6 運命の雨
「あちゃー、本当に降ってきた。」
薄暗い曇り空からパラパラと雨が降り出す。
久しぶりの休みで街に繰り出していたノエルは手に持っていた傘を開いた。
さっきまでいい天気だったのに。
今朝一応何か変わったことはないかと城への顔出しを終えて、一旦自宅へ帰ろうとしたところですれ違ったジャックに言われたのだ。
「今日は傘持ってった方がいいですよ。」
彼はそれだけ言って背を向けて行ってしまった。
こんな天気のいい日に傘?とは思ったが、ジャックの言う通りにしてよかったと思う。
買い物を終え、ランチもしたし特に急ぎの予定もない。
今日はもう帰ってしまおうか。
たまには家でゆっくりするのも悪くないよな。
そう思って歩きだすと雨足はどんどん強くなっていく。
傘を差していても跳ね返った雨粒が足元を濡らす。
本格的に降ってきた。ひどい土砂降りだ。
ノエルは急ぎ足で自宅へ向かう。
あと少しで自宅だというところで、ノエルはあるものを見つけ足を止めた。
この土砂降りの中、傘も差さずに蹲っている女性。
髪も服もびしょ濡れで細い体は酷く震えていた。
思わずノエルは声をかける。
「あの…大丈夫ですか?」
蹲っていた女性は顔を上げた。
「アンジェラさん…?」
そう、そこいたのはアンジェラだった。
頬を伝う雨粒は泣いているようにも見えた。
「えっ、どうしたんですかこんなところで。風邪ひいちゃいますよ。」
ノエルは自分の傘を傾けてアンジェラに降りかかる雨を避ける。
アンジェラは無言のまま、何も答えない。
「えーっと、とりあえず俺んち来ません?すぐそこなんで。」
ね?と言って手を差し出すと、彼女は小さく頷いてその手を取った。
小さく、華奢な手はすっかり冷たくなっていた。
家に向かう道中、会話はなかった。
ノエルが何してたんですか、どうしてあんなところで、と聞いても彼女は何も答えなかったからだ。
何か話したくないことがあったんだろうと察して途中からはノエルも無言を貫いた。
家はすぐそこのはずなのに、彼女と歩くこの距離はやけに遠く感じた。
これ以上濡れないようにと自分の傘に彼女を入れると、必然的に彼女との距離が近くなる。
肩が触れてしまいそうな距離に心臓がドキドキとうるさい。
そして、家に来ませんかと軽率に言ったものの、ノエルは後悔していた。
付き合ってもいない女性を家に上げるのは正直気が引ける。
やましい気持ちはないにしろ、そう取られてもおかしくないからだ。
現に自分は彼女に好意を寄せている。
もしかしたら、彼女にもその気持ちがバレているのかもしれない。
軽い男って思われるだろうか。
意外と遊んでるって思われてしまうだろうか。
家に招くのはやっぱりよくないよな。
だからといって彼女をそのままにはしておけない。
シャワーと着替えだけ貸して雨が止んだら帰ってもらおう。
そう固く心に決めた。
「ここです、どうぞ。」
自宅の鍵を開け、彼女を招き入れる。
彼女は無言のままノエルに続き玄関を跨ぐ。
「とりあえずタオル持ってきますね。風呂も入れるんで…」
玄関の扉を閉め、タオルを取りに行こうと彼女に背を向ける。
それと同時に背中にヒヤリとした感触を感じた。
「え…っ?」
驚いて振り返ると、彼女はノエルの腰に抱きついていた。
「えっ、えっ、なに、どしたの。」
突然のことに、ノエルは混乱する。
体を捻って逃れようとするノエルに、彼女はぎゅっと腕の力を強める。
細い腕。雨で体温が奪われた冷たい体。華奢なのに背中に当たる柔らかい感触。
力尽くで逃れようとすれば逃れられる。
けれど、こういう時ノエルはどうしたらいいのかわからなかった。
ノエルは一途に彼女に10年片想いをしている。
当然、他の女性経験などなかった。
「あの…アンジェラさん、ほんと、こういうの、よくないから…一回離して、お願い。」
