行き先を選ぶ
夜が明ける前、工房は静まり返っていた。
オーブンの余熱だけが、まだ微かに温かい。
不器用なおじさんは、手を洗い、作業台に残った粉を掃いた。
ここ数日、考え続けていた。
王城の依頼。
量産の話。
商人の提案。
すべて、魅力的だ。
誰もが羨む安定と名誉、そして報酬。
でも、心が折れそうになるのも確かだった。
数字に埋もれ、効率に追われ、顔の見えない相手に甘さを届けるだけの生活――。
それは、自分が望んでいた「菓子作り」ではない。
窓から差し込む朝日が、粉の粒子を金色に輝かせる。
見慣れた光景だが、今日だけは違った。
手にしたマカロンをひとつ、そっとかじる。
形は不揃い、割れ目もある。
でも味は、間違いなく甘い。
そして、誰かの顔を思い浮かべることができる。
(……俺は、ここで作る)
決意は自然に湧き上がった。
王城に飾られる栄誉や、商人に量産される効率より、
自分の手で届けられる「喜び」が、何よりも大切だ。
その日の午後、リーネが工房に来た。
「決めたんですか?」
不器用なおじさんは頷いた。
「王城にも、商人にも頼まれたけど……俺はここで作る。手で。誰かの顔を思い浮かべながら」
リーネは微笑んだ。
言葉はない。だが、その笑顔は、すべてを肯定してくれるようだった。
数日後、集落や街の小さな店に、手作りマカロンが届き始めた。
割れた形も、色むらもある。
けれど、どれも確かに、作り手の手の温度が宿っている。
人々は、驚き、笑い、そして「おいしい」と言った。
不器用なおじさんは、その声を胸に刻みながら、次の生地をこねる。
甘さの行き先は、もう迷わない。
作り手の行き先も、ようやく決まった。
(ここで、作り続ける――俺の甘さは、俺の手で生きていく)
オーブンの扉を閉め、粉だらけの手を拭く。
不器用でも、失敗しても、手作りを選ぶ。
それが、自分にできる、唯一無二の答えだった。




