26 ラウム
自分は特段珍しいこともない普通の家の産まれだと思う。
父は印刷所で働き、母は花屋で働いていた。
そして9つ歳の離れた可愛い妹が一人。
何の変哲もない普通の家族だった。
そんな自分は幼い頃から引っ込み思案で性格も明るいわけでもなく陰気で友達がいなかった。
同じ年頃の子供と比べると、発育も遅く身体も小さく細かった。
そんな自分は周りから浮いた存在だった。
子供の世界というのは残酷だ。
少しみんなと違うというだけでイジメられた。
悪口を言われたり、物を隠されたり。
時には殴る蹴るの暴力もあった。
最初は抵抗しようと細い手足をバタつかせたものの、幼く弱い身体は無力で力では叶わなかった。
悔しいと思った。絶対に見返してやると決めた。
だが自分は強い腕力も大きな身体もなかった。
そんな自分がいじめっ子達を見返す方法を子供ながらに必死に考えた。
そうだ、腕力で勝てないのなら魔術を使えばいい。
そう思いついたジャックは、その日から魔術の勉強に明け暮れた。
1ヶ月もすれば、その才能は露わになった。
最初は小さな火の魔術。何もないところから炎を出し、大きく膨張させ、爆発させる。
初めて魔術が成功した時は胸が躍るような達成感と、経験したことのない疲労感に襲われた。
魔術は体力も精神力も著しく消耗する。
それでも、魔術が使えたことへの感動は大きかった。
何度も練習し、時には制御できずにボヤ騒ぎを起こして母親に叱られたりもしたが、着実にジャックは魔術士としての才能を開花させていた。
ある日、いつものように、いじめっ子たちがジャックを取り囲んだ。
ジャックはいじめっ子たちから浴びせられる悪口を鼻で笑い、ちょっと脅かすつもりで火の魔術を使った。
辺りを炎が取り囲み、いじめっ子たちは慌てて逃げて行った。
彼らの恐怖に引き攣った顔が可笑しくて、そこからはまた魔術にのめり込んだ。
最初は炎。次に水。風を操り、雷でさえもジャックの思うままに操れるようになった。
魔術を覚えたての頃は吹けば飛ぶような小さな炎だったのが、次第にその威力を増し街全体を焼き尽くす程の大きな力となった。
大きな力を使えば、それだけ身体への負担も大きい。
巨大な魔術を使った後は、いつも倒れるように眠り続けた。
それでも、魔術への探求はやめられなかった。
自分には魔術の才能がある。
この力があれば、誰も自分を馬鹿になんてできない。
魔術はジャックにとって身を守る術であり、自分に特別な存在であるという自信を持たせた。
自分には妹がいた。名前はリリー。
9つも歳の離れた可愛い妹。
両親が共働きで忙しかったこともあり、自分が世話を任されることも多かった。
昔から「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と自分にひどく懐いてくれていた。
自分と同じく人見知りで、引っ込み思案で、そのくせ寂しがりで、いつも自分の後ろに着いて回った。
頼られるのは悪い気はしないし、この小さくて可愛い妹をジャックは大層可愛がっていた。
転機が訪れたのは自分が11の時。妹はまだ2歳でやんちゃ盛りの頃だった。
両親が離婚した。
自分たち兄妹は母親に引き取られた。
元々父親はほとんど家にいることがなかったから、両親が離婚しても、しばらくは生活にあまり変化はなかった。
しかし、母親は自分達を養うために花屋を辞め、水商売を始めた。
派手な化粧に露出の多い服。
男を誘惑する武装を身に纏ったその女は、もはや母親とは呼べなかった。
ほとんど家に帰らなくなり、家事も妹の世話もジャックに任せきりになった。
たまに帰ってきたかと思えば男を連れ込み、酒を煽って享楽に耽った。
母親が男を連れ込んだ日は、妹を連れ子供部屋に籠もった。
妹を抱きしめ頭から布団を被り、漏れ聞こえてくる嬌声を聞かぬふりをして朝を待った。
妹は何が起こっているのか分かっていない様子で、真っ暗な布団の中「秘密基地みたいで楽しいね」なんて無邪気に笑った。