しどろもどろになるノエル。
心臓がバクバクと今にも飛び出そうだった。
どれくらいこうしていただろう。
振り払う勇気さえないノエルには随分長い時間だったように感じる。
しばらくして、ノエルはその細い腕から解放された。
ノエルは長い緊張から解けて溜息と共に膝から崩れ落ちる。
「なんで急にこんなこと…。」
なおも彼女は俯き無言を貫く。
「…話したくないなら話さなくていいし、とりあえず風呂。体温めなきゃダメですよ。」
そう言って、半ば無理矢理に彼女をバスルームに案内した。
脱衣所の扉を閉め、彼女の姿が見えなくなるとノエルは再び大きな溜息を吐いた。
まだ心臓がバクバクしている。
さっきのは一体なんだったのだろう。
人に抱きつかれるなんて、子供の頃アダムや兄弟たちにされた以来だ。
きっとさっきのはそんな子供じみた無邪気なものではない。
それが好きな人なら尚更。勘違いしてしまいそうになる。
少しは自分のこと意識してくれたのかとか、もしかしたら好意を持ってくれたのかとか。
そんな、自分に都合のいいことばかりを考えてしまう。
そんなわけないのに。
きっと彼女は何が悲しいことがあって、さっきのは一時の気の迷いだったんだ。
きっとシャワーを浴びれば冷静になる。
さっきのは、なかったことにしよう。
そう決めて、ノエルは自分の頬を叩く。
間もなくして、扉越しにシャワーの音が聞こえてくる。
そうだ、彼女に着替えを出してあげないと。
その前に彼女に抱きつかれて濡れた自分の服も着替えてしまおう。
大丈夫、ちゃんと紳士に振る舞うんだ。
しばらくして、ノエルがダイニングキッチンでコーヒーをドリップしているとカチャリ、と控えめに扉が開く音がした。
そこにはシャワーを終えた彼女が立っていた。
渡した着替えはシャツと短パンのはずたが、彼女はシャツしか着ていなかった。
女性用のサイズなどノエルの家にはないので自分のものを出したのだが、予測通り彼女には大きすぎたらしい。
ぶかぶかのシャツの袖は彼女の指先がかろうじて見えるくらい長く、裾は彼女の膝上まであった。
色白の肌が湯上がりで上気し、ほのかに赤みを帯びている。
濡れたままの髪からは水滴が滴っていた。
「おかえり。とりあえずドライヤーしましょうか。」
彼女をソファに座らせてドライヤーを準備する。
座ることでたくし上がったシャツの裾から覗く太ももを見ないふりをして、さり気なくその膝にブランケットをかけてやった。
大きく開いた胸元から彼女の白い肌がチラチラと視界に入る。
目に毒だな。とノエルは思った。
どうして彼女はこんなにも無防備でいられるのか。
誘っているのか、はたまた何の意識もされていないのか。
ノエルは必死に平静を装い、彼女が座るソファの後ろに立ちドライヤーのスイッチを入れた。
ドライヤーの風が彼女の髪を靡かせる。
シャンプーの香りと彼女の体臭と混ざり合っていい香りが広がる。
彼女はさも当然のようにされるがまま、ノエルに身を預ける。
ーーーなんか、こういうのいいな。
女性の髪に触れるのは初めてだが、こんなに心地の良いものだなんて知らなかった。
滑らかで絡まりのない金の髪がノエルの指をすり抜けていく。
その最中、ノエルの視線はある一点に釘付けになった。
「…あ。」
彼女のうなじには、赤いキスマークがあった。
突然ノエルの上げた声に、怪訝そうに彼女は振り返る。
「…何?」
「んーん、なんでもない。」
精一杯の笑顔を張り付けてノエルは答える。
ズキッと胸が傷んだ。
彼氏、いるんだ。
そうだよな、当然だよな。
自分が勝手に片想いしてきただけで、彼女に彼氏の有無など聞いたことがなかった。
そう考えると、この状況は非常にマズいような気がしてきた。
これって浮気?俺って間男?
