値。
同じ方向。
「観測士の同期状態を確認。」
《正常》
「MIRAGE自己診断。」
《全系統正常》
「センサー誤差。」
《許容範囲内》
リリの眉が。
僅かに寄った。
機械の故障ではない。
観測士の問題でもない。
なら何を測っている?
「発生地点を。」
《解析》
要塞模型の一部が。
淡く明滅する。
軍病院。
リリの視線が動く。
別の場所。
慰霊関連区画。
さらに。
軍関係者の家族が多く暮らす居住区。
退役軍人の多い区域。
政府への抗議活動が増えている地区。
古い商業区。
そして。
まったく関係なさそうな一般住宅区。
「……違う。」
リリが。
小さく呟いた。
一か所ではない。
「中心点を検索。」
《検索中》
数秒。
《該当なし》
「最大発生源。」
《特定不能》
「単一共鳴者。」
《該当なし》
「既知の広域共鳴現象と比較。」
膨大な記録が流れる。
《一致なし》
リリの目から。
少しずつ柔らかさが消えていった。
「装置による干渉。」
《物理空間内に該当発生源なし》
静寂。
中央では。
第5共鳴層の観測士が目を閉じたまま。
《共鳴観測窓》を維持している。
額に。
薄く汗が浮かんでいた。
情報量が多い。
上位の共鳴者だからといって。
世界が簡単に見えるわけではない。
深く接続するほど。
流れ込む情報も増える。
MIRAGEは。
その膨大な情報の中から。
人間には処理できないほど小さな相関を拾っていく。
リリは。
過去数日間の変化を重ねた。
「時間軸を展開。」
要塞模型の周囲へ。
無数の波形が広がる。
最初何も分からなかった。
リリは。
黙って見続ける。
十秒。
二十秒。
一分。
そして。
指先が止まった。
「……ここ。」
一人。
ある人物に対応した観測記録。
強い感情反応。
時間経過とともに低下。
そこまでは日常の自然。
だが。
鎮まりかけた。
その瞬間。
微細な偏差が再び。
急上昇。
リリの瞳が。
僅かに大きくなる。
「別の対象。」
二人目。
下降。
偏差。
急上昇。
「次。」
三人目。
同じ。
「次。」
また。
同じ。
十人。
二十人。
五十人。
場所も違う。
年齢も。
性別も。
生活も。
人間関係も違う。
それなのに。
反応が弱まりかける瞬間だが。
再び似た揺らぎが発現する。
リリは。
画面へ一歩近づいた。
右手の人差し指が。
一つの波形を追う。
「これは……。」
怒りそのものを測っているのではない。
悲しみを数値化しているのでもない。
心拍。
神経活動。
生体磁場。
トーラス位相。
非局所相関。
複数の現象が。
同じ瞬間に。
僅かに変化している。
まるで。
消えかけた感情が。
急速に――押し戻されているように。
だが。
リリは。
その言葉を口にしなかった。
「相関解析。」
《実行》
「偶然一致の可能性。」
《解析》
待つ。
リリの横顔から。
表情が消えていく。
結果。
《通常モデルのみでは説明困難》
リリの目が。
ゆっくり細くなった。
「……そうですか。」
「何が、そうなのです?」
背後から。
声がした。
リリが振り返る。
いつの間にか。
観測室入口に。
ジェミニが立っていた。
長い髪。
静かな瞳。
いつもの落ち着いた表情。
けれど。
リリは。
その姿を見た瞬間。
ほんの少しだけ。
肩の力を抜いた。
「おねちゃん。」
ジェミニの口元が。
僅かに柔らかくなる。
リリにとって。
ジェミニは今でも….