どこからか母親が水商売をしていると噂が立ち、同級生にからかわれることがあったが、それはお得意の魔術で黙らせるのは簡単だった。
しばらくはそんな日々が続いた。
そしてある日、母親はいなくなった。
ジャックが12になった頃だった。
途方に暮れていたのも束の間で、すぐにジャックたちは保護され孤児院へと送られることになった。
ジャックはあまり乗り気ではなかった。
だって孤児院だなんて。まるで自分たちは親を無くした可哀想な子供、と言われているようで嫌だった。
それもカトリック系の教会に併設された孤児院だった。
ジャックには信仰がない。宗教なんて堅苦しいイメージがあって受け入れられなかった。
嫌々だったが、結論は変わらず二人は孤児院へ送られた。
牧師の男は優しそうな顔をしていた。
自分の境遇を受け入れられずに俯くジャックに牧師の男は「君にいいものを見せてあげよう」そう言った。
牧師の男の傍にはいつも美しい女がいた。
彼女は牧師の妻だと言う。
牧師は結婚してはいけないのではないか、という宗教に疎いジャックの疑問に牧師は丁寧に答えた。
「キリスト教の神父は伴侶を持つことは許されないけれど、ここはカトリック系の教会だ。牧師は伴侶を持つことを許されているんだよ。」
牧師は彼女と共に日が落ち、誰もいなくなった礼拝堂へジャックを連れて行った。
「君は悪魔を見たことがあるかい?どんな姿だと思う?」
「見たことはねぇですけど…。恐ろしい化け物の姿をしているんでしょう?」
その答えに、牧師は笑みを浮かべた。
「悪魔はね、こんな姿をしているのよ。」
そう言った女の背中には、黒い翼が生えていた。
ステンドグラスを背に羽を広げる彼女は、この世のものとは思えないくらい神秘的で美しく見えた。
強く心を惹かれた。憧れにも似た感情だった。
「僕は悪魔の彼女と契約をしたんだ。代償はこの命。僕が死んだら、僕の魂は彼女のものだ。」
その言葉を聞いて、更に心揺さぶられた。
死して尚も彼女の糧になれるなんて。
それは、究極の愛じゃないか。
ジャックは愛に飢えていた。
ずっと、誰かから愛されたかった。
嘘偽りのない、自分にだけ向けられる愛がほしかった。
その日から、魔術の勉強と並行して悪魔学の勉強も始めた。
ジャックは不真面目ではあったが、興味のある分野には驚くほどの集中力と探究心があった。
毎晩本を読み漁り、悪魔についての見聞を広げていく。
悪魔は望みを叶えてくれる。代わりに大きな代償を払うことになる。
ジャックの望みは、愛されたい。
自分の魂を犠牲にできるなら、願ったり叶ったりだった。
子供達が寝静まった深夜二時。
月明かりだけが照らす薄暗い屋根裏部屋に忍び込む。
悪魔を呼び出すにはシジルと呼ばれる紋章が必要だ。
そのシジルは悪魔によって違う。
ジャックは己の手首を切り裂き、細い腕から滴る血であるシジルを描いた。
そのシジルの周りに蝋燭を4つ並べ火を灯す。
これで準備は完璧だ。
あとは悪魔を呼び出す呪文を唱えるだけ。
ジャックは大きく深呼吸をした。
どうか成功しますように。
そう願いながら呪文を唱える。
長い長い呪文だった。
魔術を使う時のように、酷い疲労感を覚える。
全ての呪文を唱え終わった後、床に描かれたシジルが眩いくらいの青白い光を放つ。
ジャックは胸を躍らせその光景を眺める。
シジルから出てきたのは、一羽のカラスだった。
「…なんだお前。失敗したのか?でも確か本には人間に似た姿で現れるって…。」
首をひねりながら本で見た記述を思い出す。
何か間違えたのか?何か足りなかったのか?どうしたら人間の姿になる?そうブツブツと呟き思考を巡らせていると、ふいにカラスが人の言葉を話した。
『なんだ、人の姿がよかったのかい。』
歪んだ声のカラスは青白い光を放ち、その姿を変える。
「私を呼び出したのは貴方?これはまあ可愛いご主人様だこと。」
現れたのは、大層美しい女だった。
銀髪のショートカットが月明かりによく映える。