いや、やましいことはして…なくもない。
そもそも彼氏のいる女性を部屋に上げてしまった時点でアウトだろう。
誘った自分も悪いが、彼氏がいるのにノコノコついてきた彼女もどうなのだろう。
いや、彼女のせいにしてはいけない。
都合のいい妄想を膨らませて、この状況を作り出したのは自分だ。
話す言葉も見つからず、部屋にはドライヤーの風の音と外の雨音だけが響く。
雨は止む気配がなく、先ほどよりも激しい雨粒が窓を叩く。
これからどうしよう。
さすがにこの大雨の中帰ってくれなんて言えない。
考えが纏まらないまま、彼女の髪を乾かし終わってドライヤーのスイッチを切る。
気まずい沈黙が流れる。
そうだ、コーヒーを淹れてる途中だった。
ドライヤーを片付けダイニングキッチンへ向かうとドリップし終わったコーヒーがいい香りをさせていた。
ノエルはそれを客用のティーカップに移し、砂糖とミルクを添えて彼女の座るソファの前のテーブルに置いた。
「…ありがとう。」
彼女は砂糖とミルクには手を付けず、袖から覗く指先でティーカップを持って口をつけた。
ーーーブラック派なんだ。
そう思いながらノエルはキッチンに立ったまま自分用にマグカップに移したミルク入りのコーヒーを飲む。
本当に自分は彼女のことを何も知らないな。
味の好み、服のサイズ、彼氏の有無だってそうだ。
ノエルはアンジェラのことを、何も知らない。
ただ好きだという恋心が先行して、彼女のことを知ろうともしていなかったんだと思う。
自分の都合のいい妄想ばかりを膨らませて、目の前の彼女のことを本当の意味で見ていなかったのだろう。
何やってんだろ、俺。
そんな感傷的な気分に浸っていると、ポンポンとソファを叩く音が聞こえた。
まるで自分の隣に座れ、とでも言いたげに彼女は空いた席を叩く。
一人暮らしのこの部屋で座る場所は今彼女が座っている二人掛けのソファしかない。
いつまでもキッチンに立っているのもおかしいが、正直今は彼女の隣に座りたくはなかった。
いろんな感情が渦巻いていて、どんな顔をして、どんな話をしたらいいかわからない。
ノエルはソファへは座らず、先ほどドライヤーをした時と同じようにソファ越しに彼女の後ろに立った。
「なに?話してくれる気になりました?」
「…こっち。」
彼女は再び隣の席を叩く。
有無を言わせない瞳に、ノエルは観念して彼女の隣に座った。
「ノエル君…。」
膝の上で組んでいたノエルの手に、彼女の指が絡まる。
視線を上げた彼女の瞳が自分を捉える。
吸いこまれそうな深い海の色をした瞳に、ノエルは目が離せなかった。
そのまま彼女の顔がゆっくりと近付いてくる。
彼女は目を閉じ、ノエルにキスをしようとした矢先ーーー
「それは絶対ダメ!」
ノエルは反射的に彼女の口元を手で覆う。
彼女は予想外の反応だったのか、驚いたように大きな瞳をパチパチとさせた。
「どうして?」
「どうして、って…それは…。」
「ノエルくん、私のこと好きなのよね?」
「えっ?!あ…う…それは…。」
好きだけど、と蚊の鳴くような声は雨音にかき消されて彼女に届いたかどうかわからない。
「とにかく、ダメなものはダメ!」
諦めたのか、彼女は再びソファに座り直し身を沈める。
「ねぇ、こっち見て。」
上目遣いで彼女は言う。
ノエルはドキドキとうるさい心臓を必死に隠しておずおずと彼女のほうへと視線をやる。
目が合うと息が止まったような錯覚を引き起こした。
何故だろう。彼女の強い瞳に見つめられると目が離せなくなるのだ。
「じゃあノエルくんからキスして。」
その言葉は、どこか遠くで聞こえたような気がした。
頭がぼーっとする。
「ノエルくん。」
彼女に名を呼ばれるとまるで自分の体が自分じゃないように感じた。
意識が朦朧とする。なのに、身体が勝手に動く。
「キスして。」
無意識に彼女の肩に手を置き、気が付けばノエルはアンジェラと唇を合わせていたーーー。
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