第9話 パソコンスクールの校長
「二戸さん。貴方は、今お勤めの会社を、一刻も早く辞めるべきです」
そう言われて、振太は耳を疑った。
転職のためのスキルを身に付けようとして来たのに、今すぐ退職する……?
それでは、Excelの知識すら身に付けないまま、転職活動をしなければならない。
一体、この人は、何を言っているのだろう……?
愕然としている振太に対して、校長は理路整然と指摘した。
それは、潜在的に振太が考えていたことを代弁するものだった。
振太の会社でのミスは、上司が仕事を丁寧に教えなかったことが原因である。
きちんと仕事を教えられないのは、灰色建設の職場環境が悪く、人手が足りないからである。
人手が足りないことも、仕事を教えてもらえなかったことも、会社と上司の責任である。
振太の上司は、自分の仕事を放棄して、振太が悪いと言って責任を押し付けている。
振太がフリーターだったことを知っていて採用したからには、充分な配慮をする義務が会社にはあった。
振太は入社してから1年の間、大半の日において30分~1時間の残業をしているが、入社して間もない者に残業をさせることは普通ではない。毎日の早出残業が30分に達しているなら尚更である。
祝日くらいは休ませるべきである。
いつまでも雑用ばかりをやっていることを考えると、振太が今の会社に残っても、成長することはない。特に、上司が今のままでは、全く期待できない。
残念ながら、振太は総務職に向いていない。向いていない仕事を続けるのは、振太のためにも、会社のためにもならない。
振太は、かつて夢を追ってフリーターをしていたのだから、それに近い仕事をするべきである。
振太がサラリーマンにこだわるのは、父親の影響だと思われるが、サラリーマンが偉いわけではない。他に仕事はいくらでもある。
そのように言われても、すぐに納得できるはずがない。
今のままでは転職できないから、振太はここにいるのだ。
そう考えて、振太は必死に反論した。
職歴が1年では、転職に成功するとは思えない。
最低でも、Excelの知識を充分に身に付けてから退職したい。
後輩が入社してから、まだ充分な時間が経っていない。なるべく負担をかけたくない。
かつて夢を追っていて、その業界に進まなかったことには、それなりの理由がある。今さら戻るのは気が引ける。
今すぐに会社を辞めて、家族の支持を得るのは困難である。貯蓄だって充分ではない。もしも実家から追い出されたら、生活に困窮する。
しかし、校長は驚くほど強硬だった。
振太の反論を制して、強い口調で再反論した。
振太が目指していた業界のことは、自分もよく知っている。将来性のある業界である。
そちらに戻るなら、必要なのは、異業種での職歴よりも若さである。
その業界に行くなら、ExcelとWordは必須である。それについては、授業を申し込んでくれれば、可能な限りのことを教える。
世の中には、少ない種類の仕事を、黙々とこなす仕事だってある。振太には、そちらの方が向いている。
灰色建設は酷い会社であり、人材を腐らせる。長く留まれば、振太の将来に影響しかねない。
総務課の後輩を育てるのは、会社と上司の責任である。振太が気にすべきことではない。
かつては、フリーターになった振太のことを、家族は応援したはずである。灰色建設が仕事を教えてくれないことなど、事情を丁寧に説明すれば、理解してもらえるのではないか?
パソコンスキルを活用したアルバイトだって、数多く存在する。収入は落ちても、短い時間に、高い時給で効率的に稼げるはずだ。余った時間を学習に充てれば良い。
一時的にフリーターに戻ることは恥ではない。その方が、少しは成長できる。
必死に説得されて、振太は思った。
この人……怪しい……。
何を企んでいるのだろうか?
振太は、校長のことを疑っていた。
突然、初対面の相手に、「貴方は何も悪くない、悪いのは会社と上司だ! 貴方は仕事を辞めるべきだ! それが貴方のためだ!」などと言われて、信用しろと言われても無理である。
たとえ、それが事実であってもだ。
この件については、何人かの人に相談したが、皆が「その人はおかしい。かなり怪しい。何らかの思惑があるはずだ」と言った。
校長が、相当おかしな言動していたのは、客観的な事実だと言っても良いのではないだろうか?
振太は、校長の意図が分からなかったため、転職については最後まで断り続けた。
ただ、Excelの授業については、予定通り申し込むことにした。
それと引き換えに、話を打ち切ったという側面もある。
だが、Excelの授業に通学し始めた後も、校長は転職をしつこく勧めてきた。
繰り返し説得されて、振太は迷った。
校長のことは信用できないままだったが、灰色建設の職場環境が酷いことは確かなのだ。
どうせ、振太は大した仕事をしていない。
いなくなっても、会社も上司も困らないような人間なのだ。
だったら、これ以上居座って、迷惑をかけるべきではない。
散々悩んだ後で、振太は決断した。