女性にしては背の高いスラッとした体型の大人の女。
彼女の背には、カラスのような大きな翼が生えていた。
ジャックはその姿を見て、心を奪われた。
「言いなさい、貴方の願いを。」
その女は、首を傾げ妖しげに笑う。
そんな些細な仕草でさえも魅力的に見えた。
「俺と…結婚してください。」
思わず口をついて出た言葉に、彼女は驚いたように目を見開き、そして声を上げて笑った。
「ふふふっ、あははっ。人間が悪魔に求愛するだなんて、貴方変わってるわね。」
「俺は本気です。俺の願いを叶えてくれるんでしょう?悪魔のアンタなら。」
「残念だけど、それはできないわ。」
「どうしてですか。」
「私の心は私だけのものだからよ。私が好きな男は私が決めるの。」
「じゃあお友達からってやつでどうですか。」
必死に食らいつくジャックに、美しい悪魔はまた声を上げて笑った。
「貴方面白いわね。そんなに私がほしいの?もっと他にあるじゃない。富とか、名声とか。人間はそんなものを欲しがるんでしょう?」
「そんなもんいらねぇです。俺は、俺を愛してくれる人がほしい。」
「随分マセた子供だこと。仕方ないわ。じゃあ、代わりに貴方に力を授けるわ。」
「力?そんなもんいらねぇです。俺がほしいのはアンタだ。」
「力は偉大よ。強さは正義。強い生き物は誰からも愛されるものよ。この力があれば、貴方はきっと貴方が望む誰かに愛されるわ。」
「本当ですか…?」
「ええ。右手を出して。」
言われるまま、右手を悪魔に差し出す。
悪魔はジャックの右手を両手で覆った。
人間より少し冷たい彼女の体温に包まれる。
自分より大きく柔らかい大人の女の手。
「貴方、名前は?」
「俺はジャック。ジャック・スターローンです。」
「そう、ジャックね。」
悪魔は短い呪文を唱える。
その呪文に合わせて、繋がった手が熱くなる。
何か大きな力が流れ込むような感覚がした。
「これで、契約成立ね。貴方の魂は私のものよ。私の名前はラウム。貴女と主従の契約を交わすわ。よろしく、マスター。」
彼女の手が離れる。
自分の右手の甲には、悪魔ラウムのシジルが刻み込まれていた。
ジャックはそれをまじまじと見つめる。
これが、自分とラウムを繋ぐ絆。魂を受け渡す契約の印。
こうして、ジャックは悪魔と契約した。
ジャックが13の時のことだった。
悪魔ラウムがジャックに与えたのは力。
ジャックは以前よりも強大な魔術を扱えるようになった。
それも、長い詠唱を必要とせず、インターバルもなく大魔術を連発することができた。
以前は大きな術を使った後は疲労感ですぐに倒れてしまっていたが、ラウムと契約してからはその疲労感も大幅に軽減され、たくさんの大魔術を使っても倒れることはなかった。
ジャックは天才魔術士と呼ばれるようになった。
人々はジャックに羨望の眼差しを向け、褒め称えた。
色んな人に声をかけられたり、遠くから黄色い歓声を浴びたりと、まるで自分が有名人にでもなった気分だった。
魔術を使うことが楽しくて仕方がなかった。
ラウムは、常に自分の側にいてくれた。
悪魔の彼女は、その姿を自分以外の人間からは見えなくする術があるらしい。
他人には見えない透明な姿でいつもジャックに寄り添ってくれた。
ジャックはラウムのことを諦めてはいなかった。
事あるごとにラウムに愛を囁いた。
手紙を書いてみたり、花を贈ってみたり、一緒に星空を眺めて「君の方が綺麗だよ」なんて言ってみたり。
思いつく限りの愛情を彼女に注いだ。
けれど毎回彼女はクスクスと笑うだけで、取り憑く島もなかった。
それでも、ラウムは自分の寂しさを埋めてくれた。
愛に飢えていたジャックの手を取り身体を抱きしめ、眠る時はすぐ隣で瞼が落ちるまで見守っていてくれた。
ジャックはラウムに恋をしていた。初恋だった。
精神的にもまだ未熟な子供の拙い恋だったと思う。
自分のことを受け入れてくれる美しい悪魔。
ラウムは契約によって主従関係にあると言い、自分のことを「マスター」と呼んだが、ジャックにとってはそんなことはどうでもよかった。
