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エレノアの婚約者

 最終レースまで見届け、来場していた馬主や調教師に挨拶をしたあと、恭介とエレノアは帰途についた。

 空が赤みを帯びた光に照らされ、スピレッタ調教場に向かう車中には西日が入り込み、前方の視界が欠けて見えた。

 エレノアはサンシェードを下げて西日を遮り、安全運転に徹している。

 他に走っている車はなく、事故の心配はなさそうだった。


 恭介は正面から射し込む西日から顔を背け、助手席の窓の外に広がる草原に目を向けながらレースの事を考えていた。


 まず、平地競走では支障なく騎乗できそうだった。

 レース運びもサラブレッドの平地競走とあまり変わりなく、今までの経験を生かせる。


 問題はペガサス競馬独特の飛翔競走である。

 落馬が続出した第六レースのみならず、その後のレースでも落馬があった。

 ただし、見た目と違って、空を飛んでいる最中はむしろ落馬の危険が少なそうだった。

 一人の騎手がペガサスに頭を蹴られる事故があったが、エレノアが言うにはその手の落馬は年に一回あるかないかという頻度なので、とりあえずはその言葉を信じることにする。


 難しいのは、離陸と着陸の瞬間である。

 ペガサスが離陸時に急加速するせいで騎手が身体を後ろに傾いてバランスを崩し、振り落とされる羽目になる。

 着陸の瞬間は逆で、急減速に伴い身体が大きく傾き、前方に投げ出されそうになる。

 さらに着陸時の衝撃が凄まじく人馬ともに転落の危険もはらんでいる。

 飛翔時のスピードのまま地面に着陸し、急減速するのだから身体に伝わる衝撃は尋常なものではないだろう。

 身体全体を上手く使い、その衝撃を和らげなければならない。

 飛翔競走では離陸か着陸の時に落馬しやすいようで、今日のレースでもこの二つの瞬間に落馬した騎手が多かった。


 上手く乗りこなすには多くの修練と経験を積まなければならないようだ。恭介がこの世界にいる間に飛翔競走に必要な技術が身につくかどうか心許ない。


 恭介は内心ペガサス競馬の騎手たちのレベルが低いとバカにしている節があった。

 ところが、飛翔競走を見てその考えを改めた。

 あの急加速と急減速ではモンキー乗りをしようものなら鐙に乗せたつま先が滑り、落馬しかねない。


 ――どうりで、天神乗りをするわけだ。


 と思うしかなかった。


 ならいっそのこと、ペガサス競馬の流儀に合わせて天神乗りを試みようかとも考えてみるが、騎乗フォームを崩す恐れがあるのでやはりモンキー乗りにこだわるしかなさそうだ。

 日本に帰ったときのことを考えると、あまり変な癖をつけない方が良い気がした。


「考えごと?」


 不意に聞こえたエレノアの声に、恭介の思考が中断された。恭介はエレノアに顔を向ける。


「まあ、ちょっとな。どうやってレースに乗ればいいか考えていたとこ」


「モンキー乗りはしないの?」


「平地ならともかく、飛翔だとどうかな。つま先が鐙から外れそうな気がするんだよ」


「やってみたらいいじゃない」


 エレノアはあっさり言ってのけた。


「実際に乗って見なきゃわからないものでしょ、騎手って」


「そうだけどなぁ」


「さっきも言ったけど、緩衝魔法がかかっているから落ちても配しなくていいわ。とにかくキョースケはモンキー乗りで飛翔競走に乗れるように、とりあえずチャレンジしたら?」