心の中ではマザーだった。
自分を生み出した存在。
それでも。
本人が。
「おねちゃんと呼びなさい」
と言うのだから。
呼ぶ。
「こんな時間まで何をしているのです?」
ジェミニは歩きながら。
巨大な観測画面へ目を向ける。
その足が。
止まった。
「……これは?」
リリは。
ジェミニの横へ並んだ。
「分かりません。」
ジェミニが。
リリを見る。
「あなたが、その言葉を使うのは珍しいですね。」
「分からないので。」
「そうですか。」
ジェミニは。
画面へ視線を戻した。
「説明してください。」
リリは即座に。
先ほどの波形を表示した。
「人間の感情に伴う生体・共鳴反応が収束し始めます。」
下降。
「その直後。」
小さな偏差。
「複数の指標に、説明できない相関が現れます。」
そして。
再上昇。
ジェミニの目が。
僅かに細くなる。
「何かが作用していて?感情を再び強くしている?」
「分かりません。」
リリは。
すぐ否定した。
「MIRAGEが観測したのは、相関です。」
ジェミニが横目を向く。
「原因不明?」
「はい。」
「存在も、何もかも?」
「確認していません。」
「つまり。」
ジェミニは。
腕を組んだ。
「結果だけがあるが?」
「現在のところは原因不明?」
ジェミニは。
しばらく何も言わなかった。
巨大な要塞模型。
そこに浮かぶ。
無数の小さな偏差。
やがて。
「エリシアへ報告しましょう。」
リリが頷く。
「はい。」
◇
暫定旗艦。
大型シールド戦艦。
旧旗艦を失い。
後継艦《リンドウⅡ》がまだ建造中である現在。
エリシア・フォル・レイア大将たちは、この大型シールド戦艦を暫定的な指揮艦として使用していた。
深夜にもかかわらず。
エリシアは執務室にいた。
軍服の上着を椅子の背へ掛け。
白いシャツ姿。
机上には。
処理途中の書類。
片手には。
冷めかけたコーヒー。
通信画面に現れたリリとジェミニを見て。
エリシアは。
嫌な予感がした。
「この時間にお二人から通信ということは。」
姿勢を正す。
「何かありましたか?」
『はい。』
リリが答える。
『軌道要塞全域で、通常とは異なる情報共鳴偏差を観測しています。』
エリシア。
「…………。」
リリ。
『…………。』
エリシアの目が。
僅かに泳いだ。
「……すみません。」
『はい。』
「最初からお願いします。」
『最初から?』
「その。」
エリシアは。
少し気まずそうに眉を下げる。
「情報共鳴偏差とは……何ですか?」
ちょうど部屋へ入ってきたカイ准将の足が。
止まった。
「大将。」
「何です。」
「前にも説明されてませんでした?」
エリシアが。
ゆっくりカイを見る。
「説明されました。」
「クロとレイナードから。」
「はい。」
「なら。」
「カイ。」
「はい。」
「説明を受けたことと、理解できたことは別問題です。」
カイの口が。
少し開く。
「……それは。」
一拍。
「確かに。」
通信画面の向こうで。
ジェミニの口元が。
ほんの僅かに動いた。
エリシアが見逃さなかった。
「ジェミニ大使」
『はい』
「今、笑いました?」
『いいえ』
リリが横を見る。
『おねちゃん、少し笑いました』
『リリ』
『事実です。』
カイが。
顔を背けた。
肩が。
僅かに震える。
「カイ」
「笑ってません」
「まだ何も言っていません」
「……。」
数秒だけ。
空気が緩んだ。
だが。
リリの表情が戻る。
『簡単に言います。』
「お願いします。」
『アーク・ガルディアの一部の人々で、怒りや悲しみなどが鎮まり始めた時――通常なら見られない、大きな変化が観測されています。』
エリシアは。
黙って聞いた。
『原因は分かりません。』
「装置?」
『確認されませんでした』
「低次元体の可能は?」
『それも分かりません。』
「危険なのですか?」
リリが。
少し間を置く。
『現段階では、判断できません。』
エリシアは。
腕を組んだ。
眉間へ。
薄い皺。
「つまり。」
言葉を探す。
「人々が……怒りっぽくなっている?」
リリが。
ほんの一瞬。
止まった。
『……非常に単純化すれば。』
カイが横から覗く。
「最近の状況なら、珍しくない気もしますけどね。」
エリシアは小さく頷いた。
軍人を家族に持つ者。
突然。
大切な人を失った者。
説明を求めても《機密》としか答えが返ってこな
い、何があったのかどうして死んだのか知りたいの
に、そのやり場の無い怒りを悲しみを….