むしろ対等な関係を築き、名前で呼んでほしかった。
小さな子供の契約者ではなく、男として見てほしかった。
14の頃、魔術ギルドにスカウトされた。
ジャックの力が認められたのだ。
ジャックは名実ともに魔術士としてアミュレスで名を馳せた。
ジャックは大人や熟練の魔術士さえも凌駕する力を持っていた。
魔術が盛んなアミュレスでNo.1の実力を誇っていたのだ。
ラウムが言った通り、ジャックは様々な女性からモテた。
真剣な愛の告白をされたり、お情けの一夜限りの関係を迫られたりもした。
けれど、どんな女性であってもジャックは興味を惹かれなかった。
ジャックは一途にラウムを想い続けた。
飽きもせずにラウムに愛の言葉を囁き、求愛し続けた。
その頃のラウムは相変わらず取り付く島もなく、いつも「大人になったらね。」と躱された。
15になって、16になった。
彼女との契約から3年が経っていた。
ジャックは幼い少年から青年へと成長していた。
ある日、いつものようにジャックはラウムに愛を囁いた。
「ね、そろそろ俺のものになってくださいよ。」
いつもならここで彼女はクスクスと笑うのだが、その日は違った。
ねえ、マスター、と彼女は耳元で妖しく囁く。
「貴方、悪魔に求愛する意味がわかってる?」
彼女の指がジャックの指に絡まる。
「私は悪魔。嫉妬深く、欲に忠実な悪魔よ。もし貴方が心変わりをして私を蔑ろにするようなことがあったら…すぐに貴方を殺してその魂を奪うわ。生涯私を愛し続けると誓って。その覚悟が、貴方にあるの?」
いつになく真剣なラウムの言葉に、ジャックは息を飲んだ。
「誓います。だから、俺をアンタの男にしてください。」
「浮気したら許さないからね。よろしく、ジャック。」
こうしてジャックとラウムはただの主従関係から恋人になった。
そこからの日々は幸せだった。
ラウムはいつもジャックの側にいてくれたし、ジャックを愛してくれた。
普通の恋人と同じようにキスをして、抱き合って、同じベッドで眠る。
種族の違いなんて、2人には何の障壁にもならなかった。
このまま一生こうしてラウムと共に生きていくのだと思った。
時期が来たら結婚して、恋人から夫婦になって、子供ができて、家族になって。
そしていつか老いて死を迎える時、彼女に全てを捧げるのだ。
そんな未来を思い描いていた。
そんな期待が歪み始めたのは、彼女と出会ってからだった。
17になったジャックは妹を連れ孤児院を出て、ラウムと3人で暮らしていた。
所属する魔術ギルドの報酬はよかったし、金銭面で困ることはなかった。
天才魔術士として社会的地位もあったし、生きるのに何不自由していなかった。
そんな折、仕事を終え妹が待つ家に帰ろうと街を歩いていると、見知らぬ女性に声をかけられた。
「貴方がジャック?」
純粋無垢と言う言葉が似合う天使のような風貌の女だった。
世の男達はこういう可愛い女が無条件で好きだろう。
だが、正直言って、ジャックの好みではなかった。
見知らぬ女性に声をかけられることは、天才魔術士のジャックにとっては珍しいことではない。
偶然を装って関係を持とうとする女は過去に何人もいた。
今回も適当にあしらって早く家に帰ろうとジャックは思った。
「そうですけど、俺に何か?」
「貴方に興味があるわ。」
「残念ですね。俺は全くねえです。」
「つれないこと言わないで。少し話しましょうよ。」
全く好みじゃないはずなのに、自分にはラウムという将来を誓い合った女性がいるのに、なぜだか心が動いた。
彼女の透き通る海のような青い瞳から目が離せなかった。
その日は少し言葉を交わしただけで彼女と別れた。
「あの女、気を付けたほうがいいわ。何か企んでる。」
ラウムは不満そうな顔をしてそう言った。
次の日も、その次の日も、毎日彼女はジャックの前に現れた。
なんてことのない取るに足らない少しの会話だけして彼女はいつもすぐに身を引いた。
彼女の瞳に見つめられると、なんだかこそばゆいような気持ちになった。