「簡単に言うなよ。あんな競馬やったことねえんだから」


「練習よ、練習。とりあえず平地で十勝してもらって、それから飛翔の練習をして、本番のレースはしばらく人気のないペガサスに乗って経験を積んで、あとは――」


 勝手にプランを立てて行くエレノアはどこか楽しげである。

 右手をハンドルから離し、指を折って恭介がやるべきことを次々と挙げていく。


「とにかく、考えてもしょうがないわ。まずは経験しないと。騎手なら乗って乗って乗りまくらなきゃ」


 結局ありきたりの結論に行きついたエレノア。

 ふと見せた彼女の横顔には輝きがあった。


   ◇


 スピレッタ調教場につくと、夕日が山の稜線を撫でながら沈みつつあった。

 調教場が薄闇に包まれ、西日が山の頂上に遮られて仄かな明かりが芝の上に落ちている。


 車が門内に入り、エレノアが恭介を寮の前で降ろそうとしたとき、見慣れない車が厩舎の近くに留まっているのに気づいた。

 薄闇でもわかるくらいに艶のある黒い車体である。


 車から降りる前に誰の車か訊こうとしたとき、エレノアの横顔に険が帯びていた。

 恭介の方を気にすることもなく、ただ黙って黒い車を睨むように凝視している。溌溂(はつらつ)な性格の彼女にはふさわしくない顔を見せた気がした。


「どうしたんだ?」


 恭介は控えめな声音で訊いた。


「キョースケ、一緒に来てくれる?」


「なんかあったのか?」


「うん、ちょっとね」


 エレノアは車のエンジンを切り、外へ出て行く。

 その様子を見て、恭介も慌てて車から降りる。


 エレノアは歩幅を広くして、心持ち不機嫌そうな素振りで歩いている。


 ――なんだ、いったい。 


 ここに来てから初めて見せるエレノアの態度に不安を覚えた。


 そのとき、大仲からラモンが出てきた。


「お帰りなさい、お嬢さま。あの、いま」


「わかってるわ」


 とだけ言ってエレノアは歩調を緩めることなく大仲に入って行った。


「どうしたんすか?」


 恭介はラモンに近づいて訊いた。


「お客さんだよ」


「馬主さんとか?」


「うちとは関係のない――いや、関係あるか」


 ラモンは恭介を一瞥して言葉を濁した。

 話しにくいことらしく、一瞬目が合うと気まずそうに視線を下にそむけた。


「エレノア、機嫌悪いみたいっすけど」


「ああ、まあな」


 ラモンはこれ以上詳しく話す気はないようだ。

 無理に訊いても意味がないと思い、恭介は大仲に入る。


 スタッフたちが寛いでいるさなかに客が来たらしく、テーブルの上には飲みかけのカップや汚れた皿が置かれたままだった。

 スタッフたちはなにやら手持ち無沙汰になったらしく、落ち着かない素振りでテーブルを囲んでいた。


「おつかれさんです」


 と恭介が挨拶をしても、


「お、帰って来たか」


 とロディが心ここにあらずという口調で答えるだけだった。

 他のスタッフは恭介に顔を向けるだけである。


「なにかあったんすか?」


「お嬢さまの婚約者がいらっしゃっているんだ」


「婚約者?」


 恭介は頭の奥を殴られたかのような感覚を味わった。

 看病してくれたり、観戦に連れて行ってくれた彼女から婚約者の存在をうかがわせる素振りはなかった。

 親しくしてくれた美女がすでに誰かのものになっていた失望が胸の内を侵した。


「とは言っても、お嬢さまには結婚する意志はない」


 ロディがさらに付け加える。


「しっ。ロディさん、聞こえるって」


 オリアナが人差し指を立てて言葉を遮る。


 恭介は内心ほっとした。

 婚約者のいる彼女が同年代の男とペガサス競馬観戦に行くとなれば、ただ事では済まないはずだった。

 エレノア自身が認める恋人がいないことも恭介の安堵を生んだ。


 恭介は思ったことを表に出さないように気をつけて口を開いた。


「エレノアの婚約者さんってどんな人なんですか?」


 と何気ないふうを装って訊いた。


「マカベウス子爵の次男、ジュスタンさまよ」


 オリアナが声を落とし、憮然とした口調で言った。


「ジュスタンさまは実業家として成功して、馬主になった人でもある。子爵の財産を当てにせず、若くして辣腕を振るい、財を成した方だ。それにペガサス競馬の愛好家で、雑誌にもコラムを書くほどの熱の入れようだ」