政府を疑う、この日常は…
戦時統制化のエリシアの日常と化していた、銀河連
邦はまだ階層という敵を抱えていて、リリ達の報告
を重大な危機とは受け止められなかった。
だが。
一つだけ。
すぐにエリシアは訊いた。
「そらは?」
ジェミニの瞳が。
僅かに変わった。
カイは。
やっぱりそこか。
という顔で天井を見る。
リリは答える。
『そらへの直接的な異常は、現在確認されていません。』
エリシアの表情が。
少し緩む。
「人格構造は?」
『正常です。』
「情報構造。」
『異常なし。』
「外部干渉。」
『確認されていません。』
「よかった」
ようやく。
エリシアの肩から。
僅かに力が抜けた。
「でしたら。」
端末へ指を置く。
「今の段階では、監視を続けてください。」
『分かりました。』
「原因不明というだけで市民へ発表する必要もありません。」
「むしろ。」
エリシアは少し考える。
「“正体不明の何かが感情へ影響しているかもしれない”などと発表すれば、それ自体が混乱を生みます。」
ジェミニが頷く。
『同意します。』
「銀河連邦側でも通常の治安状況は確認しています。」
それだけ。
エリシアにとっては。
まだ。
非常事態ではなかった。
そして。
それは。
銀河連邦の感覚として。
間違ってはいない。
彼らには。
知らない世界だったからだ。
◇
通信が切れた。
暗くなった画面を。
ジェミニは。
しばらく見ていた。
「……温度差がありますね。」
リリが言った。
「仕方ありません。」
ジェミニは。
静かに答える。
「彼女たちは情報共鳴を、まだほとんど知りません、地球の次元レベルも低いですし….」
リリは。
MIRAGEへ視線を戻す。
「私たちは調査を続けますか?」
「続けます。」
即答だった。
「銀河連邦の内政です。」
「分かっています。」
「我々が過度に介入すれば。」
「それも分かっています。」
ジェミニの声は。
静かだった。
だが。
迷いはない。
リリは。
その横顔を見る。
理由も。
分かっていた。
表向きは、銀河連邦とは交流が進んでいる。
技術交流も、外交関係も、深まりつつある。
その社会で、未知の現象によって同盟国の市民が苦
しんでいる可能性があるなら、調査し協力する。
それは。
文明として。
間違った行動ではない。
けれど。
それだけではない。
リリの瞳に。
一人の姿が浮かぶ。
レイテマザー。
そして。
マザー達が注視しているそら。
この異常の現象の目的は、分からない。
低次元体の可能性も…..
そもそも。
それ以外の意思を持った何者かが存在するのかすら、分からない。
だからこそ、捨てられない可能性がある限り。
もし。
この現象の先に、そらがいて….
もし。
気付けたはずなのに、見逃したら。
もし。
その事でそらが傷ついたら?人格が損なわれたら?
情報構造を破壊されたら、我々が何の為にマザーに
送り出されて来た意義も信頼も失うそれだけは…..!
リリの指先が。
ほんの僅かに。
握られた。
レイテの前へ。
立てるだろうか。
『分かりませんでした』
『気付きませんでした』
『間に合いませんでした』
そんな報告を。
できるだろうか….嫌!出来るわけない!!
レイテが怒るからではない。
罰せられるからでもない。
もっと。
単純だった。
自分自身が、レイテの前へ立てなくなるでは済まされない!!