彼女との短い時間の逢瀬に名残惜しさを感じ始めていた。
ジャックは、気持ちが傾き始めていることを自覚した。
「嫌だ…。俺はラウムが好き。愛してる。愛してるんです…。でも、変なんだ。どんどんあの女のことで頭がいっぱいになっていくんです…。」
ある時、自分の気持ちがわからなくなり、ラウムに泣き付いた。
確かにラウムを愛しているのはずのに、あの女のことが頭から離れなかった。
これは、多分、恋という気持ちだった。
「ラウム…。俺を殺して。俺の魂を食べて。俺が心変わりする前に。お願い、ラウム…。俺を、ラウムのものにして。」
ラウムは少し悲しい顔をして、ジャックを抱きしめた。
「殺さない。ジャックを愛しているから、殺せない。」
それからは早かった。
天使の顔をした彼女はジャックのことが好きだと言った。
ジャックも同じ気持ちだと答えた。
2人はキスをし、夜を共にして、身体を重ねた。
ラウムの姿は、ジャックには見えなくなっていた。
転機が訪れたのは、それから3ヶ月後。
突然、街が戦場になった。
他の国の人間が攻めてきたのだ。
敵は街を破壊し、残忍な殺戮を繰り広げた。
わけがわからないまま、ジャックはその戦争に召集された。
魔術士ギルドのエースとして魔物相手に無敵を誇っていたジャックだが、人間と戦うのは初めてだった。
何もできずに立ち尽くしていると、後ろから見知らぬ男に裾を引かれた。
小柄だが逞しい肉体を持つ左頬から耳にかけての傷がある壮年の男。
盾騎士ギルドの制服を着ていたから仲間であることは理解できた。
「君が守るのはこの街じゃない。アンジェラだ。彼女の側へ行け。早く!」
言われるまま、彼女を探した。
街中を駆け巡って、やっとの思いで彼女の姿を見つけた。
しかし、ジャックは信じられない光景を目の当たりにすることになる。
何十人もの異国の兵士が、たった一人の彼女を取り囲み剣を振るっていた。
彼女は抵抗することなくその斬撃を受け、床に伏していた。
許せなかった。助けなければ。守らなければと思った。
ジャックは無我夢中で魔術を使った。
炎の魔術で爆発させ、風の魔術で切り裂き、雷の魔術で貫き、水の魔術で全てを流した。
何も考えられなかった。
気が付くと、そこには無数の異国の兵士の遺体が積み重なっていた。
辺りは真っ赤に染まり、死んだ兵士の千切れた四肢が散らばっていた。
自分が殺した。
その事実を、ジャックは受け入れられなかった。
「ちが…俺は…こんなつもりじゃ…。違う、違う!こんなこと…したかったわけじゃない…。俺じゃない…俺じゃ…。」
目眩がした。息が上手くできない。
ひどく恐ろしかった。自分はなんてことをしてしまったんだ。
こんなの、到底受け入れられない。
だってこんなの、ただの人殺しじゃないか。
「貴方がやったのよ。」
ふいに、彼女の声が響く。
「殺したんじゃない。私を守ったのよ。ジャック、誇っていいわ。貴方は最高よ。」
先ほどまで無残に貫かれていた彼女は、少し幼くなった顔で笑みを浮かべる。
ゆっくりと立ち上がった彼女は、傷一つなかった。
「脱出経路は確保したよ。行こう、アンジェラ。」
先ほどの男が彼女に声をかける。
ジャックには、もう何も聞こえていなかった。
「俺じゃない…こんなの…違う…俺は…違うんだ…」
うわ言のようにジャックは繰り返す。
誰かに否定してほしかった。これはただの悪い夢だと。
男は怪訝そうにジャックを見下ろす。
「なんだい、これ。使い物にならないね。置いていくかい?」
「いいえ、ジャックは連れて行くわ。そっちの子もね。」
ふと顔を上げると、色黒の白衣の女と、その腕に抱かれたリリーの姿が目に入った。
ジャックの可愛い妹は、胸からおびただしい量の血を流していて、意識がなかった。
妹は死んでしまうのだ。直感的にそう思った。
ひどい現実を受け入れられず、そこからはよく覚えていない。
気が付けば知らない国にいて、これからはここで暮らすのだとアンジェラは言った。
