長尾景虎の苦悩
上杉謙信をイメージするときに、あなたはどう感じるでしょう。軍神、聖将、武人でしょうか。
長尾為景の死後、長子である長尾晴景(1509-1553)が後を継ぎます(1540)が、為景が力でおさえつけるタイプだったのに対し、晴景は調整型のタイプでした。そのため為景というタガの外れた越後はバラバラになり、晴景は弟で仏門に籍を置いていた弟の虎千代を還俗させます(後の謙信)。景虎はその後、敵対する勢力を次々と下していきます。その結果、三条長尾家は1547年に晴景派と景虎派に別れ対立し、景虎派には母の実家である古志長尾家が、晴景派には古志長尾家と仲の良くない上田長尾家、上条上杉家が付き、戦となります。
結果景虎派が優勢となり、自分では越後をまとめられないと悟った晴景は弟の景虎を養子にし、1548年12月に数え年でわずか19歳で守護代の地位を継がせます。
そして景虎は反旗を翻した国人や、上田長尾家を従えていきます。ですが彼はまだ若く、後ろ盾も少なかったため、兄である晴景がなくなる前に、ライバル関係にある、上田長尾家の長尾政景(1526-1564)に姉(仙桃院(1528?-1609)との婚約を押進め血縁関係を深めます。これによって、長尾三家は姉と政景の姻戚関係によって結ばれます。
一応越後は長尾景虎を中心とした形でまとまったように見えますが、彼には後ろ盾になってくれる親や、力になってもらえるはずの兄弟もすでに殺害されていたため、一人で越後の国を背負っていかなければならなくなってしまいます、大変心細ったでしょう。
途中で豪族同士の争いに愛想がつきて、国を放って出ようとしたこともありました(1556年)。心に不安がある人は何かに救いを求めようとします。それが謙信にとっては毘沙門天だったのでしょう。
上杉謙信の肖像画というのを子供のころに見たことがりますが、ひげの生え堂々たる姿で書かれていますが、様々な証言から小柄な人物であったという説もありはっきりしていません。ただ伊達政宗が肖像画を描かせるときには必ず両目がある絵を描かせたことからも、個人の理想や要望の混じったものが多かったのでないでしょうか。
上杉謙信の男の養子は、実は4人います。長尾顕景(長尾政景の子、後の上杉景勝)北条三郎(北条氏康の7男、後の上杉景虎)は有名ですが、他にも能登畠山氏の畠山義春(後に上条上杉政繁の養子となる)と、村上国清(村上義清の子、後山浦景国)です。
そして、越後の軍神であり、統一の象徴であった謙信が1577年12月急死します。死因は脳溢血と言われ、酒と塩分の過剰摂取背あろうといわれています。
ただ自分の後継者をはっきりさせておかなかったため、その後、養子の景勝と景虎の間に|御館の乱が起こります。
私には彼の一生は長尾家の対立と内紛に巻き込まれ、自由の利かないものだったように感じられます。