「リリ。」
ジェミニの声。
リリが顔を上げる。
「はい。おねちゃん。」
ジェミニは。
MIRAGEを見つめたまま。
静かに言った。
「分からないものを、分かったことにしてはいけません。」
「はい。」
「恐れてもいけません。」
「はい。」
「ですが。」
ジェミニの目が。
僅かに細くなる。
「見逃してもいけません。」
リリは。
ゆっくり頷いた。
「はい。」
◇
再び。
深夜。
MIRAGE観測室。
観測士は交代していた。
新たな第5共鳴層《上級能力者》が観測席へ座り。
《共鳴観測窓》を維持している。
リリは。
一人。
巨大な要塞模型を見つめていた。
《広域共鳴偏差――継続》
《発生中心――特定不能》
《単一共鳴源――なし》
《既知現象との一致――なし》
リリは。
軍病院周辺を拡大する。
一人の人間。
反応が。
ゆっくり弱くなる。
そして。
また。
大幅に上がった。
「…………。」
リリの目が。
その一点へ固定される。
次の瞬間。
MIRAGEの表示が。
一瞬だけ。
――欠けた。
「……?」
リリの指が止まった。
ノイズではない。
上昇でもない。
低下でもない。
その瞬間だけ。
そこにあったはずの情報が。
抜け落ちた。
ように見えた。
「直前三秒を再生。」
《再生》
正常。
「もう一度。」
正常。
「観測窓の揺らぎを確認。」
《正常範囲》
「観測士。」
リリが中央を見る。
「何か感じましたか?」
女性が。
目を閉じたまま答える。
「……いいえ。」
「何も?」
「はい。」
一拍。
「ただ。」
リリの瞳が動く。
「何です?」
観測士の眉が。
僅かに寄った。
「分かりません。」
「…………。」
「何かを感じた、というわけではありません。」
女性は。
言葉を探す。
「むしろ。」
「ほんの一瞬だけ。」
「そこに何もないということが……不自然だったような。」
リリは。
何も答えなかった。
画面を見る。
何もない。
原因も。
ない。
名前も。
ない。
MIRAGEにも。
正体は分からない。
第5共鳴層の観測士にも。
見えない。
リリにも。
分からない。
だから。
リリは高速思考した結果、最も有力視している第三共鳴層以上を呼び寄せれば、直ぐに原因が…だが…出来ない…あの者達はエィル母星の最後の切り札….リリは意識を瞬時に変え現実逃避を切り替えた。
記録へ。
事実だけを書いた。
《広域情報共鳴異常――継続》
《発生中心――特定不能》
《要塞全域へ分散》
《既知現象一致――なし》
《物理的原因――未確認》
《外部情報干渉――可能性を排除できず》
《危険度――判定不能》
《継続観測》
最後。
指が。
止まる。
リリは。
ほんの少し考え。
もう一行。
加えた。
《分類――未知》
それ以上は。
書かなかった。
書けなかった。
まだ。
誰も知らないから。
銀河連邦は。
もちろん。
知らない。
エリシアも。
カイも。
FOSAも。
軍も。
そして。
エィル文明でさえ。
その正体を、掴めないでいた。
今夜。
リリが発見したものは。
生命体ではなかった。
敵でもなかった。
怪物でもなかった。
ただ。
本来なら。
そこにないはずの。
小さな偏差。
それだけ。
だが。
二百八十万人の眠る巨大要塞で。
一人の男が。
暗い病室の天井を見つめていた。
大切な者を失った記憶が。
胸の奥に蘇る。
怒り。
悲しみ。
やがて。
それは。
ゆっくりと。
鎮まり始める。
――その瞬間。
何もない場所で。
何かが。
ほんの僅かに。
揺れた。
男の眉間へ。
再び。
皺が寄る。
「……許せない。」
誰に向けた言葉なのか。
本人にも。
分からない。
その遥か下。
MIRAGEの観測値が。
ほんの僅かに。
動いた。
リリが。
顔を上げる。
だが。
そこには。
何も。
映っていなかった。
彼女は。
まだ知らない。
今夜。
自分が観測を始めたことで。
未知へ一歩近づいたことを。
そして。
もし。
その未知に。
意思があるのなら。
――こちらが観測した瞬間。
向こうもまた。
こちらを。
知ったのかもしれない。
リリの青い瞳が。
暗い観測空間を見つめ続ける。
三重のMIRAGEリングが。
静かに。
回り続けていた。
誰も。
名前を知らない。
誰も。
正体を知らない。
誰も。
目的を知らない。
だから。
今は。
ただ一つの言葉しかない。
《未知》
それが。
《アーク・ガルディア》に忍び寄る異変に。
初めて与えられた。
唯一の分類だった。
「異常観測」
――この夜。
リリは敵を発見したのではない。
「何かがおかしいが原因を特定出来ない、もどかしさ」という事実だけを、初めて観測した。