そこまでが、ジャックの空白だった記憶だ。
全てを思い出したジャックは、ひどい自己嫌悪に苛まれた。
同時に目の前の美しい悪魔に愛しさが溢れた。
「ラウム…。」
「…やっと私の名前を呼んでくれたわね。おかえり、ジャック。私の愛しいマスター。」
「ごめんなさい…俺…なんでこんな大切なことを忘れてたんだ…。」
涙が溢れて止まらなかった。
操られていたとはいえ、自分は彼女を裏切ったのに、彼女はずっと自分の側にいてくれたんだ。
十年もの間、ずっと自分がアンジェラから解放されるのを待っていてくれたんだ。
「聞かせて、ジャック。貴方は誰を愛しているの?」
「…ラウム。俺は…ラウムが好き。愛してる、ラウム。」
その言葉に、ラウムは満足気に微笑みジャックを抱きしめた。
人間より少し冷たい悪魔の体温。この温もりが大好きだった。
華奢だが柔らかい大人の女の身体。この感触が大好きだった。
長い睫毛を揺らして微笑む姿。この笑顔が大好きだった。
ラウムが大好きだった。愛していた。
どうしてこんな大事なことを忘れてしまっていたのか。
「…俺のこと、ぶん殴ってください。」
彼女を蔑ろにした男をぶん殴ってやりたいと思っていたが、その男は自分自身だった。なんて滑稽だ。
ジャックは目を伏せ、その頬を差し出す。
ラウムは少し考えた後、ジャックの頬に手を添え、唇にキスをした。
一瞬触れるだけの、可愛らしいキスだった。
「なんで…。」
「ふふっ、すっかりいい男になっちゃって。」
「…許して、くれるんですか。」
「いいえ、許さないわ。」
ラウムはいたずらっ子のような笑みを浮かべ、目を細める。
「償いとして、ジャックには一生をかけて私を愛してもらわないと。」
「…アンタ、本当にいい女ですね。」
2人は、もう一度恋をした。
見つめ合い、キスをして、抱き締めて。
空白を埋めるように抱き合った。
ジャックはラウムを求めていたし、ラウムもジャックを求めてくれた。
2人は、あの日々のように愛し合った。
「そういえば、俺のシジルってなくなっちゃったんですか?」
己の手を宙に翳し、ジャックは右手の甲を見つめる。
彼女と交わした主従関係の証。
彼女の右肩に刻まれたものと同じものが、確かに自分にもあったはずなのに、今は何もない真っさらな状態だった。
彼女との契約は破棄されてしまったのか。どうしようもなく不安な気持ちになる。
「隠してたのよ。」
ラウムはあの時と同じようにジャックの右手を両手で包む。
そっと手が離れれば、右手の甲にあのシジルが浮かび上がった。
「これだけは、奪われたくなかったから。このシジルが傷つけられると、私達の契約は強制的に破棄される。それだけは、嫌だったのよ。」
ジャックは右手に浮かび上がったシジルをそっとなぞる。
これが自分と彼女を繋ぎ続けていた証。
これから先も、彼女と未来を共にする誓いの証。
アンジェラさえも操れなかった彼女との絆。
「よかった…。俺とラウムの約束の証。これがあれば、俺は独りじゃない。」
「ジャックは昔から寂しがりだったものね。」
ラウムはクスリと笑ってジャックの髪を梳く。
「俺にはラウムしかいないんです。元々人付き合いとか苦手だし、友達も…いたにはいたんですけど…殺されました。」
その言葉に、ラウムは何かを思い出したように「そういえば」と声を漏らした。
「アダム・ウォードなら、生きてるわよ。」
「…何言ってるんです、アダムは確かに死にました。俺の目の前で殺されたんです。」
「生きてるわ。今はエレナ・シュバルツの営む診療所の地下に幽閉されてるけどね。」
「どういうことです?」
「ねぇ、ジャック。貴方が望むなら私がエレナ・シュバルツの診療所からアダム・ウォードを盗み出してあげようか?貴方も知ってるでしょう?私は盗みを得意とする悪魔なのよ。」
美しい悪魔は小首を傾げて笑った。
「さあ、マスター。命令を。」
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