第1話:五十嵐 茜
「○○選手、オリンピック金メダル!!!」
日本中が沸き立っているであろう瞬間を、私、五十嵐茜は冷めた朝食をつつきながら眺めている。画面の中、弾けるような笑顔を見せる選手は17歳。高校1年生の私と同じ10代だ。
(……この人と私、人生の密度が違いすぎない?)
私の人生、中身が無さすぎて笑えてくる。
虚しさもろともに朝食を飲み込んで、テレビを消した。
仕事や大学で、両親と姉はもう家を出ている。
「行ってきます」
と誰もいないリビングに独り言を落として、家を出た。
小さい頃から足が速くて、かけっこはいつも1等賞。
4つ上の姉も陸上のエースで、私も当然その背中を追うものだと思っていた。
だけど、中学で陸上部に入り、だんだんと現実を見るようになった。足の速い選手なんて腐るほどいて、1等賞なんて滅多に取れなくなっていった。「朝から晩まで走ることに意味があるのか」と自問自答する日もあった。
それでも、努力を積み重ねて成果を得たとき。たった一瞬、あの瞬間ですべてが報われるあの感情。そのために必死にもがき続けた日々は、少なくとも今よりずっと充実していた。
中学1年生の、冬の日までは。
(ブチッ――)
ふくらはぎから、嫌な音がした。今まで感じたこともないような激痛が走って、私はその場に崩れ落ちた。焦りから生じたオーバーワークによる怪我だった。
「完治すればまた走れるよ」「焦らなくて大丈夫」
家族も友達も、みんな優しく励ましてくれた。
2年生の春まで懸命にリハビリを続け、練習に復帰するつもりだった。
だけど、走れなかった。
体はもう、どこも悪くない。
それなのに、走り出してしばらくすると、あの瞬間の激痛がフラッシュバックする。
恐怖が呪いみたいに体にまとわりついて、鉛のように足が重くなる。
走ることが、苦しくて、怖くて、仕方がなかった。
私は恐怖に耐えられなくなっていった。
そして中学2年生で、自ら陸上部を退部。
自分を削って積み上げてきたものを、信じられなくなってしまった。よそよそしく励ます友達や家族の声も、耐えられなかった。
(もう、陸上はやめる。後悔はしてない)
ただ……もう二度と、あんなに一生懸命に何かに取り組むことはないんだろうな。
退部した日、誰もいない部屋で声を上げて泣いた。棚に飾っていたトロフィーもメダルも、全部段ボールに詰めて、クローゼットの奥に隠した。
それからは、1日をなんとなく過ごした。
ふさがらない心の穴を埋めるように取り組んでいたのは、音楽を聴くことだった。
気分が落ちた時には「辛い時 聴く 音楽」なんて単語を検索しては、自暴自棄になった私を支えてもらった。
泣きながら、大きな声で歌ったこともあったな。
音楽だけが私の気持ちの理解者で、寄り添ってくれている気がした。
受験時には進路も、陸上競技に力を入れている高校から急いで変えた。
普通の高校に行って、普通の勉強をして、普通に大学に行って、普通に就職する。
それでいいじゃないか、と自分に言い聞かせた。
地下鉄の駅を降りて、商店街を抜けて、踏切を越える。
『椿学園 中学・高等学校』
共学化と中高一貫校への改編を行って間もない学校に入学して2週間。
下駄箱でローファーを履き替え、一歩中に入る。
見上げると、7階分が抜かれた高い天井から、朝の光が降り注いでいる。
外で朝練をしている運動部員たちの笑い声を背中で聞きながら、私は階段を上った。
「茜、おはよ!」 教室に入ると、隣の席の葵がパッと顔を上げた。
葵は入学初日に一番に話しかけてくれた子で、明るくて話しやすい。
「ねえ、今日からさ、部活動見学始まるじゃん? 一緒に行かない?」
(……部活か。すっかり忘れてたな)
椿学園は全員部活加入が原則だ。
陸上を辞めてから、次のことなんて1ミリも考えていなかった。
私も行っていい?、と前の席の緑も振り返る。
「じゃあ3人で見に行こうよ!」と、私が返事をする前に話がまとまっていく。
「二人は何か決めてるの?」 問い返すと、
葵はふんっと胸を張って、目を輝かせた。
「やっぱ青春といったら、軽音部でしょ! ギターやってみたいんだよね、ギター!」
迷いのない葵の言葉に、緑が少し不安そうに呟く。
「すごいね……新しいことにチャレンジするのって、怖くない?」
私も、緑と同じだ。新しい場所へ踏み出すのが怖い。
だけど、葵は笑って言った。
「でもさ、今チャレンジしなきゃ、もう一生やらない気がするんだよね。若くて時間があるうちに、やってみたいじゃん!」
(……今の、すごくかっこいい)
眩しい光が差し込む教室で、葵の言葉がすとんと胸に落ちる。
新しいものにチャレンジするのも、悪くない……か。
そんな思いが自分の中にも芽生えるのかなと、微かに期待をしていた。




