ハートのエースが出てこない
九月。まだ頑固に暑さは居座りつづけていた。
夏休みが終わっても拓郎は学校にはまだ一度も行っていない。
映画でしかお目にかかれなかった一流ホテルのスイートでの生活が日常になっていた。そこだけで生活できそうな巨大なベッドには、あの少女が横たわり、かたわらの彼を熱いまなざしでみつめる。冷たかったはずの彼女の心を彼のほうに向けたのは当然悪魔の力である。
ふたりを楽しませるためだけに世界中から最高の才能が集まってくる。最高の音楽家、画家、舞踏家、武道家、料理人、美容師、エステティシャン、さらには最高の美男美女たち。超一流の匠の技がふたりをもてなした。
今朝は、高名な三人のテノール歌手が、ふたりのためだけに来日して『スーダラ節』を歌ってくれた。偉大なテノール歌手たちは自由意思でそんなことをしている、……と彼ら自身では思っているのである。
植木等風のいでたちの三人を眺めながら食べたのは、超一流のシェフが腕によりをかけて調理したインスタントラーメンだった。
はじめの頃はそんなひねくれたことはしなかった。一流の芸術家には彼ら本来の技を発揮させたし、一流の料理人には一流の食材で料理を作らせた。
しかし、感激してそれらに接する期間は思いのほか短かった。
感激の絶頂を越えると、そこは退屈という名の牢獄だった。
その気になれば、あらゆるスポーツのスーパースターになれる。メジャーリーガーとして逆転満塁ホームランを売ったこともあるが、観衆の拍手が裸の拓郎自身に向けられたものではないことを虚しく感じただけだった。
世界中から集まる最高の美女、美食、芸術、称賛、栄光。しかし、それらには今の拓郎を満足させるだけの力がなかった。
「悪魔さーん、来てよ」
無気力な声に自分でも驚いていた。
次の瞬間、部屋中にうすら寒い雰囲気が充満した。
ふたりの眼前に巨大な存在が姿を現す。
「今度はどんな願いだ」
「悪魔さん、俺このままでいいのかな。最近、なにもかも虚しくってさ。お願い、俺を幸せにしてよ」
悪魔は顔中に禍々しい笑みを浮かべた。
「本来なら、そんな願いを口にした瞬間イコール、お前が寿命を終えるときなのだがな」
拓郎の脳裏にかつての悪魔の台詞がリフレインされた。
――お前が口にした願い事が、わしの能力を越えているとき、わしの信念に反するとき、あるいはわしのイメージを損なうときは警告してやろう。もちろん、お前がその警告を無視してどうしても願い事を叶えてくれといった場合どうなるかわかるな――
「ひとを幸せにするのは悪魔の信念に反するってわけか」
「わしのイメージも損なわれてしまうではないか。恐ろしくて邪悪なものだというわしのイメージに傷をつけると今後の営業活動に支障をきたす」
「ひとを幸せにする能力はあるんだね」
「微妙なところだな。これは“幸福”という言葉の定義にもよるな。なんの苦労もなく地位や名誉や快楽などの欲求が満たされて、将来の金銭的不安がないのが幸福というのなら、わしは人を幸福にすることができるがな。まさに今のお前がそうだ。だが、お前は自分を不幸だと思っておるようだ。お前がかんがえる幸福とはいったいどんなものだ。定義が精密化されていない願いを叶えるのは神でさえ不可能だぞ」
「わかんないよ俺には。幸せのカードは揃ってるはずなんだ。金、女、栄光……でも、なにか一枚が足りない」
「よく考えることだな」
悪魔の姿が薄れていく。
数ヵ月前の自分には想像もできなかった恵まれた状況におかれている。それは確かなのだ。なのにこの虚しさはなんなのだろう。
かたわらの美少女が微笑みかける。以前あれほど拓郎の心をとろけさせた微笑みも、その神通力を失っていた。世界中の美女を自由にできるために相対的に彼女への評価が下がったこともあるだろうが、それだけだろうか……。