 ロディの口調にわずかながらの澱みがあった。

 引っかかりを覚えても口にするには憚られるようだった。


「すごい人っすね。エレノアってそんな人と婚約したんすか」


 平然をよそいながらも、恭介の声が上ずった。

 若き成功者が美人に言い寄る姿を想像してしまい、胸の内にさざめきが押し寄せてくる感じがした。

 もっとも恭介自身はその感覚が妬心だとは気づかない。


「お帰りください!」 


 いきなり奥の応接室からエレノアの喚き声が聞こえた。ドアを貫くような声だった。


 大仲にいた一同はお互い顔を合わせてから応接室のドアを見つめた。


 すると、恭介たちの不意を衝くかのように勢いよくドアが開かれた。


「エレノア、そう邪険に扱わなくてもよいではありませんか」


 開け放たれたドアから自信に満ちた男の声が聞こえた。

 エレノアの怒りを意に介していないようだった。

 この声の主がどうやらジュスタンらしかった。


 エレノアは不機嫌な思いを隠そうともせずに、大仲に入ってきた。

 一切後ろを振り向かないあたり、ジュスタンをよほど嫌っているらしかった。


「キョースケ」


 と言って、エレノアは恭介の側に近寄って見上げた。

 助けを求めるような目の色をしているものの、恭介はどう声をかけていいかわからず、たじろいでしまう。


「いけませんね。婚約者の前で他の男と親しくするなんて」


 応接室からジュスタンらしき男が出てきた。

 頬がこけて眼光が鋭く、常に人を品定めしている感のある顔つきだった。

 白いスーツに紫のシャツを着、磨かれた靴の先がとがっている。

 見た目では貴族には見えず、趣味の悪さを理解していない成金の格好をしていた。


「初めまして、キョースケ・ハタヤマと申します。スピレッタ調教場でお世話になっています」


 恭介は愛想笑いを浮かべる。

 仮にも馬主相手なら、騎手の立場としてはぞんざいに扱うわけにはいかない。

 自分から名乗って失礼な振る舞いをしないよう心掛けた。


「妙な名前だな。外国人か」


 ジュスタンは低い声で訊いてきた。人を見下す語調である。


「はい」


 地球の日本から来たと言っても信じないだろう。

 彼が恭介を外国人と思ってくれたのは好都合だった。


「今度デビューする騎手です」


 エレノアが振り向いて強い口調で言った。

 有望な新人を誇っているようでもあり、嫌悪感を振り払うようでもある。


「ほう。それは楽しみですね。ではスピレッタ調教場のペガサスに騎乗すると?」


「ええ、三週間後、グレイラム競馬場開催一日目の未勝利戦。わたくしどものアシタスに乗ってもらいます」


「それは奇遇ですね。私のドリアードもそこでデビューするのですよ。前評判の高さはご存じでしょう。来年のザ・バートレットの有力馬と断言できます」


「……」


「そちらのアシタスではまず勝てませんよ」


「やってみないとわかりません」


「どうですかね。新人騎手を乗せるあたり、期待の低さがうかがえますがね。ドリアードにはデイン・レギュラスを乗せます。ご存じでしょう、今売り出し中の有望株です。先日、私と主戦騎手の契約を交わしまして」


「キョースケはただの新人騎手ではありません。今までの常識を覆す騎手です」


「ふむ、ずいぶん大きく出ましたね。そこまで言うからにはたいそうな腕前なのでしょう」


 ここでジュスタンは、薄ら笑いを浮かべて恭介に視線を向けた。

 ただでさえ鋭い目つきに剣呑な光が宿り、腹黒さが滲み出ている気がした。


 ――いやな野郎だ。


 知らない言葉が飛び交う中、恭介はひっそりとそう思った。

 遠慮なく人を値踏みし、自分の敵か味方か、それとも得か損かで人の価値を計れない男だと感じた。


「まあ、結婚のことはおいておきましょう。それは時間の問題ですから。それよりも調教の件、よくお考え下さい。めったにない機会だと思いますので」


 では、と言ってジュスタンは戸惑うスタッフたちを尻目に大仲を出て行った。

 誰も彼を見送ろうとはせず、ジュスタンも気にする様子がなかった。


「なんなんだ、いったい」


 ドアが閉まり、外から車のエンジン音が聞こえてから恭介は言った。


「ごめんね、キョースケ」


 エレノアが恭介の側によって心配げな声で言う。


「ごめんもなにも、なにがなんだかわからないんだよ。俺も何か関係があるのか?」


「少し、ね」


「お嬢さま。キョースケにも詳しい事情を聞かせてあげたらよろしいのでは?」


 と言ったのは、オリアナである。


 エレノアは少しの間恭介に視線を投げかけるも、目が合うと、俯いてしまった。


「話しにくいことなのか?」


「ううん。キョースケには迷惑かけてばかりで申し訳なくて」


「なら、ちゃんと話してくれないか。少しは楽になると思うし」


 と言って恭介はエレノアの顔を見つめた。

 拉致まがいにこの世界に連れてこられたのは確かだが、今はその憤りよりもエレノアのために何かしてやりたい想いが勝っている。


 スピレッタ調教場の落日、エレノアが騎手を辞めた理由、そして婚約者ジュスタンとの諍い。


 これらの入り組んだ事情がエレノアに圧し掛かっている気がした。

 自分に話しても何の解決にもならないかもしれないが、それでもエレノアを苦しめる重荷を少しでも軽くしてやりたかった。


 ガラにもなくそんなことを思っていると、エレノアは顔を上げ、揺れた瞳で恭介をまっすぐ見つめる。


「騎手に心配されるなんて調教師失格よね」


「そんなことはないさ。誰だって心配事のタネはあるもんだろ」


「キョースケの言う通りです、お嬢さま。こんな大変な時期なのに、よくやってくれるとみんなが言ってくれていますよ」


 ラモンが椅子から立ち上がって言った。

 感極まったらしく目が滲んでいた。


「わかったわ。キョースケ、聞いてくれる?」


「ああ、俺もエレノアのこと、知りたいからな」


 きざなセリフかな、と思い、顔が熱くなった。

 そんな恭介の羞恥心にみんなは気づかなかったようで、エレノアが椅子に座ると、みんな神妙な面持ちになった。


 恭介はエレノアの向かいの席に腰かける。


 少しの間沈黙が流れてから、エレノアは事情を話し始めた。


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