第8話 転職のための武器
退職を決意しても、振太にとって、状況は極めて困難だった。
彼は元フリーターであり、正社員歴は1年にも満たないのだ。
今すぐに辞めても、他の会社が雇うはずがない。
辞めることについての、「明確な理由」が存在しないのであれば尚更だ。
「グレー企業」の困ったところは、ここにもある。
転職する際に、面接官に訴えるエピソードが不充分なのだ。
上司に殴られたとか、違法な連勤を強いられたとか、給料が貰えなかったとか、そういう「辞めて当然のブラックエピソード」が無いのである。
いや……決して、エピソードがあれば、転職できるわけではないのだが……。
仮にエピソードがあったとしても、あまり話しすぎると、「話を盛って大袈裟にする奴だ」「些細なことで大騒ぎする奴だ」などと思われかねないので、注意が必要である。
前の勤め先のことを悪く言う人は、採用されないという説もあるほどだ。
それはともかく、転職者の心理として、退職理由を話した際に、面接官から「そんなことで辞めたの?」と言われたくないのは、当たり前の感情ではないかと思う。
すると、「明白な違法行為」を挙げられない「グレー企業」の退職者は、心理的な弱点を抱えて転職活動をしなければならないのである。
振太は、これからどうすべきかを考えた。
父親は昭和のサラリーマンだったので、「勤めたからには3年は辞めるな。そうすれば転職の際に有利になる」と言った。
今の時代に、そんな価値観は流行らないという程度のことは、振太にだって分かる。
彼に充分な社会人経験があれば、そんなアドバイスは無視すべきであった。
しかし、社会人経験が乏しい振太の場合、それは重い言葉だったのだ。
大学を卒業してから、ずっとフリーターであり、サラリーマンを始めたものの、大した理由があるわけでもないのに1年足らずで退職した。
そんな人間を雇う会社が、存在するはずがない。
あったとしても、灰色建設よりも酷い、明白なブラック企業だけだろう。
灰色建設よりも劣悪な環境で働くことなど、振太には不可能なので、最悪の場合、人生が詰みかねないのである。
だが、あと2年も、灰色建設で耐えられるだろうか……?
振太は、全く自信を持てなかった。
ベテラン事務員と、残った1人の後輩社員に仕事を取られ、振太は、自分がお荷物社員と化したことを、強く自覚していたのだ。
周囲は、振太のことを戦力だと見なしておらず、迷惑だと思っているようにも感じられた。
幸いにも、溜まりに溜まった古い書類をスキャナーで取り込み、廃棄する作業などが新たに発生したことで、社内失業の状態は解消されていた。
総務課長としては、ずっと先送りしてきた作業を、大して役に立たない部下が片付けてくれるのだから、とりあえず満足している様子だった。
だが、振太が単純作業しかしていない状況は変わらない。
この頃になると、社長ですら、振太に「お前は成長していない。もっと考えて努力しろ」などと言うようになっていた。
しかし、仕事に集中しようとすれば、電話への反応が遅れて怒られる。
そんな状態を改善できる見込みは無く、行き詰まっていた。
振太の現状を察した父親は提案した。
「今の会社で、あと2年も我慢できないなら、何か資格でも取ったらどうだ? いい資格があれば、転職することだってできるだろう?」
これも、実現するのが難しい提案だった。
すぐに取得できる資格など、転職の役に立つはずがないからだ。
唯一、宅地建物取引士だけは、本気で狙えば勝算があるような気がした。
だが、仮に合格しても、転職先は不動産業界になってしまうだろう。
振太には、建物に関係する業界のことが、恐ろしく感じられるようになっていたので、不動産業界は避けたかった。
しかし、打開策を考えるうちに、振太は思い出した。
そういえば、Excelの勉強が、半端な状態で終わっていたな……。
振太は、すぐにExcelの勉強を再開することを決断した。
今の日本において、社会人であれば、Excelの使い方が分かるのは当然だろう。
それこそ、自分で本を読んで勉強する程度のことは、誰だってやっているはずだ。
だが、振太は、パソコンに疎く、苦手意識すらあった。
Wordについては、タイピングの速さが自慢の1つだったが、Excelの使い方はうろ覚えだったのである。
それが原因で、面接が思うようにいかなかった会社が、いくつかあった。
勉強の必要性を痛感したタイミングで、灰色建設から内定の通知を受けて、振太は就職したのだ。
その後、Excelに関する勉強は、自分なりにしていた。
だが、慣れない分野である。独学しても、頭に入らなかった。
同じ失敗を繰り返さないようにするためにも、プロに教えてもらった方が良いだろう。
ついでに、転職に役立つ、他の知識も教わった方がいい。
そう考えて、振太は、近所のパソコンスクールを訪れた。
パソコンスクールで勉強する目的を尋ねられ、振太は転職を考えていることを伝えた。
すると、転職を考えた経緯などについて、さらに詳しく尋ねられることになった。
困った振太は、まだ灰色建設に在籍していることから、パワハラの話はなるべくせずに、フリーター時代のことも含めて、これまでの経緯を話した。
まずはExcelを学びたいが、他にも転職に有利になる知識があったら、教わりたいと思っている。
振太がそう伝えると、パソコンスクールの校長は、驚くべきことを言った。